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2020年10月 1日 (木)

悪についての小考察、その6、(アートマン)

悪についての小考察、その6

――「如何にして真の自己を知るか」の続き

 

人は如何にして真の自己と出会うことが出来るでしょうか。真の自己とは何でしょうか。難しい問題です。

西田幾多郎の『善の研究』は、「善とは真の自己を知ることである」としています。「悪」を考察するには「善」を考察しなければなりません。その「善」の探求は自己の探求と結びついています。人の生涯は自己の探求であり、人類の歴史も自己の探求と切り離せないと思われます。東西の哲学・宗教の歴史も「自己の探求」の歴史ではないでしょうか。

ここの一冊の哲学の入門書があります。それは『ソフィーの世界』と言って、その帯では「世界で一番やさしい哲学の本」と銘打ってあり、14歳の少女ソフィーに「あなたは誰でしょうか」と問いかける、という内容となっています。(1995年、ヨースタイン・ゴルデル著、池田香代子訳、日本放送出版会発行)。

著者はノルウエー人の作家で、本書は世界中でベスタ―セラーになりました。著者はファンタジーを折ませながら、デモクリトスからはじめて、主要な哲学者の口を通して「あなたは誰か。」という問題の解説を展開しているのです。結論はどうかと言えば、あまり明確ではないと思われますが、分かりやすい言葉でこの命題を説明している点が魅力です。

 

「自己を知る」というときの「自己」とは何でしょうか。人には種々の顔があります。どの顔もその人のすべてではないし、その人の真の姿であるとはいえないでしょう。そもそも「真の自己とは存在するのか」が問題です。自己の探求は東洋においても重要な課題です。それでは、「自己の探求」について、西洋と東洋の違いはどこにあるのか。ある見解によれば、東洋の哲学・宗教では、自分の内側から自己とは何か、を考えたが、西洋では人間の外側から「人間とは何か、世界とは何か」を追求した、と言われています。(『史上最強の哲学入門、東洋の哲人たち』飲茶(yamcha)著、マガジン・マガジン発行、26㌻以下、より。)

 

さて、哲学の課題のなかに「認識」の問題があります。人はこの世界と自分の外にある対象を、自分をどれだけ正確に知ることが出来るかー認識できるか、という問題です。

18世紀のこと、英国にヒュームという哲学者が居ました。(1711-1776)

(以下、『史上最強の哲学入門』、飲茶、河出文庫,デカルトとヒュームの項を参考にしている。) 彼の哲学は「経験論」と呼ばれます。デカルトという哲学者(1569-1650)はすべてを疑ってついに辿り着いた結論が「どんなに疑っても疑っている自分が存在することは疑いない」という命題でした。そこから始まって、人間には理性によって認識する能力は確実である、と考結論したそうです。しかしヒュームは違います。人間の認識は物事を知覚することによるが、人間が知覚によって得る経験は現実と一致しているという保証はない。「わたし」という存在はさまざまな知覚の集まりの体験にすぎない。デカルトまでの哲学者が当然の前提と考えた神の存在についてまでもデカルトは疑いの目を向けます。人間は不完全な存在であるから完全は存在である神を知ることはできない。神は人間の有限な経験の組み合わせによって造られた創造の産物にすぎない、と考えました。

そのような状況で登場した偉大な哲学者がエマヌエル・カント(1724-1804)です。彼はデカルトの合理主義とヒュームの経験主義を統合した哲学者であると言われています。カントは合理主と経験主義のそれぞれの長所を取り入れ、新たな哲学を樹立したとされています。

確かに人間の経験は相対的であり、人によってかなりの相違がある。しかし、人間として、時間と空間の中で生きる人間は、同じ結論を得ることが出来るような認識能力を人は生得的(アプリオーリ)に与えられている、とカントは考えました。人類共通の経験の受け取り方の形式があり、その範囲内でなら、人は普遍的な真理に達することが出来ると、カントは考えたのです。しかし同時にカントは、人間は「物自体」は認識できない、と言います。ここが分かりにくいところです。人間にとっての真理とは人間にとっての「現象」であり、そのもの自体ではない、と考えます。人間は時間と空間の中で普遍的な認識をすることが出来る。しかし、時間と空間を超えた世界においては人間の認識の力は及ばないと考えます。例えば「神は存在するかしないか」という問題は人間の通常の認識の枠を超えた問題、いわゆるアンチノミー(二律背反)であります。(『カント入門』石川文雄、ちくま新書、第一章 純粋理性のアイデンティティー、参照。)

難解なカントの思想を正しく理解したかどうか自信がありませんが、カントの思想は「真の自己を知る」という目的にどのように貢献しているのか、正直に言って理解できていないのです。「他の誰でもないこのわたしは誰であり、何のために生まれ、何のために生きているのか」という問題にどのようにカントの思想が関わっているのでしょうか。

人は人生の体験上、他者を理解することがいかに困難であるかを知っています。他者を理解できない、他方、自分も理解してもらえない。この事実をどう受け止めるか。ヒュームのいう経験論の中に、このわたしたち人類の体験が入っているのではないだろうか。理解とは共感であります。それはほとんど不可能だという気がしますが、しかし、ある程度可能です。分かって頂けた喜びを人は経験します。

理解されるより理解することを求める者であることが出来るように日々祈るのが人の道でありましょう。(フランシスコの平和を求める祈りを思い起こす。)

カント哲学の範疇での認識で人は救われるでしょうか。他の誰でもない自分として理解されることを人は求めているのです。人間とは何か、人は如何に認識できるか、という高度で抽象的な議論に人はどれほど関心を持つでしょうか。

このような問いかけ自体がカントの哲学の枠にははまらないのかもしれません。

(しかし、膨大で深遠はカントの哲学をさらに読み込んでいけばこの疑問への回答に出会うのかもしれません。今の自分には困難な道ですが。)

 

さて、此の点、東洋の哲学・思想ではどうでしょうか。「山川草木悉皆成仏」ということを申し上げましたがが。インドのヒンドゥー教では「真実の自己の探求」は「わが内なる本来の自己アートマンが宇宙の根本原理であるブラフマンと同一である、という真理を悟ることが輪廻から脱出して真の自己を知ることである」と説かれています。稿をあらためて、ヒンドゥー教と仏教の考え方を学んでみたいと思います。

 

インド最大の哲学者と呼ばれるシャンカラ(700-750)の教えは次のように要約されます。

「人が輪廻から解脱する道は、本来の自己であるアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であるという真理(梵我一如)を悟ることである。悟りを妨げているのは「無明」であるので無明を克服する修行がしなければならない。」(『ウパデーシャ・サーハスリー』(真実の自己の探求),前田専学訳、岩波文庫、の訳者前書き、による。)

何となく西田幾多郎の『善の研究』に似通った内容ですが、ここに四つの理解困難な概念があります。

輪廻

アートマン

ブラフマン

無明

 

そこでできうる限りにおいてこの四つの考え方を追求してみたいと思います。

 

アートマンとブラフマンは宇宙の根本原理であるといわれています。宇宙の根本原理とは何でしょうか。

宇宙には秩序があることを認めるには吝かではありません。宇宙は規則正しく運行しています。その規則は基本的な原理で統括されている。それをヒンドゥー教ではブラフマンと言います。

このように理解すればいいのでしょうか。

しかし、あまりにも抽象的で内容が判然とはしません。宇宙の根本原理と言えば、天体の運行、時間の推移、生物の消滅,気候の変動などを指しているのでしょうか。アートマンとブラフマンとは同一であると言いますが、本来の自己というなら、本来でない自己があるのでしょうか。本来でない自己と本来の自己とはどう違うのでしょうか。

「本来」と「本来でない」という概念の分け方はスコラ哲学の本質essentiaと偶有accidentiaという区別distinctioを想起させます。スコラでは、本質と偶有とを分けて考え、物には、そのモノをそのモノたらしめている、本質、あるいは本性があると考え、それ以外の属性はたまたまそのモノに付属してものにすぎないと考えます。例えば、ここにパソコンがあるとして、そのパソコンがどこの会社の製品であるのかは偶有にすぎないと考えます。同じように、人間にも本来の要素と偶有的な要素があるのでしょうか。

 

ちなみに「偶有性」と「偶有」について、以下のような説明があります。一方は偶有性のラテン語がcontingens である場合、他方がaccidensである場合です。参考までに注として要旨を引用しておきます。(注1)

 

何が人を人としているのでしょうか。その本来の自己と宇宙の原理とは同じものであると言われてもにわかには納得できません。人間を人間としている原理は宇宙の原理である、という意味でしょうか。それならある程度は理解可能です。人間には尊厳があります。人間の尊厳は神に由来します。創世記にあるように、人間は神の似姿であり神に似たもの,写しです。その点において、人間は、人間の起源であり創造主である神と共通の特色を持ち、その限りにおいて人間は尊厳を持ち、かけがえのない存在であると言えましょう。

宇宙の根本原理であるブラフマンがアートマンと同一であると言っても、いかにして、個々の人間の本質であるアートマンを認識できるでしょうか。人間の肉体は時間と空間の中に置かれ、食べ、排泄し、疲れ病み、身体は朽ちてしまいます。アートマンと身体の関係はどんなものでしょうか。

以下、シャンカラの教説集『ウパデーシャ・サーハスリー』(真実の自己の探求)により理解できた、あるいは関心を引いた内容をメモとして(注2)で紹介しますので確かめてください。ここでは、複雑で難解なシャンカラの見解をまとめてみたいとおもいます。

(以下に、島岩師の『シャンカラ』で述べられている同師による結論を、多少言い換えながら、引用してみます。)

シャンカラが一貫して目指したものは、自己の本質であるアートマンと絶対者ブラフマンのとの同一を知るということだった。自己という小宇宙の本質と大宇宙の本質であるブラフマンとの同一性の認識である。それは異なる二つのものの合一という形の合一性でなかった。自己の本質と宇宙の本質は本来的に同一だと考えられるということである。つまり、自己の本質に目覚めた時がすなわち、宇宙の本質に目覚めた時なのである。そして、両者の同一性は、我々が気付いていないだけで、本当はすでに実現されているのである。それにもかかわらず我々はなぜそれに気づかないのかといえば、無明がその妨げの原因となっているからである。

無明とは、主客の対立に基づいた言語や概念によって世界を分節化して捉えてしまうという、我々の生得的な認識の在り方のことを指している。したがって無明を滅することが必要である。しかし人間にとって先天的といえるこの人間の傾向を滅することは非常に困難である。

シャンカラの提示する方法は瞑想である。瞑想によって、意識を内なる自己の本質に向け、身体・感覚器官・内菅の働きをすべて停止させることによってそれは可能となる。すなわち、身体的・言語的・心的行為をすべて消滅させるのである。すると世界は消滅し、身体は消滅し、最後に「私」という意識も消滅する。そして、そのときの輝きであるものこそ自己の本質であるアートマンであり、すなわちブラフマンである。これが悟りであり解脱である。そのとき我々は存在そのものであり、精神その者であって、至福に包まれるのである。

とはいえ、この状態は人間にとっての「死」である。それは生存活動そのものの停止に他ならないからである。(『シャンカラ』、島岩著、清水書院、206-207㌻)

 

このまとめに対して、自分としていかなる意見を持つことが出来るでしょうか。以下に自分としては十分には受容しがたい留意点、あるいは疑問点を列挙します・

1、自己の本質と自己の本性とは同じ意味でしょうか。自己の本質を意義が強調されていますが、自己に固有の部分の認識・評価はどうなるのでしょうか。いわば偶有的な自己の特色を評価しないのでしょうか。真の自己とはアートマンであり、アートマンは宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であると気づくことがどんな意味があるのでしょうか。そうなると、自分というものがブラフマンの中に吸収されて消滅されてしまいます。そのことが無明を克服ことになる、と言っているようですが。そうなると各自の固有の存在の意味、価値はどうなるのでしょうか。各自の自己同一性identityはどうなるのでしょうか。そもそもそのような考え方が無明であると言っているようです。そうだとすればとてもついてはいけないという気がします。

2.シャンカラによれば、「私」という意識や存在は、無明すなわち誤った認識が生み出したものです。そればかりでなく、この世界は実は実在しないと言います。アートマン=ブラフマン以外のものは虚無にすぎない、見えるのは仮象、仮の姿、幻に過ぎないと言っているようです。シャンカラによれば、無明こそ人間にとって根源的・先天的な悪のであります。(島岩『シャンカラ』161-162㌻参照。)

3.無明の目に映る世界は仮象であり、真の実在ではない、というのでしょうか。これはこの世界に対して著しく否定的な態度です。我々は幻の世界に置かれているのであり、すべては仮の姿であるというのでしょうか。「行為」ということに対する否定的な態度は、この世で生きることに対する否定、あるいは無意味さに通じます。現代人が求めているのは、自己の存在の意味、価値ではないでしょうか。しかし他方、すべての存在にアートマンが充満しているというような言い方を散見します。無明の世界とアートマンの世界との対比がわれわれを混乱させます。

4.身体に対する否定的な見方に当惑します。島氏がいうように、「身体・感覚器官・内菅の働きをすべて停止させる」ということは、人間にとっての「死」の状態であると言えないこともありません。このような考え方はキリスト教の十字架の教えにかようものがあると感じます。キリスト教は過ぎ越しの神秘の宗教です。死を過ぎ越して復活へ至る道を教えています。アートマンの悟り、自分の本性がアートマンであるという悟りは、自分は復活のキリストの兄弟・姉妹であるという神学と同じ底辺を持つ思想でしょうか。この辺をもっと深く追求してみたいと思います。しかし、アートマンという「共通項」の発見は真の自己、他の誰でもない自分の発見とはどうしても思えないのです。この辺が東洋と西洋の思想の対立点でしょうか。あるは実は底辺は同じ考え方であると言えるのでしょうか。

 

5.シャンカラの思想を理解するカギは「無明」です。無明とは「付託」であります。付託とは次のように説明されます。

例えば真珠貝を見て、依然見た銀を想起し、真珠貝を銀であると誤認することです。アートンと非アートマンの間にも相互に付託が起こる、と言います。アートマンに人間の経験を付託してそれをアートマンの見做す、あるいはその逆に、人間の身体にアートマンを付託して、身体をもってアートマンとみなすことが起こります。アートマンを人間の肉体で表現し、それをアートマンとして礼拝する、あるいは特定の人間を生き仏にように考えて神格化することなどがそれにあたると思われます。

6.仏教では三毒という思想があり、その中に、無知すなわち無明が入っています。無明とは真理を知らない、知ろうとしない人間の愚かさを指しています。杉谷義純師によれば、無明とは人間の心を犯している三毒の一つです。三毒とは、貪・瞋/・癡(とんじんち)の三つで、癡が無明にあたります。「無知であること、相手や相手に関することに対して知識を持とうとしない、目を開こうとしない、相手の立場に立てものを考えようとしない、自分がよければそれですんでしまう」ということです。(『平和のための宗教者の使命』-2015年シンポジューム記録、日本カトリック司教協議会 諸宗教部門 編集、カトリック中央協議会発行、35㌻より。)

7.なお「付託」については以下のように説明されています。

 「付託とは以前に知覚されたXが、想起の姿で別の場所Yに顕現することである。」(島岩著『シャンカラ』127㌻)

人間とは思いこみの動物です。わたしたちの認識は、既に獲得している経験と知識、認識の枠組みによって成立します。スコラ哲学がいうように「認識されるものはすべて認識する側の認識の様式によって認識されるのです。」(注3)

「付託」もこの格言の解釈に含めることが出来るかもしれません。人間には「思い込み」があります。縄をみて蛇と思い込むのが「付託」の例ですが、人は先入観をもっているので、その判断に惑わされてしまいます。「人を見たら泥棒と思え」ということわざがありますが。人間とは信用できない存在だという思い込みがある。他方、「渡る世間に鬼はない」とみい、人間とは親切で正直だ、という人間観があります。経験則の上で、どちらのも真実が含まれており、どちらだけに断定出来ないように思います。人は純粋に、間違いのない認識と判断をすることが出来るでしょうか。人の心は欲と歪みで汚されているので、それを拭い去らなければ正しく公正な判断はできないでしょう。それは地上の人間にはほとんど不可能なことです。

8.真の自己との出会いはアートマンとの出会い、あるイアートマンの発見であるとして、あるいは、自分がアートマンであることを悟ることだとして、それではすべての人間が同じアートマンであるのでしょうか。無数のアートマンが存在するのでしょうか。いやアートマン=ブラフマンで、唯一であると言われる。そうなると、人間の唯一性の存在価値はどうなるのでしょうか。そのような概念自体が無明の結果であり、幻に過ぎないのでしょうか。アートマンと個人の唯一性の価値。このパラドックスをどう解けばいいのでしょうか。

9.「輪廻」についてですが、「輪廻」とは無明のことです。すなわち、無明から解脱できない状態のことだと思われます。なぜなら以下のように言われているからです。

「ブラフマン=アートマン以外の一切の現象的物質的世界は、我々の載身体・感覚器官はもちろんのこと、一般に精神活動の中枢をなしていると考えられている統覚機能(心)に至るまで、真実のアートマン、すなわちブラフマンに対して誤って付託されたものにすぎない。したがって人間をブラフマンとは全く異なる存在であるかのように見せている非アートマン的要素はすべて、無明の産物であり、あたかもマーヤー(幻影)のように実在しない。したがってブラフマンとアートマンとは全く同一である、とシャンクラは説いている。彼の立場は不二一元論(Advaita)と呼ばれている。一般の人間は、無明のために、真実を知らず、アートマンと、統覚機能などのような非アートマンとを明確に識別していないために、輪廻しているのである。輪廻とは、結局この無明のことであり、この無明を滅することが解脱である、とシャンカラは教えている。(『ウパーデーシャ・サーハスリー』―-真実の自己の探求、シャンカラ著、の訳者、前田専学による、前書きより。7㌻。)

 

(注1)     偶有性 contingens

アリストテレスの用語で、endekomenonの訳語。存在することもしないこともありうるものの在り方をいう。ラテン語ではcontingensという。論理的には「その存在が必然ではないが、それが存在するとしても、そのゆえに、いかなる不可能も生じてこないもの」と定義される。必然性に対する。必然的なものについては論証と理論的知識が成り立つが、偶有的なものについてはこれが成り立たない。

偶有性は、形相と質料から合成される存在事物(感覚的個物)の在り方である。質料は偶有性を本性とするからである。この偶有なる個物にかかわることによって、行為とすべての実践的知識が成り立つ。行為は、存在することもしないこともありうる存在事物のうちに、或()る目的を実現することであり、実践的知識はこの行為を導くものだからである。中世の形而上(けいじじょう)学は、創造者である神を必然存在とし、すべての被造物を偶有存在とする存在把握を根幹とする。偶有存在の現存の事実から、その存在の原因として必然存在である神の現存を推論する道は、トマス・アクィナスの神の現存証明の第三の道である。(加藤信朗]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 

 

――

偶有性

ラテン語ではaccidens.

【一般概念と定義】アリストテレスが列挙した10個のカテゴリー(範疇、ラテン語のpraedicamenta)のうち、第一実体(ギリシャ語のousia、「ものが何であるか」)以外の9個のカテゴリーを中世のスコラ学者は偶有性(ラテン語でaccidentia[複数]と呼んだ。この言葉はギリシャ語のシュンベベーコスsynbebekos を訳したものであるが、アリストテレス自身は「付帯性」ないし「偶然性」の意味で用いた。スコラ学者はこの言葉をaccidentiaと訳し、主要な「有」(ens)である実体(substantia)に対して、第二次的な有を意味する語として用いた。これは、「どれほど」「どのようにして」「どこにあるのか」などの存在する様相(modus)を説明する概念であり、第一次的有である実体に依存する有である。

実体は「それ自体において在るもの」(ens per se)であり、偶有性はそのような実体において、つまり「他者において在るもの」(ens in alio)と解される。「有」は「類」に属さないから、厳密な「偶有性」の定義は次のようになる。

「他者において在ることがそれの本質に適合するところのもの」となる。

これと関連して『偶性』という用語がある。これも同じaccidens の訳語であるが、これはある存在の本質に属さない属性(偶有的)を述べるときに用いられる。たとえば、人間について述べるときにその人が「肥っている」「痩せている」がどうかという特徴は人間の本質に属さない特色であるので、それは遇性である、と言われる。(新カトリック大事典、稲垣良典 より。)

 

注2 韻文篇

第一章 純粋精神

・アートマンは純粋精神であり、一切に偏在し、一切の存在物の心臓のうちに宿っており、一切の認識を超えている。(同書、第一章、一、17㌻より。)

・人間の善悪の行為の結果は業として身体に結び付き、貪欲と嫌悪による行為の原因となる。(同書、第一章、三、18㌻より。)

・善行と悪業により無知な人は再び同じように身体と結合して輪廻として繰り返す。(同書、第一章、四、18㌻。)

・輪廻の根源は無知にある。無知をすてるためには宇宙の根本原理であるブラフマンを知らなければならない。(同書、第一章、五、18㌻より。)

・知識のみが無知を滅することが出来る。行為は〔無知と〕矛盾しないから、〔無知を滅することが〕できない。無知を滅しなければ、貪欲と嫌悪を滅することは出来ないであろう。(同書、第一章、六、18㌻。)

・貪欲と嫌悪が滅していなければ、かならず行為が〔貪欲と嫌悪という〕欠点から生ずる。それゆえ至福のために〔ウパニシャッドにおいてブラフマンの〕知識のみが述べられている。(同書、第一章、七、18㌻より。)

・行為はブラフマンの知識と両立しない。行為はアートマンに関する誤った理解を伴っているからである。ブラフマンの知識とはアートマンは不変であるという知識である。

・ブラフマンの知識は行為の要因を破壊する。(同書、第一章、十四、18㌻より。)

・人々は、生来、身体に包まれたアートマンを身体などと区別のないものと理解しているが、この理解は無明に由来している。この理解がある限り、行為を行えという聖典の命令は有効である。(第一章、一六,20㌻より。)

・無明をいったん除去すれば、「わたしは有(ブラフマン)である」という認識があるのに「(私)は行為主体である」「〔私は〕経験主体である」という観念を持たないはずである。

第四章 「私」という観念

・身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識を持ち、かつ、その知識が、身体はアートマンであると考える一般の人の観念と同じように強固な人は、望まなくとも解脱する。(同書、第四章、五、27㌻より。)

第六章 切断

・認識対象を捨て、つねにアートマンを[あらゆる限定を]離れた認識主体であると理解すべきである。「私」と呼ばれるものもすでに捨てられた[身体]の一部であると理解すべきである。(同書、第六章、四、30㌻より。)

第七章 統覚機能にのぼったもの

・アートマンは変化することなく,不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者であるから、その認識は限定されたものではない。一切万物はアートマンの統覚機能の中で見えるようになる。(同書、第七章、三、四、32㌻より。)。だ

第八章 純粋精神の本質

・アートマンは純粋精神を本性としている。虚空のように、一切に遍満し、不壊であり、吉祥、中断することなく、分割されず、行為しない最高(ブラフマン)である。(同書、第八章、一、三、3334㌻より。)

第一〇章 見(=純粋精神)

・アートマンは虚空であり、常に輝き、生まれず、唯一者であり、不滅であり、無垢,不二である最高者[ブラフマン]、本性上不変、いかなる対象もなく、不老・不死、原因でもなく結果でもなく、常に満足しており、ゆえに解脱している。(同書、第一〇章、一、二、三、37㌻より))

・身体・感覚器官から起こる一連の苦痛は、アートマンのものではなく、アートマンでもない。不変であるから苦痛は実在しない。(同書、第一〇章、五、38㌻より。)

・アートマンには始めも属性もない。行為も結果もない。(同書、第一〇章、七、38㌻より。)

第一二章 光に照らされて

・身体をアートマンと同一視するものは苦しむ。身体を持たないもの(=アートマン)は熟睡状態にあるときと同じく、覚醒状態において本来苦しむことはない。(同書、第一二章、五、47㌻より。)

・「アートマンは行為の主体である」「経験の主体である」という認識は誤りである。(同書、第一二章,一七、50㌻より、)

・「自分自身は」とか、「自分自身の」という観念は、じつに、無明によって想定されて者である。アートマンが唯一である、という知識がある場合には、この観念は存在しない。(同書、第一四章、一九、61㌻。)

・アートマンを、「私」という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知る者は、まさしく[真実に]アートマンを知っているものではない。それとは別用に知っている者が、[真実に]アートマンを知っている者である。(同書、第一四章、二四、62㌻より。)

・「私」、すなわち「自分自身」という観念も、「私の」、すなわち「自分自身の」という観念も、無意味となるとき、その人はアートマンを知っていることになる。(同書、一四章、二九、63㌻より。)

・自己の本性は、何の原因の持たないものであるが、その他のものは原因を有するものである。自分自身によっても〔あるいは他のものによっても〕取られることも、捨てられることもない。(同書、第一六章、四一、83㌻より。)

・〔アートマンは〕一切万有の本性であるから、捨てることも、取ることもできない。なぜなら〔アートマンは、一切万有とは〕別のものではないからである。それゆえ永遠の存在である。(同書、一六章、四二、93㌻より。)

・〔アートマンとブラフマンとは〕別のものであるとする見解は、無明である。無明からの途絶が解脱である。この止息は、知識によってのみ得られる。(同書、一七章、七、104㌻)

・一切のものは無明から生じる。それゆえ、この世界は非存在である。世界は無明を持っている人に見られるが、熟睡状態において知覚されないから。(同書、一七章、二十、108㌻より。)

・実に心が、鏡のように、清らかとなるとき、明智が輝き出るから、心は清められるべきで

 

・身体などの非アートマンに対する、「私のもの」「私」という観念は、無明である。〔無明は〕アートマンの知識によって捨てられるべき出る。(同書,17勝、45114㌻より。)

・無明のために、〔アートマンは〕身体の中にあり、身体と同じ大きさであり、水に〔映る〕月などのように、身体の属性をもつもののように見られる。(同書、一七章、五五,117㌻より。)

・「私は不生であり、不滅であり、不死であり、不畏であり、一切智者であり、一切見者であり、清浄である」と悟った者は、〔再び〕生まれることはない。(同書、一七章、五八、118㌻。)

・天啓聖典を無視する人々は、アートマンと[その映像]について、ありのまま十分に知らないために、迷わされており、「私」という観念の主体をアートマンであると考えている。(同書、一八章、四八、138㌻。)

・人々は鏡の中の顔が「顔」と同一であると考える。それは顔の映像が顔の形相をもっているからである。同じように、人はアートマンに自分の影像を映して、統覚機能による認識をアートマンとし、逆に自己の統覚機能に純粋精神性を付託して、統覚機能が認識の主体であるとする。しかし、認識はアートマンの本性であり、永遠の光であるから、統覚機能によっても、アートマンによっても、他のものによっても、決して造られることはない。しかるに、一般の人々は身体に関して「私」という観念を持ち、身体が認識の主体であると考える。(一八章、64-67142㌻より。)

・心(=統覚機能)が精神的なものである、ということは、聖典によっても理論によっても支持されていない。もしそうなら、身体や目なども同じく精神的なものであるという欠陥が付随するであろう。(一八章、八八、148頁。)

・天啓聖句を聞いたときに、「私は有である」と理解されるか、それとも「私は別のものである」と理解されるであろうか。もし「私は有そのものである」と理解されるならば、「私」という言葉の意味は「有」であると承認されるべきである。(一八章、一〇五、152㌻。)

・「(私は)苦しい」という観念は身体などを「私」であると誤って考えることから確実に生じる。「私は内我である」と考える、識別智によって、識別智を持たない観念が否認される。(一八章、一六〇、一六一,166㌻より。)

・私(=アートマン)は触覚も身体もないから、決して焼かれることはない。それゆえ、「私は苦しみを受けている、という観念は、自分の息子が〕が死んだときに、〔私は〕死んだという〔観念が起こる〕ように、〔アートマンに関する〕誤った理解から生じる。(一八章、一六三,167㌻より。)

 

散文篇 第一章 弟子を悟らせる方法

アートマンは虚空と呼ばれ、・・・身体を持たず、粗大でない、などの特徴を持ち、悪を離れていることを特色とし、一切の輪廻の性質に触れることがない。・・・他に見られることなくして、自ら見るものである。他に聞かれることなくして、自ら聞くものである。他に思考されることなくして、自ら思考するものである。他に認識されることなく、自ら認識するものである。(第一章 一八 206-208㌻)

もし弟子が「先生、私は身体が焼かれたり、切られたりするときには、はっきりと苦痛を知覚します。また、飢餓などによって起こる苦しみをはっきりと知覚します。しかし最高のアートマンは、すべての天啓聖典および古伝書の中で『悪なく、老いることなく、不死であり、憂いなく、飢餓から自由である。』と言って一切の輪廻の属性を持たないと述べられています。わたしは最高のアートマンと本質を異にし、多数の輪廻の属性を備えているのにかかわらず、どうして最高のアートマン自身と理解することが出来るでしょうか。」というなら、師は次のように答えるべきである。「君が…苦痛をはっきりと知覚します」と言ったのは正しくない。何故なら、確かに焼かれたり、切られたりしている木と同様に、身体は知覚主体によって知覚される対象である。その対象である身体において焼かれたり、切られたりする苦痛が知覚されるのであるから、その苦痛は焼かれ、切られたりしている場所と同じ場所にある。人が苦痛を知覚するのは苦痛の原因となっている場所であり、苦痛の主体に苦痛があるとは指摘しない。「どこが痛いか」と訊ねられたら、『頭が痛い』『胸が痛い』などと答え、知覚主体を苦痛の場所と指摘することはない。もし苦痛の原因が知覚主体にあるならば人は苦痛の場所を知覚主体として指摘するだろう。しかし苦痛そのものは目の色・形がそうであるように、知覚されない。

苦痛及び苦痛の原因に対する嫌悪もまた苦痛の印象と同じよりどころをもっている。

貪欲と嫌悪は色・形の印象と共通のよりどころ(=統覚機能)を持っている。また知覚される恐怖も統覚機能をよりどころとしている。それゆえ認識主体は常に清浄であり恐怖を持たない。

では一体,色・形などの印象は何をよりどころにしているのか。

(師は答える。) 欲望のある場所である。

欲望は何処にあるのか。欲望・思惟・疑惑〔信仰・不信仰・堅固・不堅固・恥・思慮・恐怖、これら一切は意に他ならない〕は統覚機能にある。色・形は心にある。欲望は心に宿る。欲望・憎悪は対象である身体の属性であり、アートマンの属性ではない。

アートマンは一切であり部分を持たない。内も外も含み、不生である。叡智の名称である。一切万有の中に隠されている。身体の中にあって身体を持たない。生まれることも死ぬこともない。

一切万有の中に平等に住む。

一切の種類の形態を離れ、虚空のように等質であるのに、行為の目的・行為の手段・行為の主体が実際に経験され、あるいは天啓聖典で述べられており、見解の相違を引き起こすのは何故か。

それは無明の結果である。変化物はただ言葉による把捉であり名称にすぎない。

無明を持っているものは身体などの差別を得てアートマンが望ましいものと望ましくないものと結合していると考える。この差別こそ輪廻の性質である。

最高の真理の認識を得たい者は、自分の階級・生活期などがアートマンに属するという誤った見解を捨てて、息子・財富・三界などに対する願望を捨て去るべきである。

それゆえ一切の祭式および聖紐などの祭式の手段は無明の結果であるから、最高の真理の直観に安住している者によって捨て去られるべきである。

散文遍第二章 理解

弟子:どうすれば輪廻から解脱できますか。わたしは身体と感覚器官とその対象を意識します。覚醒状態で苦しみ、夢眠状態で苦しみます。熟睡状態に入れば中断するが、その後再び苦しみを感じます。これがわたしの本性でしょうか。別のものが本性でしょうか。別に本性があるなら何が原因で苦しむのでしょうか。自分の本性なら本性から逃れられないので解脱の望みはありません。何かの原因があるならその原因を取り除けるならば解脱できると思うがどうすればいいでしょうか。

:それはあなたの本性ではない。あなたの苦しみはある原因によるのです。

弟子:その原因とは何ですか。その原因を取り除くにはどうしたらいいですか。病人はその原因が取り除かれるならわたしは健康になるでしょう。

師の答え:その原因は無明であり、それを取り除くのは明智です。無明が亡くなれば輪廻から解放され苦しみを感じなくなります。

弟子:無明とは何ですか。

:君は最高我であり輪廻しないのです。しかし君は正反対に理解しています。また行為主体でないのに「わたしは経験の主体である」「私は永遠には存在しない」と考えています。これが無明です。

弟子:そういわれても、私は最高我ではありません。わたしの本性は行為したり経験したりする輪廻です。このことは直接知覚などの知識根拠によって認識されるからです。また無明を原因としてはいません。無明は自分のアートマンを対象とすることができないからです。無明とはAの性質をBに付託することです。例えばよく知られている銀をよく知られている真珠貝に付託し、あるいはよく知られている人間を木の幹に付託し、あるいはよく知られている木の幹を人間に付託することです。しかしよく知られていないものをよく知っているものに、またよく知られているものをよく知られていないものに、付託することはありません。アートマンは良く知られていないので、アートマンでないものをアートマンに付託することはありません。またアートマンをアートマンでないものに付託することもないと思います。

:それは正しくない。例外があります。必ずしも良く知られているものがよく知られているものにだけ付託されるとは限らない。「わたしは色が白い」「わたしは色が黒い」という場合は、身体の性質が「わたし」という観念の対象であるアートマンに付託されているし、「私はこれです」という場合は、「私」という観念の対象であるアートマンが身体に付託されているのです。

弟子:その場合、アートマンは「私」という観念の対象としてよく知られているものです。身体もまた「これ」としてよく知られているものです。よく知られている身体とアートマンとの相互委託にすぎません。何故「両者ともよく知られているものだけが相互に委託されるとは限らない」と先生は仰るのですか。

:聞きなさい。確かに身体とアートマンとはよく知られている。しかし、樹の幹と人間の場合互いによく知られている場合とは異なって、すべての人にはっきりと区別される観念の対象としてよく知られているわけではありません。

弟子:ではどのように知られているのでしょうか。

:常に全く区別のない観念の対象として知られているのです。誰も「これは身体、これはアートマン」というように、はっきりと区別された観念の対象として、身体とアートマンとを把握していないから、人々は、「アートマンとはこのようなものである」「アートマンとはこのようなものではない」と考えて、アートマンとアートマンでない者に関して、非常な混迷に陥っている。

弟子の反論:無明によって、A に付託されたBAには実在しません。縄に付託された蛇は縄には実在しないように。虚空に付託された地上の塵埃は虚空には実在しないように。それと同様に、身体とアートマンもまた、お互いに区別のない観念として相互に付託されるなら、身体はアートマンに実在しないし、アートマンは身体に実在しないということになります。身体もアートマンも無明によって相互に付託されるなら、身体もアートマンも実在しないという結論に至ります。(しかし、それは仏教徒の主張だから承認できない。) 身体だけが無明によってアートマンに付託されるというのであれば、アートマンは実在するが身体はアートマンに実在しないという結果になります。しかしそれは直接知覚などの知識根拠に矛盾するので承認できません。従って身体とアートマンとは相互に付託されるということはありません。

 

:では身体とアートマンとはいかなる関係にあるのか。

弟子:身体とアートマンは、家屋の竹と柱のように、つねに結合しています。

師:それは正しくない。もしそうなら、アートマンは無常であって、他のために存在するということになる。アートマンは身体とは結合しない。身体とは別なものである。

弟子の反論:アートマンは結合しないとしても、身体にすぎないとされ、身体に付託されてしまうので、アートマンは実在せず、無常であるということになります。その場合、身体はアートマンを持たないとする教務論者(仏教徒)の主張に帰着します。

:それは正しくない。アートマンは虚空のように本性上何ものとも結合しない。だからと言って身体など一切のものがアートマンをもたいないとは言えない。虚空が一切のものと結合していなくとも、一切のものが虚空を持たないということにはならないと同様です。また身体にアートマンが実在するということは直接感覚で認識されることではない。

弟子:知覚されないアートマンがどのようにして身体に付託され、アートマンに身体が付託されるのでしょうか。

:それは問題ない。

弟子:身体とアートマンとの相互付託は身体の集まりによってなされるのでしょうか。それともアートマンによってですか。

師:そのときにはどういうことになりますか。

弟子:もし私が身体などの集まりにすぎないのならわたしは非精神的なものであるということになり、他のために存在していることになります。したがってわたしが身体とアートマンを相互に付託することはありません。もしわたしが最高我であり、身体の集まりとは異なるものであれば、わたしは精神的なものですから、自己を目的とします。従って精神的な私がアートマンに対して付託を行います。

:もし君が、誤った付託が禍の種子であると知っているならば、それをしてはなりません。

弟子:私は他のものによって付託させられるのです。

師:そのとき君は非精神的なものですから、自己を目的とするのではありません。非独立的な君に誤った付託をさせるのは自己を目的とする精神的なものです。君は身体の集まりにすぎないのです。

弟子:もし私が非精神的なものであるならば、苦楽の感覚や先生の仰ったことをわたしはどのように認識するのでしょうか。

 

:君は、苦楽の感覚と私の言った事とは別のものですか、同一のものですか。

弟子:同一ではありません。

:何故か。

弟子:わたしは両者を壺のように認識の対象とします。もしわたしが両者と同一なら両者を認識できません。わたしが両者と同一なら苦楽の感覚の変化が自己を目的とするものとなり、先生の仰ったこともそのようになるでしょう。しかし両者が自己を目的とするものであることは合理的ではありません。

:その場合君は精神的なものであるから、自己を目的とするものであり、他の物によって誤った付託をさせられることはない。精神的なものが他のものに依存し、あるいは他のものによって付託させられることはない。

弟子:召使と主人は精神的なものであるのに、両者は互いのために存在するということが経験されるのではないですか。

師:そうではない。

弟子:観念は外界の対象の形相を持つものとして確立されます。わたしは外界の形相を持った諸観念を知覚する主体です。この主体は変化します。それゆえ私が不変であるということには疑問があります。

師:君の疑問は理に会わない。君はこれらの観念を必ず残りなく知覚するのであるから君は変化しない。それゆえ君は不変である。

弟子:知覚とは変化にほかなりません。

師:知覚と知覚主体の間に区別があれば君のいうことが正しい。しかし知覚と知覚主体は別のものではない。統覚機能の観念はアートマンの知覚が知覚主体であるかのように現れるとわたしは言った。

弟子:私が不変であるならば、わたしは私の対象である統覚機能の働きを余すことなく知覚する主体である、と何故仰ったのですか。

師:私は真理だけを話した。まさしく君は統覚機能を余すことなく知覚する主体であるという真理に基づいて君が不変であると言ったのです。

弟子:わたしは不変・恒常的な知覚を本性としており、音声など外界の形相を持った統覚機能の観念が生じ、かつそれは私の本性である知覚が知覚主体であるかのように現れるという結果で終わります。その場合、一体私にはどんな誤りがあるのでしょうか。

師:君のいうことは正しい。何の誤りもない。しかし私は無明だけが誤りであると言ったのだ。夢眠状態と覚醒状態は君の本性ではない。衣服のように離れ去る。偶然的であり、可滅性と非存在性を持っている。

弟子:もしそうなら、熟睡状態においてわたしは何も知覚しませんから、私の本性は精神性の無い、偶然的なものになってしまうのではありませんか。

 

師:熟睡状態においても、君は見ている。君は見られる対象の存在を否定しているだけであって、君が見ていることを否定しているのではない。君が見ること、それが精神性です。

もし君が、「知識主体に関する理解が生じない場合には、知識主体が理解されることはないでしょう」というならばそれは正しくない。理解する主体の対象が理解されるべき対象であるなら、無限遡及に陥る。しかしアートマンにある理解は、普遍で恒常的な光であり、太陽の光のように、他の物に依存しないで確立されている。そして、アートマンにある理解すなわち精神性の光は無常ではない。

質問者:理解が知識根拠の結果であり、かつ、不変・恒常であって、アートマンの光を本性としているということは矛盾しています。

師:矛盾していない。

質問者:どのように、矛盾していないのでしょうか。

師:理解は不変・恒常であっても、直接理解などの知識根拠に基づく観念形成過程の終わりに現れる。観念形成過程はそれを目的としているからである。直接知覚による観念が無常である場合は、理解は知識根拠の結果であると言われる。

弟子:もしそうであれば、理解は不変・恒常であり、アートマンの光を本性として確立しております。アートマンでないものは本性上、苦・楽・混迷を起こす観念によって理解されるので、他のためにのみ存在しています。従ってアートマンでないものは絶対真理の立場から見れば実在していません。覚醒状態と夢眠状態において経験される二元性もまた、その理解を離れては存在しないというのが合理的です。ちょうど夢眠状態において、青・黄などという種々の形相を有する諸観念はその理解から離れ去るので、本性上実在しないはずです。そして、この理解を理解する別の主体は存在しません。それゆえ、〔理解〕は、自己の本性上、自ら取ったり捨てたりすることは出来ません。他の何ものも存在しないからです。

師:「まさしくその通りである。覚醒状態と夢眠状態とを特徴とする輪廻の原因、それが無明である。その無明を取り除くものが明智である。このようにして君は無畏に達したのです。君は今後、覚醒状態と夢眠状態において、苦しみを知覚することはない。君は輪廻の苦しみから解脱したのです。」

 

注3.ラテン語の格言:Quidquid recipitur ad modum recipientis recipitur which means, whatever is received is received in the manner of the

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コメント

自己の内側から自己を探究するのが東洋の哲学や宗教である。 ぼんやりとは理解しているつもりでしたが、このようにインドの哲学者の諸々の説を学ぶことができて自分なりに少しずつ理解ができるようになった気がして嬉しく思います。
「人が輪廻から解脱する道は、本来の自己であるアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマンは同一である、という真理を悟ることであり、悟りを妨げているのは「無明」であるので無明を克服する修行をしなければならない。そして、自己の本質に目覚めた時が、アートマンとブラフマンの同一性、宇宙の本質に目覚めた時である。ところが、それを妨げているのは無明である。無明とは、主客の対立に基づいた言語や概念によって世界を分節化して捉えてしまう我々の生得的な認識の在り方であり、人間にとっては先天的な傾向である。」 そしてそこから抜け出す方法は、シャンカラによると、瞑想である。 
一気に述べられている凝縮された内容に圧倒されてしまいました。また、シャンカラは、…瞑想によって意識を内なる自己の本質に向け、身体感覚器官、内管の働きをすべて停止させることによってそれは可能となる。すなわち、身体的・言語的・心的行為をすべて消滅させるのである。すると世界は消滅し、最期に「わたし」という意識も消滅する。その時の輝きであるものこそ、自己の本質であるアートマンであり、ブラフマンである。これが悟りであり解脱である。その時我々は存在そのものであり、精神そのものであって、至福に包まれるのである…と説いているのに対して、


しかし、これは人間にとっての死であり、生存活動の停止ではないか。各自の固有の意味や価値はどうなるのか。
人間には尊厳があり、神に由来する。 人間は、人間の起源であり創造主である神と共通の特色を持ち、その限りにおいて人間は尊厳を持ったかけがえのない存在である。
現在人の求めているのは自己の存在の意味と価値である.他の誰でもない自分として理解されることを求めている。

このように仰っているのは、東洋と西洋の思想の対立点を明らかにしていただいているのだと思いました。
終わりに向かうにつれだんだん難解になりましたが、最期の、師 と 弟子 のやり取りはよく理解できないままにも、楽しむことができました。

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