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2020年11月

2020年11月29日 (日)

目を覚ましていなさい--神義論の1

悪について、その16 ――全能で善である神が居るならどうして悪が生じるのか。

 神義論-1

 

今年も待降節を迎えました。待降節は神が御子イエス・キリストを人間としてわたしたちのもとにお遣わしになったというご降誕(クリスマス)を祝う準備の期間であります。準備とは主イエス・キリストを迎える準備であります。主イエス・キリストを迎えるとは、罪の赦しを信じ、神の愛を信じて、神の恵みに自分を委ねるための準備であります。読まれました福音で、繰り返し、「目を覚ましていなさい」と主イエスはわたしたちに告げています。わたしたちは、良い心の準備をして、主イエス・キリストのご誕生を喜び祝うのでありますが、もう一つ大切なことがあります。もっと大切な、あるいは一番大切であると思われることがあります。それは、わたしたちがこの地上の生涯を終える時の準備をするということです。(注において三年前に筆者が行った説教を引用します。)

神は愛であり、この世界と人間を造りました。神が造った世界は極めて善い世界です。それなのにこの世界にはどうしてこれほどの悪と罪があるのでしょうか。この問題を考察するのが「悪について考える」の一連の考察であります。今回は

カトリック教会の代表的な説明である聖トマス・アクイナスから学びたいと思います。

 

  1. 神は悪の原因ではありえない。

「神は悪の原因であるのか」という問題をめぐる聖トマス・アクイナスの主な主張は、

すべて存在するものは神によって存在し

すべて善きものは神から来るのであるから

神は決して悪を意図的に生ぜしめないことをわれわれは知っている

という所にあります。

そこで「すべて存在するものは神によって存在する」という命題は正しいかどうかを検討しましょう。といってもそれでは「存在する」とはどういうことか、を検討しなければならないということになります。「悪」の事実は否定できません。

悪の事実から「悪が存在する」とすれば、どうなるのか。「すべて存在するものは神によって存在する」という命題を正しいとするなら、「悪」も神によって存在することになる。悪は神によって存在しないなら、「悪」自体が存在しないことにしなければならない。「悪」存在しないから、神が善であるという命題に矛盾しないことになります。この論理は、悪が存在するのもかかわらず存在しないとして論理の一貫性を取ろうとした、と思わないわけには行かない。「悪」が存在しないことをどう説明するか。そこで「悪は善の欠如である」として説明します。善だけが存在する。悪は存在ではない。それでは存在とは何か。

どうしても以下のようになる。これは堂々巡りの議論、循環論法のように思えていきます。

「存在」とは何か。哲学の中に「存在論」等分野があります。

 唐突ですが、「存在」とは神の支配の充満であると考えるべきではないだろうか、と思います。つまり神の「存在する」とはその者に意向が十分に行き渡っている状態を指すのだとしてみます。「罪」とは神の意思が行われないこと、あるいは十分に行われていない状態である。病気はどうか。病気とは神の力が浸透していない状態である。そう考えなければ「悪」の存在を説明できないのではないでしょうか。こう考えてみると、神以外のもの(被造物)はすべて、神の意向によって存在しているが、完全には神の意向の反映ではない。かけたところがあるわけです。何故なら神は神を造ることはできないからです。被造物は神ではないので何か欠けた部分があるわけです。イエス・キリストも、神から生まれたのであり、神が造った作品ではありません。

唯イエス・キリストだけが神と完全に一致している、神の望みを完全に知る完全に実行でき来た、ということになる。

はたして人は神の思いを知ることが出来るか。

イザヤ書は言います。

  わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

  わたしの道はあなたたちと異なると

          主は言われる。

  天が地を高く超えているように

  わたしの道は、あなたたちの道を

  わたしの思いは

         あなたたちの思いを、高く超えている。

  雨も雪も、ひとたび天から降れば

   むなしく天に戻ることはない。

  それは天地を潤し、目を出させ、生い茂らせ

  種蒔く人には種を与え

       食べる人には糧を与える。

  そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も

     むなしくは、わたしのもとに戻らない。

  それはわたしの望むことを成し遂げ

  わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55・8-11)

 

人は神の思いに全く違えずには生きることは出来ない。それでは、人は正しく神の思いを知ることが出来るか。

果たして神は聖書で述べているように思い、人にそのように伝えたであろうか。

旧約聖書の啓示を人は正しく受け取ったであろうか。啓示の発展ということを考えなければならないのであります。 

出エジプト記で分かりにくい表現がたびたび出て来ます。それは、神はファラオの心を頑なにするのでモーセの申し入れを承知しないだろうという表現です。(出エジプト4・21;7・3;14・7) まるで神が自作自演しているようであり、マッチポンプのように、自分で原因をつくって自分で原因を抹消させているかのようである。

また、カナン先住民の殲滅命令というのがあります。これは「ヘレム」と呼ばれる神の命令で「聖絶」とも訳され、「ささげられたもの、奉納、奉納物、奉納物として滅ぼされる者、滅び、滅びに定める、滅ぼす、全き滅び」などと訳され、「神のさばきによる判決を人間の手を通して行う死刑執行」と定義することが出来る。(H・クルーゼ『神言』南窓社、16㌻)

現代人にとって非常に不可解な神の命令です。「聖絶」と合わせて、イスラエルの神がカナンの占領拠するように命じたという記述の解釈に苦しむ箇所であります。(以上、「聖絶」「カナンの占領に関する倫理的問題」については拙著『電台の荒れ野で』オリエンス宗教研究所、を参照ください。)

さらにまた、既述のことですが、神がアブラハムに独り子イサクを燔祭として献げるように命じたということですが、アブラハムが誤ってそう解釈したのか、あるいは、神が本当にそのような不可解で残酷な命令を下したのでしょうか。そのどちららかが正しいということになります。

 

2.人がいつも正しく神の思いを知ることが出来るか。

 

次に神の命令は何時でも、何処ででも、正当な命令であるのかが問題です。

カナン占領と殲滅命令は正当な命令でしょうか。神が言うことを人間がその成否を問うべきでないというなら論議はそこで終わりです。神は間違った決定や命令をくださないのか。神でも後悔することがあります。

  主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔 

  し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も

  這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」 (創世記6・5-7)

「神が後悔した」という事例は聖書の中ではさらに、神がサウルを王に選んだことを悔やむ、とあります。(サムエル上15・11,35)また、ザヤ書では「神は闇を創造した」ともある。

    光を造り、闇を創造し

     平和をもたらし、災いを創造する者。わたし が主、これらのことをするものである。(イザヤ45・7)

文字通り神は闇を創造したのだろうか。闇が存在することをゆるしているという意味だろうか。(トマス・アクイナスによれば「闇」とは神の下す罰のことを意味している。『神学大全』第48問題、第2項参照。)

 

人は神の創造の結果であります。その人が生まれながらに、先天的に障がいを負い、あるいは病気の遺伝子を持っているのです。今の医学では、出生前に胎児の検査を行い、障がい者として生まれるかどうかが判定できるという。存在のなかでの極め付きの善である人間が障がいという問題を先天的に担わされた場合でも、その人間の存在は善であると言えるのか。それでも善であると思う人とそうでないと思う人に分かれているのが現状です。人間は悪への傾き・可能性を持った存在であることを『原罪』は教えている。すると生来原罪の状態にある人間は、その存在自体が、完全に100㌫善である、とは言えない。人は光と闇の双方に属していると言える。基本的に光が闇にまさる存在である。人は堕罪によって闇へ堕ちたが100㌫の闇ではない。人は主イエスのあがないを受けて、復活の光を受けている。キリストを信じる者はすでの死から命へと移されている。(ヨハネ5・24;6・47;11・25;17・3;一ヨハネ3・14を参照。)

この地球と自然とはどうであろうか。神の創造の作品であり、極めて善である。しかしその善であることは影、歪み、闇を帯びた善であるとしか言えない。自然災害をどう考えるのか。自然法則に従って必然的に惹き起こされるものか。例えば地震と津波についてはどうだろうか。地震と津波は神が引き起こしているのか。被造物には闇の部分があるのは否定できない。闇が消えるのは「新しい天子新しい地」が出現する時である。その時まで被造物は贖われるのを待って呻いていると言えるだろう。

「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ8・21-22)

従って存在する被造物も、それが何であれ、善であるが善でない部分もある、と言わねばならない。「悪とは善の欠如」という言い方をするならば、悪とは闇、光がまだ及んでいない部分がある、ということになる。

東日本大震災はなぜ起こったのか。自然法則に従って起こったとしたら、その自然法則は神の支配する法則だから善であると言えます。しかし、神は災害を起こさないような自然法則を造らなかったのか、あるいは造れなかったのか。神といえどもそのような自然を創造できなかったのか。数知れない人が命を落とし行方不明になったこの自然災害を神はあらかじめ知っていたのであれば、それでも神は善である、と言えるだろうか。知っていたが地震と津波がおこらないようにはできなかったのか。もしそうなら神は全能ではないということになる。

 

3.「悪とは善の欠如である。」

 

「悪」について聖トマス・アクイナスはどう教えているでしょうか。トマスは

「悪とは善の欠如である」

と言っています。如何に、トマス・アクイナス『神学大全』第48問題ならびに第49問題、そしてその解説書(稲垣良典「トマス・アクイナス『神学大全』」)から多少とも学んだ事項を以下に整理します。

トマスの説明は決して理解し易くはありません。何度も読み考えて、理解のキーワーズがあることに気が付きました。それは「宇宙的秩序」(ordo universi)と「付帯的」(per accidens)という言葉です。

  トマスはこの世界に悪が存在することを決して否定していません。それでは「善の欠如」とはどう意味か。「欠如」とは 

  あるべきであるのにない、という場合を指し、ラテン語でprivatio といいます。病気とはあるべき健康が欠如しているこ

  とです。能力の不足は欠如とは言いません。生物の間には能力の差異があります。人はライオンのような獲物を捕る強さ

  を持っていませんが、その弱さを欠如とは言わない。人間にとって他の動物を襲って殺害しそれを自己の餌とする能力は

  人間本来の在り方の中に含まれていないと考えられるからです。

物事が生起するのは原因があります。原因の中に、目的印と能動因があります。物を動かす力が能動因です。電車は電気のエネルギーで動きます。物事を動かす場合に何のためにするのかという目的があります。電車は人間を移動させるためにエネルギーを使います。

さて神は人間に善を与え、人間を幸福にするために人間を造りました。良いことを目指して行われている働き自体は善です。しかし結果として付帯的にper accidens (偶有的に、とも訳す)悪が生じることが避けられない場合があります。たとえば、癌の治療のために抗癌剤を使いますが、どうしても副作用が生じます。現在の医学では副作用のない抗癌剤はないようです。

あるいは二重結果の原理を想起します。例えばそれは、胎児を救うために手術するが結果的に母体の生命が失われる場合です。母体と胎児の両方が救われればよいのですが胎児の生命が救済されて母親の生命が結果的に喪失することが起こるのです。

世界と宇宙では、一方に善ければ他方には悪であることが起こります。多くの出来事はそうかもしれません。ある出来事は、善であるとともに悪でもあります。ライオンが獲物を食い殺すという場合、ライオンには善ですが犠牲になる獲物にとって食い殺されることは決して善ではありません。ライオンの餌食はシマウマには悪ですが、宇宙全体の秩序から見れば調和していると言えます。物事を宇宙という全体の秩序から見れば、ここの悪は解消されて調和と秩序が生まれています。トマスは以下のように言っています。

  もし神がいかなる悪のあることを許さないとしたら、幾多の善が失われたに違いない。たとえば驢馬が餌食になること

  なしに獅子の生命が保たれることはないだろう。さらに不正というものがなくしては、それの償いを求める正義や、それ

  に耐える忍耐が賞賛されることもないに違いない。(第48問題第2項より引用)

また言う。

  人間には自由意志がある。しかし物事の原因の中の第一原因は神である。人は行為の原因でありうるが第一原因にはなり

  えない。能動因として人間は行為の主体であるが、その行為自体がかならずしも善の欠如であるわけではない。単純に神

  の意志不在のままの行動であるのでその行動自体は悪ではない。そこから悪が生じるのは、人が神の掟への注意を怠った

  場合である。注意を神の定めに向けるべき時に怠り、自由意志を乱用するために悪が生じるのである。悪は人間の意志に

  付帯的に生じるのであり、決して神が人間に悪をなさしめるのではない。

 

この説明はまだ筆者には納得できない部分が残っています。

さて、トマスによる「悪」についての説明が十分に納得のできるものでしょうか。残念ながら説得力のある説明ではないと言わざるを得ません。

さて、冒頭にのべたように、待降節第一主日B年の福音朗読は、繰り返し「目を覚ましていなさい」と述べて、神を迎える心の準備をするようにさとしています。しかし、聖トマスがのべているように、何時も目を覚まして神の呼びかけに事得るように準備していることは、人間には無理なことでしょうか。「心の準備」は無理ではないでしょう。「心の準備」のできないような状態、心が全面的に深く、付帯的per accidens なことに捉われないように日ごろから心がけなければなりません。使徒パウロは「絶えず祈りなさい」(一テサ5・17)といっています。何をしているときも心は神に向かっているように生活を整えることこそキリスト者の霊的生活です。

 

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待降節第一主日B年のミサ説教

第一朗読  イザヤの預言(イザヤ63・16a-17、19b、64・2b-7)
第二朗読  使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリ1・3-9)
福音朗読  マルコによる福音(マルコ13・33-37)

 今日は、待降節の第一主日です。待降節とは、主イエス・キリストのご誕生を迎える準備をするときです。読まれました福音で、繰り返し、「目を覚ましていなさい」と主イエスはわたしたちに告げています。わたしたちは、良い心の準備をして、主イエス・キリストのご誕生を喜び祝うのでありますが、もう一つ大切なことがあります。もっと大切な、あるいは一番大切であると思われることがあります。それは、わたしたちがこの地上の生涯を終える時の準備をするということです。わたしたちは、いつであるかはわかりませんが、必ず、死という時、この世を去る時を迎えるのであります。そのために良い準備をしなければならないです。その時に、わたしたちは神様とお会いする、主イエス・キリストとお会いする時でありますので、キチンとお会いできるように準備しなければならない。誰かとお会いするときには、色々な準備が必要です。誰かがいらっしゃる時には、お会いする場所を綺麗に掃除したり、色々な余計なものは片づけたりするわけです。それと同じように、わたしたちも色々な準備をしなければならない。人は死ぬとき、何も持っていくことはできない。全部置いていかなければならない。そして、一番大切なことは心の準備ということですよ。色々大事なことをするときに、わたしたちは準備をします。試験を受ける時には、合格するように準備しています。ですから、神様にお会いするときには、神様と平和のうちにお会いできるように心の準備をいたしましょう。

2017年はルーテルの宗教改革500周年という年であり、いろいろな記念行事が行われました。このルーテルという人が大変真面目な修道者でした。毎日定期的にお祈りをし、勉強し、それから色々な苦行に励んでいた。しかし、どんなに頑張っても、神様が自分をゆるし、そして受け入れてくださっているという確信が得られなかった。自分は罪人だ、とてもゆるされない、という自分を責める気持ちがどうしても彼の心から抜けていかなかったのです。彼の大切な仕事は、講義、教えることであって、聖書の講義をしていました。ある時に、詩編の31章2編という言葉のところに来たのです。どういう内容であるかというと、当時彼はラテン語で講義していたそうですが、ラテン語文を直接日本語で言うとこうなるのです。「主よ、あなたの義によって、わたしを解放してください。」彼はこの神の義という言葉が恐ろしかった。憎んでいたとさえ言っています。神様はご自分の正しさに従って、罪人を罰するのだ、自分は罰せられるのだ、神様は恐ろしい方だ、そういうように彼は思っていた。ですから、この義という言葉に、彼は嫌悪を感じていたそうです。しかし、ある時、一つのひらめきが彼の心に起こったのであります。それはどういうことかというと、神様はご自分の正しさをわたしたちに与えてくださって、わたしたちを神様の御心にかなう者と認めてくれる、そういう神様であるという意味であると。そういうように、彼は悟るようになったのであります。
 今日の第二朗読で、パウロが次のように言っています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と。ですから、神様がわたしたちに恵みをくださる。その恵みを認めて、受け取りさえすれば、わたしたちは救われるのだと。自分で自分を救うことはできません。わたしたちは、罪深いものです。神様のお望みに叶う、完全な人間というのはこの世の中に一人もいない。しかし、神様はそのようなわたしたちを憐れんで、いつくしみ深く、わたしたちに恵みをくださる。そして、その恵みは主イエス・キリストによって、与えられました。詩編というのは旧約聖書ですから、イエス・キリストが現れる前のことですけれども、すでに詩編の中で、イエス・キリストが来られることを預言しているのであるとさえルーテルは考えたのであります。 聖書の翻訳というのは、難しい仕事であって、専門家でないわたしたちには分からないことが多いのですけれども、勉強した人から学べば、色んなことが分かります。今日では、この聖書の研究も大変進歩していまして、こういうように訳されているのです。
「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によってわたしを助けてください。」と日本語で訳されている。神の義という言葉は、実は、もともとのヘブライ語を調べると、神の助け、神の贖い、神の恵みという意味が込められているのであるということが分かりました。
皆さん、今日は、神様がイエス・キリストをわたしたちにお遣わしになって、イエス・キリストがわたしたちの救い、贖いとなってくださったという信仰を新たにし、そして、人々に、その信仰をのべ伝えなければなりません。わたしたちの代わりに、主イエス・キリストが、わたしたちの贖いとなってくださいました。そのために人間となってくださったのであります。イエス・キリストこそ、わたしたちの救い主である。わたしたちがその信仰を受けて、その信仰を人々に言い表すことによって、わたしたちは神の子キリストとの交わりに招き入れられた者となるのであります。わたしたちにはできないと思わないでください。自分の信仰を、自分の言葉で言い表すようにいたしましょう。そういう機会が必ず与えられると思います。ですから、わたしは何をどういうふうに信じているかなということを、もう一度心の中で確かめるようにしてください。

 

===

第一朗読  イザヤ書 63:16b-17、19b、64:2b-7

主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ わたしたちの心をかたくなにして あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのためにあなたの嗣業である部族のために。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。

(あなたが)降られればあなたの御前に山々は揺れ動く。あなたを待つ者に計らってくださる方は神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も目に見た者もありません。喜んで正しいことを行いあなたの道に従って、あなたを心に留める者をあなたは迎えてくださいます。あなたは憤られましたわたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によってわたしたちはとこしえに救われます。わたしたちは皆、汚れた者となり正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになりわたしたちの悪は風のようにわたしたちを運び去った。あなたの御名を呼ぶ者はなくなり奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠しわたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工わたしたちは皆、あなたの御手の業。

 

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 1:3-9

(皆さん、)わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

 

福音朗読  マルコによる福音書 13:33-37

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 

 

2020年11月24日 (火)

悪の問題、その15:子どもは嘘をつかないか?(わたしの創造論)

悪について、その15

わたしの創造論――この世は本来的に善であるのか、悪であるのか。

 

アメリカの有名な精神療法の指導者ペック氏は著書のなかで次のように述べています。

 

この世は本来的に悪の世界であって、それが何らかの原因によって神秘的に善に「汚染」されていると考えるほうが、その逆の考え方をするより意味をないかもしれない。善の不可解性は、悪の不可解性よりもはるかに大きなものである。」(M・スコット・ペック、『平気でうそをつく人たち』、55㌻)

 

彼は言います。子どもは嘘をつかない、というが、子どもでも嘘をつくことはよく体験するとこところである。また物が腐敗することも至って常識的な体験である。(同書54-55㌻より。)

 

この世は本来的に善であるのか、悪であるのか?

キリスト教思想ではどちらが正しいのか?

「本来的に」とはどういう意味か。元来は、もともとは、という意味か。初めは、という意味か。

キリスト教では、神は天と地、すべてのものの造り主であり、その神は全能、全知で善であると信じられています。存在するものはすべて神の被造物であり、したがって善である神から出たものだから善でなければならない。それでは悪はどこか来たのか。

 

創世記の冒頭を引用します。

初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

(1・1-5)

 

 

従来の考え方

神は「極めて良い」世界を創造した。人間は神の似姿、神に似たものとして造られた。(創世記1・26、27

 

我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

 

神は人間に自由意志を与えた。最初の人間アダムとイブは自由意志を濫用し、神の命令にそむいて善悪を知る木から実をとって食べたために楽園から追放された。人と神との関係の破綻は男と女の関係の破綻、人間と自然との関係の破綻を招いた。

神の創造した世界は極めて良かったにも拘らず、人祖の不従順のゆえにこの世界に悪が侵入して来たのである。元来よかった世界が人間によって秩序の乱れた混乱の世界に堕落してしまったのである。神はこの世界を立て直し復旧するすためにおん子イエス・キリストを派遣した。キリストは十字架刑によって人間の罪の贖いを成し遂げ、さらに再臨によってすべての悪を滅ぼして創造を完成する。

 

しかし以下のように考えることも可能である。

 

すでにコラム「原罪」で次のように述べた。

神によって創造された完全な世界がまずあり、これが人祖の始原罪によって混乱に陥れられたが、救い主はこれを再び原初の完全状態に回復させる、という復元的・回帰的救済思想が支配している。だが聖書は本来完全な救いは未来のものとしてこれを待ち望むという直線的救済思想をとっている。救いは過去の完全状態の復興ではなく、未来において実現を約束されている全く新しいものとして、希望の対象である。この観点から「原罪の本質」をどう把握し提示し直すかも今後の「原罪神学」の重要な課題であろう。

(新カトリック大事典、原罪、宮川俊行)

 

人類の歴史は神の救済の歴史であり、救済の歴史は創造の歴史である。神は絶えず世界を新たに創造しつつある。創造とは悪を消滅させ、神の支配を浸透することである。悪の消滅と神の支配の浸透は主イエス・キリストの十字架と復活によって決定的な勝利が樹立されている。現在は教会とキリスト者がキリストの勝利を告げ知らせ行き渡らせる為の期間である。この勝利の結果が完全に浸透するためには聖霊の働きが必要である。聖霊は教会の内外で神の支配を行き渡らせるべく今もいつも働いており、主イエス・キリストの再臨の時に最終的な勝利が完成する。

 

創世記の冒頭を想起しよう。

 

神は闇と混沌の世界に光を灯す。この神の働きが創造である。創造とは闇に光を掲げることである。闇とは神の支配のまだ及んでいない世界である。

主イエスの働きを告げる福音書はすべて癒しを語る。癒しとは闇に光を灯すことである。罪とは闇である。神の秩序がまだ及んでいない世界を意味している。闇である罪の結果が死である。イエスは復活によって闇を打ち破り、死を滅ぼして神の命である永遠の命、復活の命をもたらした。聖書最後の巻物『ヨハネの黙示』25章の「新しい天と新しい地』とは神の創造の計画の完成図である。このときすべての被造物は新しい天と新しい地として刷新されるのである。(注2)

使徒パウロは言っている。

  現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れる 

  のを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるもので

  あり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる

  からです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでな

  く、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでい

  ます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを

  だれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマ818-25

 

 

(注1)子育て/子供の嘘については以下の「福田 由紀子の記事などを参照。)

間は嘘をつく生き物

嘘をついたり、秘密を持ったりするのは、子どもの正常な発達過程です

「うそつきは泥棒のはじまり」ということわざがあります。平然とうそをつくようになると、盗みも平気でするようになる。うそをつくことは悪の道への第一歩であるといった意味です。子どもの頃、「うそをつくと閻魔さまに舌を抜かれるぞ!」と脅された人も多いのではないかと思います。
このような戒めが定着しているのは「人間(子ども)は、よくうそをつく生き物」だからだ、と捉えることもできます。子どもにうそをつかれると、親はショックです。わが子に裏切られたように感じて腹が立つかもしれません。でも、見方を変えてみると、うそは子どもが順調に発達していることのあかしなのです。
嘘は成長のあかし

子どもがうそをつきはじめるのは、早い子で3歳くらいと言われています。多くは「自分を守るためのうそ」です。かっこ悪さをごまかしたり、叱られないためのうそ。また「大人の関心を引くためのうそ」もありますね。もっと自分を見てほしい、さみしい、甘えたい、という気持ちから出るうそです。こうしたうそをつくためには、自分の行動や状況を客観的に見て、善悪を判断し、うそが相手に与える影響を予測できなければなりません。
ただ、小さい頃の子どものうそはその場しのぎのものが多く、うしろめたさが仕草や行動に出やすいため、大人にはすぐにバレてしまいます。辻褄の合ったうそを一貫してつけるようになるのは、小学校の34年生くらいでしょうか。うそを巧みにつけるようになる前に、うそについて子どもと話し合っておくことが大切だと思います。
嘘の種類について考えてみましょう

私たちの生活を見回すと、たくさんのうそにあふれています。意図的なうそから、無意識なうそ、思い違いが結果的にうそになってしまうこともあります。「言わない」「隠す」といった、うそのつき方もあります。どこからどこまでを「うそ」とするかにもよりますが、全てのうそが悪いわけではないですよね。
「うそも方便」ということわざもありますし、作曲家のドビュッシーは「芸術とは、最も美しいうそのことである」という言葉を残しています。「うそから出たまこと」といったこともありますよね。ハッタリをかまし続けているうちに、自分の実力が追いついてきて、うそではなくなるといったことも多いものです。
「うそをつくのは悪いこと」だと問答無用で叱るのはおすすめできません。「お前はうそつきだ」とレッテルを貼ったり、厳しく叱りすぎるのも、うそを重ねさせることにつながるので厳禁です。うそをついたことの良し悪しは後回しにして、どのような結果を予測してついたうそなのか?という切り口で、まずは子どもと一緒に「うそをカテゴリー分け」してみるのはどうでしょうか。
嘘の種類を分析してみよう

どのような結果(メリット/デメリット)をもたらすと予測してついたうそなのかを、相手と自分を軸にした座標に当てはめるとどのようになるでしょうか。

どのような結果をもたらすと予測してうそをついたのかを考えてみよう

A)自分にも、うそをつく相手にもメリットをもたらすうそ(相手+自分+)
誰も傷つけないうそです。芸術やドラマ、お笑いのコントなど、この領域に入るものは多そうです。お互いにうそ(フィクション)だと分かっているからこそ、楽しめるといったものもありますよね。しかし、そのうそが結果的に第三者を傷つけることがなかったかという点には注意する必要がありますね。 相手を喜ばせたいと思ってつくうそもあります。相手のことを思って、見て見ぬフリをする、といったことも入るかもしれません。気が向かない誘いを、理由をこじつけて断ったりするのは、大人にもよくあることです。「うそも方便」と言われる種類のうそですね。子どもの場合、空想を語って大人の気を引いたりするうそや、大人をびっくりさせるための、たわいもないうそがこれにあたります。

B)相手のために、自分を犠牲にするうそ(相手+自分
相手が怖いために自分の気持ちを偽るうそ、相手の罪をかぶる、といったうそです。本当はNOを言いたいのに、言えずに相手に合わせて言う通りにする、というのも、このカテゴリーです。
子どもの場合は、友だちを守ろうとして「自分がやった」と言ううそや、虐待を受けている子どもが、親をかばおうとして「叩かれていない」とうその証言をしたりといったことがあてはまります。親に心配をかけまいとしてつくうそも、ここですね。
C
)相手も自分も傷つけるうそ(相手自分
自暴自棄になったときのうそです。相手も自分も傷つくと分かっていて「死んでやる!」と言ったり、子どもに「あんたなんか生まれてこなければよかったのに!」と言ったりするのはここに入りますね。子どもの場合は、お友だちに「○○ちゃんなんかキライ!」と言うようなことが入るでしょうか。後悔やうしろめたさを抱えるうそです。
自分を傷つけるB)C)のうそには、自分を大切に思えない、低い自己評価が根っこにありますので、うそをついたとガンガン責め立てるのは逆効果。うそをつかざるを得なかった気持ちに寄り添い、うそをつかなくて済む自分になることを援助しましょう。
D
)相手を傷つけて、自分を守るうそ(相手自分+)
自分の利益のために相手を利用したり、相手を陥れたりするうそです。ここに入るものが「うそつきは泥棒のはじまり」と戒められるうそではないでしょうか。合意だったと言い張るセクハラの加害者や、公約を守らない政治家、事実をねじまげて伝えるメディアなども、ここに入りますね。子どもの場合は「○○ちゃんのせいでこうなった」などと、自分の失敗を友だちになすりつけるといったうそなどが当てはまると思います。
こうしたうそが発覚したときは、保身のためのうそはダメだという一貫した態度を取ることが大切です。親の方はついカーッとなってしまいがちですが、冷静に伝える方が効果があります。

しかし、子どもが自分のミスを認められない背景には、強すぎる親の期待や、親に叱られることへの恐怖があることも少なくありませんので、親子関係を見直してみましょう。うそを認めた勇気を認めつつ、だれかを傷つけるうそはダメだと教えることが大切です。 

正直でいるためには勇気が必要です

「だますより、だまされる方がいい」と言う人がいます。しかし「正直者が馬鹿をみる」とも言われます。でも、本当は(だます/だまされる)の二者択一というのは極端で、「だましたくないし、だまされたくない」というのが、多くの人の本音だと思います。
人を信じるというのは尊いことです。「信じてくれている」ということが、勇気を与え、人を強くします。しかし、人からの信用を悪用する人は「だまされる方が悪い」と主張するのが常。また、私たち大人は人を信じることの大切さを教えながら、「悪い大人にだまされないように」と、見知らぬ大人を疑うことを子どもに教えています。子どもは混乱するでしょうね。
しかし、現実問題として、世の中にはうそがあふれています。自分や相手に正直であることはとても大切ですが、相手のうそを見抜くためには、うそをついた経験がないと難しいのではないでしょうか。
子どもは誰でも成長の過程で、秘密を持つことを覚え、うそをつきます。ですから「うそをついて、叱られる」ことにより、うそがどんな結果をもたらしたのかを振り返り、うそが自分や相手に与える影響について子ども自身が考える機会にしたいものです。うそをついてばかりいると肝心なときに信じてもらえなくなることや、うそをついたときの嫌な気持ちなどに気付けるよう手助けできるといいですね。
うそをつかない(つけない)子どもに育てようとするより、うそをつこうとした時に「うしろめたさ」や「罪悪感」を感じて、うそをつかない勇気を持てる子どもに育てていきましょう。そのためには、親自身が自分の気持ちをごまかしたりせず、うそのない誠実な態度を見せることも必要ですね。子どもはよく見ていますから。
うそをつくことはできる。でも、自分にも他人にもうそをつかない人生の方がシンプルで快適なものだということを、うそをつく経験を通して学んでいけるよう、関わっていきましょう。
(注2)

神は光です。

わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。

わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

(一ヨハネ15-10

光の子として歩みなさい。

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ58) あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。(一テサロ55)

わたしの「創造論」

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病気について(再)

悪について、その12、「病気」について

 

人が免れない問題の中に「病気」ということがあります。仏教では四苦八苦ということを言いまして、四苦の中に、生病老死があげられ、病気がすべて生きとし生ける者の苦しみであると言われているわけです。

カトリック教会は毎年211日を「世界病者の日」と定め、病者とその家族、医療関係者のためミサと祈りをささげております。いまあらためてその時の説教を読み直してみると、結局、自分が病気について思うことで大切なことは、この中で述べられていることに尽きるように思います。説教二点を添付しますのでどうか閲覧ください。(1)

なお、病気について『カトリック教会の教え』は次のように述べています。

 

一般的に、「病気」とは各人が主観的に異常や違和感を覚えることや、それによる本人の痛みや苦しみの経験を表現します。そして、医師による診断の結果、病名がつけられて客観的に疾患が確認されます。・・・)(337㌻)

 

ここでは以下に、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みます。

まず論点を挙げます。

1)イエスを「癒しの人」と言ってよいのか。(キリスト論から)

2)病気は何処から来たのか。(原罪論から)

3)「癒し」はどのように完成するか。(終末論から)

 

1)イエス、「癒しの人」

イエスは「癒しの人」であるのか。

四福音書を読んですぐに気の付くことは、イエスが多くの人を癒し、悪霊を追放しているということです。イエスはその生涯で何をしたかと言えば、人を救うという使命を遂行した、と言えるでしょう。人を救うということの中にはもちろん、罪の赦しと贖い、罪からの解放ということが最も重要ですが、どうじに病気・障がい、疾患で苦しむ死を癒し、悪霊から人々を解放したということが非常に大切なこととして含まれています。救いと解放とは、心身の人間の贖いであります。霊魂だけを救うということないし、肉体だけをすくうということもなかったはずです。

とりあえずマルコ福音書を見ていきましょう。

イエスは40日間の誘惑に打ち勝ってガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え始められました。

―まずイエスは、カファナウムで汚れた霊に憑りつかれた男を癒しました。(マルコ121-28)

―イエスはシモンの姑の熱を鎮め、多くの病人を癒し多くの悪霊を追放しました。(マルコ129-34)29-34)

―イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出しました。(マルコ139)

イエスは重い皮膚病を患っている人を癒します。(マルコ140-45)

―イエス、中風の人を癒す。(マルコ21-12)

(イエスは中風の人を癒したがその前に「子よ、あなたの罪は赦される」と言ったので律法学者を躓かせ、冒瀆罪に問われる原因をつくった。)

―手の萎えた人を癒す。(アルコ31-6)

(その日は安息日であったのでファリサイ派トヘロデ派はイエスを殺す相談を始めている。)

―悪霊に憑りつかれたゲラサの人を癒す。(マルコ51-20)

―ヤイロの娘と出血症の女を癒す。(マルコ521-43)

―ゲネサレトで病人を癒す。(マルコ650-56)

―シリヤ・フェニキアの女の娘から悪霊を追い出す。(マルコ724-30)

―耳が聞こえず舌が回らない人を癒す。(マルコ731-37)

―ベトサイダで盲人を癒す。(マルコ822-22)

―汚れた霊に憑りつかれた子を癒す。(マウコ914-29)

―盲人バルテマイを癒す。(マルコ10・46-52)

如何に以上で見たように多くの部分が癒しの記述に使われているかが分かります。マルコだけではなくマタイ、マルコについても同様のことが言えるでしょう。

病気や障害とは本来あるべきでないのです。神の国が到来すれば一切の病苦は消滅します。イエスが癒されたのは地上のごく少数の人々でした。彼らはやがって死を迎えたことでしょう。イエスの癒しは神の国がある、ということを示すしるしでありました。このしるしが永遠の命として結実するためには、主の復活と主の再臨を待たなければなりません。

イエスは癒す人であり、永遠の命を齎す人、であり、復活の命に人々を与らせる人であります。(2)

 

2)病気は何処から来たのか。(原罪論)

創世記1章によれば、神は人間を神にかたどり神に似た者として創造され、それを「極めて良い」とご覧になられました。しかし現実にこの世界には種々の悪が存在します。病気も悪の人です。病気は何処から入ってきたのでしょうか。教会はどのように説明しているでしょうか。

カトリック教会によれば、その原因は人間の「原罪」にあるとしています。悪の原因は神には在りません。人間の不信仰と不従順が病気を含む悪の原因であるとしています。創世記第3章によれば、最初の人間アダムとエバは神への信頼を失い、禁じられた、善悪を知る木の実を食べ、不信仰と不従順に陥り、神との親しさを失いました。この神との親しさを失っている状態が後に「原罪」と呼ばれるようになりました。

『カトリック教会のカテキズム』では次のように述べられています。

 

原罪とは原初の義と聖性の欠如です。最初の人間アダムとエバは神との正しい関係にあり、神の本性である聖性に参与していました。しかし神に背いたためにその義と聖性を失い、人間の本性は大きな傷を受け、無知と苦と死と罪への傾き(欲望)の支配を受けるようになり、この本性の傷はすべての人間に生殖とともに伝えられています。

(『カトリック教会のカテキズム』122-121㌻参照。原罪については後程あらためて取り上げます。)

 

それでは他の教会では「病気」をどう説明しているでしょうか。東方正教会の見解を最近が出版された『病の神学』(ジョン=クロード・ラルシュ著、二階宗人訳、教友社)によって分かち合いましょう。

 

神が「見えるものと見えないものすべての創造主(コロ116参照)です。しかしもろもろの病気や苦痛、そして死の造り主であると考えることはできない。教父たちはそのことを明言している。聖バシレイオスは、その説教「神は災いの原因ではない」のなかで述べている。「神がわれわれの災いの造り主だと信じるのは正気の沙汰ではありません。こうした冒瀆は〔……〕神の善性を損なうものです。・・・・(15㌻)

ニュッサの聖グレゴリオスは次のように答えている。「人間の命の現状がもつ不条理な性格は、〔神の像と結びついた〕善き事柄を人間が一度ももちあわせなかったことを立証するものではありません。〔・・・・・〕われわれの現在の条件と、そしてもっとうらやむに足る状態を奪った喪失には、他に原因があるのです。」(15-16)

『創世記』は、神の創造はその始原において完全に善きものであったことを明らかにしています。(創・31)

聖マクシモスは言っています。「神からその存在を与えられた最初の人間は、罪と腐敗を免れて生まれました。〔…・・〕。なぜなら罪も腐敗も、彼とともに創造されることはなかったからです。」(17)

多くの教父は、神は死を創造しなかったこと、始原における人間の本性は腐敗を免れていた、ということ、したがって人間の本性は不死であった、と教えています。しかし教父たち間にはこの点について微妙な相違が見いだされます。聖アウグスチヌスは、人間はその身体の本性において死すべきものであった、と述べ、アレクサンドリアのアタナシスも、原初の人間の本性は腐敗すべきものであった、と言明しています。

この不整合をどう説明できるか。

原初の人間は不死で腐敗しない存在であったのか、あるいは死すべきもの、腐敗すべきものであったのか。

そこで結論はどうなるのか。次のように説明されます。原初の人間とはどの段階の人間か。

   主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記27)

 

神が地の塵から神は土の塵(アダマ)から人(アダム)を形づくったとき、その最初の状態では、人間は死すべきものでした。神は人の鼻に命の息を吹き込みました。その時点で人は生きるものとなり、不死の命を生きるものとなったのです。聖アタナシオスは言っています。「人間は腐敗する本性を持っていたのですが、言への参画という恵〔によって〕「その本性をしばる条件を免れる」ことができ、「現存する言のゆえに、本性の腐敗が彼らに及ぶことがなかったのです。」

この恵みによってアダムは、いまわたしたちが置かれている人間的条件とは大幅に異なる状態に置かれていたのであり、この状態を聖書は「楽園」と呼んでいるのです。楽園における人間は天使の状態に近く、アダムは物質性や有形性を持つ者でなかった、と聖マクシモスは考えます。アダムの体はパウロが述べているような復活した体のようだったと考えるようです。

腐敗することなく死ぬことのない状態に想像された人間は神の恵みの中にとどまる限り死ぬこともなく腐敗することもありませんでした。神の恵みのうちに留まるためには、人間は与えられた自由意志を用いて、自分から神の掟を守らなければなりませんでした。

しかし神の命令に背いたために神の命という恵を喪失したのです。ではどういうべきでしょうか。

罪の落ちる前の原初の人間は、実のところ、死すべきものではなく、不死でもなかったのです。どちらになるかは、人間の自由な判断と選択にかかっている状態に置かれていたのでした。

したがって教父によれば、人間の個人意思のうちに、自由意志の誤った使い方により、あるいは楽園で犯した罪によって、人類に、病気、心身の障がい、苦痛、腐敗、死が入ってきたのです。病気などの悪淵源は父祖の罪によるのです。自ら神のようになろうとしたことによってアダムとエバは神の特別な恵みを失い、塵から造られたもともとの人間の状態に戻されたのでした。

「アダムが人類の本性の「根源」をなし、その原型であって、また第一に全人類を包摂するゆえに、彼はその状態を子孫全体に移転する。こうして死や腐敗、病気、苦痛が人類全体の定めとなる。」(同書、28ページ)

人と人とのつながりの乱れ、男女関係の葛藤、そしてアダムと自然との親和性は失われ、土は人間にとって呪われたものなり、土は茨とあざみの生える不毛の地となり、さらに、自然と人間との調和も失われました。

  神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなっ 

  た。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔 

  に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記317-18)

 

アダムとイブの罪の結果はすべての人類に及ぶだけでなく、すべての被造物に及びました。全被造物は腐敗へ隷属するとされてしまったのです。パウロはローマ書で言っています。

 

  被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持ってい 

  ます。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今

  日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8・20-22)

 

さて、それでは人間は自分たちの病気に責任があるのだろうか。

人間が原初の恵みを失ったのは、アダムの罪によるのであり、自分の罪によるのではありません。アダムの違反により人間の本性は弱くも脆いものに変えられました。といっても個人の罪はアダムが犯した罪ではありません。人は自分で自分の罪を犯します。

 

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。(512-14)

 

病気にかかるとはいわば「免疫」がないので病原菌を撃退できないからです。アダムの違反は人類に、病気にかかりやすい弱さを伝えました。同時に罪への抵抗力も弱くなるというマイナス効果をもたらしました。だからと言って人は自分の罪の責任をアダムの押し付けることはできません。人は自分の罪の結果を負わなければならないのです。キュロスのテオドレトスは「各人がみな死の支配に服するのは、祖先の罪によってではなく、各人自身の罪によるのです。」(同書、31) こうして、テオドレトスは、アダムの根源的な責任と人間への堕落した人間本性の継承性を否定

せずに、継承性に冒された罪あるすべての人間の共同責任を主張しています。

それではいかにしてアダムによってもたらされた人間本性の恵みの喪失の回復と治癒は可能になるのでしょうか。それは受肉した神の言(ことば)によってできるのです。

  一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一

 人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、 

    一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです一

人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたよう に、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が  増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わ  たしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(ローマ517-21)

 

アダムによって変質した人間の本性は、キリストにおいて復元され、楽園で享受するすべての特権を取り戻します。キリストは贖い=罪からの解放を通して、悪と悪魔の支配から人間を解放し、死と腐敗に打ち勝ちました。キリストは復活によって悪と罪を打ち滅ぼし、人間の本性を癒し、宇宙万物を治癒し、刷新します。

 

そのために神は人間がキリストに自由に同意し協力するよう求めています。

キリストは人間本性を再生しいわば神化してくださいます。そのためには人間の側の信仰と自己放棄、悪との闘い、自己獣化のためも努力が必要なのです。キリストは不死と非腐敗性を勝ち取ったがその成果を人が自由に受け取るように望んでいます。そのために地上においては、いまだ罪、悪霊の仕業、肉体の死をキリストは取り除いてはいないのです。すべての悪が消滅するのはキリストの再臨の時です。その時こそ、「義の宿る新しい天と新しい地」(ニペトロ313)が出現するのです。

聖人自身もまた、身体の痛みや病魔、そして最終的には、生物としての死を免れません。この事実は、身体の健康と霊魂の健康には必然的な関係がないこと、また病気・苦痛がその人の罪に起因するものではないことを示しています。

 

時に聖人は他の誰よりも病気の苦しみに出会います。

それは聖人本人だけでなく周りの人々の霊的成長を望む神の摂理の表れであり、聖人自身の聖徳への試練のためである、などの理由が挙げられます。

さらに考えられるのは、悪霊の働きで有ります。ヨブ記が示していますが、神は悪魔が人を試練に合わせることをおゆるしになります。しかし神は人が絶えられない以上の試練を課すことはないのです。(一コリ1013)

 

健康は健康な人に善をもたらさなければ健康が良いとは言えない。また病気から得られる善きことを喜んでいる多くの霊的な人もいることは事実である。

病気のおかげで人間は自分の脆弱性、欠陥、依存性、限界を自覚する。自分が塵であることを思い起こさせ、思い上がりを正し、人を謙虚に導く。病気は現世に対する執着を無くさせ、地上の虚しさを悟らせ、天井の世界への思いを強くさせ、心を神へと向けさせる。

病気は神が人間を罪から清めるために送ってくださる、霊的浄化の機会である。

病気とその苦しみは人間が神の国に入るために通らなければならない試練の一部であり、キリストの弟子として負うべき十字架である。

聖ヨハネ・クリュソストムスは言っている。「神は我々を苦しめれば苦しめるほど、われわれを完璧にするのです。」(同書、60㌻)

病気は忍耐という徳を学ぶ機会となる。病気は謙虚に源泉となる。

使徒パウロは言っている。「わたしは弱いときこそ強い。」(ニコリ1210

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(ニコリ51)

病魔に直面するものは何よりも忍耐を示さなければならない。悪魔の誘惑は、落胆、悲嘆、無力感、怒り、苛立ち、失望、反抗といった思いを魂に滑り込ませる。

(ルカ2119、へブ1036、詩392、マタイ1022、ロマ1212

 

病者にとって祈りは特に大切です。祈りによって必要な助けと自分を豊かにする霊的な贈り物を頂くことができる。

病床における祈りは願い事にとどまらず、感謝の祈りでなければならない。病気は神の栄光をたたえる機会となり、神の子が人類を癒し救うために遣わされたことを感謝する機会となる。

 

病気の時にとるべき心構えで最高位に置かれるのは忍耐すること、そして感謝することである。

 

治癒の方途

次いで第三章でキリスト教的な治癒の方途を述べています。ここでは項目を挙げるに留めます。

―キリストは真の医者である。

―聖人は神の名によって癒しを行いました。

―治癒のために最も重要な手段は祈りです。

   あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

   (ヤコブ513-16)

   出血症の女へ向かってイエスが言ったことば。「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ922、他に、マタイ1528、マルコ534、マルコ1052、ルカ75084817191842

院人のための祈りが推奨される。

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ1819-20)

 

聖母や聖人の執り成しの祈りが大切である。

さらに以下の項目が東方正教会では行われています。

塗油と祈り

聖水の注ぎ

十字架のしるし

祓魔式(ふつましき)(悪魔祓い)

通常の世俗医療

最大主義

  キリストが唯一の医者であることを理由に世俗の医術に頼ることを拒否する立場。

神に帰することで正当化される世俗的医療の霊的な理解

治癒は神がもたらすという信仰

医学には限界があるということ

魂の治療に意を用いるべきこと

身体の治癒は人間全体の霊的治癒を象徴し告げる

魂の病気は身体より重大である

肉体の健康は相対的な価値しか持たない

将来の非腐敗性と不死性の約束

 これは《3)「癒し」はどのようにして完成するか》で改めて論じることにします。

 

3)「癒し」はどのように完成するのか。(終末論)

 

実際、わたしたちの身体が全面的に霊的な存在、いわば復活の体に変えられるのは地上の旅を終わる時であります。パウロは次のように教えている通りです。

 

     しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いもので

    も、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体も あるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。わたした ちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死 よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利 を賜る神に、感謝しよう。

(一コリント15・351542,1549-5015/52-57)

  

パウロは何を言っているのか。

まず、これは終末の出来事で個人の死の時の出来事ではないようです。しかし、死というものは時間と空間の支配の外にでることでしょうから、このパウロの記述が準用されてもよいと考えます。「体の復活を信じます」と使徒信条で唱えます。体の復活はいつ起こるのか。人は死んでから眠りにつき、世の終わりに眠りから覚めて、体を頂いて、復活するのでしょうか。それても時間・空間のない世界で受け入れられすぐに体の復活を体験するのでしょうか。

さて死んだらわたしたちの体はどうなるのか。地上の体は火葬場では骨と灰になってしまします。わたしたちは遺骨を骨壺に入れて恭しく持ち帰り、何日か警戒してから遺骨を埋葬します。人間の目に見えるのはそのような現象です。しかしパウロは言っています。

 

地上では朽ちる体ですが、復活の体は朽ちない体です。

地上では卑しい体ですが、復活の体は輝かしい体です。

地上では弱い体ですが、復活の体は力強い体です。

地上では自然の命の体ですが、復活の体は霊の体です。

最初の人アダムは神から命を受けましたが最後のアダムであるキリストは命を与える霊となりました。

人は土から出来た人の似姿ですが、復活の時には天に属する人キリストの似姿となるのです。

血と肉は朽ちるものであり、朽ちないものを受け継ぐことはできません。最後の時死者は復活して朽ちないものとされます。

わたしたちは変えられ、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着ることになります。

かくてこの時死は克服されます。死は罪の欠陥、罪は律法によります。かくてわたしたちは、律法の力の支配に打ち勝ち、罪を克服し、罪の結果である死への勝利に招き入れられます。

 

ここで言われていることを整理しましょう。

人は死を経て復活の体に変えられます。復活の体は同じ自分の体ですが、不死の体、非腐敗の体、病気から解放された完全に健康な体、復活したキリストの体のように霊的な体です。キリスト教の救いは霊魂と肉体の贖いであり救いであります。体だけの救いん、あるいは霊魂のだけの救いを前提としてはいません。人間全体の救いです。

 

この項目を閉じるにわたり筆者岡田の見解を短く述べることにします。すでに述べたように、『世界病者の日』の説教で牧者としての見解を注においてお伝えしました。そしてさらに、説教で述べられている内容の神学的な解説を試みました。論点を次の一点に絞りました。

 

病気は何処から来たのか。(原罪論から)

 

ここで自分自身の意見を簡単に添付します。

イエスが実に癒しの人であったという点においてカトリックと東方正教会の教えの違いには大きいものはありません。

病気の起源についてです。カトリック教会の場合は、人は自分の罪の有無に関係なく死を経験しますが、東方正教会の場合はアダムの罪の影響はあるにせよ、自分の罪によって死ぬことになるのです。

カトリック教会と東方正教会の教えのどこが違うのでしょうか。カトリックは「原罪」という教義で死と病気を説明しています。不死性と非腐敗性の喪失は、アダムの罪が生殖によって子孫に伝えられることによるのだ、と言っています。東方正教会では、アダムの罪の影響を否定しないまま、人は自分の罪によって不死性と非腐敗性を失った、と言っています。(この点をさらに確認する必要があり。)両者とも創世記の1章、2章の教えを根拠に論じています。問題は現代において創世記をどう読み解くのかであります。進化論がとビッグバンという仮説がほぼ一般化しつつある現代、創世記の解釈も「非神話化」する必要があります。とくに二章は重要です。神が息を吹き入れた時に人は生きるものとなったわけですが、それが文字通り起こったと考えなくともよいと思います。ここでわたくしは「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の仮説を想起します。(3) 創世記三章に出ている物語は一種の寓話です。神話的な物語に託して人類の各人に普遍的に起こる神からの働きかけを述べていると考えます。人間の肉体は塵にすぎません。しかし人間は「万物の霊長」です。神の霊を受けています。人は生をうけたときに神の霊を受けるべき状態に置かれています。カトリック教会は幼児洗礼という慣行を維持していますが、それは、目に見えない神の霊が生まれたばかりの幼児に働いており、幼児は神の霊をなんらかの形で受け取ることができる、と信じています。それは科学的には証明できないでしょう。レントゲン写真、あるいはCTで検査しても何のデーターの得られないことでしょう。しかし、人は誰でも神の霊の働きにもとにあります。地上の現実は神の霊を受け入れるには困難な状況にあります。「世の罪」が蔓延しており、人はなかなかの声に耳を傾けません。もし出生の最初に神の霊に満たされれば、悪の力を撃退する可能性に恵まれます。多くの人はいわば悪の病原菌への免疫がない状態に置かれています。それがカトリック教会が言うところに「原初の聖と義」のない状態である原罪であります。西方教会では、原罪という言葉が聖アウグスチヌスにはじまるようですが、東方教会では人祖が神の背いた結果、死ぬことも、死なないこともできる状態に陥ったと考えます。堕罪の前は死ぬこともなく病むこともない楽園にいたが、堕罪の後は楽園から追放されて、死ぬことも腐敗に落ちることもある状態になりました。しかし現実に人が死にあるいは腐敗するのはその人の罪の結果です。「人は自分の罪によって死ぬのです」がが東方正教会の立場です。カトリック教会では、聖母マリアだけは原罪の汚れから免れたと考えます。人は世の罪の攻撃に対して無防備であり撃退する体力がなく免疫もできていないと考えます。キリスト教信者の霊的生活とは、霊の導きに従うことにほかなりません。『病の神学』はその視点から非常に有益な勧めを与えてくれます。

 

(注1)

2015年世界病者の日・説教

2015年211

 

聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ531-5,10-11

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

この人は主の前に育った。見るべき面影はなく

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって

わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見

それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

彼らの罪を自ら負った。

第二朗読 ヤコブ513-16

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。

だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

福音朗読 マルコ129-34

そのとき イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。

夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 

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説教

 

今日は「世界病者の日」です。カトリック教会ではルルドの聖母の日であり、聖ヨハネ・パウロ二世はこの日を「世界病者の日」と定められました。

病気は誰にとっても大きな苦悩の原因です。

わたしたちの救い主イエス・キリストは実に「癒すかた」でした。きょうの福音はイエスが宣教活動の初めの頃のある一日、カファルナウムで行った、神の国の到来を告げ知らせる働きを、簡潔に述べています。

イエスの宣教には病人の癒しと悪霊の追放を伴うのが常でした。会堂で悪霊を追い出したイエスは、その後シモンとアンデレの家に行き、シモンの姑が熱を出していると告げられと、すぐに姑のところに行って彼女を癒しました。

彼女の手を取り、彼女を起こします。ここに、イエスの悪に打ち勝つ力があらわれています。

「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(マルコ134)とマルコは述べます。

イエスは病気の苦しみを担う人や体の不自由な人に深い関心を寄せ、深い共感を持っていました。イエスは言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ217

イエスが罪人に対して取った態度は、病人や体の不自由な人に対して取った態度に重なります。病人や体の不自由な人を優先させることがイエスの基本的な生き方でした。イエスは安息日のおきてを破るという非難を覚悟した上で、手の萎えた人を癒し、律法学者やファリサイ派の人々を敵に回してしまいました。(マルコ31-6) 

教会はこのイエスの癒しの働きと使命を受け継いでいます。復活したイエスは弟子たちに言われました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ1616-18)

7つの秘跡の一つの病者の塗油も、教会がキリストから受け継いだ癒しの働きです。今日の第二朗読は病者の塗油の、秘跡の制定の根拠とされる箇所です。

「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。

信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」(ヤコブ514-15

イエス・キリストが宣教活動で何をしたかといえば次の事柄にまとめられます。

「神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、

ご受難において人々の苦しみ悲しむ病を背負い、

人々の贖いを成し遂げ、死を滅ぼして復活の世界に入られた。」

今日の第一朗読は、イザヤ53章の主の僕の歌です。ここで「彼が担ったのはわたしたちの病」といわれています。

この主の僕は主イエスの前触れです。イエスはわたしたちの病と罪を背負って十字架にかかられたのでした。わたしたちも兄弟姉妹の苦しみと病に寄り添い担うよう招かれています。わたしたちは自分自身から出て、病気で苦しむ兄弟姉妹のもとに赴き、寄り添いながらともに苦しみを担うようでありたいと思います。

わたしたちは、忙しさに追われているために、・・・自分自身を無償で差し出すこと、人の世話をすること、自分は他者に対して責任があることを忘れがちです。(これは今年の「世界病者の日」の教皇メッセージで教皇様が言っておられることです。(教皇メッセージ、4を参照)

神はすべての人の健康を望んでおられます。健康は神の救いの恵みであり、神の霊の賜物です。聖書の言う「平和(シャローム)」は完全な健康を意味していると思います。

人間が平和で満たされる時、それは創造の完成の状態です。それは神の霊=聖霊による癒しと贖いを受けた状態です。

わたしたちはキリストの再臨により、わたしたちは完全にすべての悪から(罪、病気などから)解放され、キリストの復活の体に与ります。そのときが、霊的にも聖霊による平和に満たされた健康に与るときであると考えます。  

すべての人の救いと健康のために祈りましょう。

 

世界病者の日ミサ説教

2017年211

第一朗読  創世記31-19
福音朗読  ヨハネ91-12

(福音本文)

[そのとき]エスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 

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説教

 

みなさん、今日は211日、ルルドの聖母の祝日となっています。  
1858
211日、スペインとフランスの国境に近い、フランス側のルルドという所で、少女ベルナデッタに、聖母マリアがお現れになった日であると、カトリック教会が認めております。  
ベルナデッタという少女、良い教育を受けることができなかったので、ラテン語はおろか、フランス語もきちんと話すことのできない少女であったそうです。  
そのベルナデッタに、「わたしは無原罪の御宿りである」と、現れた貴婦人が名乗ったという出来事を、カトリック教会は公式に認めて、ルルドは、世界で最も有名で大切な聖所となりました。  

さて、この211日を、聖ヨハネ・パウロ二世は、「世界病者の日」と定めました。  
ヨハネ・パウロ2世ご自身は、即位されたときは、まだ50代と、大変健康で元気な方であったと思いますが、その後、パーキンソン病という難病にかかられ、晩年は、大変お苦しみになりました。  
そのヨハネ・パウロ二世が、「世界病者の日」を定めたということは、大変意味深いことではないかと思います。  

いま、読まれました福音は、ヨハネの9章、生まれながらに目の見えない人の話です。  
イエスは、その人の目を開いてあげました。問題は、どうしてその人は、生まれながらに目の見えないという、難しい問題を負わされていたのかということです。わたしたちは、ほとんど誰しも、生まれつき決められている、いろいろな、「欲しくない、思わしくない条件」というものがあります。少なくとも、本人は、「このようなことは嫌だ」と思うことがある。  
今日の福音の箇所では、どうして生まれながらに目の見えないのかということが話しの中心になっています。  
当時、「その人本人が罪を犯したのか」、「生まれる前に罪を犯すということは、よくわからない」、あるいは、「両親が罪を犯して、その報いが子どもに伝わったのか」等々といった具合にいろいろな考えや議論がありました。  
しかし、イエスの答えは、いまお聞きになった通り、「神の業がこの人に現れるためである」と述べるだけです。どうして、そのようになったのか。原因や理由は言われませんでした。「神の業が現れる」。別の言い方をすれば、「神の栄光が現れるため」ということではないでしょうか。  
生まれつき目が見えないということは、「視覚障害」という言葉で言い表すことができるでしょう。しかし、障害とは別に、わたしたちには、さまざまな「疾病」という問題があります。「健康とは何か」というと、大変難しい議論になるようです。  
考えてみれば、全く問題なく、健康な人というのは、そういるものではない。同じ人でも、長い生涯の間に、何かの困難や問題を背負うことになります。  
仏教では、人生の困難を「生病老死(しょうびょうろうし)」と、4つの言葉にまとめているようですが、病気の「病(びょう)」です。  
「生きる」ということは、誰しも、「病気にかかる」、あるいは、「心身の不自由を耐え忍ばなければならない状態になる」ということを、意味しております。人間は、どうしてそのようになるのか。  

「神様がこの世界を造り、人間をお造りになったこと」について、創世記が伝えておりますが、神がお造りになった世界は良かった。極めて良かった。まさに、極めつきで良いと、創世記1章が告げている。  
それなのに、どうしてこのような、さまざまな問題があるのか。この問いは、多くの人を悩ませてきました。戦争は、殺戮、そのような社会的な問題だけではなく、ひとりひとりの人間にとっても、多くの困難をもたらします。そのような状況の中で、カトリック教会は、原罪という言葉で、いろいろな問題を説明しようとしてきました。  

12月8日は、「無原罪の聖マリアの日」、昔、「無原罪の御宿りの日」といったように思いますが、「聖母は原罪を免れていた」という教えを、深く味わう日です。そして、今日は、無原罪の聖母が、ルルドにお現れになったことを記念する日です。  

さて、人間には、「弱さ、もろさ」という問題とともに、「罪」という問題があります。「罪」と「弱さ」は別のことで、弱いこと自体が罪ではありませんが、逆に、元気で健康であっても、分かっていて、「神のみ心に背く」、あるいは、「神のみ心を行わない」ということがあります。そちらの方が、「罪」といわれます。  
わたしたちは、多少とも、罪を犯すものでありますが、更に考えてみれば、人間の「もろさ、弱さ」というものを、痛切に感じないわけにはいきません。この人間の問題は、どのような言葉で言い表したらよいのでしょうか。  

今日の第一朗読は、創世記の3章でしたが、こちらから、いろいろな教会の先人が、原罪の教えを展開しております。「神と人間の間に生じた不調和」、平和が失われた状態は、更に、「人と人との間の不調和」、そして、「人と被造物、この自然界との不調和」へと発展し、更に、ひとりひとりの人が自分自身の中に、「調和が失われている」、あるいは、「調和にひびが入っている」と感じるようになる原因となったと、カトリック教会は説明しています。  

今日、211日、ここに集うわたしたちは、主イエス・キリストによって、わたしたちが贖われていることを、その贖いの恵みが、わたしたちの生涯の中に働いていることを、そして、生涯の旅路の終わりに、その贖いの完成に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
わたしたちは、「罪」からの贖いだけではなく、わたしたち自身の、生まれながらに背負わされている、そのいろいろな問題からの解放、そして、完全な解放に与ることができるという信仰を、新たにしたいと思います。  
それは、言い換えれば、イエス・キリストが、わたしたちの罪を背負って、十字架にかかってくださり、そして、復活された。その、イエスの復活の恵みに与ることを意味している訳です。  
わたしたちが背負っている、人間としての「弱さ、罪」、神の完全な解放への「信仰と希望」。それは、主イエス・キリストの復活の恵みに与ることができるという「信仰と希望」と結びついていると言えるのです。  

弱い私たち、そして、同じ罪を繰り返してしまうわたしたちでありますが、そのようなわたしたちを、温かく包み、癒し、贖ってくださる、主イエス・キリストへの信頼を深めて、今日のミサをお献げいたしましょう。

 

(注2) 「健康」の定義と言えば、世界保健機構の定義がよく知られています。

従来、WHO(世界保健機関)はその憲章前文のなかで、「健康」を「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

"Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

と定義してきた。(昭和26年官報掲載の訳)

平成10年のWHO執行理事会(総会の下部機関)において、

"Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity."

と改める(下線部追加)ことが議論された。最終的に投票となり、その結果、賛成22、反対0、棄権8で総会の議題とすることが採択された。しかしその後改正案は最終的に採択されるには至っていません。

 

(注3)生物学用語。受精卵または単為発生卵、あるいは無性的に生じた芽体、芽や胞子など未分化な細胞もしくは細胞集団から、種の一員としての生殖可能な個体が生ずることをいう。一方、これと対(つい)をなす概念に系統発生があり、生物の進化の道筋で、ある生物種が生じ系統として確立する過程をさす。個体発生は、細胞分裂により一定の数に達した細胞集団が、一定の秩序と広がりをもって配置され、同時にそれぞれの位置に応じた機能を果たすように分化することにより、独立した1個の生物体となる過程をいう。受精卵から出発した場合、この過程は胚(はい)発生の過程と、これが成長・成熟して生殖能力をもつに至る過程とに分けられる。無脊椎(むせきつい)動物では、後者は後胚発生とよばれ、1回以上の変態を経たのち成体となる。多くの脊椎動物では身体の成長と諸機能の成熟をまって成体となる。「個体発生は系統発生を繰り返す」というドイツの動物学者EH・ヘッケルの考え方は大筋において正しく、胚発生のある時期に、その種より系統的に古い種の形態的特徴が認められる。

2020年11月22日 (日)

裁きを受ける

王であるキリスト20201122

 

今日は、「王であるキリスト」の祭日です。主イエス・キリストは、その人類の歴史の最後の日、王として、わたしたちに対して最後の審判を行う、という教えが、今日語られています。
わたしたちは、それぞれ、自分の生涯の行いについて、王であるキリストから、裁きを受けなければなりません。その裁きの基準というのは何であるかと言いますと、4度も同じことが繰り返し言われています。「困っている人を助けたかどうか」という、愛の行い、慈しみの業が裁きの基準になっています。
「飢えている人に食べものを与える」、「渇いている人に飲みものを与える」、「着るものがない人に衣服を与える」、「病者を訪問する」、「寝るところがない人に宿をお貸しする」、「牢(ろう)につながれている人を訪問する」。この6つの善い行いをしたかどうかということが、最後の審判のときの裁きの基準になります。

フランシスコ教皇様は、いつくしみの特別聖年という特別な期間を設けられて、「わたしたちの神様は、いつくしみ深いかたですから、「たしたちも、主イエス・キリストに倣い、いつくしみ深い者でありなさい」とお教えになりました。そして、「いつくしみ深い行いとは何であるか」ということを、具体的にお話しになりました。
そのいつくしみのみわざには、7カ条ありました。もっとも、正確に言うと、14カ条になりますが、14をふたつに分けて7つずつ、身体で行う善いわざ、精神で行う善いわざとに分けました。身体で行う善いわざは、いま申し上げた6カ条と、7つ目に「死者を埋葬する」ことが加えられています。

そして、精神的ないつくしみのわざは、次の7カ条です。
「疑いを抱いている人に助言すること。」
「無知な人に教えること。」
「罪人を戒めること。」
「悲しんでいる人を慰めること。」
「人から侮辱されたときにゆるすこと。」
「煩わしい人を忍耐強く耐え忍ぶこと。」
「生者と死者のために祈ること。」 このようになっています。

「この14カ条を実行してください」と教皇様が言われたのです。

神様が、わたしたちにお望みになっていること、それは、いつくしみ深い者であるということです。そして、いつくしみ深い者であるかどうかということは、人間、心と体から成り立っているものでして、心と体は、はっきりと分けることができませんが、「心と体の両方を使って、毎日、いつくしみ深い者であるように努めなさい」という教えです。

最後の日、人類の歴史で言えば、主イエス・キリストの再臨の日、個人の歴史で言えば、人生の最後のとき、死ぬとき、わたしたちは審判をうけなければならない。「どれだけ、神様のいつくしみを実行したか」ということが、基準になります。そして、「飢えている人に食物を与えるということは、主イエス・キリストにして差し上げることと同じですよ」と言われました。神様自身は、飢えたり、渇いたりすることはありません。着るものがないから困るということはない。しかし、わたしたち人間は、世界中の現実を見れば、多くの人が、毎日、食べるものをきちんと与えられていない。着るものもない。今夜、寝るところもない。
そのような方がたくさんいらっしゃる。そのような人のためにするということは、主イエス・キリストにして差し上げることと同じですよ、と言われた。実に、胸に迫るようなお言葉です。

わたくしは、200093日に、東京大司教に就任いたしました。17年後の1216日に、次の大司教と交代いたします。
就任したときに、決意表明を行いました。それは、どのようなことであったかと申しますと、この東京教区という信者の共同体は、人々に開かれた、温かい、潤いのある、そのような教会になりたい。困っている人、苦しんでいる人、悩んでいる人、迷っている人、傷ついている人、落ち込んでいる人、人生の意味に戸惑っている人、寂しい人などが、自分の場所を見いだす、ほっとする、安らぎを与えられる、慰め、喜びを見いだす、そのような教会、そのような人々の交わりとなるように努めたいという内容です。
もちろん、既にそうなっているから、みなさんは信者になった。しかし、多くの人は、心の飢えを持っています。そのような人々に応える、そのような教会になりたい。そのために、わたしたち自身の間で、お互いに受け入れ合い、愛し合い、助け合う、そのような交わりが出来ていなければならない。もちろん、出来ていますが、非常に足りないと思う。
あのような人々のようになりたい。あちらに行けば、わたしは何か助けられる。そのように思っていただけるような教会になりたい。そのために、力を尽くしますから、みなさまも、どうぞ、助けてください。神様、この願いを実行できるように、わたしに力をお与えください。そのような祈りを献げました。

われわれは、すべて、いつか神様の前に出て、裁きを受けなければならない。お前はよくやったと言っていただけるような、自分でありたい。
大変微力であり、罪深い者でありますが、それでも、神様のいつくしみに信頼し、少しでも神様のいつくしみを実行する者として、歩んで行きたいし、皆さまも、そうしていただきたいと、心から願っています。

日本の教会は、400年、500年と長い歴史を持っています。なかなか、わたしたちの信仰が、人々に伝わっていかない。他方、自分がキリスト信者であると自覚していない人であっても、主イエスが教えているような善いこと、困っている人を助けるということを、多くの人々が実行しています。教会に来ない人の方が、かえって、よくそのようなことをしているかもしれない。人間の価値はどこにあるのかというと、どれだけ、神のいつくしみを実行したかどうかというところにあります。
ですから、わたしたちは、もっと心して、神のいつくしみを実行する者となりますよう、聖霊の助けを願いましょう。

イエス・キリストという名前を使わなくても、イエス・キリストがおっしゃっているいつくしみのわざを、どうか、日々実行するように心掛けていただきたいと思います。

 

2020年11月20日 (金)

「病気」について 最終版

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2020年11月19日 (木)

原罪について考える

コラム(挿入欄) 「原罪」

 

「悪について、その12、『病気』について」のなかで次のように述べました。

 

『カトリック教会のカテキズム』では「原罪」について次のように述べられています。

原罪とは原初の義と聖性の欠如です。最初の人間アダムとエバは神との正しい関係にあり、神の本性である聖性に参与していました。しかし神に背いたためにその義と聖性を失い、人間の本性は大きな傷を受け、無知と苦と死と罪への傾き(欲望)の支配を受けるようになり、この本性の傷はすべての人間に生殖とともに伝えられています。(『カトリック教会のカテキズム』122-121㌻参照。原罪については後程あらためて取り上げます。)

 

そこで、今回は『カトリック教会のカテキズム』の説明をさらに敷延して、改めて「原罪」についての教会の公式見解を復習します。

原罪(ラテン語でpeccatum originale)は二つの意味に大別されます。

まず、現在は人類のもとの罪、最初の罪です。それは創世記第3章が述べる、人祖アダムとエバが犯した罪を指しています。創世記三章の堕罪物語、つまりアダムとエバが神の命令に背いて禁断の木の実を食べた罪を指しています。これを始原罪(ラテン語で、peccatum originale originanns)と呼び、人祖が自分の意志で犯した罪である自罪です。

次に、すべての人類が被っている罪の状態を指す「原罪」があります。これは自罪ではなく状態としての罪であり、普通「原罪」と言えばこちらを指しています。

人は誰でも神の祝福のない罪人の状態に生まれてきます。初めから神の命を持たず、永久の幸せに与る可能性のない状態に置かれています。自罪を犯すことが避けられないし、悪や不条理に苦しめられ、生まれながらに神との不和に状態にあります。このような状態は自罪でない状態の罪,始原罪によって生じた原罪状態(peccatum originale originatum)です。これは、親から子へと生殖行為によって人間性とともに引き継がれる世襲罪ないし遺伝罪(peccatum hereditorium)とされます。

このような、人類がみな陥っている罪の状態は神が創造の時に意図した結果ではありません。それは一組の男女人祖アダムとイブの神への不従順によって引き起こされたとされています。人祖は成聖の恩恵により超本性の賜物(dona superunauralia)に恵まれ、罪の汚れなく、神の命に永遠に与る幸せな存在に置かれていました。また人祖はさらに、人間本性を補い、より完全にする外本性的賜物(dona praeternauralia)と呼ばれる特別な賜物である原初の義、すなわち不死の肉体、無苦、本性的欲求の完全な統御を与えられていたのです。これらの賜物は人祖から子孫に伝達されるはずであったが、神への不従順の罪の結果、超本性的恩恵と外本性的賜物である原初の義を失い、神との不和の状態となり、肉体の死などの苦しみを体験するようになりました。本性の欲求を制御することが困難となり、理性と悟性は鈍り、意志は弱くなり、罪への強い傾きを持つようになったのです。しかもこの状態は人類の生殖行為を通してすべての子孫に伝わることとなった。とはいえ、人間は善と真理への能力を完全に喪失したわけではなく、真の善を選ぶ自由は不完全ながら残されている。そして、主イエスと聖母マリアだけがすべての原罪の汚れから解放され存在であり、すべての人類の救いの希望の源となったのでした。

人はイエス・キリストの救いのみ業によってこの原罪状態から解放されます。それは通常、洗礼(血の洗礼との望みの洗礼を含む)を受けることによって人は神との和解の恵みに与ることによります。洗礼を受けた者は、罪と罰が赦され、神の子として生まれ変わり、成聖の恩恵である超本性的恵みを受ける。しかし、かつて享受していた外本性的恩恵を取り戻すことはできなかった。自罪を犯す傾きと弱さ、本性の欲求の無秩序さ、死・病気をはじめとする種々の苦悩を免れることはできない。とはいえ、苦悩はもはや罪の罰ではなく、神の向かうための試練、功徳を積む機会、自己を浄める機会、キリストの学びimitatio Christiの機会となる。

原罪の根拠となる聖書の箇所は主として以下の通りである。

ロマ書 2-3

創世記3

詩編51

トリエント公会議は第5会期(1546)において、原罪についての教理決定が行われましたが、その内容は、実質的には、カルタゴ公会議(418)、オランジュ公会議(529)の原罪論を確認したものに過ぎませんでした。これらの古代の公会議は聖アウグスチヌスのペラギュース派との論争の過程で形成されたものであったのです。

この公式見解は第二バチカン公会議後も維持されているが、種々の批判と疑問を受けています。

 

そこで以上の公式見解を踏まえながら、「原罪」についての小生の個人的見解・感想を記します。(注1)

 

1.教理の決定と表現

教理の決定と表現は、その必要が生じたときの状況、その場所の文化と言語、その時代の世界観、通念などから多大の影響を受けます。「原罪」の教理はアウグスチヌスの強い影響下に形成されました。当時の西ローマ帝国衰亡の状況とアウグスチヌス個人の信仰歴を考慮に入れなければ、当時の「原罪論」を理解することは困難であると思います。アウグスチヌスは自己の個人的性体験の問題に苦悩したと伝えられています。彼は自分の情欲concupiscentiaの問題を強く意識するあまり、あたかも情欲concupiscentia が原罪状態の本質であると考えたようであります。(2)

もちろん現在においても「性欲」の問題は重要です。「情欲」という言葉をキーワーズにするのではなく、現代における性の在り方から原罪を考察する必要を感じます。

 

2.創世記第1,2,3章の解釈の問題。

第1章は祭司伝承に属し、第2,3章は主(ヤーウェ)伝承にぞくすることが最近の聖書学者の通説になっています。問題は二つの伝承の関係です。現在何となく考えられている解釈は、神の救いの歴史を、創世記1書、2章、3章の順に展開したという枠組みの考え方です。そうではなく、第2章、3章の主(ヤーウェ)伝承のほうが先に形成されたのであり、2、3層は人類創造の経過を述べています。第1章は神の救いの歴史の総括と結果を聖書の初めに述べていると考えらます。神は自分の創造の働きの結果を見て「極めて良い」(131)とされました。この箇所は、あたかも神はまず創造をいったん全部し終えたかのような印象を与え、そのあと第23章の堕罪物語が始まったような印象を与えていますが、実はそうではありません。神は自分の創造の完成を見て、「極めて良い」とされたのであると思います。ところが通常、神は救い歴史の初めにすべてを創造したが、自由意志を濫用したが神に背いたために、この世界に悪が入り、悪が今なお支配している部分がある、と考えられています。そうなると、どうしても「神義論」の問題にぶつかってしまうのです。神が創った完璧な世界になぜ悪が存在するのか、という疑問が生じるのです。そこで、創世記で神が行った創造の御業は完璧に善だったがそれを悪くしたのは神ご自身ではなく、神の作品である人間である、と解釈せざるを得なくなったのです。しかしそうではありません。神の創造の技が完璧に善であるのはその完成した状態野ことであり、そこの至る途中はin fieri 未完成な状態にあります。1章は人間の創造、すなわち124-28節は人間の創造の結果だけを非常に簡潔に述べたものです。第1章の祭司伝承はアダムとイブの物語を省略しているのであり、124831の中に第2章、3章のアダムとイブの物語がはめ込まれてしかるべきですが、最初に結論だけをのべたために、第2章は入りませんでした。本来、第2、3章の堕罪物語はこの12428のなかにはめ込まれるべきです。

創世記第2、第3章の物語の歴史性を問題にする必要はありません。これは歴史的事実でなく、いわば神学的真実の物語であり寓話であります。

楽園の中央に一本の木があったと言われています。(「いのちの木」とも「善悪の 木」とも呼ばれているが、同一のことと思われる。)「善悪の知識の木から決して食べてはならない、食べると必ず死んでしまう」(創世記216-17)と神は言われた。この園の中央に生えている木は神の意志そのものを象徴しています。人は自由を与えられましたがその自由は神のもとに置かれた自由であり、神こそが善悪を決める最終の基準です。楽園は大昔どこかに存在した地上の理想郷ではなく、いわば人間各自のあこがれと希望の存在する心の原風景であると言えるでしょう。(『カトリック教会の教え』51㌻参照)

 

しかしバビロン捕囚の悲惨な体験をした創世記の作者は、信仰を奮い立たせ、希望をもって、神の救いの歴史の到達点を、聖書全体の冒頭において、明確に展開していると考えられます。

もちろん旧約の民はイエスの十字架による贖いと復活を知りませんでした。しかし祭司伝承の記者は霊感を受けて、世のわりに現出する世界を聖書の巻頭において記述し、わずか一章のスペースで、救いの歴史全体を述べました。「極めて良い」という結論の出る前に実は長い救いの歴史が展開しているのです。今現在も神は救い御業を行っています。神は時間の支配を受けません。神にとって既に結果は見えているというか、実現しているのでしょうが、わたしたち人間の目には、神の創造の結果は隠されています。しかし、創造の完成はすでに黙示録が言っている通りです。

   

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。(黙示211-6)

 

「新しい天と新しい地」ということばが重要です。ペトロの手紙で次のように言われています。

  

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

(一ペトロ38-13)

 

同じく、イザヤ書も見なければなりません。

  

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。

     (イザヤ6617-22)

イザヤ預言者と黙示録の作者が言っている「新しい天と新しい地」とは、創世記131が述べている「きわめてよい」世界のことであります。

 

主はペルシャ王キュロスについて次のように言われました。

  

主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし/青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である、と。わたしの僕ヤコブのために/わたしの選んだイスラエルのために/わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが/あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで/人々は知るようになる/わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。

(イザヤ451-8)

 

創世記の冒頭を想起しましょう。

初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

(イザヤ11-5)

神が光を創造して光と闇を分けられた前にすでに闇が深淵の面にあって、神の霊が働いていました。神は霊を通して闇を消滅させ、神の望む秩序を実現します。実は神は今も闇を滅ぼして光をもたらすという創造の働きを行っているのです。

 

主よ、御業はいかにおびただしいことか。

あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。

地はお造りになったものに満ちている。

同じように、海も大きく豊かで

その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。

舟がそこを行き交い

お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。

彼らはすべて、あなたに望みをおき

ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。

あなたがお与えになるものを彼らは集め

御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。

御顔を隠されれば彼らは恐れ

息吹を取り上げられれば彼らは息絶え

元の塵に返る。

あなたは御自分の息を送って彼らを創造し

地の面を新たにされる。

    (詩編10424-30)

 

実に神は、自分は「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」と(イザヤ457)神の創造の結果であると言いうのは驚くべきことです。

宮原氏の次のことは傾聴すべき重要な指摘です。

公式教説においては神によって創造された完全な世界がまずあり、これが人祖の始原罪によって混乱に陥れられたが、救い主はこれを再び原初の完全状態に回復させる、という復元的・回帰的救済思想が支配している。だが聖書は本来完全な救いは未来のものとしてこれを待ち望むという直線的救済思想をとっている。救いは過去の完全状態の復興ではなく、未来において実現を約束されている全く新しいものとして、希望の対象である。この観点から「原罪の本質」をどう把握し提示し直すかも今後の「原罪神学」の重要な課題であろう。

(新カトリック大事典、原罪、宮川俊行)

 

3.公式教説についての問題・疑問点

  1. 聖書の歴史的・批判的研究の成果にかんがみ、ローマ書5章、創世記23章によって以上の公式見解――原罪の遺伝的本質、原初の義、外本性的賜物、アダムの堕罪の物語の歴史性を基礎づけることに無理がある。
  2. 人類一元説は科学的に証明できない。
  3. 原罪はアウグスチヌスの個人体験と幼児洗礼という当時,一般化していた習慣を背景に議論され決定されたことを今日配慮しなければならない。
  4. 遺伝罪なる考えは今日の通念から受け入れがたい。
  5. 外祖アダムとイブに、外本性的賜物や始原罪を犯すに足るペウソナ的成熟が考えられない。
  6. 人祖の罪の罰を万代の子孫に及ぼすという神は、イエス・キリストに依って啓示された愛とゆるし、慈しみの神の像と矛盾する。

 

「原罪の神学」は教会の普遍の真理を維持しながら、現代人に理解されるような表現と説明をしなければならない。

 

4.原罪論の本質は何か。

 

!)神はすべての人が救われて真意を知るようになることを望んでおられます。(一テモテ24) 自罪を犯さない幼児はもちろんですが、幼児を含めて人は例外なく誰でも救いを必要としています。ところが、すべての人類は、罪に向かわせ、自己を破壊する決断へと向かわせる非常に強い悪の力のもとに置かれているのです。それは、人類が犯した自罪の蓄積が『世の罪』としてすべての人類にのしかかって来ているからです。人は自分の意志によらずにそのような悪の世界に呼び出されます。誰もこの世に生まれることを自分では拒否できません。その悪とは、種々の要素の総和として、例えば、遺伝・雰囲気・環境・圧力・刺激・誘惑・伝統・社会構造・文化などの総和としての『世の罪』としてこの世を支配しています。

人間は外からそのような攻撃にさらされているだけでなく、人間の内側からも攻撃されています。人間の心は悪に傾き、たがいに悪を誘いあい、苦しめ合い、不幸に陥れ合っているのが現状であいます。このような現状、『世の罪』と「悪への傾き」は、人類が、個人としても全体としても神から離れた状態にあり、神からの救いを必要としていることを意味しています。

2)このような人類の現実を神はどう見ているでしょうか。神は決してこのような現状が起こることを意図して人類を創造したのではなく、現状を肯定しているわけではありません。神は非常に不満ながら一時的に現状を耐え忍んでいるに過ぎないのです。この神の苦しみは十字架のイエスによって現わされたのでした。

3)神は最終的に歴史に介入して完全に悪を滅ぼします。この御業はイエス・キリストを通して、そして、キリストに依って実行され、すでに決定的実現過程が進行していますが、その完成は終末時の新しい世界の創造の完成の時においてであります。この時人類は完全に悪の支配から解放されます。現在その完成へ向かうべく、聖霊がその働きを進めています。聖母マリアはその完成の先駆けであり、その生涯のはじめから原罪の汚れを免れていたのです。

 

5.生殖による遺伝と『世の罪』

 

原罪論の問題点は、「親から子へと生殖行為によって人間性とともに引き継がれる世襲罪ないし遺伝罪(peccatum hereditorium)である」という点にあります。

原罪は生殖geneationによって次の世代に伝えられるという教えは多くの人にとって受け入れがたいのではないでしょうか。問題ないという意見もあります。「生殖」とうことばを単に生物学的な意味にだけにとらなければ問題はない、と論者は言います。

説明の要約は以下の通り。

人間は単に両親の生物学的生殖行為によってだけ生まれるのではない。人はペルソナとして成熟する過程で、両親から、愛と配慮、教育、家庭環境など既存の諸条件・要素を受け入れる。生殖はより人間的な意味で理解されるべきである。・・・原罪は複合的な過程――生物的成長は単にその一部に過ぎないーーで、両親から子どもたちに伝えられる。この過程によって、子どもたちは、人間生命に対して準備されたものとなる。・・・・・人間は不可避的に罪ある環境に産まれる。また、人間は、罪から深刻に影響されないでは、また、自分自身罪人とならないでは、成長し、責任を引き受けるーーこれが「生殖」ということであるーーが出来ない。このことを強調することが原罪の死絵にかなっている。((既述の石脇論文より) 

この説明の趣旨にはあながち全面的に否定はできない。しかしどうかんがえても、「生殖」という行為を中心に据えていることに違和感を持たないわけにはいかない。どうしても生殖自体への否定的な先入観が背後に支配しているように感じてしまう。人間の問題は自分の性を正しく相応しく制御することが難しくなっているということにある。この状況を原罪と言っても過言ではない。犯罪の多くは性に起因しているのも事実である。カトリック教会も現在聖職者による性虐待事件に直面し対応に苦慮していることは否定できない。問題は誘惑、困難、ストレス、課題への対応を求められる人間と社会が、そのための適応能力において欠損状態・不足状態にあることである。いわば人間には『世の罪』という悪に対する免疫が出来ていないこと、無防備であること、無力であり、そのような状態を「原罪」と呼ぶことが出来る。換言すれば、原罪とはすべての人間性が不可避的に負わされている弱さと脆さであり、その弱さと脆さとは、人類が蓄積してきた世の悪である『世の罪』に対する弱さ・脆さであり、『世の罪』と戦う力の弱さ、脆さであり、『世の罪』に対して無力であり、容易にその悪の力に屈してしまう現状をさしているのである。

原罪を説明する鍵の言葉は、〈生殖〉あるいは〈情欲〉ではなく、悪への抵抗力の不足と弱さでなければならないと思う。注3

 

 

注1

以下の記事に大いに啓発されたのでここで謝意を表したい。

宮川俊行 げんざい 原罪 『新カトリック大事典』の項

石脇慶總 「『現在論』についての一考察、南山宗教文化研究所・研究所報 第4号 1994年」)

2 注1の石脇論文参照ください。

3 恩師ペトロ・ネメシェギの説明参照。(出典は現在の時点では不明。後日明確にしたいが、筆者が神学生として原罪論の講義を受けた際の配布されたプリントである。)

2020年11月16日 (月)

「死」について考える

悪について、その13 「死」について

 

人は必ず死ななければなりません。今だかって死を経験しなかった人はありません。人は死んだらどうなるのでしょうか。死後の世界はあるのでしょうか。死とは何でしょうか。
この問題を正面から大学の公開講義の教材として取りあげられ、その膨大な記録が大作として出版されました。イェール大学教授シェリー・ケーガンの「『死』とは何か」(柴田祐之[しばたやすし]訳、完全翻訳版、文響社)であります。大変大分な内容であり、「死』の問題を哲学者として幅広く詳細に論じています。
ケーガン教授は、死後の世界を信じていないし魂の存在を認めていません。大変多くのスペースを使ってプラトンの哲学を論じ、ソクラテスやプラトンが説いた魂の存在と不滅を否定しています。人生は身体の破滅により終了しました。身体の死がすべて終わりです。死後の世界は存在しません。身体の復活はありません。人の生涯は地上の生涯がすべてです。だから与えられて時間を自分の人格の満足と自分の幸福のために活用しなければなりません。死自体は悪ではありません。もし人が死ぬことなく不死でなければならないとしたらその方が不幸です。死が悪であるのは地上の生涯で得べき善を剥奪されるからです。20歳で亡くなる人は20歳以後受けられたはずの人生の喜びを剥奪されると思うから死は悪と感じられます。しかし、人生から何等の喜びや楽しみを受ける可能性が封じられている場合、自殺でも選択肢として考えることは理にかなったことです。
このようにケーガンは死後の世界を前提としていないのでその人生観も地上の生涯だけが人生の価値、喜びの対象であり、その後のことは、なにしろ、人は死によって存在しなくなるなだから。考える必要はない、という結論になります。ケーガンの主張の要約は次のようになります。
「大半の人は、生と死の本質に関する、ある一連の信念のすべてを、あるいはほとんどすべてを受け容れる。すなわち、わたしたちには魂がある。何か身体を超越するものがあると信じている。そして、その魂の存在を前提として、私たちには永遠に生き続ける可能性があると信じている。言うまでもなく,死は究極の謎であることに変わりはないが、不死はそれでもなお正真正銘の可能性であり、その可能性を私たちは望み、ぜひ手に入れたいと思う。というのも、死は一巻の終わりであるという考えにはどうしても耐えられないからだ。・・・人生は信じがたいほど素晴らしいから、どんな状況に置かれても命が果てるのを心待ちにするのは筋が通らない。死なずに済めばどんなによいか。だから、自殺はけっして理にかなった判断にはなりえないと考えるわけだ。わたしはこれらをすべて否定する。この一連の信念は広く受け入れられているかもしれないが(ほぼ始めから終わりまで)間違っていると主張してきた。
 魂など存在しない。わたしたちは機械に過ぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。わたしたちは人格(・・・)を(・)持った(・・・)人間(・・)だ(・)。だが、それでも機械に過ぎない。
そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるということと比べて、特別に不思議であるわけではない。」(726-727㌻)

 

800㌻近くの及ぶ大著の要点はこの引用の内容に尽きるように思います。人間は機械に過ぎないのです。人格という主体の活動である精神的な種々の活動を行いますが、身体の機能が停止すれば存在も消滅します。まことに唯物的な人生観です。
キリスト者はそれに対してどう考えたらよいのでしょうか。

 

カトリック教会における「死」は次の葬儀ミサ説教に、端的に表れています。
      
ヨハネによる福音(14・1-6)が読まれました。主イエスは言われます。「父の家には住むところがたくさんある。わたしはあなたがたが住むところを用意する。わたしは 道、真理,命である。わたしを信じる人は誰でも父のもとに行くことができる。」
今日のミサの叙唱で司祭は唱えます。
「信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」
この叙唱の言葉の中に教会の「死」の理解が端的に表現されています。
死は地上における生活の終わりであって亡くなった人の滅びではない。同じ固有の人間が存続する。死は人が新しい状態へ移される入り口である。新しい状態とは天の父の家へ移行することである。天に備えられている家へ向かう新たな旅路の出発である。その道案内は主・イエス・キリストである。父のもとへたどり着くための第一の条件はイエス・キリストを信じるということである。わたしたちは地上に教会に残っている。故人は今、浄めの教会へ入られた。浄めの教会へのつながりは「祈り」である。わたしたちは祈りをもって西さんの浄めの旅路を助けるのである。

 

「死」によって死者の生涯が完結したのではありません。「死」は新しい状態、新しい命へ入る門であります。「死」によって死者は神への道の新しい段階に入ります。神のもとへ旅立ちます。地上に残された者どもは祈りと犠牲をもって死者の旅路を助けます。神の前に立つためには死者は相応しい浄めを受けなければなりません。浄めは既に地上で始まっています。天の父のもとで浄めは完成します。罪人が受けるべき浄めを「煉獄」ということができます。
イエス・キリストはすべての人の救いのために天の父への道を開いてくれました。イエスはすべての人と父である神の間に立っている、仲介者、道、真理、命です。誰もイエスによらなければ父のもとに行くことはできません。そのイエスに取り次いでくれる信仰の先人が沢山いると信じています。その代表は聖母マリアです。カトリック教会では毎日聖母へ祈り、「今の、死を迎えるときも神に祈ってください」と唱えています天の父のもとへたどり着いた先人は、今度は天上で、地上の罪人であるわたしたちのために祈ってくださいます。
およそカトリック信者はこのように信じています。

 

カトリックの司祭・司教は亡くなった方々のために毎日祈っていますが、とくに葬儀においては、個人を忍び、個人と遺族のために特別に意を用いる説教を行います。注として以下にその一例を引用します。

 

カトリック教会の「死」についての教えは『カトリック教会のカテキズム』に於いておよそ次のように述べられています。

 

1. 死者は復活されたキリストとともに永遠に生き、世の終わりに体の復活に与る。「世の終わり」とは何時か、ということは地上の人間には分からないが、死を過ぎ越す人間はその時に「世の終わり」の世界に入るとも考えられる。
2. 前回述べたようにキリスト者は体の復活に与り、キリストの復活の体のように変えられる。
3. 使徒たちはキリストの復活の証人であったので、使徒の建設した教会の信者はみなキリストの復活の証人である。
4. キリストの復活を信じる者はすでの地上において既に復活の恵みの与って合っているのである。
「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。(コロサイ2・11-15)

 

従って、キリストともに天の父の家へ歩む者はつぎのようにしなければなりません。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3・1-17)

 

さて、非常に曖昧なことばに「霊魂」があります。
『カトリック教会のカテキズム』では、
「世を去る時つまり死ぬときに霊魂はからだを離れ、死者の復活の日に、自分の体に再び合わされるでしょう。(1005)とあり、また「死によって霊魂は体を離れますガ、・・・」(1015)とあり、死とは霊魂が体から分離すること、とされています。そしてこの「「霊魂」は、英語ではsoul,
ラテン語原文では anima (Catechismus Catholica Ecclesiae)です。Anima は普通、魂、と訳されます。霊魂という言葉はあいまいです。霊と魂の両方をさすのでしょうか。
ちなみに一般の辞書ではどのように解釈されているでしょうか。
【霊魂】 その人が生きている間はその体内にあって、その人の精神を支配し、死後のいろいろな働きをすると考えられるもの。<『新明解国語辞典』)
 【霊魂】(soul;spirit)➀肉体のほかに別の精神的実体として存在すると考えられているもの。たましい。②人間の身体内にあって、その精神・身体を支配すると考えられている人格的・非肉体的な存在。病気や死は霊魂が身体から遊離した状態であるとみなされる場合が多く、また霊媒によって他人にも憑依しうるものと考えられている。性格のことなる複数の霊魂を認めたり、動植物にも霊魂が存在するとみなしたりする民族もある。
それでは、聖書では「霊魂」をどう考えているだろうか。
まず、「霊」と「魂」を分けて考えなければならない。

 

「霊」 多様な意味で受け取られている。言語は、ヘブライ語ではr( )uah ルアッフ
ギリシャ語ではpneuma プネウマ、で、風、息、人間の霊、神の霊など種々の異なった意味を持っている。霊とは常に、一つの存在のなかにある本質的なものであるが、つかみことのできない要素を表している。それはある実体を生かすものであり、欲せずともその実態から自然に発散してくる物であり、けっきょく、実体そのものであるが、自らは制御することのできない何ものかである。
旧約では、ヘブライ語の霊は、「風」であり「息」であります。人間の息は神から来て(創世記2・7;ヨブ33・4;)、死とともに神のもとへ返っていく。(ヨブ34・14-15;コヘレットの書12・7;知恵の書15・11)人間の霊は人間の肉体を動くもの、生きたものとし(創世記2・7)、人間の意識、精神を表現する。また、人間には、神からの霊以外の忌まわしい霊が影響を与えることがある。
新約時代になって、イエス・キリストによって神の霊によって悪霊を追放さえることになった。
新約聖書は、旧約聖書を受け継ぎ、人間は体・魂・霊からなる複雑な存在であると考える。(一テサ5・23)。そしてこの霊は、息や命と不可分であるある力であり(ルカ8・55、23・46)、たびたび肉と戦っている(マタイ26・41;ガラテヤ5・17)。新約における信仰者のもっとも重要な体験は、人間の霊のなかには、これを新たにし(エフェソ4・23)、これと一つになって(ロマ8・16)、子としての祈りと叫びをあげさせ(8・26)、これを主と交わらせて主と一つに霊にする(一コリン6・17)神の霊が宿っていうということである。(聖書思想辞典、三省堂、霊の項より。)
一方、魂の項を見てみましょう。
魂は人間存在全体を構成する一つの”部分“ではなく、命の霊によって生かされている人間全体を指す言葉である。
ヘブライ語の原文はnephes ネフェシュ、ギリシャ語ではpsuche プシュケです。ギリシャ人は、息を,物質的な体とは対照的なほとんど非物質的なものと考える唯心論的な見方を持っている。しかしセム人は息を、そえを生かしている体とは不可分なものと考える。魂は生きている人間そのものを指す言葉である。ここから息は”命”と同一視される。魂はまず地上における有限の命を指す。次に永遠の命を意味するようになる。「自分の魂を救おうと望むものはそれを失い、わたしのために魂を失うものはそれを得る。」(タイ16・25;マルコ6・35;ルカ9・24.マタイ10・30;ルカ14・28;17・33;ヨハネ12・25参照。)
命は人間にとって最も大切なものであるので、人間そのものを指す。さらに魂は人間の自我を表す。愚かな金持ちのたとえ話で言う、「魂よ、おまえは長い歳月を過ごせるだけのよい物をたくさんたくわえている。さわ、休んで食べたり飲んだりして楽しめ」というときの魂がこの自我である。
魂は命の徴で春が命の源ではない。ここにセム人とギリシャ人の間にある大きな相違点がある。ギリシャ人は、魂を霊の世界と同一視しエイルが、セム人にとって命の源は”神の霊“そのものである。神が命の息をその鼻に吹き込むと人は生きたもの(創世記2・7)となったのでる。すべての生き物の中には「命の息」(7・22)があり、これがなければ生きてはいられない。「あなたがその息を取り去れば、彼らは死んでちりに返る。あなたが息(霊)を遣わすと彼らは造られる。」(詩104・29-30) 命の徴であるnephesと命の源であるruah は人間のなかでは互いに区別されている。したがって、洗礼によって得た”霊的な状態”から、”地上的な状態”に逆戻りした信仰者をさす”魂だけの者”(一コリ2・14, 15・44;ヤコブ3・15) という表現がみられることになる。
霊は「死ぬ」のではなく神に”返る”と言われる。(ヨブ34・14-15;詩31・6;コヘレット12・7)しかし魂は、骨や肉のように死んだり(エゼキエル37・1-14; 詩63・2;16・9-10; 民数記23・10: 士師記16・30;エゼキエル13・19;詩78・50) 魂は陰府(よみ)に降り、影のような死者の国の生活をする。要するに魂は「もういない」(ヨブ7・8,21;詩39・14) のである。ところでよみに下った魂が体を持たずに生きているわけではない。魂は体なしには自己表現できないものであり、それ自体では独立した存在ではないからである。(『聖書思想辞典』魂の項より。)
聖書思想辞典の「霊」と「魂」を読んでも、人の死後の状態は明らかにはなりません。

 

人の死後の在り方についてどのように考えたらよいでしょうか。如何に、『カトリック教会の教え』(カトリック中央協議会、第一部 キリスト者の信仰、上智大学教授 岩島忠彦著、より)をもとに、わたくし個人の考えを述べてみます。

 

私審判
人は誰でも人格として、そして身体として、その生涯を、責任の問われる時間として過ごします。人は単なる精神ではなくまた肉体だけでもありません。人格として、自分の責任において判断、決断し、実行し、あるいは実行しないという人生を送ります。生すべての作為と不作為にたいしてわたしたちは神の前に責任を問われます。各人が受けるとされる「私審判」は各自が死後神に対して自己の生涯の総決算をすることを意味しています。各自はその身体を通して、どのように、意味ある年数と時間を過ごしたか、神の教えである愛をどのように実行したのか、しなかったのかが明らかにされ、その結果に対してそれにふさわしい報いを受けることになるのです。

 

体の復活
人が体の機能を果たせなくなった時が地上の生涯の終わりであり、その時が人間の「死」であります。人は死後どうなるのかということについて、大別して二つの考え方があます。一つは素手の述べた唯物的な考えです。人は体の消滅と共にその存在も精神も消滅します。死はすべてにとって、人のすべての終わりを意味しています。
もう一つに考え方は、人は体が滅びてもその人自身は死後も存在する、という考え方です。この考え方はさらにいくつかに分かれます。人間の霊魂は不滅であるので、誰でも、霊魂として永遠に存続するという考え方です。ヘブライ思想は、体なしの人間の存在の存続という考え方を持っていません。それではキリスト教になってこの点はどうなったのでしょうか。今一つ不明な点が残ります。
死者は最後の審判、つまり公審判まで、魂だけで存在するのでしょうか。それとも、ぼんやりしていてもなんらかの肉体を備えた魂としてどこかで眠りにつくのでしょうか。あるいは神から頂いたその人の霊だけが残り、その霊は何等かの体、幽体のような状態として,最後の審判に時まで、古聖所(のようなところ)にとどまるのでしょうか。
わたしたちは地上の時間と空間の中でしか思考できません。死はわたしたちを、時空を超えた世界に招きます。死の時わたしたちはいわば同時に、私審判と公審判を受け、すぐにキリストの復活に与ることになるのです。私審判と公審判は同じ出来事の二つの面、個人に完成と世界の完成とを意味しているのです。ですから人は死とともに復活の世界にあげられ、復活の体を受けることも可能であると考えます。

 

天国と地獄
わたしたちは天の父のもとにたどり着き、顔と顔とを合わせて神を直観できるようになる(一コリント13・12)のであり、その時「神がすべてにおいてすべてとなられるのです。」(一コリ15・28) その時、人は真の自分となり、他の人とは違う自分独自の存在を確認し享受します。
ところで「地獄」は本当にあるのでしょうか。神は愛であり、すべての人が救われて神を知ることと望んでいます。(一テモテ2・4) ですから、地獄は存在しない、と考える人もいますが、神は各自に、神の愛を受け入れるか拒むかを選択できる自由を与えましたので、教会は地獄の存在を否定はしておりません。
それでは「煉獄」についてはどうでしょうか。既に述べましたが、人は自分の人生に責任を持たなければなりません。果たすべき役割を十分に果たせなかった場合、そのお詫びの償いをしなければならないと考えます。そのお詫びと償いはあらかじめ地上で行うことができるし、他の人が変わって行うことも可能であると教会は考えてきました。秘跡を受けること、免償を受けることもその赦しと償いになると考えられるのです。

 

 

(注)野坂恵子(野坂操壽)葬儀説教、2019年9月3日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

わたしは神に一つのことを願い求めている。
生涯、神の家をすまいとし、
あかつきとともに目ざめ、
神の美しさを仰ぎ見ることを。

 

わたくしは野坂恵子さんの生涯を思うときにこの詩編27の祈りの言葉を深く想いま す。野坂さんは「美しさ」を探し求め「美しさ」を表わし伝えようとされたと思います。その美しさとは筝曲によって表し伝える美しさです。
すべての美しさの源は天地万物を創造された神にあります。神の美しさは種々の形で、いろいろな道を通して現れています。芸術家は自分の専門分野で神の美しさを表現します。美術家は自分の作品である絵画、彫刻等を通して、音楽家は、作曲、演奏等を通して神の美しさを再現します。野坂さんは音楽を通して、演奏を通して、そして筝曲演奏を通して神の美しさを再現し伝達されたとわたしは考えます。
野坂さんはその生涯の間にキリストの福音に触れる機械がありました。野坂さんはヨーロッパの文化に根を下ろしたキリスト教の信仰表現を通してイエス・キリストとの出会いを経験したのであります。カトリック教会の信仰告白の代表が「クレド」であります。そのクレドと筝曲の間にある深いつながりに注目された方が皆川達夫先生でした。
ある日曜日わたくしは千葉県の教会でミサをあげるためラジオを聞きながら自動車を運転しておりました。たまたま自動車での移動時間が皆川先生のNHKの音楽の泉の放送の時間と重なりました。そのときの皆川先生のお話はとても興味深いものでした。その内容はすでの皆さんごぞんじでしょうが、筝曲の「六段」とカトリックの典礼の信仰宣言「クレド」はそのメロディーが基本的にはつながっている、という趣旨であったと思います。
さて2012年4月8日のこと、その日はその年の復活祭でしたが、野坂恵子さんはわたくし岡田大司教の立ち合いのもと、カトリック麻布教会において、カトリックの信仰を告白され、カトリック教会の一員となられました。
その翌年の2013年11月4日、野坂さんは東京カテドラル聖マリア大聖堂で、チャリティコンサートに出演してくださいました。その日はわたくしの司祭叙階40周年の記念の日であり、わたくしが理事長をしていた二つの公益法人のために野坂さんは喜んで奉仕の演奏をしてくださったのであります。この日の献金はすべて二つの団体、『公益財団法人・東京カリタスの家』と『社会福祉法人ぶどうの木・ロゴス点字図書館』に贈与されたのであります。
さて、神は御自分の住まいへすべての人を招いておられます。神の住まいとは復活したイエス・キリストのおられる世界であります。イエスは十字架の死を通して、罪と死に打ち勝ち、神のいのち、神の麗しさ、神の輝きの世界に入りました。そしてご自分の霊である聖霊を送り、復活の恵みに与るよう、わたしたちを招いています。わたしたちに求められていることはただ、イエスの招きに「はい」と答えること、そして日々神の美しさ、輝きに与りながら歩むということに他なりません。
わたしはいつも野坂操壽さんの演奏に神のうるわしさ、輝きを感じました。野坂さんに続くお弟子の皆さん、演奏を賭して神の麗しさ、美しさ、輝き、そして安らぎの世界を多くの皆さんに伝えて頂きたいと願いながら、次の祈りをもってわたしの話の結びといたします。
 いつくしみ深い主なる神が、悲しみのうちにある遺族の方々に慰めと希望を与えください。ご遺族が故人の遺志を継ぎ、故人の目指した目標に向かって心を合わせて、力強く歩ことが出来ますように
また、世を去ってわたしたちの父母、兄弟、姉妹、恩人、友人、支援してくださったすべての方々に永遠の安らぎと喜びを与えてくださいますように。
                    アーメン。

 

「死」について

 

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2020年11月15日 (日)

年間第33主日A年

年間第33主日A年説教

第一朗読  箴言 31:10-1319-2030-31

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 5:1-6

福音朗読  マタイによる福音書 25:14-30 △2514-1519-21

 本日は年間第33主日です。来週の主日は「王であるキリスト」の祭日であり、待降節がもうすぐとなってきました。待降節が近づくと主イエスの再臨を告げる福音書の個所が朗読されます。先週の福音は花婿を待つ10人のおとめのたとえ話でした。今日の福音はタラントンのたとえ話です。

 一タラントンとは20年分の給与に当たる金額であるとのことであり、大変な金額ですが、これは譬えです。人それぞれ、神様から与えられている能力、財貨、宝物があります。人によってその内容や分量は違いますが、だれでも与えられた才能を生かして神様にお仕えし、神様のお望みを行わなければなりません。わたしたちキリスト者の日々は、与えられた善きものを使って神のみ心を行うことにあります。

 それでは、神のみ心を行うとは何を意味しているでしょうか。

 わたしはここで、「平和を実現する人々は幸い」という主の言葉、そして、20159月にカトリックさいたま教区の大宮教会で行われた、平和についての勉強会を思い出します。カトリック司教協議会諸宗教部門主催によるシンポジューム「平和のための宗教者の使命」が行われました。非常によい集いでした。この時、仏教の先生が話された内容が強くわたしの心に残っています。

それは「三毒」という話でした。

 ご存知のように、有名なユネスコ憲章で言われていますように、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」のです。しかし、人間の心の中には平和を妨げる毒がある、仏教では、この毒には三つあり、それぞれ「貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)」と言います。

(とん)とは、むさぼるということ、瞋(じん)とは、嫉み、妬み、怨み、瞋り(いかり)を言います。癡(ち)とは、無知であること。無明と言います。真実を知ろうとしないこと。相手の立場に立って相手のことを知ろうとしないこと。自分の本当の姿を知らないことです。人はみな、この三毒に侵されています。この三毒をなくすためには修業が必要です。

そして、この修業とは、結局、「自分のことを忘れて人のために尽くす」修業のことであり、それは慈悲の行いであると思います。

 そこで思い出すのは、「いつくしみの特別聖年」の教えです。教皇フランシスコは、「天の父がいつくしみ深いように、あなたがたもいつくしみ深いものでありなさい」と教えています。そして、いつくしの行いを実行するように勧めました。 いつくしみの業には、身体的な行いと精神的な行いがあります。身体的ないつくしみの業とは次の7か条です。

1.飢えている人に食べ物を与える。

2.渇いている人に飲み物を与える。

3.着る者のない人に衣服を与える。

4.宿のない人に宿を与える。

5.病者を訪問する。

6.受刑者を訪問する。

7.死者を埋葬する。

精神的ないつくしみの技とは次の7か条です。

1.疑いを抱いている人に助言すること。

2.無知な人に教えること。

3.罪びとを戒めること。

4.悲嘆に暮れている人を慰めること。

5.人の侮辱を赦すこと。

6.煩わしい人を忍耐強く耐え忍ぶこと。

7.生者と死者のために祈ること。

この精神的ないつくしみの業は決して易しいことではありません。そうできるためには準備が必要です。神の助けが必要です。よく祈り、神の助けを願って人を助け励まし導く善い行いに励むようにしましょう。聖霊の助けを願って、「貪(とん)、瞋(じん)、癡(ち)」の三毒に負けないように励んでください。

 聖霊の導き、聖母の助けがありますよう祈ります。

 

 

 

 

 

 

2020年11月 8日 (日)

年間第32主日A年説教

年間第32主日A年説教

 説教

待降節が近づくと主日の福音朗読は主の再臨を告げる箇所が読まれます。今日の福音朗読はマタイの福音の25章の、「十人のおとめ」のたとえです。このたとえ話は、主イエスの再臨について述べ「目を覚ましていなさい」との警告を伝えています。この譬えの背景はパレスチナ地方の結婚式の習慣です。(花嫁さんを近所の人々が喜び迎えという習慣はおそらく多くの国で行われてきました。子どもたちまで道に出て花嫁が来るのを待ち受ける言う場面が千葉県の房総半島でもごく最近まで行われていたと記憶します。)

花婿は花嫁の家に来て花嫁を迎えて自分の家に連れて行くのですが、その時が何時であるのか分からないのです。十人のおとめはいつも目を覚まして、いつ花婿が来てもお迎えできるように準備していなければならないおのです。そのためにその時が夜なかであっても灯をともすための油が必要でした。五人のおとめは油を準備していましたが五人のおとめは油を切らしてしまい、油を持っているおとめに分けてくれるように頼みますが断られてしまします。意地悪をしたのでしょうか。いや、そうではありません。主の再臨の時に用意すべき油とは、他の人が変わってしてあげることのできないものです。各自がそれぞれ負っている責任を意味しています。誰でも他人に代わってもらえない人生の役割・義務・任務があります。代替性の効かない責務が与えられているのです。いつでもその時が来たら報告し釈明できるように準備していなければなりません。

この譬えは主の再臨の話ですが、個人の終末にも当てはめられるべき、譬え話です。人の最後はいつ来るでしょうか。思いがけない時に来るかもしれないのです。人は厳しい裁きをどう迎えることができるでしょうか。この点についてパウロはわたしたちに希望を与えてくれます。第二朗読テサロニケの信徒への手紙は、おそらくパウロが残した最初の新約聖書であり、紀元50年ころの作成と推定されています。つまり福音書の成立から20年以上前、イエスの処刑からわずか20年しか経っていないときであると考えられるのです。

パウロはこの手紙で復活への希望を述べています。主の来臨の時、キリストへの信仰のうちに亡くなった人は復活の恵みに与り、そのとき地上に留まっている者は雲に包まれて引き上げられ、いつまでも主とともにいることになります。これは主の復活の恵みに与ることを意味していると思います。

 

《主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。》

 

初代教会の人々は主の再臨はま近いと信じていましたが再臨はありませんでした。今日のわたしたちは、この教えをどう受け取ったらよいでしょうか。わたしたち個人は必ず地上を去る時を迎えます。そのときに救い主であり最後の審判者であるイエス・キリストの前に立つとになるのです。その時が何時かわかりませんが必ずその時が来ます。その時に備え、復活への信仰を新たにし希望をもって主を迎えるようにしたいものです。

第一朗読の知恵の書は言っています。

 

知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える。

「知恵」は聖霊の恵みを思わせます。いつも信仰を保って目覚めていることができますように聖霊の恵みを祈り求めましょう。

 

 

第一朗読  知恵の書 6:12-16
知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。求める人には自分の方から姿を見せる。
知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに自宅の門前で待っている知恵に出会う。
知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える。
知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 4:13-18
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
《主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。》

福音朗読  マタイによる福音書 25:1-13
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 

 

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