目を覚ましていなさい--神義論の1
悪について、その16 ――全能で善である神が居るならどうして悪が生じるのか。
神義論-1
今年も待降節を迎えました。待降節は神が御子イエス・キリストを人間としてわたしたちのもとにお遣わしになったというご降誕(クリスマス)を祝う準備の期間であります。準備とは主イエス・キリストを迎える準備であります。主イエス・キリストを迎えるとは、罪の赦しを信じ、神の愛を信じて、神の恵みに自分を委ねるための準備であります。読まれました福音で、繰り返し、「目を覚ましていなさい」と主イエスはわたしたちに告げています。わたしたちは、良い心の準備をして、主イエス・キリストのご誕生を喜び祝うのでありますが、もう一つ大切なことがあります。もっと大切な、あるいは一番大切であると思われることがあります。それは、わたしたちがこの地上の生涯を終える時の準備をするということです。(注において三年前に筆者が行った説教を引用します。)
神は愛であり、この世界と人間を造りました。神が造った世界は極めて善い世界です。それなのにこの世界にはどうしてこれほどの悪と罪があるのでしょうか。この問題を考察するのが「悪について考える」の一連の考察であります。今回は
カトリック教会の代表的な説明である聖トマス・アクイナスから学びたいと思います。
- 神は悪の原因ではありえない。
「神は悪の原因であるのか」という問題をめぐる聖トマス・アクイナスの主な主張は、
すべて存在するものは神によって存在し
すべて善きものは神から来るのであるから
神は決して悪を意図的に生ぜしめないことをわれわれは知っている
という所にあります。
そこで「すべて存在するものは神によって存在する」という命題は正しいかどうかを検討しましょう。といってもそれでは「存在する」とはどういうことか、を検討しなければならないということになります。「悪」の事実は否定できません。
悪の事実から「悪が存在する」とすれば、どうなるのか。「すべて存在するものは神によって存在する」という命題を正しいとするなら、「悪」も神によって存在することになる。悪は神によって存在しないなら、「悪」自体が存在しないことにしなければならない。「悪」存在しないから、神が善であるという命題に矛盾しないことになります。この論理は、悪が存在するのもかかわらず存在しないとして論理の一貫性を取ろうとした、と思わないわけには行かない。「悪」が存在しないことをどう説明するか。そこで「悪は善の欠如である」として説明します。善だけが存在する。悪は存在ではない。それでは存在とは何か。
どうしても以下のようになる。これは堂々巡りの議論、循環論法のように思えていきます。
「存在」とは何か。哲学の中に「存在論」等分野があります。
唐突ですが、「存在」とは神の支配の充満であると考えるべきではないだろうか、と思います。つまり神の「存在する」とはその者に意向が十分に行き渡っている状態を指すのだとしてみます。「罪」とは神の意思が行われないこと、あるいは十分に行われていない状態である。病気はどうか。病気とは神の力が浸透していない状態である。そう考えなければ「悪」の存在を説明できないのではないでしょうか。こう考えてみると、神以外のもの(被造物)はすべて、神の意向によって存在しているが、完全には神の意向の反映ではない。かけたところがあるわけです。何故なら神は神を造ることはできないからです。被造物は神ではないので何か欠けた部分があるわけです。イエス・キリストも、神から生まれたのであり、神が造った作品ではありません。
唯イエス・キリストだけが神と完全に一致している、神の望みを完全に知る完全に実行でき来た、ということになる。
はたして人は神の思いを知ることが出来るか。
イザヤ書は言います。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちと異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは天地を潤し、目を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55・8-11)
人は神の思いに全く違えずには生きることは出来ない。それでは、人は正しく神の思いを知ることが出来るか。
果たして神は聖書で述べているように思い、人にそのように伝えたであろうか。
旧約聖書の啓示を人は正しく受け取ったであろうか。啓示の発展ということを考えなければならないのであります。
出エジプト記で分かりにくい表現がたびたび出て来ます。それは、神はファラオの心を頑なにするのでモーセの申し入れを承知しないだろうという表現です。(出エジプト4・21;7・3;14・7) まるで神が自作自演しているようであり、マッチポンプのように、自分で原因をつくって自分で原因を抹消させているかのようである。
また、カナン先住民の殲滅命令というのがあります。これは「ヘレム」と呼ばれる神の命令で「聖絶」とも訳され、「ささげられたもの、奉納、奉納物、奉納物として滅ぼされる者、滅び、滅びに定める、滅ぼす、全き滅び」などと訳され、「神のさばきによる判決を人間の手を通して行う死刑執行」と定義することが出来る。(H・クルーゼ『神言』南窓社、16㌻)
現代人にとって非常に不可解な神の命令です。「聖絶」と合わせて、イスラエルの神がカナンの占領拠するように命じたという記述の解釈に苦しむ箇所であります。(以上、「聖絶」「カナンの占領に関する倫理的問題」については拙著『電台の荒れ野で』オリエンス宗教研究所、を参照ください。)
さらにまた、既述のことですが、神がアブラハムに独り子イサクを燔祭として献げるように命じたということですが、アブラハムが誤ってそう解釈したのか、あるいは、神が本当にそのような不可解で残酷な命令を下したのでしょうか。そのどちららかが正しいということになります。
2.人がいつも正しく神の思いを知ることが出来るか。
次に神の命令は何時でも、何処ででも、正当な命令であるのかが問題です。
カナン占領と殲滅命令は正当な命令でしょうか。神が言うことを人間がその成否を問うべきでないというなら論議はそこで終わりです。神は間違った決定や命令をくださないのか。神でも後悔することがあります。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔
し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も
這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」 (創世記6・5-7)
「神が後悔した」という事例は聖書の中ではさらに、神がサウルを王に選んだことを悔やむ、とあります。(サムエル上15・11,35)また、ザヤ書では「神は闇を創造した」ともある。
光を造り、闇を創造し
平和をもたらし、災いを創造する者。わたし が主、これらのことをするものである。(イザヤ45・7)
文字通り神は闇を創造したのだろうか。闇が存在することをゆるしているという意味だろうか。(トマス・アクイナスによれば「闇」とは神の下す罰のことを意味している。『神学大全』第48問題、第2項参照。)
人は神の創造の結果であります。その人が生まれながらに、先天的に障がいを負い、あるいは病気の遺伝子を持っているのです。今の医学では、出生前に胎児の検査を行い、障がい者として生まれるかどうかが判定できるという。存在のなかでの極め付きの善である人間が障がいという問題を先天的に担わされた場合でも、その人間の存在は善であると言えるのか。それでも善であると思う人とそうでないと思う人に分かれているのが現状です。人間は悪への傾き・可能性を持った存在であることを『原罪』は教えている。すると生来原罪の状態にある人間は、その存在自体が、完全に100㌫善である、とは言えない。人は光と闇の双方に属していると言える。基本的に光が闇にまさる存在である。人は堕罪によって闇へ堕ちたが100㌫の闇ではない。人は主イエスのあがないを受けて、復活の光を受けている。キリストを信じる者はすでの死から命へと移されている。(ヨハネ5・24;6・47;11・25;17・3;一ヨハネ3・14を参照。)
この地球と自然とはどうであろうか。神の創造の作品であり、極めて善である。しかしその善であることは影、歪み、闇を帯びた善であるとしか言えない。自然災害をどう考えるのか。自然法則に従って必然的に惹き起こされるものか。例えば地震と津波についてはどうだろうか。地震と津波は神が引き起こしているのか。被造物には闇の部分があるのは否定できない。闇が消えるのは「新しい天子新しい地」が出現する時である。その時まで被造物は贖われるのを待って呻いていると言えるだろう。
「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ8・21-22)
従って存在する被造物も、それが何であれ、善であるが善でない部分もある、と言わねばならない。「悪とは善の欠如」という言い方をするならば、悪とは闇、光がまだ及んでいない部分がある、ということになる。
東日本大震災はなぜ起こったのか。自然法則に従って起こったとしたら、その自然法則は神の支配する法則だから善であると言えます。しかし、神は災害を起こさないような自然法則を造らなかったのか、あるいは造れなかったのか。神といえどもそのような自然を創造できなかったのか。数知れない人が命を落とし行方不明になったこの自然災害を神はあらかじめ知っていたのであれば、それでも神は善である、と言えるだろうか。知っていたが地震と津波がおこらないようにはできなかったのか。もしそうなら神は全能ではないということになる。
3.「悪とは善の欠如である。」
「悪」について聖トマス・アクイナスはどう教えているでしょうか。トマスは
「悪とは善の欠如である」
と言っています。如何に、トマス・アクイナス『神学大全』第48問題ならびに第49問題、そしてその解説書(稲垣良典「トマス・アクイナス『神学大全』」)から多少とも学んだ事項を以下に整理します。
トマスの説明は決して理解し易くはありません。何度も読み考えて、理解のキーワーズがあることに気が付きました。それは「宇宙的秩序」(ordo universi)と「付帯的」(per accidens)という言葉です。
トマスはこの世界に悪が存在することを決して否定していません。それでは「善の欠如」とはどう意味か。「欠如」とは
あるべきであるのにない、という場合を指し、ラテン語でprivatio といいます。病気とはあるべき健康が欠如しているこ
とです。能力の不足は欠如とは言いません。生物の間には能力の差異があります。人はライオンのような獲物を捕る強さ
を持っていませんが、その弱さを欠如とは言わない。人間にとって他の動物を襲って殺害しそれを自己の餌とする能力は
人間本来の在り方の中に含まれていないと考えられるからです。
物事が生起するのは原因があります。原因の中に、目的印と能動因があります。物を動かす力が能動因です。電車は電気のエネルギーで動きます。物事を動かす場合に何のためにするのかという目的があります。電車は人間を移動させるためにエネルギーを使います。
さて神は人間に善を与え、人間を幸福にするために人間を造りました。良いことを目指して行われている働き自体は善です。しかし結果として付帯的にper accidens (偶有的に、とも訳す)悪が生じることが避けられない場合があります。たとえば、癌の治療のために抗癌剤を使いますが、どうしても副作用が生じます。現在の医学では副作用のない抗癌剤はないようです。
あるいは二重結果の原理を想起します。例えばそれは、胎児を救うために手術するが結果的に母体の生命が失われる場合です。母体と胎児の両方が救われればよいのですが胎児の生命が救済されて母親の生命が結果的に喪失することが起こるのです。
世界と宇宙では、一方に善ければ他方には悪であることが起こります。多くの出来事はそうかもしれません。ある出来事は、善であるとともに悪でもあります。ライオンが獲物を食い殺すという場合、ライオンには善ですが犠牲になる獲物にとって食い殺されることは決して善ではありません。ライオンの餌食はシマウマには悪ですが、宇宙全体の秩序から見れば調和していると言えます。物事を宇宙という全体の秩序から見れば、ここの悪は解消されて調和と秩序が生まれています。トマスは以下のように言っています。
もし神がいかなる悪のあることを許さないとしたら、幾多の善が失われたに違いない。たとえば驢馬が餌食になること
なしに獅子の生命が保たれることはないだろう。さらに不正というものがなくしては、それの償いを求める正義や、それ
に耐える忍耐が賞賛されることもないに違いない。(第48問題第2項より引用)
また言う。
人間には自由意志がある。しかし物事の原因の中の第一原因は神である。人は行為の原因でありうるが第一原因にはなり
えない。能動因として人間は行為の主体であるが、その行為自体がかならずしも善の欠如であるわけではない。単純に神
の意志不在のままの行動であるのでその行動自体は悪ではない。そこから悪が生じるのは、人が神の掟への注意を怠った
場合である。注意を神の定めに向けるべき時に怠り、自由意志を乱用するために悪が生じるのである。悪は人間の意志に
付帯的に生じるのであり、決して神が人間に悪をなさしめるのではない。
この説明はまだ筆者には納得できない部分が残っています。
さて、トマスによる「悪」についての説明が十分に納得のできるものでしょうか。残念ながら説得力のある説明ではないと言わざるを得ません。
さて、冒頭にのべたように、待降節第一主日B年の福音朗読は、繰り返し「目を覚ましていなさい」と述べて、神を迎える心の準備をするようにさとしています。しかし、聖トマスがのべているように、何時も目を覚まして神の呼びかけに事得るように準備していることは、人間には無理なことでしょうか。「心の準備」は無理ではないでしょう。「心の準備」のできないような状態、心が全面的に深く、付帯的per accidens なことに捉われないように日ごろから心がけなければなりません。使徒パウロは「絶えず祈りなさい」(一テサ5・17)といっています。何をしているときも心は神に向かっているように生活を整えることこそキリスト者の霊的生活です。
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注
待降節第一主日B年のミサ説教
第一朗読 イザヤの預言(イザヤ63・16a-17、19b、64・2b-7)
第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリ1・3-9)
福音朗読 マルコによる福音(マルコ13・33-37)
今日は、待降節の第一主日です。待降節とは、主イエス・キリストのご誕生を迎える準備をするときです。読まれました福音で、繰り返し、「目を覚ましていなさい」と主イエスはわたしたちに告げています。わたしたちは、良い心の準備をして、主イエス・キリストのご誕生を喜び祝うのでありますが、もう一つ大切なことがあります。もっと大切な、あるいは一番大切であると思われることがあります。それは、わたしたちがこの地上の生涯を終える時の準備をするということです。わたしたちは、いつであるかはわかりませんが、必ず、死という時、この世を去る時を迎えるのであります。そのために良い準備をしなければならないです。その時に、わたしたちは神様とお会いする、主イエス・キリストとお会いする時でありますので、キチンとお会いできるように準備しなければならない。誰かとお会いするときには、色々な準備が必要です。誰かがいらっしゃる時には、お会いする場所を綺麗に掃除したり、色々な余計なものは片づけたりするわけです。それと同じように、わたしたちも色々な準備をしなければならない。人は死ぬとき、何も持っていくことはできない。全部置いていかなければならない。そして、一番大切なことは心の準備ということですよ。色々大事なことをするときに、わたしたちは準備をします。試験を受ける時には、合格するように準備しています。ですから、神様にお会いするときには、神様と平和のうちにお会いできるように心の準備をいたしましょう。
2017年はルーテルの宗教改革500周年という年であり、いろいろな記念行事が行われました。このルーテルという人が大変真面目な修道者でした。毎日定期的にお祈りをし、勉強し、それから色々な苦行に励んでいた。しかし、どんなに頑張っても、神様が自分をゆるし、そして受け入れてくださっているという確信が得られなかった。自分は罪人だ、とてもゆるされない、という自分を責める気持ちがどうしても彼の心から抜けていかなかったのです。彼の大切な仕事は、講義、教えることであって、聖書の講義をしていました。ある時に、詩編の31章2編という言葉のところに来たのです。どういう内容であるかというと、当時彼はラテン語で講義していたそうですが、ラテン語文を直接日本語で言うとこうなるのです。「主よ、あなたの義によって、わたしを解放してください。」彼はこの神の義という言葉が恐ろしかった。憎んでいたとさえ言っています。神様はご自分の正しさに従って、罪人を罰するのだ、自分は罰せられるのだ、神様は恐ろしい方だ、そういうように彼は思っていた。ですから、この義という言葉に、彼は嫌悪を感じていたそうです。しかし、ある時、一つのひらめきが彼の心に起こったのであります。それはどういうことかというと、神様はご自分の正しさをわたしたちに与えてくださって、わたしたちを神様の御心にかなう者と認めてくれる、そういう神様であるという意味であると。そういうように、彼は悟るようになったのであります。
今日の第二朗読で、パウロが次のように言っています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と。ですから、神様がわたしたちに恵みをくださる。その恵みを認めて、受け取りさえすれば、わたしたちは救われるのだと。自分で自分を救うことはできません。わたしたちは、罪深いものです。神様のお望みに叶う、完全な人間というのはこの世の中に一人もいない。しかし、神様はそのようなわたしたちを憐れんで、いつくしみ深く、わたしたちに恵みをくださる。そして、その恵みは主イエス・キリストによって、与えられました。詩編というのは旧約聖書ですから、イエス・キリストが現れる前のことですけれども、すでに詩編の中で、イエス・キリストが来られることを預言しているのであるとさえルーテルは考えたのであります。 聖書の翻訳というのは、難しい仕事であって、専門家でないわたしたちには分からないことが多いのですけれども、勉強した人から学べば、色んなことが分かります。今日では、この聖書の研究も大変進歩していまして、こういうように訳されているのです。
「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によってわたしを助けてください。」と日本語で訳されている。神の義という言葉は、実は、もともとのヘブライ語を調べると、神の助け、神の贖い、神の恵みという意味が込められているのであるということが分かりました。
皆さん、今日は、神様がイエス・キリストをわたしたちにお遣わしになって、イエス・キリストがわたしたちの救い、贖いとなってくださったという信仰を新たにし、そして、人々に、その信仰をのべ伝えなければなりません。わたしたちの代わりに、主イエス・キリストが、わたしたちの贖いとなってくださいました。そのために人間となってくださったのであります。イエス・キリストこそ、わたしたちの救い主である。わたしたちがその信仰を受けて、その信仰を人々に言い表すことによって、わたしたちは神の子キリストとの交わりに招き入れられた者となるのであります。わたしたちにはできないと思わないでください。自分の信仰を、自分の言葉で言い表すようにいたしましょう。そういう機会が必ず与えられると思います。ですから、わたしは何をどういうふうに信じているかなということを、もう一度心の中で確かめるようにしてください。
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第一朗読 イザヤ書 63:16b-17、19b、64:2b-7
主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ わたしたちの心をかたくなにして あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのためにあなたの嗣業である部族のために。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。
(あなたが)降られればあなたの御前に山々は揺れ動く。あなたを待つ者に計らってくださる方は神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も目に見た者もありません。喜んで正しいことを行いあなたの道に従って、あなたを心に留める者をあなたは迎えてくださいます。あなたは憤られましたわたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によってわたしたちはとこしえに救われます。わたしたちは皆、汚れた者となり正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになりわたしたちの悪は風のようにわたしたちを運び去った。あなたの御名を呼ぶ者はなくなり奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠しわたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工わたしたちは皆、あなたの御手の業。
第二朗読 コリントの信徒への手紙 一 1:3-9
(皆さん、)わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
福音朗読 マルコによる福音書 13:33-37
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
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