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2020年11月16日 (月)

「死」について考える

悪について、その13 「死」について

 

人は必ず死ななければなりません。今だかって死を経験しなかった人はありません。人は死んだらどうなるのでしょうか。死後の世界はあるのでしょうか。死とは何でしょうか。
この問題を正面から大学の公開講義の教材として取りあげられ、その膨大な記録が大作として出版されました。イェール大学教授シェリー・ケーガンの「『死』とは何か」(柴田祐之[しばたやすし]訳、完全翻訳版、文響社)であります。大変大分な内容であり、「死』の問題を哲学者として幅広く詳細に論じています。
ケーガン教授は、死後の世界を信じていないし魂の存在を認めていません。大変多くのスペースを使ってプラトンの哲学を論じ、ソクラテスやプラトンが説いた魂の存在と不滅を否定しています。人生は身体の破滅により終了しました。身体の死がすべて終わりです。死後の世界は存在しません。身体の復活はありません。人の生涯は地上の生涯がすべてです。だから与えられて時間を自分の人格の満足と自分の幸福のために活用しなければなりません。死自体は悪ではありません。もし人が死ぬことなく不死でなければならないとしたらその方が不幸です。死が悪であるのは地上の生涯で得べき善を剥奪されるからです。20歳で亡くなる人は20歳以後受けられたはずの人生の喜びを剥奪されると思うから死は悪と感じられます。しかし、人生から何等の喜びや楽しみを受ける可能性が封じられている場合、自殺でも選択肢として考えることは理にかなったことです。
このようにケーガンは死後の世界を前提としていないのでその人生観も地上の生涯だけが人生の価値、喜びの対象であり、その後のことは、なにしろ、人は死によって存在しなくなるなだから。考える必要はない、という結論になります。ケーガンの主張の要約は次のようになります。
「大半の人は、生と死の本質に関する、ある一連の信念のすべてを、あるいはほとんどすべてを受け容れる。すなわち、わたしたちには魂がある。何か身体を超越するものがあると信じている。そして、その魂の存在を前提として、私たちには永遠に生き続ける可能性があると信じている。言うまでもなく,死は究極の謎であることに変わりはないが、不死はそれでもなお正真正銘の可能性であり、その可能性を私たちは望み、ぜひ手に入れたいと思う。というのも、死は一巻の終わりであるという考えにはどうしても耐えられないからだ。・・・人生は信じがたいほど素晴らしいから、どんな状況に置かれても命が果てるのを心待ちにするのは筋が通らない。死なずに済めばどんなによいか。だから、自殺はけっして理にかなった判断にはなりえないと考えるわけだ。わたしはこれらをすべて否定する。この一連の信念は広く受け入れられているかもしれないが(ほぼ始めから終わりまで)間違っていると主張してきた。
 魂など存在しない。わたしたちは機械に過ぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。わたしたちは人格(・・・)を(・)持った(・・・)人間(・・)だ(・)。だが、それでも機械に過ぎない。
そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるということと比べて、特別に不思議であるわけではない。」(726-727㌻)

 

800㌻近くの及ぶ大著の要点はこの引用の内容に尽きるように思います。人間は機械に過ぎないのです。人格という主体の活動である精神的な種々の活動を行いますが、身体の機能が停止すれば存在も消滅します。まことに唯物的な人生観です。
キリスト者はそれに対してどう考えたらよいのでしょうか。

 

カトリック教会における「死」は次の葬儀ミサ説教に、端的に表れています。
      
ヨハネによる福音(14・1-6)が読まれました。主イエスは言われます。「父の家には住むところがたくさんある。わたしはあなたがたが住むところを用意する。わたしは 道、真理,命である。わたしを信じる人は誰でも父のもとに行くことができる。」
今日のミサの叙唱で司祭は唱えます。
「信じる者にとって死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています。」
この叙唱の言葉の中に教会の「死」の理解が端的に表現されています。
死は地上における生活の終わりであって亡くなった人の滅びではない。同じ固有の人間が存続する。死は人が新しい状態へ移される入り口である。新しい状態とは天の父の家へ移行することである。天に備えられている家へ向かう新たな旅路の出発である。その道案内は主・イエス・キリストである。父のもとへたどり着くための第一の条件はイエス・キリストを信じるということである。わたしたちは地上に教会に残っている。故人は今、浄めの教会へ入られた。浄めの教会へのつながりは「祈り」である。わたしたちは祈りをもって西さんの浄めの旅路を助けるのである。

 

「死」によって死者の生涯が完結したのではありません。「死」は新しい状態、新しい命へ入る門であります。「死」によって死者は神への道の新しい段階に入ります。神のもとへ旅立ちます。地上に残された者どもは祈りと犠牲をもって死者の旅路を助けます。神の前に立つためには死者は相応しい浄めを受けなければなりません。浄めは既に地上で始まっています。天の父のもとで浄めは完成します。罪人が受けるべき浄めを「煉獄」ということができます。
イエス・キリストはすべての人の救いのために天の父への道を開いてくれました。イエスはすべての人と父である神の間に立っている、仲介者、道、真理、命です。誰もイエスによらなければ父のもとに行くことはできません。そのイエスに取り次いでくれる信仰の先人が沢山いると信じています。その代表は聖母マリアです。カトリック教会では毎日聖母へ祈り、「今の、死を迎えるときも神に祈ってください」と唱えています天の父のもとへたどり着いた先人は、今度は天上で、地上の罪人であるわたしたちのために祈ってくださいます。
およそカトリック信者はこのように信じています。

 

カトリックの司祭・司教は亡くなった方々のために毎日祈っていますが、とくに葬儀においては、個人を忍び、個人と遺族のために特別に意を用いる説教を行います。注として以下にその一例を引用します。

 

カトリック教会の「死」についての教えは『カトリック教会のカテキズム』に於いておよそ次のように述べられています。

 

1. 死者は復活されたキリストとともに永遠に生き、世の終わりに体の復活に与る。「世の終わり」とは何時か、ということは地上の人間には分からないが、死を過ぎ越す人間はその時に「世の終わり」の世界に入るとも考えられる。
2. 前回述べたようにキリスト者は体の復活に与り、キリストの復活の体のように変えられる。
3. 使徒たちはキリストの復活の証人であったので、使徒の建設した教会の信者はみなキリストの復活の証人である。
4. キリストの復活を信じる者はすでの地上において既に復活の恵みの与って合っているのである。
「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。(コロサイ2・11-15)

 

従って、キリストともに天の父の家へ歩む者はつぎのようにしなければなりません。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3・1-17)

 

さて、非常に曖昧なことばに「霊魂」があります。
『カトリック教会のカテキズム』では、
「世を去る時つまり死ぬときに霊魂はからだを離れ、死者の復活の日に、自分の体に再び合わされるでしょう。(1005)とあり、また「死によって霊魂は体を離れますガ、・・・」(1015)とあり、死とは霊魂が体から分離すること、とされています。そしてこの「「霊魂」は、英語ではsoul,
ラテン語原文では anima (Catechismus Catholica Ecclesiae)です。Anima は普通、魂、と訳されます。霊魂という言葉はあいまいです。霊と魂の両方をさすのでしょうか。
ちなみに一般の辞書ではどのように解釈されているでしょうか。
【霊魂】 その人が生きている間はその体内にあって、その人の精神を支配し、死後のいろいろな働きをすると考えられるもの。<『新明解国語辞典』)
 【霊魂】(soul;spirit)➀肉体のほかに別の精神的実体として存在すると考えられているもの。たましい。②人間の身体内にあって、その精神・身体を支配すると考えられている人格的・非肉体的な存在。病気や死は霊魂が身体から遊離した状態であるとみなされる場合が多く、また霊媒によって他人にも憑依しうるものと考えられている。性格のことなる複数の霊魂を認めたり、動植物にも霊魂が存在するとみなしたりする民族もある。
それでは、聖書では「霊魂」をどう考えているだろうか。
まず、「霊」と「魂」を分けて考えなければならない。

 

「霊」 多様な意味で受け取られている。言語は、ヘブライ語ではr( )uah ルアッフ
ギリシャ語ではpneuma プネウマ、で、風、息、人間の霊、神の霊など種々の異なった意味を持っている。霊とは常に、一つの存在のなかにある本質的なものであるが、つかみことのできない要素を表している。それはある実体を生かすものであり、欲せずともその実態から自然に発散してくる物であり、けっきょく、実体そのものであるが、自らは制御することのできない何ものかである。
旧約では、ヘブライ語の霊は、「風」であり「息」であります。人間の息は神から来て(創世記2・7;ヨブ33・4;)、死とともに神のもとへ返っていく。(ヨブ34・14-15;コヘレットの書12・7;知恵の書15・11)人間の霊は人間の肉体を動くもの、生きたものとし(創世記2・7)、人間の意識、精神を表現する。また、人間には、神からの霊以外の忌まわしい霊が影響を与えることがある。
新約時代になって、イエス・キリストによって神の霊によって悪霊を追放さえることになった。
新約聖書は、旧約聖書を受け継ぎ、人間は体・魂・霊からなる複雑な存在であると考える。(一テサ5・23)。そしてこの霊は、息や命と不可分であるある力であり(ルカ8・55、23・46)、たびたび肉と戦っている(マタイ26・41;ガラテヤ5・17)。新約における信仰者のもっとも重要な体験は、人間の霊のなかには、これを新たにし(エフェソ4・23)、これと一つになって(ロマ8・16)、子としての祈りと叫びをあげさせ(8・26)、これを主と交わらせて主と一つに霊にする(一コリン6・17)神の霊が宿っていうということである。(聖書思想辞典、三省堂、霊の項より。)
一方、魂の項を見てみましょう。
魂は人間存在全体を構成する一つの”部分“ではなく、命の霊によって生かされている人間全体を指す言葉である。
ヘブライ語の原文はnephes ネフェシュ、ギリシャ語ではpsuche プシュケです。ギリシャ人は、息を,物質的な体とは対照的なほとんど非物質的なものと考える唯心論的な見方を持っている。しかしセム人は息を、そえを生かしている体とは不可分なものと考える。魂は生きている人間そのものを指す言葉である。ここから息は”命”と同一視される。魂はまず地上における有限の命を指す。次に永遠の命を意味するようになる。「自分の魂を救おうと望むものはそれを失い、わたしのために魂を失うものはそれを得る。」(タイ16・25;マルコ6・35;ルカ9・24.マタイ10・30;ルカ14・28;17・33;ヨハネ12・25参照。)
命は人間にとって最も大切なものであるので、人間そのものを指す。さらに魂は人間の自我を表す。愚かな金持ちのたとえ話で言う、「魂よ、おまえは長い歳月を過ごせるだけのよい物をたくさんたくわえている。さわ、休んで食べたり飲んだりして楽しめ」というときの魂がこの自我である。
魂は命の徴で春が命の源ではない。ここにセム人とギリシャ人の間にある大きな相違点がある。ギリシャ人は、魂を霊の世界と同一視しエイルが、セム人にとって命の源は”神の霊“そのものである。神が命の息をその鼻に吹き込むと人は生きたもの(創世記2・7)となったのでる。すべての生き物の中には「命の息」(7・22)があり、これがなければ生きてはいられない。「あなたがその息を取り去れば、彼らは死んでちりに返る。あなたが息(霊)を遣わすと彼らは造られる。」(詩104・29-30) 命の徴であるnephesと命の源であるruah は人間のなかでは互いに区別されている。したがって、洗礼によって得た”霊的な状態”から、”地上的な状態”に逆戻りした信仰者をさす”魂だけの者”(一コリ2・14, 15・44;ヤコブ3・15) という表現がみられることになる。
霊は「死ぬ」のではなく神に”返る”と言われる。(ヨブ34・14-15;詩31・6;コヘレット12・7)しかし魂は、骨や肉のように死んだり(エゼキエル37・1-14; 詩63・2;16・9-10; 民数記23・10: 士師記16・30;エゼキエル13・19;詩78・50) 魂は陰府(よみ)に降り、影のような死者の国の生活をする。要するに魂は「もういない」(ヨブ7・8,21;詩39・14) のである。ところでよみに下った魂が体を持たずに生きているわけではない。魂は体なしには自己表現できないものであり、それ自体では独立した存在ではないからである。(『聖書思想辞典』魂の項より。)
聖書思想辞典の「霊」と「魂」を読んでも、人の死後の状態は明らかにはなりません。

 

人の死後の在り方についてどのように考えたらよいでしょうか。如何に、『カトリック教会の教え』(カトリック中央協議会、第一部 キリスト者の信仰、上智大学教授 岩島忠彦著、より)をもとに、わたくし個人の考えを述べてみます。

 

私審判
人は誰でも人格として、そして身体として、その生涯を、責任の問われる時間として過ごします。人は単なる精神ではなくまた肉体だけでもありません。人格として、自分の責任において判断、決断し、実行し、あるいは実行しないという人生を送ります。生すべての作為と不作為にたいしてわたしたちは神の前に責任を問われます。各人が受けるとされる「私審判」は各自が死後神に対して自己の生涯の総決算をすることを意味しています。各自はその身体を通して、どのように、意味ある年数と時間を過ごしたか、神の教えである愛をどのように実行したのか、しなかったのかが明らかにされ、その結果に対してそれにふさわしい報いを受けることになるのです。

 

体の復活
人が体の機能を果たせなくなった時が地上の生涯の終わりであり、その時が人間の「死」であります。人は死後どうなるのかということについて、大別して二つの考え方があます。一つは素手の述べた唯物的な考えです。人は体の消滅と共にその存在も精神も消滅します。死はすべてにとって、人のすべての終わりを意味しています。
もう一つに考え方は、人は体が滅びてもその人自身は死後も存在する、という考え方です。この考え方はさらにいくつかに分かれます。人間の霊魂は不滅であるので、誰でも、霊魂として永遠に存続するという考え方です。ヘブライ思想は、体なしの人間の存在の存続という考え方を持っていません。それではキリスト教になってこの点はどうなったのでしょうか。今一つ不明な点が残ります。
死者は最後の審判、つまり公審判まで、魂だけで存在するのでしょうか。それとも、ぼんやりしていてもなんらかの肉体を備えた魂としてどこかで眠りにつくのでしょうか。あるいは神から頂いたその人の霊だけが残り、その霊は何等かの体、幽体のような状態として,最後の審判に時まで、古聖所(のようなところ)にとどまるのでしょうか。
わたしたちは地上の時間と空間の中でしか思考できません。死はわたしたちを、時空を超えた世界に招きます。死の時わたしたちはいわば同時に、私審判と公審判を受け、すぐにキリストの復活に与ることになるのです。私審判と公審判は同じ出来事の二つの面、個人に完成と世界の完成とを意味しているのです。ですから人は死とともに復活の世界にあげられ、復活の体を受けることも可能であると考えます。

 

天国と地獄
わたしたちは天の父のもとにたどり着き、顔と顔とを合わせて神を直観できるようになる(一コリント13・12)のであり、その時「神がすべてにおいてすべてとなられるのです。」(一コリ15・28) その時、人は真の自分となり、他の人とは違う自分独自の存在を確認し享受します。
ところで「地獄」は本当にあるのでしょうか。神は愛であり、すべての人が救われて神を知ることと望んでいます。(一テモテ2・4) ですから、地獄は存在しない、と考える人もいますが、神は各自に、神の愛を受け入れるか拒むかを選択できる自由を与えましたので、教会は地獄の存在を否定はしておりません。
それでは「煉獄」についてはどうでしょうか。既に述べましたが、人は自分の人生に責任を持たなければなりません。果たすべき役割を十分に果たせなかった場合、そのお詫びの償いをしなければならないと考えます。そのお詫びと償いはあらかじめ地上で行うことができるし、他の人が変わって行うことも可能であると教会は考えてきました。秘跡を受けること、免償を受けることもその赦しと償いになると考えられるのです。

 

 

(注)野坂恵子(野坂操壽)葬儀説教、2019年9月3日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

 

わたしは神に一つのことを願い求めている。
生涯、神の家をすまいとし、
あかつきとともに目ざめ、
神の美しさを仰ぎ見ることを。

 

わたくしは野坂恵子さんの生涯を思うときにこの詩編27の祈りの言葉を深く想いま す。野坂さんは「美しさ」を探し求め「美しさ」を表わし伝えようとされたと思います。その美しさとは筝曲によって表し伝える美しさです。
すべての美しさの源は天地万物を創造された神にあります。神の美しさは種々の形で、いろいろな道を通して現れています。芸術家は自分の専門分野で神の美しさを表現します。美術家は自分の作品である絵画、彫刻等を通して、音楽家は、作曲、演奏等を通して神の美しさを再現します。野坂さんは音楽を通して、演奏を通して、そして筝曲演奏を通して神の美しさを再現し伝達されたとわたしは考えます。
野坂さんはその生涯の間にキリストの福音に触れる機械がありました。野坂さんはヨーロッパの文化に根を下ろしたキリスト教の信仰表現を通してイエス・キリストとの出会いを経験したのであります。カトリック教会の信仰告白の代表が「クレド」であります。そのクレドと筝曲の間にある深いつながりに注目された方が皆川達夫先生でした。
ある日曜日わたくしは千葉県の教会でミサをあげるためラジオを聞きながら自動車を運転しておりました。たまたま自動車での移動時間が皆川先生のNHKの音楽の泉の放送の時間と重なりました。そのときの皆川先生のお話はとても興味深いものでした。その内容はすでの皆さんごぞんじでしょうが、筝曲の「六段」とカトリックの典礼の信仰宣言「クレド」はそのメロディーが基本的にはつながっている、という趣旨であったと思います。
さて2012年4月8日のこと、その日はその年の復活祭でしたが、野坂恵子さんはわたくし岡田大司教の立ち合いのもと、カトリック麻布教会において、カトリックの信仰を告白され、カトリック教会の一員となられました。
その翌年の2013年11月4日、野坂さんは東京カテドラル聖マリア大聖堂で、チャリティコンサートに出演してくださいました。その日はわたくしの司祭叙階40周年の記念の日であり、わたくしが理事長をしていた二つの公益法人のために野坂さんは喜んで奉仕の演奏をしてくださったのであります。この日の献金はすべて二つの団体、『公益財団法人・東京カリタスの家』と『社会福祉法人ぶどうの木・ロゴス点字図書館』に贈与されたのであります。
さて、神は御自分の住まいへすべての人を招いておられます。神の住まいとは復活したイエス・キリストのおられる世界であります。イエスは十字架の死を通して、罪と死に打ち勝ち、神のいのち、神の麗しさ、神の輝きの世界に入りました。そしてご自分の霊である聖霊を送り、復活の恵みに与るよう、わたしたちを招いています。わたしたちに求められていることはただ、イエスの招きに「はい」と答えること、そして日々神の美しさ、輝きに与りながら歩むということに他なりません。
わたしはいつも野坂操壽さんの演奏に神のうるわしさ、輝きを感じました。野坂さんに続くお弟子の皆さん、演奏を賭して神の麗しさ、美しさ、輝き、そして安らぎの世界を多くの皆さんに伝えて頂きたいと願いながら、次の祈りをもってわたしの話の結びといたします。
 いつくしみ深い主なる神が、悲しみのうちにある遺族の方々に慰めと希望を与えください。ご遺族が故人の遺志を継ぎ、故人の目指した目標に向かって心を合わせて、力強く歩ことが出来ますように
また、世を去ってわたしたちの父母、兄弟、姉妹、恩人、友人、支援してくださったすべての方々に永遠の安らぎと喜びを与えてくださいますように。
                    アーメン。

 

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コメント

これまで「死」による多くの別れを経験しても、「死」について根本的に考えることもなく過ごしてきました。ケーガン教授の主張には衝撃をうけましたが、それだけ一層カトリック教会における「死」についてよりはっきり知ることができたように思います。
「信じる者にとっては死は滅びではなく、新たな命への門であり、地上の生活が終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」、ということばを心に刻みました。
また、死後、浄めの教会に入る、ということや、天の父の家へ歩む者としての心得も、聖書の引用を通して、明確にお教えいただきました。
また、興味深かったのは、霊魂についての民族による考え方、や、人の死後の在り方、私審判と公審判について、さらに、天国と地獄についてです。
多くのことをお教えいただき、確かに、知ることによって信じることができるように思いました。
野坂恵子さんのための葬儀説教もしみじみ拝読いたしました。「神の美しさ」を芸術によって再現されたということや、琴の「六段の調べ」とカトリックの信仰宣言であるクレドと
のつながりにも心を動かされました。

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