悪の問題、その15:子どもは嘘をつかないか?(わたしの創造論)
悪について、その15
わたしの創造論――この世は本来的に善であるのか、悪であるのか。
アメリカの有名な精神療法の指導者ペック氏は著書のなかで次のように述べています。
この世は本来的に悪の世界であって、それが何らかの原因によって神秘的に善に「汚染」されていると考えるほうが、その逆の考え方をするより意味をないかもしれない。善の不可解性は、悪の不可解性よりもはるかに大きなものである。」(M・スコット・ペック、『平気でうそをつく人たち』、55㌻)
彼は言います。子どもは嘘をつかない、というが、子どもでも嘘をつくことはよく体験するとこところである。また物が腐敗することも至って常識的な体験である。(同書54-55㌻より。)
この世は本来的に善であるのか、悪であるのか?
キリスト教思想ではどちらが正しいのか?
「本来的に」とはどういう意味か。元来は、もともとは、という意味か。初めは、という意味か。
キリスト教では、神は天と地、すべてのものの造り主であり、その神は全能、全知で善であると信じられています。存在するものはすべて神の被造物であり、したがって善である神から出たものだから善でなければならない。それでは悪はどこか来たのか。
創世記の冒頭を引用します。
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
(1・1-5)
従来の考え方
神は「極めて良い」世界を創造した。人間は神の似姿、神に似たものとして造られた。(創世記1・26、27)
我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は人間に自由意志を与えた。最初の人間アダムとイブは自由意志を濫用し、神の命令にそむいて善悪を知る木から実をとって食べたために楽園から追放された。人と神との関係の破綻は男と女の関係の破綻、人間と自然との関係の破綻を招いた。
神の創造した世界は極めて良かったにも拘らず、人祖の不従順のゆえにこの世界に悪が侵入して来たのである。元来よかった世界が人間によって秩序の乱れた混乱の世界に堕落してしまったのである。神はこの世界を立て直し復旧するすためにおん子イエス・キリストを派遣した。キリストは十字架刑によって人間の罪の贖いを成し遂げ、さらに再臨によってすべての悪を滅ぼして創造を完成する。
しかし以下のように考えることも可能である。
すでにコラム「原罪」で次のように述べた。
神によって創造された完全な世界がまずあり、これが人祖の始原罪によって混乱に陥れられたが、救い主はこれを再び原初の完全状態に回復させる、という復元的・回帰的救済思想が支配している。だが聖書は本来完全な救いは未来のものとしてこれを待ち望むという直線的救済思想をとっている。救いは過去の完全状態の復興ではなく、未来において実現を約束されている全く新しいものとして、希望の対象である。この観点から「原罪の本質」をどう把握し提示し直すかも今後の「原罪神学」の重要な課題であろう。
(新カトリック大事典、原罪、宮川俊行)
人類の歴史は神の救済の歴史であり、救済の歴史は創造の歴史である。神は絶えず世界を新たに創造しつつある。創造とは悪を消滅させ、神の支配を浸透することである。悪の消滅と神の支配の浸透は主イエス・キリストの十字架と復活によって決定的な勝利が樹立されている。現在は教会とキリスト者がキリストの勝利を告げ知らせ行き渡らせる為の期間である。この勝利の結果が完全に浸透するためには聖霊の働きが必要である。聖霊は教会の内外で神の支配を行き渡らせるべく今もいつも働いており、主イエス・キリストの再臨の時に最終的な勝利が完成する。
創世記の冒頭を想起しよう。
神は闇と混沌の世界に光を灯す。この神の働きが創造である。創造とは闇に光を掲げることである。闇とは神の支配のまだ及んでいない世界である。
主イエスの働きを告げる福音書はすべて癒しを語る。癒しとは闇に光を灯すことである。罪とは闇である。神の秩序がまだ及んでいない世界を意味している。闇である罪の結果が死である。イエスは復活によって闇を打ち破り、死を滅ぼして神の命である永遠の命、復活の命をもたらした。聖書最後の巻物『ヨハネの黙示』25章の「新しい天と新しい地』とは神の創造の計画の完成図である。このときすべての被造物は新しい天と新しい地として刷新されるのである。(注2)
使徒パウロは言っている。
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れる
のを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるもので
あり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる
からです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでな
く、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでい
ます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを
だれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマ8・18-25)
(注1)子育て/子供の嘘については以下の「福田 由紀子の記事などを参照。)
人間は嘘をつく生き物
嘘をついたり、秘密を持ったりするのは、子どもの正常な発達過程です
「うそつきは泥棒のはじまり」ということわざがあります。平然とうそをつくようになると、盗みも平気でするようになる。うそをつくことは悪の道への第一歩であるといった意味です。子どもの頃、「うそをつくと閻魔さまに舌を抜かれるぞ!」と脅された人も多いのではないかと思います。
このような戒めが定着しているのは「人間(子ども)は、よくうそをつく生き物」だからだ、と捉えることもできます。子どもにうそをつかれると、親はショックです。わが子に裏切られたように感じて腹が立つかもしれません。でも、見方を変えてみると、うそは子どもが順調に発達していることのあかしなのです。
嘘は成長のあかし
子どもがうそをつきはじめるのは、早い子で3歳くらいと言われています。多くは「自分を守るためのうそ」です。かっこ悪さをごまかしたり、叱られないためのうそ。また「大人の関心を引くためのうそ」もありますね。もっと自分を見てほしい、さみしい、甘えたい、という気持ちから出るうそです。こうしたうそをつくためには、自分の行動や状況を客観的に見て、善悪を判断し、うそが相手に与える影響を予測できなければなりません。
ただ、小さい頃の子どものうそはその場しのぎのものが多く、うしろめたさが仕草や行動に出やすいため、大人にはすぐにバレてしまいます。辻褄の合ったうそを一貫してつけるようになるのは、小学校の3~4年生くらいでしょうか。うそを巧みにつけるようになる前に、うそについて子どもと話し合っておくことが大切だと思います。
嘘の種類について考えてみましょう
私たちの生活を見回すと、たくさんのうそにあふれています。意図的なうそから、無意識なうそ、思い違いが結果的にうそになってしまうこともあります。「言わない」「隠す」といった、うそのつき方もあります。どこからどこまでを「うそ」とするかにもよりますが、全てのうそが悪いわけではないですよね。
「うそも方便」ということわざもありますし、作曲家のドビュッシーは「芸術とは、最も美しいうそのことである」という言葉を残しています。「うそから出たまこと」といったこともありますよね。ハッタリをかまし続けているうちに、自分の実力が追いついてきて、うそではなくなるといったことも多いものです。
「うそをつくのは悪いこと」だと問答無用で叱るのはおすすめできません。「お前はうそつきだ」とレッテルを貼ったり、厳しく叱りすぎるのも、うそを重ねさせることにつながるので厳禁です。うそをついたことの良し悪しは後回しにして、どのような結果を予測してついたうそなのか?という切り口で、まずは子どもと一緒に「うそをカテゴリー分け」してみるのはどうでしょうか。
嘘の種類を分析してみよう
どのような結果(メリット/デメリット)をもたらすと予測してついたうそなのかを、相手と自分を軸にした座標に当てはめるとどのようになるでしょうか。
どのような結果をもたらすと予測してうそをついたのかを考えてみよう
A)自分にも、うそをつく相手にもメリットをもたらすうそ(相手+自分+)
誰も傷つけないうそです。芸術やドラマ、お笑いのコントなど、この領域に入るものは多そうです。お互いにうそ(フィクション)だと分かっているからこそ、楽しめるといったものもありますよね。しかし、そのうそが結果的に第三者を傷つけることがなかったかという点には注意する必要がありますね。 相手を喜ばせたいと思ってつくうそもあります。相手のことを思って、見て見ぬフリをする、といったことも入るかもしれません。気が向かない誘いを、理由をこじつけて断ったりするのは、大人にもよくあることです。「うそも方便」と言われる種類のうそですね。子どもの場合、空想を語って大人の気を引いたりするうそや、大人をびっくりさせるための、たわいもないうそがこれにあたります。
B)相手のために、自分を犠牲にするうそ(相手+自分−)
相手が怖いために自分の気持ちを偽るうそ、相手の罪をかぶる、といったうそです。本当はNOを言いたいのに、言えずに相手に合わせて言う通りにする、というのも、このカテゴリーです。
子どもの場合は、友だちを守ろうとして「自分がやった」と言ううそや、虐待を受けている子どもが、親をかばおうとして「叩かれていない」とうその証言をしたりといったことがあてはまります。親に心配をかけまいとしてつくうそも、ここですね。
C)相手も自分も傷つけるうそ(相手−自分−)
自暴自棄になったときのうそです。相手も自分も傷つくと分かっていて「死んでやる!」と言ったり、子どもに「あんたなんか生まれてこなければよかったのに!」と言ったりするのはここに入りますね。子どもの場合は、お友だちに「○○ちゃんなんかキライ!」と言うようなことが入るでしょうか。後悔やうしろめたさを抱えるうそです。
自分を傷つけるB)やC)のうそには、自分を大切に思えない、低い自己評価が根っこにありますので、うそをついたとガンガン責め立てるのは逆効果。うそをつかざるを得なかった気持ちに寄り添い、うそをつかなくて済む自分になることを援助しましょう。
D)相手を傷つけて、自分を守るうそ(相手−自分+)
自分の利益のために相手を利用したり、相手を陥れたりするうそです。ここに入るものが「うそつきは泥棒のはじまり」と戒められるうそではないでしょうか。合意だったと言い張るセクハラの加害者や、公約を守らない政治家、事実をねじまげて伝えるメディアなども、ここに入りますね。子どもの場合は「○○ちゃんのせいでこうなった」などと、自分の失敗を友だちになすりつけるといったうそなどが当てはまると思います。
こうしたうそが発覚したときは、保身のためのうそはダメだという一貫した態度を取ることが大切です。親の方はついカーッとなってしまいがちですが、冷静に伝える方が効果があります。
しかし、子どもが自分のミスを認められない背景には、強すぎる親の期待や、親に叱られることへの恐怖があることも少なくありませんので、親子関係を見直してみましょう。うそを認めた勇気を認めつつ、だれかを傷つけるうそはダメだと教えることが大切です。
正直でいるためには勇気が必要です
「だますより、だまされる方がいい」と言う人がいます。しかし「正直者が馬鹿をみる」とも言われます。でも、本当は(だます/だまされる)の二者択一というのは極端で、「だましたくないし、だまされたくない」というのが、多くの人の本音だと思います。
人を信じるというのは尊いことです。「信じてくれている」ということが、勇気を与え、人を強くします。しかし、人からの信用を悪用する人は「だまされる方が悪い」と主張するのが常。また、私たち大人は人を信じることの大切さを教えながら、「悪い大人にだまされないように」と、見知らぬ大人を疑うことを子どもに教えています。子どもは混乱するでしょうね。
しかし、現実問題として、世の中にはうそがあふれています。自分や相手に正直であることはとても大切ですが、相手のうそを見抜くためには、うそをついた経験がないと難しいのではないでしょうか。
子どもは誰でも成長の過程で、秘密を持つことを覚え、うそをつきます。ですから「うそをついて、叱られる」ことにより、うそがどんな結果をもたらしたのかを振り返り、うそが自分や相手に与える影響について子ども自身が考える機会にしたいものです。うそをついてばかりいると肝心なときに信じてもらえなくなることや、うそをついたときの嫌な気持ちなどに気付けるよう手助けできるといいですね。
うそをつかない(つけない)子どもに育てようとするより、うそをつこうとした時に「うしろめたさ」や「罪悪感」を感じて、うそをつかない勇気を持てる子どもに育てていきましょう。そのためには、親自身が自分の気持ちをごまかしたりせず、うそのない誠実な態度を見せることも必要ですね。子どもはよく見ていますから。
うそをつくことはできる。でも、自分にも他人にもうそをつかない人生の方がシンプルで快適なものだということを、うそをつく経験を通して学んでいけるよう、関わっていきましょう。
(注2)
神は光です。
わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。
しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。
(一ヨハネ1・5-10)
光の子として歩みなさい。
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(エフェソ5・8) あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。(一テサロ5・5)
« わたしの「創造論」 | トップページ | 目を覚ましていなさい--神義論の1 »
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
罪を持たずに生まれてくる子どもが嘘をつくようになることや、人々が平気でうそをついたり、物が腐敗する、ということを考えると、この世は悪の世界であるとするスコット・ペック氏の説。確かに人間は嘘をつく生き物だと思わざるを得ない出来事が世にはびこっているだけでなく、嘘についての興味深い分析からは、嘘だと気づかない嘘も多く存在していることがわかります。
キリスト教ではこのような現実をどのように捉えるのかを、「原罪」の考えをふり返りながら、創世記の読み解き方についても再度導いていただきました。
神は闇と混沌の世界に光を灯す。この神の働きが創造である。ヨハネの黙示録の『新しい天と新しい地』とは神の創造の計画の完成図である、ということ。
人類の歴史は神の救済の歴史であり、神は常に、悪を消滅させ、神の支配が浸透するように、新たな創造を行っていて、完全な救いは未来のものであり、未来において実現が約束されている希望の対象である、という教え。
キリスト教の核心をお教えいただいているように思います。
今回、パウロの言葉が以前より強く心に迫りました。そして 「霊」の穂とということば、が印象に残りました。
嘘についての考察と分析は日常とつながり興味深く思いました。ありがとうございました。
投稿: kusano kyoko | 2020年12月 3日 (木) 14時58分