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2020年11月19日 (木)

原罪について考える

コラム(挿入欄) 「原罪」

 

「悪について、その12、『病気』について」のなかで次のように述べました。

 

『カトリック教会のカテキズム』では「原罪」について次のように述べられています。

原罪とは原初の義と聖性の欠如です。最初の人間アダムとエバは神との正しい関係にあり、神の本性である聖性に参与していました。しかし神に背いたためにその義と聖性を失い、人間の本性は大きな傷を受け、無知と苦と死と罪への傾き(欲望)の支配を受けるようになり、この本性の傷はすべての人間に生殖とともに伝えられています。(『カトリック教会のカテキズム』122-121㌻参照。原罪については後程あらためて取り上げます。)

 

そこで、今回は『カトリック教会のカテキズム』の説明をさらに敷延して、改めて「原罪」についての教会の公式見解を復習します。

原罪(ラテン語でpeccatum originale)は二つの意味に大別されます。

まず、現在は人類のもとの罪、最初の罪です。それは創世記第3章が述べる、人祖アダムとエバが犯した罪を指しています。創世記三章の堕罪物語、つまりアダムとエバが神の命令に背いて禁断の木の実を食べた罪を指しています。これを始原罪(ラテン語で、peccatum originale originanns)と呼び、人祖が自分の意志で犯した罪である自罪です。

次に、すべての人類が被っている罪の状態を指す「原罪」があります。これは自罪ではなく状態としての罪であり、普通「原罪」と言えばこちらを指しています。

人は誰でも神の祝福のない罪人の状態に生まれてきます。初めから神の命を持たず、永久の幸せに与る可能性のない状態に置かれています。自罪を犯すことが避けられないし、悪や不条理に苦しめられ、生まれながらに神との不和に状態にあります。このような状態は自罪でない状態の罪,始原罪によって生じた原罪状態(peccatum originale originatum)です。これは、親から子へと生殖行為によって人間性とともに引き継がれる世襲罪ないし遺伝罪(peccatum hereditorium)とされます。

このような、人類がみな陥っている罪の状態は神が創造の時に意図した結果ではありません。それは一組の男女人祖アダムとイブの神への不従順によって引き起こされたとされています。人祖は成聖の恩恵により超本性の賜物(dona superunauralia)に恵まれ、罪の汚れなく、神の命に永遠に与る幸せな存在に置かれていました。また人祖はさらに、人間本性を補い、より完全にする外本性的賜物(dona praeternauralia)と呼ばれる特別な賜物である原初の義、すなわち不死の肉体、無苦、本性的欲求の完全な統御を与えられていたのです。これらの賜物は人祖から子孫に伝達されるはずであったが、神への不従順の罪の結果、超本性的恩恵と外本性的賜物である原初の義を失い、神との不和の状態となり、肉体の死などの苦しみを体験するようになりました。本性の欲求を制御することが困難となり、理性と悟性は鈍り、意志は弱くなり、罪への強い傾きを持つようになったのです。しかもこの状態は人類の生殖行為を通してすべての子孫に伝わることとなった。とはいえ、人間は善と真理への能力を完全に喪失したわけではなく、真の善を選ぶ自由は不完全ながら残されている。そして、主イエスと聖母マリアだけがすべての原罪の汚れから解放され存在であり、すべての人類の救いの希望の源となったのでした。

人はイエス・キリストの救いのみ業によってこの原罪状態から解放されます。それは通常、洗礼(血の洗礼との望みの洗礼を含む)を受けることによって人は神との和解の恵みに与ることによります。洗礼を受けた者は、罪と罰が赦され、神の子として生まれ変わり、成聖の恩恵である超本性的恵みを受ける。しかし、かつて享受していた外本性的恩恵を取り戻すことはできなかった。自罪を犯す傾きと弱さ、本性の欲求の無秩序さ、死・病気をはじめとする種々の苦悩を免れることはできない。とはいえ、苦悩はもはや罪の罰ではなく、神の向かうための試練、功徳を積む機会、自己を浄める機会、キリストの学びimitatio Christiの機会となる。

原罪の根拠となる聖書の箇所は主として以下の通りである。

ロマ書 2-3

創世記3

詩編51

トリエント公会議は第5会期(1546)において、原罪についての教理決定が行われましたが、その内容は、実質的には、カルタゴ公会議(418)、オランジュ公会議(529)の原罪論を確認したものに過ぎませんでした。これらの古代の公会議は聖アウグスチヌスのペラギュース派との論争の過程で形成されたものであったのです。

この公式見解は第二バチカン公会議後も維持されているが、種々の批判と疑問を受けています。

 

そこで以上の公式見解を踏まえながら、「原罪」についての小生の個人的見解・感想を記します。(注1)

 

1.教理の決定と表現

教理の決定と表現は、その必要が生じたときの状況、その場所の文化と言語、その時代の世界観、通念などから多大の影響を受けます。「原罪」の教理はアウグスチヌスの強い影響下に形成されました。当時の西ローマ帝国衰亡の状況とアウグスチヌス個人の信仰歴を考慮に入れなければ、当時の「原罪論」を理解することは困難であると思います。アウグスチヌスは自己の個人的性体験の問題に苦悩したと伝えられています。彼は自分の情欲concupiscentiaの問題を強く意識するあまり、あたかも情欲concupiscentia が原罪状態の本質であると考えたようであります。(2)

もちろん現在においても「性欲」の問題は重要です。「情欲」という言葉をキーワーズにするのではなく、現代における性の在り方から原罪を考察する必要を感じます。

 

2.創世記第1,2,3章の解釈の問題。

第1章は祭司伝承に属し、第2,3章は主(ヤーウェ)伝承にぞくすることが最近の聖書学者の通説になっています。問題は二つの伝承の関係です。現在何となく考えられている解釈は、神の救いの歴史を、創世記1書、2章、3章の順に展開したという枠組みの考え方です。そうではなく、第2章、3章の主(ヤーウェ)伝承のほうが先に形成されたのであり、2、3層は人類創造の経過を述べています。第1章は神の救いの歴史の総括と結果を聖書の初めに述べていると考えらます。神は自分の創造の働きの結果を見て「極めて良い」(131)とされました。この箇所は、あたかも神はまず創造をいったん全部し終えたかのような印象を与え、そのあと第23章の堕罪物語が始まったような印象を与えていますが、実はそうではありません。神は自分の創造の完成を見て、「極めて良い」とされたのであると思います。ところが通常、神は救い歴史の初めにすべてを創造したが、自由意志を濫用したが神に背いたために、この世界に悪が入り、悪が今なお支配している部分がある、と考えられています。そうなると、どうしても「神義論」の問題にぶつかってしまうのです。神が創った完璧な世界になぜ悪が存在するのか、という疑問が生じるのです。そこで、創世記で神が行った創造の御業は完璧に善だったがそれを悪くしたのは神ご自身ではなく、神の作品である人間である、と解釈せざるを得なくなったのです。しかしそうではありません。神の創造の技が完璧に善であるのはその完成した状態野ことであり、そこの至る途中はin fieri 未完成な状態にあります。1章は人間の創造、すなわち124-28節は人間の創造の結果だけを非常に簡潔に述べたものです。第1章の祭司伝承はアダムとイブの物語を省略しているのであり、124831の中に第2章、3章のアダムとイブの物語がはめ込まれてしかるべきですが、最初に結論だけをのべたために、第2章は入りませんでした。本来、第2、3章の堕罪物語はこの12428のなかにはめ込まれるべきです。

創世記第2、第3章の物語の歴史性を問題にする必要はありません。これは歴史的事実でなく、いわば神学的真実の物語であり寓話であります。

楽園の中央に一本の木があったと言われています。(「いのちの木」とも「善悪の 木」とも呼ばれているが、同一のことと思われる。)「善悪の知識の木から決して食べてはならない、食べると必ず死んでしまう」(創世記216-17)と神は言われた。この園の中央に生えている木は神の意志そのものを象徴しています。人は自由を与えられましたがその自由は神のもとに置かれた自由であり、神こそが善悪を決める最終の基準です。楽園は大昔どこかに存在した地上の理想郷ではなく、いわば人間各自のあこがれと希望の存在する心の原風景であると言えるでしょう。(『カトリック教会の教え』51㌻参照)

 

しかしバビロン捕囚の悲惨な体験をした創世記の作者は、信仰を奮い立たせ、希望をもって、神の救いの歴史の到達点を、聖書全体の冒頭において、明確に展開していると考えられます。

もちろん旧約の民はイエスの十字架による贖いと復活を知りませんでした。しかし祭司伝承の記者は霊感を受けて、世のわりに現出する世界を聖書の巻頭において記述し、わずか一章のスペースで、救いの歴史全体を述べました。「極めて良い」という結論の出る前に実は長い救いの歴史が展開しているのです。今現在も神は救い御業を行っています。神は時間の支配を受けません。神にとって既に結果は見えているというか、実現しているのでしょうが、わたしたち人間の目には、神の創造の結果は隠されています。しかし、創造の完成はすでに黙示録が言っている通りです。

   

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。(黙示211-6)

 

「新しい天と新しい地」ということばが重要です。ペトロの手紙で次のように言われています。

  

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。

(一ペトロ38-13)

 

同じく、イザヤ書も見なければなりません。

  

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしの造る新しい天と新しい地が/わたしの前に永く続くように/あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと/主は言われる。

     (イザヤ6617-22)

イザヤ預言者と黙示録の作者が言っている「新しい天と新しい地」とは、創世記131が述べている「きわめてよい」世界のことであります。

 

主はペルシャ王キュロスについて次のように言われました。

  

主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ/どの城門も閉ざされることはない。わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし/青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である、と。わたしの僕ヤコブのために/わたしの選んだイスラエルのために/わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが/あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが/あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで/人々は知るようになる/わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業が共に芽生えるように。わたしは主、それを創造する。

(イザヤ451-8)

 

創世記の冒頭を想起しましょう。

初めに、神は天地を創造された。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

(イザヤ11-5)

神が光を創造して光と闇を分けられた前にすでに闇が深淵の面にあって、神の霊が働いていました。神は霊を通して闇を消滅させ、神の望む秩序を実現します。実は神は今も闇を滅ぼして光をもたらすという創造の働きを行っているのです。

 

主よ、御業はいかにおびただしいことか。

あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。

地はお造りになったものに満ちている。

同じように、海も大きく豊かで

その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。

舟がそこを行き交い

お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。

彼らはすべて、あなたに望みをおき

ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。

あなたがお与えになるものを彼らは集め

御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。

御顔を隠されれば彼らは恐れ

息吹を取り上げられれば彼らは息絶え

元の塵に返る。

あなたは御自分の息を送って彼らを創造し

地の面を新たにされる。

    (詩編10424-30)

 

実に神は、自分は「光を造り、闇を創造し/平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」と(イザヤ457)神の創造の結果であると言いうのは驚くべきことです。

宮原氏の次のことは傾聴すべき重要な指摘です。

公式教説においては神によって創造された完全な世界がまずあり、これが人祖の始原罪によって混乱に陥れられたが、救い主はこれを再び原初の完全状態に回復させる、という復元的・回帰的救済思想が支配している。だが聖書は本来完全な救いは未来のものとしてこれを待ち望むという直線的救済思想をとっている。救いは過去の完全状態の復興ではなく、未来において実現を約束されている全く新しいものとして、希望の対象である。この観点から「原罪の本質」をどう把握し提示し直すかも今後の「原罪神学」の重要な課題であろう。

(新カトリック大事典、原罪、宮川俊行)

 

3.公式教説についての問題・疑問点

  1. 聖書の歴史的・批判的研究の成果にかんがみ、ローマ書5章、創世記23章によって以上の公式見解――原罪の遺伝的本質、原初の義、外本性的賜物、アダムの堕罪の物語の歴史性を基礎づけることに無理がある。
  2. 人類一元説は科学的に証明できない。
  3. 原罪はアウグスチヌスの個人体験と幼児洗礼という当時,一般化していた習慣を背景に議論され決定されたことを今日配慮しなければならない。
  4. 遺伝罪なる考えは今日の通念から受け入れがたい。
  5. 外祖アダムとイブに、外本性的賜物や始原罪を犯すに足るペウソナ的成熟が考えられない。
  6. 人祖の罪の罰を万代の子孫に及ぼすという神は、イエス・キリストに依って啓示された愛とゆるし、慈しみの神の像と矛盾する。

 

「原罪の神学」は教会の普遍の真理を維持しながら、現代人に理解されるような表現と説明をしなければならない。

 

4.原罪論の本質は何か。

 

!)神はすべての人が救われて真意を知るようになることを望んでおられます。(一テモテ24) 自罪を犯さない幼児はもちろんですが、幼児を含めて人は例外なく誰でも救いを必要としています。ところが、すべての人類は、罪に向かわせ、自己を破壊する決断へと向かわせる非常に強い悪の力のもとに置かれているのです。それは、人類が犯した自罪の蓄積が『世の罪』としてすべての人類にのしかかって来ているからです。人は自分の意志によらずにそのような悪の世界に呼び出されます。誰もこの世に生まれることを自分では拒否できません。その悪とは、種々の要素の総和として、例えば、遺伝・雰囲気・環境・圧力・刺激・誘惑・伝統・社会構造・文化などの総和としての『世の罪』としてこの世を支配しています。

人間は外からそのような攻撃にさらされているだけでなく、人間の内側からも攻撃されています。人間の心は悪に傾き、たがいに悪を誘いあい、苦しめ合い、不幸に陥れ合っているのが現状であいます。このような現状、『世の罪』と「悪への傾き」は、人類が、個人としても全体としても神から離れた状態にあり、神からの救いを必要としていることを意味しています。

2)このような人類の現実を神はどう見ているでしょうか。神は決してこのような現状が起こることを意図して人類を創造したのではなく、現状を肯定しているわけではありません。神は非常に不満ながら一時的に現状を耐え忍んでいるに過ぎないのです。この神の苦しみは十字架のイエスによって現わされたのでした。

3)神は最終的に歴史に介入して完全に悪を滅ぼします。この御業はイエス・キリストを通して、そして、キリストに依って実行され、すでに決定的実現過程が進行していますが、その完成は終末時の新しい世界の創造の完成の時においてであります。この時人類は完全に悪の支配から解放されます。現在その完成へ向かうべく、聖霊がその働きを進めています。聖母マリアはその完成の先駆けであり、その生涯のはじめから原罪の汚れを免れていたのです。

 

5.生殖による遺伝と『世の罪』

 

原罪論の問題点は、「親から子へと生殖行為によって人間性とともに引き継がれる世襲罪ないし遺伝罪(peccatum hereditorium)である」という点にあります。

原罪は生殖geneationによって次の世代に伝えられるという教えは多くの人にとって受け入れがたいのではないでしょうか。問題ないという意見もあります。「生殖」とうことばを単に生物学的な意味にだけにとらなければ問題はない、と論者は言います。

説明の要約は以下の通り。

人間は単に両親の生物学的生殖行為によってだけ生まれるのではない。人はペルソナとして成熟する過程で、両親から、愛と配慮、教育、家庭環境など既存の諸条件・要素を受け入れる。生殖はより人間的な意味で理解されるべきである。・・・原罪は複合的な過程――生物的成長は単にその一部に過ぎないーーで、両親から子どもたちに伝えられる。この過程によって、子どもたちは、人間生命に対して準備されたものとなる。・・・・・人間は不可避的に罪ある環境に産まれる。また、人間は、罪から深刻に影響されないでは、また、自分自身罪人とならないでは、成長し、責任を引き受けるーーこれが「生殖」ということであるーーが出来ない。このことを強調することが原罪の死絵にかなっている。((既述の石脇論文より) 

この説明の趣旨にはあながち全面的に否定はできない。しかしどうかんがえても、「生殖」という行為を中心に据えていることに違和感を持たないわけにはいかない。どうしても生殖自体への否定的な先入観が背後に支配しているように感じてしまう。人間の問題は自分の性を正しく相応しく制御することが難しくなっているということにある。この状況を原罪と言っても過言ではない。犯罪の多くは性に起因しているのも事実である。カトリック教会も現在聖職者による性虐待事件に直面し対応に苦慮していることは否定できない。問題は誘惑、困難、ストレス、課題への対応を求められる人間と社会が、そのための適応能力において欠損状態・不足状態にあることである。いわば人間には『世の罪』という悪に対する免疫が出来ていないこと、無防備であること、無力であり、そのような状態を「原罪」と呼ぶことが出来る。換言すれば、原罪とはすべての人間性が不可避的に負わされている弱さと脆さであり、その弱さと脆さとは、人類が蓄積してきた世の悪である『世の罪』に対する弱さ・脆さであり、『世の罪』と戦う力の弱さ、脆さであり、『世の罪』に対して無力であり、容易にその悪の力に屈してしまう現状をさしているのである。

原罪を説明する鍵の言葉は、〈生殖〉あるいは〈情欲〉ではなく、悪への抵抗力の不足と弱さでなければならないと思う。注3

 

 

注1

以下の記事に大いに啓発されたのでここで謝意を表したい。

宮川俊行 げんざい 原罪 『新カトリック大事典』の項

石脇慶總 「『現在論』についての一考察、南山宗教文化研究所・研究所報 第4号 1994年」)

2 注1の石脇論文参照ください。

3 恩師ペトロ・ネメシェギの説明参照。(出典は現在の時点では不明。後日明確にしたいが、筆者が神学生として原罪論の講義を受けた際の配布されたプリントである。)

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コメント

『原罪』の意味、『原罪』の根拠、『原罪』論の本質、創世記1.2.3章の解釈の問題、
それぞれについて、大変丁寧にお導きいただきありがとうございました。キリスト教の教えの中でも、きわめて大切な部分だと思いながら拝読いたしました。
『原罪』は神が創造の時意図したものではない。人祖は原初の義である不死の肉体、無苦、本性的欲求の完全な統御を与えられていて、この賜物は子孫に伝導されるはずであったが神への不従順の結果、肉体の死などの苦しみを体験するようになった。この状態はイエス・キリストの救いのみ業によって解放されるが、人類は、自罪により、かつて享受していた恩恵を取り戻すことはできない。しかし、苦悩は罪の罰ではなく、神に向かうための試練、功徳を積む機会、自己を浄める機会、キリストの教えを学ぶ機会である、ということを教えていただきました。
また、「創世記の1章2章3章について、1章は、「極めてよい」という結論の前に長い救いの歴史が展開している、ということ、完全な救いは未来のもの、未来に約束されている希望の対象である、という指摘は興味深くおもいました。
最後に、『原罪』 とはすべての人間性が不可避的に負わされている弱さと脆弱さであり、『世の罪』と戦う力の弱さ、脆さであり、『世の罪』に対して無力であり容易にその悪の力に屈してしまう現状を指しているのである」 という結論にお導きいただきました。
『原罪』がキリスト教の中でどのような意味と根拠をもち、それが聖書の中でどのように記されているのか、それらが、どのようにして主イエス・キリストと聖母マリアを通して人類の救いの希望の源へとのつながっているのか。
深く考えることのない日々に、いろいろなことに思いを巡らせる機会を与えていただきました。


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