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2020年12月

2020年12月12日 (土)

主にあっていつも喜べ

待降節第3主日A年

2020年12月13日

 

今日は待降節第三主日です。待降節第三主日は昔から「喜びの主日」と呼ばれます。(司式司祭は喜びを表す薔薇色の祭服を使用することができます。)

本日の入祭唱は今日のミサの趣旨をよく示しています。

「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)という言葉が述べられているからです。

さらに第二朗読でパウロは同じ趣旨を簡潔に述べています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(一テサロニケ5・16-18)

これこそ究極の福音とでも言うべき言葉ではないでしょうか。

パウロの生涯は困難の連続でした。それにもかかわらずそのパウロがこのように言っているとは、実に驚きであります。まさに復活されたキリストと共に生きたパウロの体験から滲みでてきたことばではないかと思われます。

本日の第一朗読では預言者イザヤが言っています。

「わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍(おど)る。」(イザヤ61・10)  

また本日の答唱詩編は有名な「マリアの賛歌」(マグニフィカート)です。

「わたしの心は神の救いに喜びおどる。」(ルカ1・47)

このように本日の聖書朗読は「喜び」をテーマにしています。

「喜び」とは非常に幸福であるという感情、良いことに出会い非常に満足し、嬉しいという感情であると言われます。喜びは人生の中で味わう幸福の感情ですが、happyという英語が示しているように、偶然与えられる儚(はかな)い喜び、という意味も込められています。

わたしたちは人生において度々喜びの体験をしますが、それは多くの場合、やがて儚く消え去る不確かな喜びにすぎません。人生にはむしろ悲しみの方が多いのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。」(1テサロニケ5・16)といわれても、「冗談ではない、なかなかそうは行かないよ」という気持ちになります。

この世界は過酷であり、人生は困難であります。この世界は、生きるのが難しい「荒れ野」ではないでしょうか。この世界は大きな闇で覆われているように感じることがしばしばです。

それでも例外的な人がいます。その人はいつも機嫌が良く、朗らかで楽しい人です。本当に羨ましい人柄ですが、そのような人は、「極楽とんぼ」と言われて、揶揄われることがあります。この言葉には、人生の真実は厳しいのだ、暢気にしてはいられないよ、という意味が込められているように感じます。

しかし、今日聖書が告げる「喜び」は人間としての自然の喜びではなく、信仰の喜び、厳しい現実があっても与えられる喜びです。イエス・キリストにおいて示された神の愛、無限の神の愛と出会い、愛の泉から受ける信仰の喜びです。(『福音の喜び』7)

 わたしたちの救い主イエス・キリストは激しい苦しもの中で悶えながら、天の父へ向かって「わたしの神、わたしの神、何故わたしをお見捨  てになられたのですか」という、断末魔の叫びをあげて息を引き取られたのでした。仏教の開祖釈迦牟尼ブッダのそれと比べて何という違いでしょう。ブッダは泰然自若、涅槃の境地のうちに最期を迎えたと伝えられています。ところでキリスト教は殉教者の宗教ですが、殉教者のなかには大いなる喜びのうちに処刑されたと言われている者が少なくはありません。主イエスはすべての人の人生の苦悩をいわば吸い取ってくださった方であると言えましょう。キリスト教は復活の宗教です。復活とは弱い人間性が不死の喜びの状態に挙がられることです。主の降誕を準備するこの季節、主の復活にも思いを馳せることは意義深いことです。

荒れ野に泉が湧いているように、この世界には永遠のいのちに至る泉が湧いています。夜の空に星が見えるように、世界の闇のなかに復活のキリストの光が輝いています。イエス・キリストは荒れ野の泉、闇の中に輝く光であります。

洗礼者ヨハネは、キリストを証しするために来ました。キリストによって建てられたわたしたち教会は、このキリストの復活のいのち、復活の光を表し伝えるための証人であり、人となられた神イエス・キリストによってもたらされた永遠のいのち、復活のいのちを証しするために派遣されているのです。

わたしたちは現代の荒れ野である大都会において、神を信じ神に祈る教会の姿を示し、また孤独な人,寄る辺のない人、病気や障害に悩む人の同行者、慰め励ます者、復活の希望の光を灯す者として歩んでまいりましょう。

 

―――

第一朗読  イザヤ書 61:1-2a、10-11
主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知(させるために)
わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ 園が蒔かれた種を芽生えさせるように 主なる神はすべての民の前で 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 5:16-24
(皆さん、)いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:6-8、19-28
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 

2020年12月 9日 (水)

神の選びと予定

原稿 18 神議論3

 

神はすべての人の救いを望んでいる。―――神の選びと予定

 

二重予定説

多くの信者を悩ませた神学理論に「二重予定説」があります。これは、神はある人々を救いに予定しある人々を滅びに予定しているという説です。もしや自分は「滅び」の方に予定されているのではないかとかんがえる信者を恐怖と不安に陥れた恐ろしい思想でした。

二重予定説はアウグスチヌスに遡るとされます。宗教改革者カルヴァンが引き継ぎ、その後継者がさらに明確に普及させた、と言われています。筆者の若い時にこの教えに出会い、運命論と宿命論と相俟って多いに悩まされたものでした。

アウグスチヌスの予定説は、ペラギュウスとの論争と彼個人の体験によって形成されたようです。およそ次のように説きました。

人間は誰しも生来罪深い。人が救われるのはただ神のあわれみの恩恵によ る。人には神から恩恵の賜物を受ける資格は何も持っていない。神はただ憐れみによって人間を救う。神が誰に恵みを与えるのかということは全く神の自由に帰する。神は自由に、人を選んで、憐れむべきものだけを憐れむ。誰を選ぶかは神の専権事項であり、人間の関与するべきことではない。

その結果、選ばれて恵みに与る者だけが救われるという結論になります。「アウグスチヌスが、これはある人々が地獄へと予定されているという意味ではないということを強調しているのに注目することが重要である。」(マグダラスの同書、636㌻)と弁護されています。ある人々だけは救いに予定されている、ということは、ある人は救われないという論理に結び付きます。ここから「二重予定説」へと論理が展開することになりました。

アウグスチヌスの予定説の特徴は予定に無条件性とて徹底した恩恵論にあり、神の絶対的な主導性と塗動性、恩恵の非撤回性、そして限定性であった(限定性とは限定された選ばれた人々の身が救われ、残りの人は原罪の状態のまま取り残されるという考えのことである。)(『新カトリック大事典』よてい 予定の項、J.アリエタ、石井祥裕担当)

ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』で次のよう人述べています。

 「われわれが予定はと呼ぶものは神の永遠の定めであって、それによって神は各人が何をなすことを自ら望むかを決定した。というのも神はすべての人間を同じ条件に造ったのではなく、ある者は永遠の生命へ、他の者は永遠の断罪へと定めたからである。」(『新カトリック大事典』予定)

 

わたしたちは神の予定についてどう考えるべきでしょうか。

まず確認すべき事項は、神の普遍的救済意志であります。

 

神の普遍救済意志

 

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(一テモテ24-

 

神は例外なくすべての人の救いを望んでいる。これは絶対にゆるぎないキリスト教と聖書の基本的なメッセージです。この命題を否定すれば、キリスト級の土台が崩壊することになります。

それでは、すべての人は例外なく救われるのでしょうか。どんな罪人も、どんな不信仰なものも救われるのでしょうか。この点に関して聖書は沈黙しています。神は人を救いへと強制することはしません。神は救いへの呼びかけ(先行的恩恵)への応答を促しています。しかし、すべての人の救いを望む神はすべての人の救いの道を開いたはずであり、すべての人が救われる機会と可能性を提供しているはずであります。人間には、誰が救われ、誰が滅びるか、を地上で知ることはできません。それは神のみが知る神秘です。

ところで有名な新学者カール・バルトは次のような興味深い説を唱えています。

  カール・バルトによれば、「神の予定はイエス・キリストの選びである」という主張から成り立っている。

  そして「選び」とは二つの選びであり、それは「選ぶ者と選ばれた者」から成り立っている。

  1. 神は人間の友また仲間となる事を選んだ。
  2. 神は人間の贖いのためにキリストを与えた。
  3. 神は人類を贖うために自らを低くし、恥を受けるという道を選んだ。
  4. 神は我々から裁きの否定的側面(棄却、断罪、死)を取り去ることを選んだ。
  5. そこで、神による棄却は二度と人間の分け前・事柄となることはない。それは、罪ある人間の負うべきであったものをキリストが代わりに負ったからでる。
  6. 従って人間は弾劾されることはあり得ない。恩恵は不信仰にも勝利する。

このバルトの見解は人を驚かせまず。これは、救われない人はいない、という意味だろうか。不信仰の罪にさえ、イエスは打ち勝ち、万人を救済する、と言っているのだろうか。※

神の選び

 

聖書は「選び」の書であります。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル・・・彼らは実に「選ばれた人」であった。彼らが選ばれたのは自分自身のため、彼ら自身の繁栄、名誉、栄光のためではなかった。むしろ彼らの受ける迫害、攻撃、恥辱、不名誉、苦難のためであった。彼らを通して神の愛、神の光、神の恵みが伝えられるためであったのです。

そして誰よりも、ナザレのイエスとその母であるおとめマリアは神が選んだ器でありました。

おりしもいま典礼は、待降節である、128日は無原罪の聖マリアの祭日であります。

この日の第二朗読はエフェソ書です。

 

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1:3-611-12
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

 

実に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ14)

(この箇所を神の二重予定説の教理の聖書上の根拠とするのは実に本末転倒であり、筋違いであります。)

天地創造の前から、神はわたしたちをすでに知っていて、わたしたちをお選びになった、と言っています。人間は、誰しも、「わたしは、どうして、この世に来たのか。何のために生きているのか。そして、どこに行くのか」という、非常に大切な問いを持ちます。

天地万物を造られる前に、神はわたしたちを、すでにお選びになったという言葉は、驚くべきみことばなのですが、わたしたちは、そのような驚くべき信仰をしっかりと持っているでしょうか。神はわたしたちを聖なる者、汚れのない者にしようと、お望みになったのであります。

自分の今の状態はどうでしょうか。聖なる者、汚れのない者と言うことができるでしょうか。わたしたちは日々「主の祈り」を唱え、「わたしたちを誘惑におちいらせず 悪からお救いください」と祈っています。

悪、あるいは罪から免れますように、罪に染まらないようにと、わたしたちは願い、祈っています。

神の創った人間とこの世界はすべてはなはだよい世界であるはずなのに、どうして、罪、あるいは悪というものが、人間と世界のなかにあるのか。あるいは、この世界にあるのでしょうか。それは、深い謎であり神秘であると思います。

神がわたしたちをお選びになったのは、わたしたちを通して神の救いの恵みを広く人々に指し示すためでした。わたしたたちが無原罪の聖マリアに倣う者とし、罪の汚れに染まらない者となり、神の救いの地上におけるしるしとなり希望となるためでありました。

 

 「無原罪の聖マリア」の祭日A年の第一朗読は、創世記39-15,20、でありまして、大変大切であり興味深い教えです。

創世記は、いつごろ、どのようにして、編さんされたのでしょうか。すでに、イスラエルの民は、さまざまな現実、胸を引き裂くような、辛い、悲しい、酷い悪の現実を、十分に見聞きしていたのでしょう。創世記の中ですでに人が人を殺したり、人を傷つけたりします。

男性と女性の関係も、必ずしも、うまくいかない。男性と女性を造られたときに、お互いの存在を、大変大きな喜びであり恵みであると思った。しかし、途中で関係が捩れてしまう。

この世界、この自然も同じで、神の恵み、人間を養い、育てるために、本当に、優しく、温かい環境であったはずなのに、人間を苦しめ、痛めつける環境となってしまった。どうしてだろうか。彼らはこの謎を解こうと考えたのかもしれません。

そこで、今日、改めて、耳に入った言葉、創世記314節の「呪われるものとなった」という言葉に注目したいと思います。

何が、誰が呪われる者となったかというと、蛇です。そして、呪われた蛇と関連して、わたしたち、人間も、その子孫も、そして、この大自然も、調和が失われた状態になってしまった、と創世記は述べています。

あわれみ深い、主なる神は、この自然と人間を購い、元の状態(楽園)以上に善い、聖なる状態、神の幸福に与る状態にしようと、お望みになり、主イエス・キリストをお遣わしになりました。そこに、わたしたちの信仰の中心があります。

その、主イエス・キリストに、最もよく協力した女性として、聖母マリア、今日の福音では、ナザレに住んでいた、ひとりのおとめ、マリアという人であったと、ルカの福音が告げています。

ガブリエルという天使から、「救い主の母となる」というお告げを受けて、「そのようなことがありえるだろうか。それは、とんでもないことではないか」と思ったが、「神にできないことは何一つない」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ138)とお答えになった。

最初の女性、エバの不信仰を帳消しにし、神と人間とのふさわしい関係を再構築し、もっと素晴らしいものにするために、イエス・キリストは来られましたが、イエスの誕生に協力したおとめが、マリアであったと、聖書は告げています。

神がわたしたちを大切に思い、わたしたちをご自分のもとに招いておられるということを、信じるということは、どのようなことだろうか。わたしたちも心のどこかで、疑いと不安が忍び寄ってこないだろうか。「どうして、このようなことがあるのだろうか。わたしたちを、どうして、このようなひどい目に合わせるのか」というような思いが兆すことはないだろうか。

現在、この世界には、さまざまな矛盾、不条理が存在し、暴力がまん延しております。今日、無原罪の聖マリアの日を迎え、神が、すべての人を救い、すべての人を聖なる者、汚れのない者にしようと望んでおられるという、聖書の言葉を、改めて、深く心に刻みましょう。

わたしたちは現代の荒れ野のような状態にあるこの大都市とその周囲に住んでいます。信仰、希望のうちに、神からの愛を深く受け止めることで、神への愛、隣人への愛を育み、強めていただけますよう、聖母に祈りをお献げいたしましょう。

 

※(注1)

このカール・バルト理解に対してバルトの専門の研究者はどう答えるのでしょうか。微力で浅学にて、今の筆者にはこれ以上研究する余裕がありませんが、どなたかご教示いただけないでしょうか。カール・バルトは万人救済を唱えたのでしょうか。それともそれは誤解でありましょうか。

 

(注2)無原罪の聖マリアの祭日のミサの第一朗読ならびに福音朗読の本文は以下の通りです。

―――

第一朗読  創世記 3:9-1520
(アダムが木の実を食べた後に、)主なる神は(彼)を呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

 

 福音朗読  ルカによる福音書 1:26-38
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

2020年12月 8日 (火)

無原罪の聖マリア

128日 無原罪の聖マリア

説教

今日の第一朗読と第二朗読、及び、福音から、ご一緒に、神様のみことばと主の福音のみことばを味わってみたいと思います。

第二朗読は、エフェソ書です。この中で、わたくしが、改めて、強く心に感じました言葉は、次の箇所です。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ14)

天地創造の前から、神はわたしたちをすでに知っていて、わたしたちをお選びになった、と言っています。人間は、誰しも、「わたしは、どうして、この世に来たのか。何のために生きているのか。そして、どこに行くのか」という、非常に大切な問いを持ちます。

天地万物を造られる前に、神はわたしたちを、すでにお選びになったという言葉は、驚くべきみことばなのですが、わたしたちは、そのような驚くべき信仰をしっかりと持っているでしょうか。神はわたしたちを聖なる者、汚れのない者にしようと、お望みになったのであります。

自分の今の状態はどうでしょうか。聖なる者、汚れのない者と言うことができるでしょうか。わたしたちは日々「主の祈り」を唱え、「わたしたちを誘惑におちいらせず 悪からお救いください」と祈っています。

悪、あるいは罪から免れますように、罪に染まらないようにと、わたしたちは願い、祈っています。

神の創った人間とこの世界はすべてはなはだよい世界であるはずなのに、どうして、罪、あるいは悪というものが、人間と世界のなかにあるのか。あるいは、この世界にあるのでしょうか。それは、深い謎であり神秘であると思います。

神がわたしたちをお選びになったのは、わたしたちを通して神の救いの恵みを広く人々に指し示すためでした。わたしたたちが無原罪の聖マリアに倣う者とし、罪の汚れに染まらない者となり、神の救いの地上におけるしるしとなり希望となるためでありました。

 

創世記は、大変大切な教えであり、興味深い教えです。

創世記は、いつごろ、どのようにして、編さんされたのでしょうか。すでに、イスラエルの民は、さまざまな現実、胸を引き裂くような、辛い、悲しい、酷い悪の現実を、十分に見聞きしていたのでしょう。創世記の中ですでに人が人を殺したり、人を傷つけたりします。

男性と女性の関係も、必ずしも、うまくいかない。男性と女性を造られたときに、お互いの存在を、大変大きな喜びであり恵みであると思った。しかし、途中で関係が捩れてしまう。

この世界、この自然も同じで、神の恵み、人間を養い、育てるために、本当に、優しく、温かい環境であったはずなのに、人間を苦しめ、痛めつける環境となってしまった。どうしてだろうか。彼らはこの謎を解こうと考えたのかもしれません。

そこで、今日、改めて、耳に入った言葉、創世記314節の「呪われるものとなった」という言葉に注目したいと思います。

何が、誰が呪われる者となったかというと、蛇です。そして、呪われた蛇と関連して、わたしたち、人間も、その子孫も、そして、この大自然も、調和が失われた状態になってしまった、と創世記は述べています。

あわれみ深い、主なる神は、この自然と人間をあがない、元のような状態以上に善い、聖なる状態、神の幸福に与る状態にしようと、お望みになり、主イエス・キリストをお遣わしになりました。そこに、わたしたちの信仰の中心があります。

その、主イエス・キリストに、最もよく協力した女性として、聖母マリア、今日の福音では、ナザレに住んでいた、ひとりのおとめ、マリアという人であったと、ルカの福音が告げています。

ガブリエルという天使から、「救い主の母となる」というお告げを受けて、「そのようなことがありえるだろうか。それは、とんでもないことではないか」と思ったが、「神にできないことは何一つない」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ138)とお答えになった。

最初の女性、エバの不信仰を帳消しにし、神と人間とのふさわしい関係を再構築し、もっと素晴らしいものにするために、イエス・キリストは来られましたが、イエスの誕生に協力したおとめが、マリアであったと、聖書は告げています。

神がわたしたちを大切に思い、わたしたちをご自分のもとに招いておられるということを、信じるということは、どのようなことだろうか。わたしたちも心のどこかで、疑いと不安が忍び寄ってこないだろうか。「どうして、このようなことがあるのだろうか。わたしたちを、どうして、このようなひどい目に合わせるのか」というような思いが兆すことはないだろうか。

現在、この世界には、さまざまな矛盾、不条理が存在し、暴力がまん延しております。今日、無原罪の聖マリアの日を迎え、神が、すべての人を救い、すべての人を聖なる者、けがれのない者にしようと望んでおられるという、聖書の言葉を、改めて、深く心に刻みましょう。

わたしたちは現代の荒れ野のような状態にあるこの大都市とその周囲に住んでいます。信仰、希望のうちに、神からの愛を深く受け止めることで、神への愛、隣人への愛を育み、強めていただけますよう、聖母に祈りをお献げいたしましょう。

第一朗読  創世記 3:9-1520
(アダムが木の実を食べた後に、)主なる神は(彼)を呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

 

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1:3-611-12
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

 

福音朗読  ルカによる福音書 1:26-38
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

2020年12月 7日 (月)

神は全能で全知であるのか

原稿 17 悪の問題 神義論の2

 

「神議論」とは

神が居るならどうして悪があるのか

という問題です。

  1. 神が居ないならこの問題は起こらない。
  2. 神は完全に善であるのか。善でなければこの問題は起こらない。
  3. 神は全能であるのか。全能でなければこの問題は起こらない。
  4. 神は全知であるのか。全知でなければこの問題は起こらない。

ここでは、神が居ない場合は想定しない。

神は居る。しかし悪がある。神が善であるなら悪があるはずはない。

この論理は正しいだろうか。

一つに解決は善と悪の二元論の神をみとめること。マニ教やグノーシスがこの立場である。善の神とともに悪の神が居る。両者は対等に争っている。善の神が勝つと善が現れるが悪の神が勝つと悪が地上を支配する。

この二元論はキリスト教の立場ではない。キリスト教では「悪魔」の存在を認めており、悪魔の働きを認容している。イエスはしばしば聖霊の働きによって悪霊を追放している。今でも悪霊が働いていると考えられるが、しかし、悪霊は聖霊と対等な勢力を持つ悪の力であるとキリスト教は考えてはいない。

善である神

神は居る、そしてその神は善なる存在ではない、と考えれば、この問題は解決します。神の中に善である部分と悪である部分がある。旧約聖書の神のなかには悪である神も含まれているが、新約聖書の神には悪の神は含まれていない、と考えたマルキオンという人がいました。マルキオンは旧約聖書を否定し、悪の問題を解決しようとしましたが、教会は彼の教説を排斥しました。旧約聖書の神は新約聖書の神なのであり、旧約の神には悪が含まれているが新約のイエスの神は完全に善である、という考えは正統ではないとされたのです。それでは悪魔の存在をどう考えたらいいのでしょうか。悪魔の神の被造物であると考えられ、悪魔は堕落した天使であるとされています。天使は神の使い、その中に悪魔も含まれていたのです。ヨブ記の冒頭では、神の前で開かれた会議にサタンが出席しており、神から、義人であるヨブを試練に遭わせる許可を得ています。神が悪魔の存在を許し、ある程度の悪の働きをすることを認容していることには疑いありません。他方主イエスは、主の祈りで、「私たちを誘惑に陥らせず悪からお救いください」と祈るように命じています。この場合の「悪」とは「悪魔」を指していると考えられます。

神が悪魔の存在を認めていることは否定できません。悪魔の存在は神が善であることを否定するでしょうか。

神はイエス・キリストを人間として遣わし、悪魔との戦いに勝利させ、さらに復活させて、キリストの弟子たちが日々悪魔と戦うことを望み、その戦いの担い手として聖霊を各自に派遣しています。神は人々が悪と戦い悪に打ち勝つことを望み、その模範としてナザレのイエスを人としてこの世に遣わされ、さらに十字架と復活の後は聖霊を遣わして、人々が悪と戦い悪に打ち勝つよう導き助け励ましているのです。したがって悪魔の存在は神が善であることと矛盾しないと考えられます。

それでは、神が善であるというときの善と人間が善であると考えるときの善とは同じであるのか、あるいは、異なるのでしょうか。神はアブラハムに息子イサクを燔祭としてささげるように命じました。これは父が息子を殺すことですから、人間には不可解な命令であり、悪であると映ります。神はイスラエルの民に、カナン人殲滅命令を出しました。カナン人にとっては到底受け入れがたい命令です。モーセに自らからを顕わした神は、イスラエルの神であり、イスラエル人が生き、栄えることを望んでも、他民族が虐殺されても意に介さない狭い心で偏屈な神であるのでしょうか。ナザレのイエスは、神はすべての者の父であると教え、敵を愛するようにと戒めたのでした。

主はイザヤ書で言われました。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり

わたしの道はあなたたちの道と異なると

主は言われる。

天が地を高く超えているように

わたしの道は、あなたたちの道を

わたしの思いは

あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55・8-9)

他方ホセア預言書は言っています。

  ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。

   (ホセア11・8-9)

神はあたかも怒りと慈しみの間で心が引き裂かれるような思いをしていますが、ついには、怒りに対して慈しみのほうが勝利をおさめます。この神の心はナザレのイエスの十字架に引き継がれていったのでした。

神とはだれか。イスラエルの民はその歩みの中で、とくにバビロン捕囚という苦悩の体験を通して次第に、神は罰する神ではなく赦し慈しむ神であることを学んでいき、福音書のイエスの教えにつなげて行ったのではないかと思われます。

 

全能の神

神が全能であるとはどういう意味でしょうか。

全能の神とは単に何でも出来る神という意味ではありません。それは人を救うためには出来ないことはない、という意味でありましょう。神は自分の善に反することはできません。当然、神は悪をなすことはできません。神は善ですから、自己の本性に矛盾することはできないのです。そこで出てくる問題が神義論であります。

有名なアウシュヴィッツの大虐殺をはじめ、

1755年11月1日諸聖人の祭日にリスボンで起こった、市民三分の一を犠牲にした大地震と津波、

1975年から79年にかけてクメール・ルージュの指導者ポル・ポトによる、150万から200万人と推定される大虐殺、

1994年にキリスト教徒が9割を占めるルワンダで起こった10万人から100万人といわれる大量虐殺、

などが想起されるのです。

「善なる神の存在する」という信仰と「大虐殺あるいは大地震」という事実をどのようして両者を調和させることができるでしょうか。

 

このような悲惨な事実を前に、ある人々は、神は全能であるとは考えられない、とするようになりました。神が全能でないのなら、このような悲惨な出来事が起こっても、神に責任を帰することはできないということになります。実は、全能の神であっても、神は大虐殺が起こらないようにすることは出来なかった、という説もあります。例えばヒットラーやポル・ポトに神が働きかけて、彼らを指導し、彼らに干渉することが出来なかったのだ、と説く人も出てきました。(クラウス・フォン・シュトッシュ著、加納和寛訳、『神が居るなら、なぜ悪があるのか』、関西学院大学出版会、66-67㌻参照)

この際自然災害のリスボンの大地震は脇に置きましょう。これは人間の責任ではない自然災害であると考えられます。

それでは、アウシュヴィッツの大虐殺、ポル・ポトによる大虐殺はどうであろうか。伝えられるところによると、虐殺の理由は思想的な理由です。ホロコーストは、ヒットラーが、ユダヤ人の存在自体が赦しがたいと考えたことに起因していると言われています。どうして他の人々もその信念に飲み込まれてしまったのでしょうか。ヒトラーはどんな神を信じていたのでしょうか。あるいは信じていなかったのか。極少数の人々がそのような偏狭な精神に汚染されるのは在りがちですが、実はヒトラーは一応、合法的に政権を獲得しているのです。

ポル・ポトの場合はどうでしょうか。彼らはどのような信条・主義・主張をもっていたのか。非常に素朴な原始共産制の生活を理想としたのでしょうか。自分と一致しない生き方をする人を暴力的に抹殺するとは恐ろしいことです。「聖絶」の思想を連想させます。それは一部、異端審問、十字軍の思想に通じるように感じるのはわたくしだけでしょうか。

ルワンダの大虐殺の原因はどこにあるのか。カトリック国であるベルギーの植民地支配の仕方に分断と抗争の原因があるという指摘がありますが、それはともかく同じ神、愛なる神を信じる人々が相互の殺戮に巻き込まれるとはなんという悲劇でしょうか。

神は自分の愛する子どもたちが殺し合っているのをどう見ていたのか。なぜ止めさせなかったのでしょうか。もっともヨーロッパの歴史を見れば所謂「宗教戦争」は珍しくはなかったわけです。

人間の親の場合、子どもが成長すれば子どもが行うことには干渉しないのが原則です。心配したり不安になったりするでしょうが、子どものする重要なことについて、助言はするかもしれないが,止めさせたり変更させたりはしないでしょう。神もそうかもしれません。人類に独立の道を歩むことを認めた以上、途中で人類の紛争に介入しないと決めてその姿勢を貫いているのかもしれません。しかしそれにしても、何百万もの人間が虐殺されるのを見殺しにするのということは神の善には適いません。見殺しにしたくないがそうせざるをえない、ということなら、神は万能ではないということになります。

神の万能とは、どう考えても、人間が悪を犯さないようにする、という意味での万能ではない、ということが明らかになります。それではどういう意味で万能なのか。神はあらゆる悪を滅ぼすことが出来るという意味か。アウシュヴィッツの犠牲者はあの世において有り余る償いを受け、喜びに浸ることが出来る、来世で有り余るほど報われるから、問題はない、と意味だろうか。この世の問題はこの世では決着が使いないと人は感じます。結局、この世での理不尽・不条理の現実はあの世を想定しなければ解決はないということになるのでしょうか。地上の虐殺は天上の報償で補填される、だから神は善であり全能であると言えるのでしょうか。困難な問題の解決を死後の解決に託するという信仰は非常に信仰深いと言えるでしょうが、神を信じない人には納得の行かない説明になります。それなら、神の全能とは、限られた条件においてのみ発揮されるという意味に解するほうが論理的ではないでしょうか。おとめマリアは、大天使ガブリエルが「神にできないことは何一つない。」(ルカ1・37)といわれて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)と答えたのでした。この場合、全然不可能であるが信じるという意味ではなく、神のなさることなら充分可能であるとマリアは信じたことでしょう。処女懐胎とは生物的に不可能でしょうか。神が望めば十分に可能でしょう。処女懐胎とは大いに異なり、

虐殺、戦争でなんと多くの無辜の命が失われていることでしょうか。同じ神の子なのにどうして殺し合わなければならないのでしょうか。

 

全能の定義

このような疑問にどうこたえるか。

神の全能とは論理的に不可能なことが出来るという意味ではないことは言うまでもありません。

さらに神の本性に矛盾することもできません。神は嘘をつくことが出来ないし正義をゆがめることもできないはずです。トマス・アクィナスは述べています。

  神が全能であるという信仰告白は万人共通である。ただ困難なことは、その全能ということの意味をどこに置くか、であると考えられる。・・・・「神が全能であるのは、その出来るところのすべてのことができるからである」というなら、循環論法に過ぎない。・・・・・全能である神は罪を犯すことはできないのである。(『神学大全』  より)

 

神の二つの力

ここで神義論の問題の解決のために提出されている考え方として「神の二つの力」がある。ウイリアム・オッカムは次のように説明する。神が全能であると言うことは、現在において神が何でも出来るという意味ではない。神はかつてはそのように行動する自由を持っていた。神はある行動や世界の秩序に関与する以前には神の絶対的選択肢potentia absoluta を持っていたが、現在は「神の限定された力」potentia ordinatta しかもっていない。それは事物が現在あって、その造り主である

神によって打ち立てられた秩序を反映している仕方である。神は絶対的選択肢potentia solutaを持っていたときは、世界に関して,創造するかしまいか、どのように創造するか、について選択肢をもっていた。しかし、神が在る選択をした場合、神は他の選択をしないことになる。神は今や限定された力」potentia ordinattaしか持っていないので、何でも出来る状態にはないのである。

 

神の自己限定

フィリッピ書で次のように言われている。

  キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

   (フィリッピ2・6-8)

神はキリストにおいて受肉することによって自己限定の道を選びました。神のロゴスはみ

ずからの属性である全能・全知・偏在を無にし、その一方で「道徳的属性」である神の愛、

義、聖を維持したのでした。ディートリッヒ・ボンヘッファーはその獄中書簡『抵抗と信従』

において、劇的に神の自己限定を述べている。

  神は、われわれが神なしに生活を処理できる者として生きなければならないということを、われわれに知らせる。われわれとともにいる神とは、われわれを見捨てる神なのだ(マルコ15・34)神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と,共に、われわれは神なしに生きる。神は御自身をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世において無力で弱い。そしてまさにこのようにして、ただこのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、われわれを助けるのである。キリストの助けは彼の全能によってではなく、彼の弱さと苦難による。このことはマタイ8・17に全く明らかだ。(『ボンヘッファー獄中書簡集「抵抗と信従」増補新版 E・ベートゲ編 村上伸訳、新教出版社、417-418㌻』

理神論――自然法則をとして働く神、という考え方

神は合理的で秩序ある仕方で世界を創造した。自然法則は神によって据えられたも

のです。この世界の中で神は何もすることがありません。時計職人のように、神は宇宙に

規則性を与え、その機械装置を始動させました。神は完全に自律的・自己充足的な巨

大な時計と見做されます。神は何もする必要がないのです。

ニュートン的世界観は、神は世界を創造したが、神はさらに世界に関与する必要を認め

なかったとうものです。

この考え方では、神が生きている神である、絶えず世界を新たにしているという信仰と相

容れない。また。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。

門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、

門をたたく者には開かれる。」(マタイ7・7-8)という主イエスのことばとも矛盾するのです。

 

神は第一原因であるが、第二原因を通して行動する、という考え方があります。

人間の苦難の痛みは第二原因に起因し、第一原因である神の直接の行為に帰せられ

ない、という。

しかし、神が直接原因ではないとしても間接的に責任はないだろうか。

 

プロセス神学

アメリカの哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトによれば、実在を過程(プロセス)として考

える。神は自然を神の意志や神の目的に従うよう強いることはできない。神にできるのは、

説得と吸引力によって実在の動的な過程に内部から影響を与えようとすることである。

それぞれの存在がある程度の自由と創造性を持つのであって、神はこれを踏み躙れない。

この考え方によれば神の超越性という考え方は放棄される。

 

ピエール・ティヤール・ド・シャルダンのオメガ・ポイント

シャルダンはイエス・キリストによる世界の完成という主題を重視している。この考え方は、

コロサイ書1・15-20、エフェソ書1・9-10,;22-23などに基づく。万物はこの完成点に

かって進化しつつあるのであり、その完成する目的となる最終目標がキリストである

オメガ点に他ならない。シャルダンは、宇宙は進化の過程にあると考える。宇宙は前方

おおび上方へ向かっての運動を通じてゆっくりと成就へと進化する巨大な有機体である。

神はこの過程の内部において働いている。神は内部から方向付け、また過程の前方にあ

って働き、宇宙を神の目的と最終的な成就へ向かって引き寄せるのである。(マクダラ

スの同書398-400参照)

現代人の思惟構造にアッピールする魅力的な説明と言えましょう。

 

リヨンのエイレナイオスの神義論

神が人間を悪や苦難に合わせるのは人間を教育し訓練して、霊的成長と成熟に導くた

めであるという、古典的な理論です。しかし、アウシュヴィッツや広島の悲惨な経験が人

類の霊的成熟のために必要であるとは考え難い。

 

アウグスチヌスの説明

悪は人間の自由意志の乱用から来た。それでは人間はどうして悪を選択したのか。では

その悪はどこから来たのか。悪の起源はサタンの誘惑にある。ではサタンはどこから来た

のか。サタンは堕落した天使である。天使は神に仕えるために善い霊として造られた。し

かし、神のようになりたいという傲慢の罪を天使は犯したので悪魔に落とされた。ではなぜ

善い天使が神に逆らう心を抱いたのか。

結局この節ではどうしての説明できない部分がのこってしまいます。

 

カール・バルトの立場

彼は次のように考えました。

「バルトは不信仰・悪・苦難に対する神の恵みの究極的勝利への信仰の側に立って、全

能に関する先験的な概念を拒否する。神の恵みの究極的な勝利への確信によって、信

仰者は見たところ悪に支配されている世界に直面して士気と希望を保つことができる。

(マクダラスの同書、404㌻)しかし、バルトは悪を「虚無的なもの」としているがその聖書的

根拠に問題があるとされている。

また、「全能に関する先駆的な概念を拒否する」とはどういう意味でしょうか。神が全能で

あるという信仰の前提を棚上げするという意味でしょうか。

 

創造者である神の教理

創造は混沌に秩序を与えることである。(創世記2・7;イザヤ29・16;44・8;エレミヤ18・1-6参照。)

創造とは一連の混沌との戦いにかかわる。混沌の力はしばしば竜や他の怪物として描かれる。これらは服従させられなければならないものとされる。(ヨブ3・8;7・12;9・13;40・15-32;詩74・13-15;139・10-11;イザヤ27・1;41・9-19;ゼカリヤ10・11 参照。)

では「無からの創造」をどう考えるか。

紀元1世紀、2世紀のキリスト教が確立された時代はギリシャ哲学が地中海を支配していました。ギリシャ人は、神が世界を創造したとは考えなかったのです。物質はすでに世界に存在していたのであり、神は既存の物質から世界を形成したと考えました。創造は無からの作業ではなかったのです。すでに手元にある物質に基づいてなされる構築が神の創造であると考えた。世界に悪、あるいは欠陥が存在するのは、潜在する物質の貧弱さ、不完全さによるのであった、神の責任ではない、とされました。

しかしながらグノーシス主義との戦いの中で、2世紀、3世紀の教会は、先在する物質は存在しない、すべては無から造られなければならないと考えるようになったのです。エレナイオスの主張によれば、善である神の創造した被造物は善であり、物質に悪が存在するという考えは認められなかったのでした。グノーシス主義は、例えば次のように主張しました。

ニ人の神が存在する。それは、不可視の世界の源である最高神と物質的事物の世界を創造した低次の神の二人の神である。霊的領域は善であり、物的領域は悪である。この二つの世界は緊張関係にあるという。

これは善と悪の二元論であり、キリスト教の創造論と相いれないものでした。キリスト教で

は、物質の世界も神の被造物であり、後から罪によって汚されて悪を帯びるようになった

と考えるからです。しかし、霊的世界の物質的世界も共に神の被造物であり、元来は善

であると考えました。中世になって、カタリ派、アルビ派という善悪二元論を唱える異端

が現れましたが、教会は、「神は無から善い被造物を創造した」と宣言しました。(1215年、

第四ラテラノ公会議と1442年、フィレンツェ公会議)

マクダラスは創造の教理について以下の点を留意すべきと指摘しています。(同書410-

-412㌻)

1)世界は神の創造の作品であるから尊重され肯定されなければならないが、他方、堕落した被造物であるので贖われなければならない。

2)創造は世界に対して神が権威を持っていることを示す。人間は神によって被造物の管理者に任じられた。

3)神は世界を善いものとして創造した。(創世記1章、10,18,21,25,31節)グノーシスの言う、世界が本質的に悪である、あるいは善と悪が対等に存在するという主張は聖書の教えに反している。確かに現在の世界は神の本来の創造の意図から外れてしまっている。「贖い」とは被造物の本来の完全さへのある種の復興を意味している。

4)人間の本性は神の似姿である。アウグスチヌスは言っている。「あなたはわたしたちをご自身に向けて造られました。私たちの心はあなたのうちに憩うまで、休めないのです。」(同書、412㌻)

ついでマクダラスは創造者なる神の類型を挙げて問題点を指摘しています。

  1. 流出
  2. これは無意識の創造を思わせ非人格的な行為を連想させる。
  3. 建築
  4. 「無からの創造」の教えに対立する。
  5. 芸術的表現
  6. 先在する物質からの創造を思わせる、という欠点がある。

 

次に重要な問題は創造と時間という課題である。

アウグスチヌスは、神が時間を創造したと考えた。

現代の科学は時間と創造をどう考えるのか。

1982年、ビレンキン博士は、「わたしたちの宇宙は空間も時間もない『無』から生まれたという仮説『無からの宇宙誕生』を発表しました。(別冊Newton 無とは何か、136㌻)しかし1930年代から、宇宙には始まりはなく、誕生と終焉(膨張と収縮)を繰り返している、と考える物理学者も現れた。この理論(サイクリック宇宙論)によれば、宇宙は無から生まれたわけではない。ずっと前から存在していて、「輪廻転生」していたということになる。(同書156㌻)

 

科学と神学の関係をどう考えたらよいだろうか。

かつて進化論は神学の外にあった。しかし、シャルダンが言うように、進化論を神学と融合させることは十分に可能である。天動説と地動説の関係についても現在は科学と神学の矛盾を考える人は僅少であろう。

 

神の創造について

既述の説明と一部重複するが、現時点で、個人としての試論を以下のように整理します。

 

  1. 神が世界を創造し完成する。
  2. 神がいったん一時に完全な世界を創造したが人間に自由意思を与えたために人間が傲慢の罪を犯して世界に悪を導入したと考える必要はない。
  3. 神の創造とは神の意思の実現である。神の意思は一時に完全に実行されるわけではない。神にとっての時間は人間には神秘である。神は創造の初めアルファの終わりオメガである。神にとっての時間を人間の時間とは全く異なる。
  4. 創造の完成は「新しい天と新しい地」(黙示21・1他)である。「新しい天と新しい地」はすでにその前表(まえにあらわれるしるし)とし地上に現出している。創造とは神が日々地の面を新しくすることである。(詩編104・30参照)
  5. イエスは言われた。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5・17)
  6. 「無からの創造」とは素材が無である世界から神が何かを創造することというよりも、神の支配の及んでいない闇の世界に神の光、愛、力を浸透させることであると理解するほうが理に適っている。科学的にも「無」は何もないことではなく、種々の働きが行われている状態であると科学者は言っている。
  7. 東洋の「無」と西洋の「無」を比較研究して今後の福音化を考察することが日本の福音化の鍵であると考えます。
  8. 「贖い」と「創造」は同じことの両面である。「救い」をかつて存在した楽園の原始的理想郷への復帰と考えるよりも、完全に新しくされる喜びへの希望と結びつけてともに祈りを深めたほうが善いと思われる。
  9. 神によって創造された完全な世界がまずあり、これが人祖の始原罪によって混乱に陥れられたが、救い主はこれを再び原初の完全状態に回復させる、という復元的・回帰的救済思想が支配している。だが聖書は本来完全な救いは未来のものとしてこれを待ち望むという直線的救済思想をとっている。救いは過去の完全状態の復興ではなく、未来において実現を約束されている全く新しいものとして、希望の対象である。(「原罪」について述べた記述からの引用である。)

 

神の全知について

神が全知の神であるとはどのような意味でしょうか。神には予定ということがあるのでしょうか。神が全知であるとしたら人間の自由意思は存在しないということになるのでしょうか。

以上のような疑問が想定されます。

神の全知とは、あらゆる事項、自然と人間、宇宙を含めて、あらゆる事柄の過去、現在、未来について、神の認識に入っていないことはない、という意味でしょうか。

例えば、入学試験。神は誰が合格し誰が失敗するかを事前に知っているのだろうか。あるいはポル・ポトの大虐殺。神は事前にそれが起こることを知っていたのだろうか。試験の合否の結果は受験生の責任にかかっているし、虐殺の事項はポル・ポトらの考え方に原因がある。神は第一原因であるかもしれないが、その結果を直接ひき起こしたのは人間である。神は虐殺が起こることを事前に知っていた。しかし起こらないようにはしなかった。それでも神は虐殺に責任があるだろうか。

記述の「神の自己限定」の考え方によれば、神はいったん自分の力を限定した以上、委託した事柄については責任を負わないことになる。しかし地上の論理では、任命し委託した者にはその責任があると考えられます。そう考えれば、ポル・ポトの大虐殺に神が責任なしとは言い難いということになります。

しかし他方神は人間をはじめとする被造物にある程度の自主性と判断力を与えましたので、被造物の在り方に干渉しないという考え方も成りたちます。日常の些細なことには神は干渉しないでしょう。しかし戦争とか虐殺とか、あるいは個人のかけがえのない価値については当然、神は何かをすると考えても不思議ではないでしょう。

しかし、神は本当にこれから起こることはすべて知っていると言えるのでしょうか。ナザレのイエスは「神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神』でしたが、まことの人間であり、人間としての限界を持っていました。イエスは12人を選び使徒としましたが、その中の一人ユダは後でイエスを裏切ります。イエスは彼が裏切ることを知っていても彼を使徒に任命したのでしょうか。

他方次の詩編を思います。

主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。

座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。

歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。

わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。

前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。

その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。

どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。

天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。

曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも

あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。

わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」

闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。

あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。

わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。

秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。

胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。

あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。

数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。

   (詩編1・1-18)

ここで作者は、神はすべてを知っていること、神は何処にでもいるという信仰を告

白しています。

既述のことですが、神が後悔したという言い方が出てきます。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

  (創世記6・5-6)

なお、同じような例は、神がサウルを王に立てたことを後悔する、という記述です。

  主の言葉がサムエルに臨んだ。

「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。

   (サムエル上15・10-11)[他に関連個所として、出32・12-14;民数記23・19;エレミヤ18・7-10;26・3;アモス7・3;ヨナ4・2]

神が全知・全能であるならば、なぜ後悔するようなことをしたのでしょうか。自分の

作った人間が地上で悪ばかりするという結果になるということを全知・全能の神が

あらかじめ知らなかったのでしょうか。神はやがては退けることになるサウルをなぜ

王に立てたのでしょうか。全知の王なら、サウロの将来の不従順を知っていたので

はないだろうか。或いは、歴代の王たちの大部分は、神の目に悪とされることを行

ったものですが、それでも神は王たちが選ばれることを阻止しなかったわけです。

もし神が時間を造ったとしたらその時から神は自分の時間の中に深くかかわった

はずです。何が起こるか、詳しくあらかじめ知っていて、世界を自分の思い通りに

しようと考えたとは思えない。ただし最終結果は最初から知っていたと考えてよいと

思われる。最終結果は「新しい天と新しい地」であります。

2020年12月 6日 (日)

待降節第2主日B年

待降節第2主日を迎え、今日の聖書朗読、福音朗読を共に味わいながら、これからの日本の福音宣教についてご一緒に思いを深めてまいりましょう。

 

第一朗読は、イザヤ書、40章です。イザヤ書は、わたくしにとりましても、大変大切な、心に深く響く、聖書の巻物であると、心から、ずっと、そのように思っておりました。

今日の箇所の中で、わたくしの心に強く迫ってくる言葉は、どれであるかと言いますと、

「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ」という箇所です。イザヤの40章は、バビロン捕囚という、イスラエルの民にとって、味わった、痛切な仰体験から生まれた預言書であります。ユダヤの民は滅ぼされ、ユダヤの指導者たちは強制移住させられ、そこで、毎日、辛い経験をしておりました。そのときに、彼らの信仰は、清められ、強められ、そして、メシア、キリストへの信仰・希望が、強く、彼らの心に刻まれてきたと言われております。「どうして、わたしたちは、このような目にあっているのだろうか」という、彼らの日々の反省の中で、主なる神への信仰が清められ、希望が強められていきました。

わたくしが司教になりましたときに、日々の心構えとして、イザヤの40章の終わりの部分を選びました。今日の朗読箇所の後の部分ですが、その言葉は、「主に望みをおく人」という部分の言葉です。その前後を、もう一度読み上げて、みなさまに、最後の言葉として、お伝えしたいと思います。

「ヤコブよ、なぜ言うのか

イスラエルよ、なぜ断言するのか

わたしの道は主に隠されている、と

わたしの裁きは神に忘れられた、と。

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。

主は、とこしえにいます神

地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

倦(う)むことなく、疲れることなく

その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え

勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

主に望みをおく人は新たな力を得

鷲(わし)のように翼を張って上る。

走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザタ4028-31)

「主に望みをおく人は新たな力を得る。」(イザヤ4031)

わたしたちは、厳しい現実の中で、力を落とし、失望するという経験を持つことがありますが、どのようなことがあっても、神への信頼、信仰、希望を新たにし、あくまでも、いつも「主に望みをおく人」として、神様からの力をお願いする。そのような者として歩みたいと、望みました。

今日は、待降節第2主日であり、主イエス・キリストのご降誕を、喜び、祝う準備のときですが、同時に、わたしたちは、主の再臨、「主イエス・キリストが、世の終わりに、ご自分の計画を、完全に成就し、父なる神の創造の働きが完成するために再びわたしたちの所に来てくださる」という、わたしたちの信仰を新たにし、希望を強めていただき、日々、愛の務めに励むことを、改めて確認する、大切なときです。

第二朗読を、ご一緒に見てまいりたいと思います。

わたしたちが生きている、この世界の現実の中には、混乱、不条理、矛盾という現実があります。そして、人間と自然界との関係も、うまくいっていない。

教皇フランシスコの「ラウダート・シ」という教えを、みなさん、ご存知ですね。神様のお造りになった、この世界、自然が、本来の姿を傷つけられ、自然界と人間との関係に破たんが生じているということを、教皇様は指摘しております。

神の救いの働き、贖(あがな)いの働きは、人間はもちろんのことですが、この世界の、神様がお造りになったすべてのものを、神のお望みになる、新しい天と、新しい地に、造り変えてくださる。そのような、神様の計画を、わたしたちは、改めて信じ、神様のみ心に希望を持って、日々を歩んでいかなければならないと、今日の福音朗読が告げていると思います。

「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ニペトロ312-13)

わたしたちは、毎日、いろいろなことをしなければならない。いろいろなものに囲まれ、捉われて、そして、神様のみ心を見失いがちです。

本当に大切なことを第一にして、生きていくことから、逸れてしまっている日々を、わたしたちは送っているのではないか。いろいろなことがあり、いろいろなものがあるが、そのようなものは、すべて、いつかはなくなる。過ぎ去ってしまう。神のみ心に従って生きる。わたしたちの、愛の行いだけが、永遠のいのちを持っているのであると、聖書は謳っているのではないかと思います。

さて、日本の教会の、これからの歩みを、改めてご一緒に考えてみたいと思います。

ご承知のように、1549年、聖フランシスコ・ザビエルが、日本に福音を伝えてくださいました。それから、400年、500年が経過しています。

日本のカトリック教会は、第二ヴァチカン公会議の教えを受けて、主イエス・キリストの福音をのべ伝え、日本の社会の福音に適ったものに変えていくために、力を尽くしたいと考え、日本の司教協議会が主催して、福音宣教推進全国会議という、画期的な会議を開催しました。今から30年前、1987年のことです。わたくしは、それから13年後、大聖年の年ですが、200093日、こちらで、東京大司教に就任し、着座式が行われました。いま、そのときみなさまにお伝えしたことを、もう一度、思い起こし、そのときに、みなさまにお願いしたことを、改めて、お伝えしたいと思います。

1回福音宣教推進全国会議、NICE1では、「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。誰に開かれた教会であるかというと、もちろん、すべての人に開かれているという意味ですが、わたしたちの教会は、非常に近づきにくい、苦しんでいる人、悩んでいる人、あるいは、自分のような者は、とても、キリスト教の教えには縁がないと思う人、病気の人、体だけではなく、心に問題を感じている人、周りの人からも変わっていると思われている人、そのような人が温かく受け入れられ、大切な人として扱われ、自分の居場所がある、安らぎがある、慰めがある、生きる意味を見いだすことができる、そのような教会になりたい。もちろん、そのようになっている部分もありますから、みなさまは、教会に来られているのだと思いますが、多くの人にとって、わたしたちの教会は、自分にとって、安らぐことができる、そういうものになっていないというのが、現実です。

わたしたち自身の間にも、なかなかうまくいかない、いろいろなことがあると思います。どうか、聖なる助けによって、そのような現実の中で、互いに受け入れ合い、ゆるし合い、そして、不完全な人間、弱い人間、道から外れてしまう人間同士が、支え合い、助け合う、そのような教会が、成長し、広がって行きますよう、心から願い、祈ります。弱い人間が、そのようにできるためには、神の助け、聖霊の導きが必要です。わたしたちは、父と子と聖霊を信じています。特に、人間としてのナザレのイエスが去ったときに、わたしたちに聖霊を注いでくださった。聖霊は、いまも、いつも、わたしたちとともにいてくださいます。聖霊の導きを信じ、そして、このような自分も、神から赦され、受け入れられている者であるという信仰を、より強くしていただき、お互いに、ゆるし合い、助け合う、そのような、キリスト教会の姿を、人々に表し、伝えていきたい。教会に行ったけれども、冷たかった。だれも、わたしのことを認めてくれない。もう、そのようなところには行きたくない。そのような言葉を、聞かないわけではない。わたしたちには、そのようなつもりはありませんが、外から見ると、わたしたちの教会は、そのように見えることがあるようです。

わたしのような者でも、そちらに行けば、ほっとする。そのような交わりを、わたしたちの教会は、もっとしっかりとしたものに押し広げていきたい。

教皇ベネディクトは、即位されたときに、「現代の荒れ野」ということを言われました。本当に、生きることが難しい、この社会、この時代、わたしたちのつながりのなかで、生きる力、生きる希望を、日々見出すことができるよう、そのような教会でありたいと思います。

洗礼者ヨハネにならい、主の降誕を祝う準備をするとともに、これからの日本の宣教と福音化を皆さんとご一緒に考えそのために祈りたいと切に望み、以上のように申し上げました。

長くなりましたが、ヨハネの福音の次のみ言葉をもって、結びといたします。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ1334)

 

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