原稿 17 悪の問題 神義論の2
「神議論」とは
神が居るならどうして悪があるのか
という問題です。
- 神が居ないならこの問題は起こらない。
- 神は完全に善であるのか。善でなければこの問題は起こらない。
- 神は全能であるのか。全能でなければこの問題は起こらない。
- 神は全知であるのか。全知でなければこの問題は起こらない。
ここでは、神が居ない場合は想定しない。
神は居る。しかし悪がある。神が善であるなら悪があるはずはない。
この論理は正しいだろうか。
一つに解決は善と悪の二元論の神をみとめること。マニ教やグノーシスがこの立場である。善の神とともに悪の神が居る。両者は対等に争っている。善の神が勝つと善が現れるが悪の神が勝つと悪が地上を支配する。
この二元論はキリスト教の立場ではない。キリスト教では「悪魔」の存在を認めており、悪魔の働きを認容している。イエスはしばしば聖霊の働きによって悪霊を追放している。今でも悪霊が働いていると考えられるが、しかし、悪霊は聖霊と対等な勢力を持つ悪の力であるとキリスト教は考えてはいない。
善である神
神は居る、そしてその神は善なる存在ではない、と考えれば、この問題は解決します。神の中に善である部分と悪である部分がある。旧約聖書の神のなかには悪である神も含まれているが、新約聖書の神には悪の神は含まれていない、と考えたマルキオンという人がいました。マルキオンは旧約聖書を否定し、悪の問題を解決しようとしましたが、教会は彼の教説を排斥しました。旧約聖書の神は新約聖書の神なのであり、旧約の神には悪が含まれているが新約のイエスの神は完全に善である、という考えは正統ではないとされたのです。それでは悪魔の存在をどう考えたらいいのでしょうか。悪魔の神の被造物であると考えられ、悪魔は堕落した天使であるとされています。天使は神の使い、その中に悪魔も含まれていたのです。ヨブ記の冒頭では、神の前で開かれた会議にサタンが出席しており、神から、義人であるヨブを試練に遭わせる許可を得ています。神が悪魔の存在を許し、ある程度の悪の働きをすることを認容していることには疑いありません。他方主イエスは、主の祈りで、「私たちを誘惑に陥らせず悪からお救いください」と祈るように命じています。この場合の「悪」とは「悪魔」を指していると考えられます。
神が悪魔の存在を認めていることは否定できません。悪魔の存在は神が善であることを否定するでしょうか。
神はイエス・キリストを人間として遣わし、悪魔との戦いに勝利させ、さらに復活させて、キリストの弟子たちが日々悪魔と戦うことを望み、その戦いの担い手として聖霊を各自に派遣しています。神は人々が悪と戦い悪に打ち勝つことを望み、その模範としてナザレのイエスを人としてこの世に遣わされ、さらに十字架と復活の後は聖霊を遣わして、人々が悪と戦い悪に打ち勝つよう導き助け励ましているのです。したがって悪魔の存在は神が善であることと矛盾しないと考えられます。
それでは、神が善であるというときの善と人間が善であると考えるときの善とは同じであるのか、あるいは、異なるのでしょうか。神はアブラハムに息子イサクを燔祭としてささげるように命じました。これは父が息子を殺すことですから、人間には不可解な命令であり、悪であると映ります。神はイスラエルの民に、カナン人殲滅命令を出しました。カナン人にとっては到底受け入れがたい命令です。モーセに自らからを顕わした神は、イスラエルの神であり、イスラエル人が生き、栄えることを望んでも、他民族が虐殺されても意に介さない狭い心で偏屈な神であるのでしょうか。ナザレのイエスは、神はすべての者の父であると教え、敵を愛するようにと戒めたのでした。
主はイザヤ書で言われました。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると
主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは
あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55・8-9)
他方ホセア預言書は言っています。
ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。
(ホセア11・8-9)
神はあたかも怒りと慈しみの間で心が引き裂かれるような思いをしていますが、ついには、怒りに対して慈しみのほうが勝利をおさめます。この神の心はナザレのイエスの十字架に引き継がれていったのでした。
神とはだれか。イスラエルの民はその歩みの中で、とくにバビロン捕囚という苦悩の体験を通して次第に、神は罰する神ではなく赦し慈しむ神であることを学んでいき、福音書のイエスの教えにつなげて行ったのではないかと思われます。
全能の神
神が全能であるとはどういう意味でしょうか。
全能の神とは単に何でも出来る神という意味ではありません。それは人を救うためには出来ないことはない、という意味でありましょう。神は自分の善に反することはできません。当然、神は悪をなすことはできません。神は善ですから、自己の本性に矛盾することはできないのです。そこで出てくる問題が神義論であります。
有名なアウシュヴィッツの大虐殺をはじめ、
1755年11月1日諸聖人の祭日にリスボンで起こった、市民三分の一を犠牲にした大地震と津波、
1975年から79年にかけてクメール・ルージュの指導者ポル・ポトによる、150万から200万人と推定される大虐殺、
1994年にキリスト教徒が9割を占めるルワンダで起こった10万人から100万人といわれる大量虐殺、
などが想起されるのです。
「善なる神の存在する」という信仰と「大虐殺あるいは大地震」という事実をどのようして両者を調和させることができるでしょうか。
このような悲惨な事実を前に、ある人々は、神は全能であるとは考えられない、とするようになりました。神が全能でないのなら、このような悲惨な出来事が起こっても、神に責任を帰することはできないということになります。実は、全能の神であっても、神は大虐殺が起こらないようにすることは出来なかった、という説もあります。例えばヒットラーやポル・ポトに神が働きかけて、彼らを指導し、彼らに干渉することが出来なかったのだ、と説く人も出てきました。(クラウス・フォン・シュトッシュ著、加納和寛訳、『神が居るなら、なぜ悪があるのか』、関西学院大学出版会、66-67㌻参照)
この際自然災害のリスボンの大地震は脇に置きましょう。これは人間の責任ではない自然災害であると考えられます。
それでは、アウシュヴィッツの大虐殺、ポル・ポトによる大虐殺はどうであろうか。伝えられるところによると、虐殺の理由は思想的な理由です。ホロコーストは、ヒットラーが、ユダヤ人の存在自体が赦しがたいと考えたことに起因していると言われています。どうして他の人々もその信念に飲み込まれてしまったのでしょうか。ヒトラーはどんな神を信じていたのでしょうか。あるいは信じていなかったのか。極少数の人々がそのような偏狭な精神に汚染されるのは在りがちですが、実はヒトラーは一応、合法的に政権を獲得しているのです。
ポル・ポトの場合はどうでしょうか。彼らはどのような信条・主義・主張をもっていたのか。非常に素朴な原始共産制の生活を理想としたのでしょうか。自分と一致しない生き方をする人を暴力的に抹殺するとは恐ろしいことです。「聖絶」の思想を連想させます。それは一部、異端審問、十字軍の思想に通じるように感じるのはわたくしだけでしょうか。
ルワンダの大虐殺の原因はどこにあるのか。カトリック国であるベルギーの植民地支配の仕方に分断と抗争の原因があるという指摘がありますが、それはともかく同じ神、愛なる神を信じる人々が相互の殺戮に巻き込まれるとはなんという悲劇でしょうか。
神は自分の愛する子どもたちが殺し合っているのをどう見ていたのか。なぜ止めさせなかったのでしょうか。もっともヨーロッパの歴史を見れば所謂「宗教戦争」は珍しくはなかったわけです。
人間の親の場合、子どもが成長すれば子どもが行うことには干渉しないのが原則です。心配したり不安になったりするでしょうが、子どものする重要なことについて、助言はするかもしれないが,止めさせたり変更させたりはしないでしょう。神もそうかもしれません。人類に独立の道を歩むことを認めた以上、途中で人類の紛争に介入しないと決めてその姿勢を貫いているのかもしれません。しかしそれにしても、何百万もの人間が虐殺されるのを見殺しにするのということは神の善には適いません。見殺しにしたくないがそうせざるをえない、ということなら、神は万能ではないということになります。
神の万能とは、どう考えても、人間が悪を犯さないようにする、という意味での万能ではない、ということが明らかになります。それではどういう意味で万能なのか。神はあらゆる悪を滅ぼすことが出来るという意味か。アウシュヴィッツの犠牲者はあの世において有り余る償いを受け、喜びに浸ることが出来る、来世で有り余るほど報われるから、問題はない、と意味だろうか。この世の問題はこの世では決着が使いないと人は感じます。結局、この世での理不尽・不条理の現実はあの世を想定しなければ解決はないということになるのでしょうか。地上の虐殺は天上の報償で補填される、だから神は善であり全能であると言えるのでしょうか。困難な問題の解決を死後の解決に託するという信仰は非常に信仰深いと言えるでしょうが、神を信じない人には納得の行かない説明になります。それなら、神の全能とは、限られた条件においてのみ発揮されるという意味に解するほうが論理的ではないでしょうか。おとめマリアは、大天使ガブリエルが「神にできないことは何一つない。」(ルカ1・37)といわれて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・38)と答えたのでした。この場合、全然不可能であるが信じるという意味ではなく、神のなさることなら充分可能であるとマリアは信じたことでしょう。処女懐胎とは生物的に不可能でしょうか。神が望めば十分に可能でしょう。処女懐胎とは大いに異なり、
虐殺、戦争でなんと多くの無辜の命が失われていることでしょうか。同じ神の子なのにどうして殺し合わなければならないのでしょうか。
全能の定義
このような疑問にどうこたえるか。
神の全能とは論理的に不可能なことが出来るという意味ではないことは言うまでもありません。
さらに神の本性に矛盾することもできません。神は嘘をつくことが出来ないし正義をゆがめることもできないはずです。トマス・アクィナスは述べています。
神が全能であるという信仰告白は万人共通である。ただ困難なことは、その全能ということの意味をどこに置くか、であると考えられる。・・・・「神が全能であるのは、その出来るところのすべてのことができるからである」というなら、循環論法に過ぎない。・・・・・全能である神は罪を犯すことはできないのである。(『神学大全』 より)
神の二つの力
ここで神義論の問題の解決のために提出されている考え方として「神の二つの力」がある。ウイリアム・オッカムは次のように説明する。神が全能であると言うことは、現在において神が何でも出来るという意味ではない。神はかつてはそのように行動する自由を持っていた。神はある行動や世界の秩序に関与する以前には神の絶対的選択肢potentia absoluta を持っていたが、現在は「神の限定された力」potentia ordinatta しかもっていない。それは事物が現在あって、その造り主である
神によって打ち立てられた秩序を反映している仕方である。神は絶対的選択肢potentia solutaを持っていたときは、世界に関して,創造するかしまいか、どのように創造するか、について選択肢をもっていた。しかし、神が在る選択をした場合、神は他の選択をしないことになる。神は今や限定された力」potentia ordinattaしか持っていないので、何でも出来る状態にはないのである。
神の自己限定
フィリッピ書で次のように言われている。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリッピ2・6-8)
神はキリストにおいて受肉することによって自己限定の道を選びました。神のロゴスはみ
ずからの属性である全能・全知・偏在を無にし、その一方で「道徳的属性」である神の愛、
義、聖を維持したのでした。ディートリッヒ・ボンヘッファーはその獄中書簡『抵抗と信従』
において、劇的に神の自己限定を述べている。
神は、われわれが神なしに生活を処理できる者として生きなければならないということを、われわれに知らせる。われわれとともにいる神とは、われわれを見捨てる神なのだ(マルコ15・34)神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と,共に、われわれは神なしに生きる。神は御自身をこの世から十字架へと追いやられるにまかせる。神はこの世において無力で弱い。そしてまさにこのようにして、ただこのようにしてのみ、彼はわれわれのもとにおり、われわれを助けるのである。キリストの助けは彼の全能によってではなく、彼の弱さと苦難による。このことはマタイ8・17に全く明らかだ。(『ボンヘッファー獄中書簡集「抵抗と信従」増補新版 E・ベートゲ編 村上伸訳、新教出版社、417-418㌻』
理神論――自然法則をとして働く神、という考え方
神は合理的で秩序ある仕方で世界を創造した。自然法則は神によって据えられたも
のです。この世界の中で神は何もすることがありません。時計職人のように、神は宇宙に
規則性を与え、その機械装置を始動させました。神は完全に自律的・自己充足的な巨
大な時計と見做されます。神は何もする必要がないのです。
ニュートン的世界観は、神は世界を創造したが、神はさらに世界に関与する必要を認め
なかったとうものです。
この考え方では、神が生きている神である、絶えず世界を新たにしているという信仰と相
容れない。また。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。」(マタイ7・7-8)という主イエスのことばとも矛盾するのです。
神は第一原因であるが、第二原因を通して行動する、という考え方があります。
人間の苦難の痛みは第二原因に起因し、第一原因である神の直接の行為に帰せられ
ない、という。
しかし、神が直接原因ではないとしても間接的に責任はないだろうか。
プロセス神学
アメリカの哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトによれば、実在を過程(プロセス)として考
える。神は自然を神の意志や神の目的に従うよう強いることはできない。神にできるのは、
説得と吸引力によって実在の動的な過程に内部から影響を与えようとすることである。
それぞれの存在がある程度の自由と創造性を持つのであって、神はこれを踏み躙れない。
この考え方によれば神の超越性という考え方は放棄される。
ピエール・ティヤール・ド・シャルダンのオメガ・ポイント
シャルダンはイエス・キリストによる世界の完成という主題を重視している。この考え方は、
コロサイ書1・15-20、エフェソ書1・9-10,;22-23などに基づく。万物はこの完成点に
むかって進化しつつあるのであり、その完成する目的となる最終目標がキリストである
オメガ点に他ならない。シャルダンは、宇宙は進化の過程にあると考える。宇宙は前方
おおび上方へ向かっての運動を通じてゆっくりと成就へと進化する巨大な有機体である。
神はこの過程の内部において働いている。神は内部から方向付け、また過程の前方にあ
って働き、宇宙を神の目的と最終的な成就へ向かって引き寄せるのである。(マクダラ
スの同書398-400参照)
現代人の思惟構造にアッピールする魅力的な説明と言えましょう。
リヨンのエイレナイオスの神義論
神が人間を悪や苦難に合わせるのは人間を教育し訓練して、霊的成長と成熟に導くた
めであるという、古典的な理論です。しかし、アウシュヴィッツや広島の悲惨な経験が人
類の霊的成熟のために必要であるとは考え難い。
アウグスチヌスの説明
悪は人間の自由意志の乱用から来た。それでは人間はどうして悪を選択したのか。では
その悪はどこから来たのか。悪の起源はサタンの誘惑にある。ではサタンはどこから来た
のか。サタンは堕落した天使である。天使は神に仕えるために善い霊として造られた。し
かし、神のようになりたいという傲慢の罪を天使は犯したので悪魔に落とされた。ではなぜ
善い天使が神に逆らう心を抱いたのか。
結局この節ではどうしての説明できない部分がのこってしまいます。
カール・バルトの立場
彼は次のように考えました。
「バルトは不信仰・悪・苦難に対する神の恵みの究極的勝利への信仰の側に立って、全
能に関する先験的な概念を拒否する。神の恵みの究極的な勝利への確信によって、信
仰者は見たところ悪に支配されている世界に直面して士気と希望を保つことができる。
(マクダラスの同書、404㌻)しかし、バルトは悪を「虚無的なもの」としているがその聖書的
根拠に問題があるとされている。
また、「全能に関する先駆的な概念を拒否する」とはどういう意味でしょうか。神が全能で
あるという信仰の前提を棚上げするという意味でしょうか。
創造者である神の教理
創造は混沌に秩序を与えることである。(創世記2・7;イザヤ29・16;44・8;エレミヤ18・1-6参照。)
創造とは一連の混沌との戦いにかかわる。混沌の力はしばしば竜や他の怪物として描かれる。これらは服従させられなければならないものとされる。(ヨブ3・8;7・12;9・13;40・15-32;詩74・13-15;139・10-11;イザヤ27・1;41・9-19;ゼカリヤ10・11 参照。)
では「無からの創造」をどう考えるか。
紀元1世紀、2世紀のキリスト教が確立された時代はギリシャ哲学が地中海を支配していました。ギリシャ人は、神が世界を創造したとは考えなかったのです。物質はすでに世界に存在していたのであり、神は既存の物質から世界を形成したと考えました。創造は無からの作業ではなかったのです。すでに手元にある物質に基づいてなされる構築が神の創造であると考えた。世界に悪、あるいは欠陥が存在するのは、潜在する物質の貧弱さ、不完全さによるのであった、神の責任ではない、とされました。
しかしながらグノーシス主義との戦いの中で、2世紀、3世紀の教会は、先在する物質は存在しない、すべては無から造られなければならないと考えるようになったのです。エレナイオスの主張によれば、善である神の創造した被造物は善であり、物質に悪が存在するという考えは認められなかったのでした。グノーシス主義は、例えば次のように主張しました。
ニ人の神が存在する。それは、不可視の世界の源である最高神と物質的事物の世界を創造した低次の神の二人の神である。霊的領域は善であり、物的領域は悪である。この二つの世界は緊張関係にあるという。
これは善と悪の二元論であり、キリスト教の創造論と相いれないものでした。キリスト教で
は、物質の世界も神の被造物であり、後から罪によって汚されて悪を帯びるようになった
と考えるからです。しかし、霊的世界の物質的世界も共に神の被造物であり、元来は善
であると考えました。中世になって、カタリ派、アルビ派という善悪二元論を唱える異端
が現れましたが、教会は、「神は無から善い被造物を創造した」と宣言しました。(1215年、
第四ラテラノ公会議と1442年、フィレンツェ公会議)
マクダラスは創造の教理について以下の点を留意すべきと指摘しています。(同書410-
-412㌻)
1)世界は神の創造の作品であるから尊重され肯定されなければならないが、他方、堕落した被造物であるので贖われなければならない。
2)創造は世界に対して神が権威を持っていることを示す。人間は神によって被造物の管理者に任じられた。
3)神は世界を善いものとして創造した。(創世記1章、10,18,21,25,31節)グノーシスの言う、世界が本質的に悪である、あるいは善と悪が対等に存在するという主張は聖書の教えに反している。確かに現在の世界は神の本来の創造の意図から外れてしまっている。「贖い」とは被造物の本来の完全さへのある種の復興を意味している。
4)人間の本性は神の似姿である。アウグスチヌスは言っている。「あなたはわたしたちをご自身に向けて造られました。私たちの心はあなたのうちに憩うまで、休めないのです。」(同書、412㌻)
ついでマクダラスは創造者なる神の類型を挙げて問題点を指摘しています。
- 流出
- これは無意識の創造を思わせ非人格的な行為を連想させる。
- 建築
- 「無からの創造」の教えに対立する。
- 芸術的表現
- 先在する物質からの創造を思わせる、という欠点がある。
次に重要な問題は創造と時間という課題である。
アウグスチヌスは、神が時間を創造したと考えた。
現代の科学は時間と創造をどう考えるのか。
1982年、ビレンキン博士は、「わたしたちの宇宙は空間も時間もない『無』から生まれたという仮説『無からの宇宙誕生』を発表しました。(別冊Newton 無とは何か、136㌻)しかし1930年代から、宇宙には始まりはなく、誕生と終焉(膨張と収縮)を繰り返している、と考える物理学者も現れた。この理論(サイクリック宇宙論)によれば、宇宙は無から生まれたわけではない。ずっと前から存在していて、「輪廻転生」していたということになる。(同書156㌻)
科学と神学の関係をどう考えたらよいだろうか。
かつて進化論は神学の外にあった。しかし、シャルダンが言うように、進化論を神学と融合させることは十分に可能である。天動説と地動説の関係についても現在は科学と神学の矛盾を考える人は僅少であろう。
神の創造について
既述の説明と一部重複するが、現時点で、個人としての試論を以下のように整理します。
- 神が世界を創造し完成する。
- 神がいったん一時に完全な世界を創造したが人間に自由意思を与えたために人間が傲慢の罪を犯して世界に悪を導入したと考える必要はない。
- 神の創造とは神の意思の実現である。神の意思は一時に完全に実行されるわけではない。神にとっての時間は人間には神秘である。神は創造の初めアルファの終わりオメガである。神にとっての時間を人間の時間とは全く異なる。
- 創造の完成は「新しい天と新しい地」(黙示21・1他)である。「新しい天と新しい地」はすでにその前表(まえにあらわれるしるし)とし地上に現出している。創造とは神が日々地の面を新しくすることである。(詩編104・30参照)
- イエスは言われた。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5・17)
- 「無からの創造」とは素材が無である世界から神が何かを創造することというよりも、神の支配の及んでいない闇の世界に神の光、愛、力を浸透させることであると理解するほうが理に適っている。科学的にも「無」は何もないことではなく、種々の働きが行われている状態であると科学者は言っている。
- 東洋の「無」と西洋の「無」を比較研究して今後の福音化を考察することが日本の福音化の鍵であると考えます。
- 「贖い」と「創造」は同じことの両面である。「救い」をかつて存在した楽園の原始的理想郷への復帰と考えるよりも、完全に新しくされる喜びへの希望と結びつけてともに祈りを深めたほうが善いと思われる。
- 神によって創造された完全な世界がまずあり、これが人祖の始原罪によって混乱に陥れられたが、救い主はこれを再び原初の完全状態に回復させる、という復元的・回帰的救済思想が支配している。だが聖書は本来完全な救いは未来のものとしてこれを待ち望むという直線的救済思想をとっている。救いは過去の完全状態の復興ではなく、未来において実現を約束されている全く新しいものとして、希望の対象である。(「原罪」について述べた記述からの引用である。)
神の全知について
神が全知の神であるとはどのような意味でしょうか。神には予定ということがあるのでしょうか。神が全知であるとしたら人間の自由意思は存在しないということになるのでしょうか。
以上のような疑問が想定されます。
神の全知とは、あらゆる事項、自然と人間、宇宙を含めて、あらゆる事柄の過去、現在、未来について、神の認識に入っていないことはない、という意味でしょうか。
例えば、入学試験。神は誰が合格し誰が失敗するかを事前に知っているのだろうか。あるいはポル・ポトの大虐殺。神は事前にそれが起こることを知っていたのだろうか。試験の合否の結果は受験生の責任にかかっているし、虐殺の事項はポル・ポトらの考え方に原因がある。神は第一原因であるかもしれないが、その結果を直接ひき起こしたのは人間である。神は虐殺が起こることを事前に知っていた。しかし起こらないようにはしなかった。それでも神は虐殺に責任があるだろうか。
記述の「神の自己限定」の考え方によれば、神はいったん自分の力を限定した以上、委託した事柄については責任を負わないことになる。しかし地上の論理では、任命し委託した者にはその責任があると考えられます。そう考えれば、ポル・ポトの大虐殺に神が責任なしとは言い難いということになります。
しかし他方神は人間をはじめとする被造物にある程度の自主性と判断力を与えましたので、被造物の在り方に干渉しないという考え方も成りたちます。日常の些細なことには神は干渉しないでしょう。しかし戦争とか虐殺とか、あるいは個人のかけがえのない価値については当然、神は何かをすると考えても不思議ではないでしょう。
しかし、神は本当にこれから起こることはすべて知っていると言えるのでしょうか。ナザレのイエスは「神からの神、光からの光、まことの神からのまことの神』でしたが、まことの人間であり、人間としての限界を持っていました。イエスは12人を選び使徒としましたが、その中の一人ユダは後でイエスを裏切ります。イエスは彼が裏切ることを知っていても彼を使徒に任命したのでしょうか。
他方次の詩編を思います。
主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。
どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。
あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。
秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。
あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。
(詩編1・1-18)
ここで作者は、神はすべてを知っていること、神は何処にでもいるという信仰を告
白しています。
既述のことですが、神が後悔したという言い方が出てきます。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
(創世記6・5-6)
なお、同じような例は、神がサウルを王に立てたことを後悔する、という記述です。
主の言葉がサムエルに臨んだ。
「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。
(サムエル上15・10-11)[他に関連個所として、出32・12-14;民数記23・19;エレミヤ18・7-10;26・3;アモス7・3;ヨナ4・2]
神が全知・全能であるならば、なぜ後悔するようなことをしたのでしょうか。自分の
作った人間が地上で悪ばかりするという結果になるということを全知・全能の神が
あらかじめ知らなかったのでしょうか。神はやがては退けることになるサウルをなぜ
王に立てたのでしょうか。全知の王なら、サウロの将来の不従順を知っていたので
はないだろうか。或いは、歴代の王たちの大部分は、神の目に悪とされることを行
ったものですが、それでも神は王たちが選ばれることを阻止しなかったわけです。
もし神が時間を造ったとしたらその時から神は自分の時間の中に深くかかわった
はずです。何が起こるか、詳しくあらかじめ知っていて、世界を自分の思い通りに
しようと考えたとは思えない。ただし最終結果は最初から知っていたと考えてよいと
思われる。最終結果は「新しい天と新しい地」であります。
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