無料ブログはココログ

« 神は全能で全知であるのか | トップページ | 神の選びと予定 »

2020年12月 8日 (火)

無原罪の聖マリア

128日 無原罪の聖マリア

説教

今日の第一朗読と第二朗読、及び、福音から、ご一緒に、神様のみことばと主の福音のみことばを味わってみたいと思います。

第二朗読は、エフェソ書です。この中で、わたくしが、改めて、強く心に感じました言葉は、次の箇所です。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ14)

天地創造の前から、神はわたしたちをすでに知っていて、わたしたちをお選びになった、と言っています。人間は、誰しも、「わたしは、どうして、この世に来たのか。何のために生きているのか。そして、どこに行くのか」という、非常に大切な問いを持ちます。

天地万物を造られる前に、神はわたしたちを、すでにお選びになったという言葉は、驚くべきみことばなのですが、わたしたちは、そのような驚くべき信仰をしっかりと持っているでしょうか。神はわたしたちを聖なる者、汚れのない者にしようと、お望みになったのであります。

自分の今の状態はどうでしょうか。聖なる者、汚れのない者と言うことができるでしょうか。わたしたちは日々「主の祈り」を唱え、「わたしたちを誘惑におちいらせず 悪からお救いください」と祈っています。

悪、あるいは罪から免れますように、罪に染まらないようにと、わたしたちは願い、祈っています。

神の創った人間とこの世界はすべてはなはだよい世界であるはずなのに、どうして、罪、あるいは悪というものが、人間と世界のなかにあるのか。あるいは、この世界にあるのでしょうか。それは、深い謎であり神秘であると思います。

神がわたしたちをお選びになったのは、わたしたちを通して神の救いの恵みを広く人々に指し示すためでした。わたしたたちが無原罪の聖マリアに倣う者とし、罪の汚れに染まらない者となり、神の救いの地上におけるしるしとなり希望となるためでありました。

 

創世記は、大変大切な教えであり、興味深い教えです。

創世記は、いつごろ、どのようにして、編さんされたのでしょうか。すでに、イスラエルの民は、さまざまな現実、胸を引き裂くような、辛い、悲しい、酷い悪の現実を、十分に見聞きしていたのでしょう。創世記の中ですでに人が人を殺したり、人を傷つけたりします。

男性と女性の関係も、必ずしも、うまくいかない。男性と女性を造られたときに、お互いの存在を、大変大きな喜びであり恵みであると思った。しかし、途中で関係が捩れてしまう。

この世界、この自然も同じで、神の恵み、人間を養い、育てるために、本当に、優しく、温かい環境であったはずなのに、人間を苦しめ、痛めつける環境となってしまった。どうしてだろうか。彼らはこの謎を解こうと考えたのかもしれません。

そこで、今日、改めて、耳に入った言葉、創世記314節の「呪われるものとなった」という言葉に注目したいと思います。

何が、誰が呪われる者となったかというと、蛇です。そして、呪われた蛇と関連して、わたしたち、人間も、その子孫も、そして、この大自然も、調和が失われた状態になってしまった、と創世記は述べています。

あわれみ深い、主なる神は、この自然と人間をあがない、元のような状態以上に善い、聖なる状態、神の幸福に与る状態にしようと、お望みになり、主イエス・キリストをお遣わしになりました。そこに、わたしたちの信仰の中心があります。

その、主イエス・キリストに、最もよく協力した女性として、聖母マリア、今日の福音では、ナザレに住んでいた、ひとりのおとめ、マリアという人であったと、ルカの福音が告げています。

ガブリエルという天使から、「救い主の母となる」というお告げを受けて、「そのようなことがありえるだろうか。それは、とんでもないことではないか」と思ったが、「神にできないことは何一つない」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ138)とお答えになった。

最初の女性、エバの不信仰を帳消しにし、神と人間とのふさわしい関係を再構築し、もっと素晴らしいものにするために、イエス・キリストは来られましたが、イエスの誕生に協力したおとめが、マリアであったと、聖書は告げています。

神がわたしたちを大切に思い、わたしたちをご自分のもとに招いておられるということを、信じるということは、どのようなことだろうか。わたしたちも心のどこかで、疑いと不安が忍び寄ってこないだろうか。「どうして、このようなことがあるのだろうか。わたしたちを、どうして、このようなひどい目に合わせるのか」というような思いが兆すことはないだろうか。

現在、この世界には、さまざまな矛盾、不条理が存在し、暴力がまん延しております。今日、無原罪の聖マリアの日を迎え、神が、すべての人を救い、すべての人を聖なる者、けがれのない者にしようと望んでおられるという、聖書の言葉を、改めて、深く心に刻みましょう。

わたしたちは現代の荒れ野のような状態にあるこの大都市とその周囲に住んでいます。信仰、希望のうちに、神からの愛を深く受け止めることで、神への愛、隣人への愛を育み、強めていただけますよう、聖母に祈りをお献げいたしましょう。

第一朗読  創世記 3:9-1520
(アダムが木の実を食べた後に、)主なる神は(彼)を呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

 

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1:3-611-12
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

 

福音朗読  ルカによる福音書 1:26-38
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

« 神は全能で全知であるのか | トップページ | 神の選びと予定 »

コメント

私も、今日の朗読箇所を読んで、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」とは、いったいどういうことだろうととても不思議に思っていました。

「天地創造の前に」すでに神様が私たち人間を「愛して」おられた。キリストの前に、わたしたちを「お選びになっていた」とは、普通に考えたら順序がおかしいような、とても不思議なことです。でも、もし本当にそうだとしたら、それはすごいことだ、その「天地創造の前からの愛」ということを想像した時に、人間に対する神様の愛というものは、なんと時間を超えて深く、また大きなものだろうと思いました。

神はわたしたちを聖なる者、汚れのない者であることをお望みである、とあります。
つい昨日、私の前に一人の赤ん坊が誕生しました。産まれたての赤ん坊は裸ん坊で、何も持っていないし、何もできません。しようとも思っていません。
でも、何も汚れがなく、ただその存在だけで神様がくださった命そのものの美しさ、希望のしるしだと感じました。

今日の第一朗読
「あなたの足音が園の中に聞こえたので恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」
神は言われた「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか」

人間は成長していくにつれ、何を身につけ、神様から離れていってしまうのだろう、と思いました。

赤ちゃんのように、神さまが私たちを愛して、与えてくださった命そのものを受け取って、大切にしていけるように、
そのことで、命をくださった神様のしるしとなれるように、
赤ちゃんを見ながらお祈りしたいと思います。


天地万物を造られる前に神は私たちをお選びになった。神は、私たちを聖なる汚れのない者にしようとお望みになった。
ところが人間もその子孫もこの大自然も調和が失われた状態になり悪が蓄積されたので、あわれみ深い神は、これを贖い、聖なる状態、神の幸福に与かる状態にしようとして、主イエス・キリストをお遣わしになった。
この主イエス・キリストの誕生に協力したのが無原罪のままの聖母マリアである。

疑問や不安、いらだちのようなものをどうすればよいのかという私たちに対して、「神がすべての人を救い汚れのない聖なる者にしようと望んでおられる」 と信じることが私たちの信仰の中心である。 聖書のことばを深く心に刻むようにと導いていただいると思いました。
創世記の読み解き方についても、これまでに教えていただきましたので、聖書のことば、譬えなども、少しずつ学び、味わうことができるようになった気がしてうれしく思います。


 

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 神は全能で全知であるのか | トップページ | 神の選びと予定 »