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2020年12月12日 (土)

主にあっていつも喜べ

待降節第3主日A年

2020年12月13日

 

今日は待降節第三主日です。待降節第三主日は昔から「喜びの主日」と呼ばれます。(司式司祭は喜びを表す薔薇色の祭服を使用することができます。)

本日の入祭唱は今日のミサの趣旨をよく示しています。

「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)という言葉が述べられているからです。

さらに第二朗読でパウロは同じ趣旨を簡潔に述べています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(一テサロニケ5・16-18)

これこそ究極の福音とでも言うべき言葉ではないでしょうか。

パウロの生涯は困難の連続でした。それにもかかわらずそのパウロがこのように言っているとは、実に驚きであります。まさに復活されたキリストと共に生きたパウロの体験から滲みでてきたことばではないかと思われます。

本日の第一朗読では預言者イザヤが言っています。

「わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍(おど)る。」(イザヤ61・10)  

また本日の答唱詩編は有名な「マリアの賛歌」(マグニフィカート)です。

「わたしの心は神の救いに喜びおどる。」(ルカ1・47)

このように本日の聖書朗読は「喜び」をテーマにしています。

「喜び」とは非常に幸福であるという感情、良いことに出会い非常に満足し、嬉しいという感情であると言われます。喜びは人生の中で味わう幸福の感情ですが、happyという英語が示しているように、偶然与えられる儚(はかな)い喜び、という意味も込められています。

わたしたちは人生において度々喜びの体験をしますが、それは多くの場合、やがて儚く消え去る不確かな喜びにすぎません。人生にはむしろ悲しみの方が多いのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。」(1テサロニケ5・16)といわれても、「冗談ではない、なかなかそうは行かないよ」という気持ちになります。

この世界は過酷であり、人生は困難であります。この世界は、生きるのが難しい「荒れ野」ではないでしょうか。この世界は大きな闇で覆われているように感じることがしばしばです。

それでも例外的な人がいます。その人はいつも機嫌が良く、朗らかで楽しい人です。本当に羨ましい人柄ですが、そのような人は、「極楽とんぼ」と言われて、揶揄われることがあります。この言葉には、人生の真実は厳しいのだ、暢気にしてはいられないよ、という意味が込められているように感じます。

しかし、今日聖書が告げる「喜び」は人間としての自然の喜びではなく、信仰の喜び、厳しい現実があっても与えられる喜びです。イエス・キリストにおいて示された神の愛、無限の神の愛と出会い、愛の泉から受ける信仰の喜びです。(『福音の喜び』7)

 わたしたちの救い主イエス・キリストは激しい苦しもの中で悶えながら、天の父へ向かって「わたしの神、わたしの神、何故わたしをお見捨  てになられたのですか」という、断末魔の叫びをあげて息を引き取られたのでした。仏教の開祖釈迦牟尼ブッダのそれと比べて何という違いでしょう。ブッダは泰然自若、涅槃の境地のうちに最期を迎えたと伝えられています。ところでキリスト教は殉教者の宗教ですが、殉教者のなかには大いなる喜びのうちに処刑されたと言われている者が少なくはありません。主イエスはすべての人の人生の苦悩をいわば吸い取ってくださった方であると言えましょう。キリスト教は復活の宗教です。復活とは弱い人間性が不死の喜びの状態に挙がられることです。主の降誕を準備するこの季節、主の復活にも思いを馳せることは意義深いことです。

荒れ野に泉が湧いているように、この世界には永遠のいのちに至る泉が湧いています。夜の空に星が見えるように、世界の闇のなかに復活のキリストの光が輝いています。イエス・キリストは荒れ野の泉、闇の中に輝く光であります。

洗礼者ヨハネは、キリストを証しするために来ました。キリストによって建てられたわたしたち教会は、このキリストの復活のいのち、復活の光を表し伝えるための証人であり、人となられた神イエス・キリストによってもたらされた永遠のいのち、復活のいのちを証しするために派遣されているのです。

わたしたちは現代の荒れ野である大都会において、神を信じ神に祈る教会の姿を示し、また孤独な人,寄る辺のない人、病気や障害に悩む人の同行者、慰め励ます者、復活の希望の光を灯す者として歩んでまいりましょう。

 

―――

第一朗読  イザヤ書 61:1-2a、10-11
主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知(させるために)
わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ 園が蒔かれた種を芽生えさせるように 主なる神はすべての民の前で 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 5:16-24
(皆さん、)いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:6-8、19-28
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 

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コメント

岡田大司教様
突然の訃報に深い悲しみを覚えます。
今、たくさんの思い出が浮かんでまいります。
深い宇宙の一つの光り輝く星になり、これからも私たちを教え導いてくださいますよう聖霊の恵みを願い祈ります。
4月からの闘病生活の中で、「日本における福音宣教とは何か?」という命題に挑み続け、罪と悪と善の研究という奥深い考察を重ね、命を燃やされたかのように思います。
多くの著作を残してくださった教えを、「自分の言葉で語る福音宣教」を悟ることができますように、どうか私たち信者を見守ってくださいませ。

〇東京教区からのお知らせ
前東京大司教、ペトロ岡田 武夫名誉大司教は、12月18日(金)午後1時22分、頸部食道がんに伴う出血性ショックのため東京医科歯科大学付属病院にて帰天されました。享年79歳でした。お祈りください。

葬儀・告別式等の詳細に関しては、追ってご連絡いたします。
https://tokyo.catholic.jp/info/diocese/40861/

ありがとうございました

どうぞ安らかにおやすみください

ことばにできない深い悲しみに打ちひしがれています。

突然のご逝去の報に接し、在りし日のお姿を偲びつつ、ご冥福をお祈りいたします。

私がまだ幼い頃、柏教会の日曜ミサのお手伝い、教会学校と大変お世話になりました。

今では教会への足も遠くなりましたが、当時の岡田神父さまに頂いた数々のお言葉やをしっかりと心に留め、進んで参ります。
どうもありがとうございました。 御父のお側でどうぞ安らかにお眠りください。

司教さま

もっとたくさん、最後に取り組んでいらしたご本のお話しもうかがいたかったです。
信仰について、私のわからないことも、たくさん聞いていただきたかったです。

苦しみの極みの中で残して下さったメッセージ
「主にあっていつも喜べ」を
お姿と共にこころに刻みます。

どうぞ安らかにお休みください。

本当にありがとうございました。


岡田大司教様から「202012月17日」夕方に送信されてきた原稿を転載させていただきます。
ブログに載せるはずだったと思われます。
絶筆となりました。

幼子殉教者メッセージ

神義論 4 さらに「神義論」を考える

自然災害と神の善
神は完全に善に善であるならなぜ自然災害が起こるのか?

この疑問にとして以下のような回答があったとしたらどう応答できるか。
  ライプニッツは次のように考えたと言われています。
  「神は無上に賢明で善であるのだから、可能な限りの最もよい世界を創造したはずだ。
   もし神を信じるならば、われわれは考えられる最善の世界に生きているのだということを受け入れるべきだ。」(シュトッシュ『神がいるなら、なぜ悪があるのか』88-89㌻より。)
これは信仰に名を置くはなはだ一方的な論議です。「神は善であるから神の造ったこの世界
を最善のものとして受け入れなさい」とは、神が善であるのになぜ悪があるのか、という問
題への回答にはなっていないのです。悪の存在は神の善を否定するのではないか、という疑
問に対して、「いや、神は善だから問題ない」という答えは答えにはなっていない、という
べきです。循環論法の堂々巡りにすぎません。

宇宙は自然法則によって運航している。人間の自由はこの自然法則の上に成り立って
いる。たとえば、地面に穴が出現するというような、何の法則性のない出来事が頻繁に
起きるならば、人間は自由に安心して交通することができない。自然法則は予測可能な
法則である。自然災害はその自然法則が引き起こすのであり、自然法則がある限り自然
悪は避けられない。(同著、93-95㌻より。)

この論理には納得できません。地震は自然法則が引き起こすのであり、自然法則は神が創り支配しているとすれば、地震の原因は神自身にあると言えることになります。ですから神義論の立場から言えば、むしろ神には不利な議論になります。

自然の変化はすべて神の定めた法則によって成立し進行している。今の世界は最大量
の幸福と善、最小限の不幸と悪によって構成している。
問題のない世界は在りません。新しい問題を生むことが全くない、物理的・肉体的に人
間を改善できる、深刻な問題を生じないで済む解決策が果たしてあるでしょうか。
病気について考えてみると、仮に癌を引き起こす病原菌が絶滅するとすれば、それは人
類の福祉への大きな貢献になるが、他方既存の世界と自然の調和と秩序に微妙な影響
を惹起する事になり現状より良好な世界は保障されない。地震、津波、台風、旱魃、洪
水などの自然災害は人類には多大の損害をもたらすが、それでも現状が最善であると
言わざるを得ない。これらの災害は自然法則によっておこるのであり、自然法則は神の
決定した法則であり、神といえどもこれ以上の善である法則を定めることはできない
善である神はこれ以上の善はあり得ない世界が創造した。世界は諸法則の調和の上に
のである。
自然悪、苦しみ、痛み、死とは、行動に進化した生命が不可避的に支払う代償である、
という説明もあります。(同書、102㌻)

この回答は妥当でありましょうか。現状を改善し改革するために神は絶えず聖霊を送り、地の表を新たにしているのではないか。そして我々は「新しい天と新しい地」を目指す旅をしているのではないか。地震は自然法則が必然的に原因となる災害であり、現状がせいぜいの最善であるという理論は到底、受け入れ難い。神義論から言えば、何ら神の正義を弁護していることにはならないと思われます。
他方、人間が進化するためには支払うべき代償があったという理論の方は無視できない説得力があると思います。

それでは、自然災害と自然法則が不即不離であるとして、神はそのようにならないような自然法則、人間の苦しみをより少なくする自然法則を造ることはできなかたのでしょうか。

自然悪は人間の進化と自由の代償である、自然悪はいわば副産物であり、人間の向上と自由と不足不可分である、という考えを、一応、認めると仮定して、次の問題は、それでも、人間には「自由意志」があるのか、という問題が出てきます。

自由意志はあるのか

人間には果たして自由意志はあるのでしょうか。
脳科学の立場から次のような主張がなされています。

精神的現象はすべて神経細胞の働きに帰着する。人間の思考作業は結局人間の脳から
生じるものであり。自由意志による自己決定などは存在しない。(同書、114㌻より。)
もしそうなら、人間の行う悪行は人間の自由意志によらないのだから、そのような人間
を造った神の責任である、ということになり、神義論は破綻します。

分析哲学の視点から
仮に人間が何時も善に向かうよう操作されているとしたら、結局は神から与えられた自由が帳消しにされてしまうだろう。その人は自分のアイデンティティを確立することはできなくなってしまう。この場合、人間の悪行は人には不可避なのでその人に責任を問うことはできない。
しかしそれでは1921年の宗教改革はマルティン・ルターの場合はどうだろうか。ルターは神聖ローマ帝国の議会において自説の撤回を求められて拒否して言ったと伝えられえています。「わたしはここに立っています。ほかに何もできません。」この彼の答えには他の選択の余地はありませんでした。この意味は彼には自由はなかったのですが、この彼の結論はその時までに時間をかけて形成されたものです。彼は自由に年月をかけて「自己決定的意思決定」をしてきたのでした。ですからルーテルの「否」は有る年月掛けた熟慮と祈りの結論であったので、その決定には彼自身の充分なる責任があるわけです。
他方、奇妙なことかもしれませんが、ルターは、人間と神の間には自由が在り得ないという命題を主張しています。これは負う言う意味か。彼は神の恩恵の一方的な授与に前に人間委には何の功徳もないと言おうとしたのだろうと思います。人間はその存在の根本まで罪に汚染されているので、神にふさわしい状態に在ることは不可能であると断じます。しかしここで疑問があります。神の恵みの前に腐敗しきった罪人であるとすると、その罪人を義としてくれる神を信じる、その信仰は、他の誰でもない、その人の信仰です。神の赦しを信じるのはその当人です。信じるか信じないかはその人の問題であり、その人に自由にかかって居るのではないでしょうか。信じる主体の信仰は他の人が代替できません。それとも、信仰の主体にかかわりなく神は人の罪を覆い救うのでしょか。信仰の応答なしに神は人を赦し救うのでしょうか。(カール・バルトの救済論をそのように理解してよいでしょうか。)
信仰による自由な従順(ローマ参照)を通して人は救いへと導かれるとわたしたたちは信じています。信じて義とされ義とされて聖とされるのです。聖とされる人は神の聖性=聖霊に導かれて生きます。聖霊にとらえられた人には聖霊から逃れる自由はありません。ルーテルが言っているのはその意味でしょうか。聖霊に満たされた人には聖霊に逆らうという自由はないです。そのような意味なら、霊の人には自由はありません。「文字は殺しますが、霊は生かします。」
   神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与
えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。(ニコリ3・6)
霊に導かれた人は霊の実りをもたらします。
     霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5・22)
しかしキリスト者の自由は不完全な自由です。というのは、彼は、いつも、何処のいても完
全に霊の人になり切っているわけでないからです。彼には「肉の業」が残っているからです。
     わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そう
すれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 肉の望むところ
は、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合って
いるので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。 しかし、
霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかで
す。それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒
り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもので
す。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行
う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 (ガラ5・16-21)

キリスト者とはキリストの霊に従って歩む人です。その限りにおいて彼は霊の人であり、霊に逆らう自由はありません。しかし、聖化の進行中の者は霊と肉との葛藤に置かれているのです。わたしたちは神に出会い捉えられたときにすでに信仰により応答するかどかを決定しさらにそのあとでは、神への応答をどのように維持するのかという態度を決定をし、それ
を維持するのです。そのことを使徒パウロは、霊に従う生活、霊的生活と言っているのです。

自由意志による擁護論

自由意志による擁護論は、神の全能をどのように考えるかということから出発します。そして、全能とは、被造物に自主性と自由が与えられているというところに行き着きまました。それでは、神が自由であるということと、被造物が自由を持っているということと両立するでしょうか。被造物の自由は神の自由と抵触する自由であってはならないのです。それは「自由」を以下に定義するかにかかっています。
クラウス・フォン・シュトッシュの『神が居るなら、なぜ悪がるのか』現代の神議論(以下、《現代の神議論》と略称する。)の第5章、三 「自由意思を保った場合に苦しみが減少する可能性」を読解しながら筆者・岡田の理解を述べてみます。
著者は次のように述べている(ように読める。)
自由意思とは結局のところ善を行うものなのでしょうか。あるいはなるべく苦しいことを避けようとするものなのでしょうか。(現代の神議論、150㌻)
苦しみの量を減らすことによって、果たして神への信仰をより納得に行くものにすることができるのでしょうか。(同著、150-151㌻)

以下の「三」においても同様な議論が展開されているのですが、理解困難です。言葉の意味が多義的で曖昧なので議論が堂々巡りになっている感があります。

「自由」とは何か。ルターの言う「キリスト者の自由」を意味するなら、キリスト者には自由はない、ということになります。ルターは、人間は聖霊に支配されるか悪霊に支配されるかのどちらかに状態にある、と言っているようです。人間には聖霊の促しに承諾する自由はないのでしょうか。確かに人は神を信じ、あるいは神を信じない。信じる主体はその人です。
この際ルターの言う「自由」という言葉は使用停止にし、あるいは棚上げにしないと議論が混乱します。人間には神の呼びかけに心を開くこともあり、閉ざすこともあります。神と言わなくとも、善悪を判断し選択する可能性を持っています。(持っていると考える立場がある。)
現実に悪が存在します。人は何をももって善と考え何をもって悪を考えるのか。その判断の時に「良心」が働きます。良心とはConscience 、語源から言って共に知るということ。人には自分で選択できないことがあります。いや大部分が、人生において自分での選択肢に入っていないのです。そもそも生年月日、出生地は、そとから与えられたものです。

  知的に理解可能な根拠に基づいてさまざまな可能性から何かを選択するというのは、
そとからの関与を受けずに、つまり当事者が自律的に何かを決定することによってのみそういうものだと言えます。この事実は、外からの操作による介入とまったく相容れません。ですから、私たちが自由である可能性に対して、わたしたちが悪より善を選ぶことが多いように神が操作を加えるというのであれば、厳密にいえば、その神はわたしたちに自由を尊重しているとは言えません。あるいはまた、神というのは、わたしたちが自由を乱用しないように、自由そのものに原理的な限界を設けているのだという想定は、自由および可能性という概念の本質に矛盾しています。人間が自由であるということには、本質的に限界などありません。(同書、現代の神議論、151㌻。)

これはさらに不可解な論の展開です。
神は人間に判断し選択する能力を与えたのではなかったか。この能力、可能性を「自由」と呼ぶなら論理が混線します。人間に善しか選択しないようには出来ていないのです。(それを原罪と呼ぶ。)神が人間に「自由」を与えたという前提は何を意味しているのでしょうか。信仰の立場で言えば、神は人を励まし奨め導きます。これは信仰の真理です。神の方かあの人への働きかけという真理を干渉と操作というように解釈するのでしょうか。著者は、
1)人間は自由である。
2)人間の自由には限界がない。
と主張しているのでしょうか。それとも自分の考えでない誰かほかの人の説、あるいは考え得る仮説として展開しているのでしょうか。

いずれにせよ、
1) 神は神から操作ないし干渉されるものとして人間を造っていない。
2) したがって神は人間のかかわる悪(自然悪、道徳悪、有限な人間性)に無関係であり、神が義であることに問題はない。
と著者は述べているでしょうか。

他方、「愛」と前提である「自由」は被造物が支払うべき代償であるという考えには納得がいく部分があります。愛は自発的で自律的であってこそ価値がある、と考えます。人が、愛を選択できたのは、他の人々のおかげであり、神の恵みによるという考え方とも両立可能であります。この場合に「自由」という用語の使い方に十分に留意しなければなりません。愛とは端的に言って、人の善のために苦しむことだからです。

アウシュヴィッツの大虐殺を思い浮かばながら、結局、世界の悪は人間に原因があるのであると結論つけることは何の解決ももたらしませせん。神が善であるという前提を厳守するための苦し紛れの理論ではないでしょうか。
神が善であるので悪は存在しない筈である。
この命題に立ち帰る再検討するしか、この袋小路を出る道はないと思われます。「…筈である」とはどういう意味か。

神が善である、とはどう意味か。
悪は存在しない筈だ、という理論は棚上げする必要があります。
全知、全能,完全に善である神がその神の聖性を一部でしか、実現していない、という事実の率直に認めることが必要です。

「現代の神義論」はキリスト者の信仰に触れること少ないようです。著者は神義論の議論を展開するために論点を整理し、に五つの仮説を展開しています。
それ次のように展開しまし。(144-145㌻、筆者岡田による言い換え)
1) 人間には善悪を判断し選択する可能性をもっている。
2) 人は道徳的に正しい選択をすることが出来る。
3) 人間は道徳的過ちを侵す。
4) 善の選択が悪の選択を上回る可能性がある。
5) キリストへの出会いは、人生の最後において、あらゆる苦悩・悲惨・不条理の体験にも関わらず、人生には意味があることを教える。

2011年3月11日勃発の東日本大震災にさいして日本の少女が教皇ベンディクト十六世にお願いした質問に教皇が誠実に回答したことは非常に感動的でした。(注1)

ドストエフスキー―のカラマゾフの兄弟のイワンの提起

J.B.ラッセルは「悪魔』というタイトルの著書を現わし、イワンが述べている、到底受け入れ難い悪魔的所業を紹介している。(1-2の挿話)
1)嬉しそうに笑いながら無邪気にピストルを取ろうとして小さな両手を伸ばしている幼
に引き金を引いて小さな頭をめちくちゃにして喜ぶ兵士の悪魔的行為。
2) 教養ある両親がお漏らしをした5歳の自分の子を極寒の便所に閉じ込め自分の排せつ物を無理やり食べさえるという話。
3) 猟犬に食い殺される下男の子どもの戦慄する挿話。二千人の農奴を抱えた引退した将軍の下男の息子8歳が石投げ遊びをしていて将軍お気に入りの猟犬の足に怪我をさせてしまった。将軍はその男の子を捕らえ、夜明けとともに猟の体制を整える。子どもは裸にされて引き出され、母親の見ている前で猟犬をけしかけ、犬たちは母親と召使の見ている前で子どもを食い殺してしまった。(ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』2、亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫、239-24

このドストエフスキーの提出している問題は実に深刻です。
信仰者は死後の神の予定調和と死後の報いという信仰理解に、この問題の理解を求めています。イワンにしてみれば、人間は罪深いものだから、地上の生涯の間に、そのような大虐殺などに出会っても仕方がないが、罪を犯す前の幼児、子どもがそのような苦悩を受けなければならないことには納得できないと言っています。幼子が死後において報いを受けるから神の見逃しは受容できる、とは人には思えない、と言っています。信仰者はこのイワンの抗議にどうこたえることが出来るでしょうか。そいえば、ナザレのイエスの誕生に際して、ヘロデ王は罪なき幼子を虐殺したのでした。
   
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
   (マタイ2・16-18)「

さて、四福音書の中でマタイだけが伝えるこの惨事をわたしたちはどう受け取ることができるのでしょうか。この子どもたちはたまたまイエスの誕生の巻き添えになったわけです。


(注1)エレナさんの問い
2011年3月11日、東日本大震災が起った時、日本の7歳の少女エレナさんが教皇ベネディクト十六世に質問を送ったということがカトリック中央協議会を通して報道されました。
「どうしてわたしはこんな怖い思いをしなければならないのでしょうか。なぜ日本の子どもたちが深く悲しまなければならないのでしょうか」
でした。
教皇の答えの要旨は次の通りです。
「どうして皆さんがこれほど苦しまなければならないのか、わたしには答えることができません。でも神様は皆さんの側にいてくださります。神様は皆さんを助けてくださいます。いつかこの苦しみがなぜ起ったのか、わかる時がくるでしょう。」
 非常に感動的なエピソードです。
 人は幸せな時、楽しい時、「なぜ、自分はしあわせなのか」と問うことはあまりありません。しかし苦しい時、悲しい時、つらい時、「なぜ、自分はこのような目に会わなければならないのか」と思い、自分に問い、他者にも問い、神にも問うことになるのです。
 このエレナさんの問いは実は非常に重大な神学上の問題を含んでいると思います。神が創造したこの世界になぜ災害という恐ろしいことが起こるのでしょうか?創世記一章によれば、神は六日間にわたって天と地、一切の被造物を創造されました。
 神は第一日目に光をつくられ、光をみて「良し」とされました。
 第二日目には天と地、海をつくられ、これを見て「良し」とされました。
 以下第三日目、第四日目、第五日目とつづき、第六日目にはわたしたち人間を御自分にかたどり、御自分に似せてつくられ、これを「良し」とされました。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(創1.31)
 「良し」とされ、「極めて良かった」とされているこの世界。しかしこの世界には災害がおこり、また犯罪も絶えません。なぜでしょうか?この世界の現実と神の創造の関係をどう説明できるでしょうか?
わたくしは、東日本大震災が起こった時、ローマ書の8章のパウロの言葉を思い出し、何度もその意味を考え黙想しました。次のような言葉です。
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは自分の意志によるのではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光と輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ローマ8・19-23)
実に不思議な言葉です。被造物も解放され贖われる時を待ち望みながらうめいている、というのです。この「うめき」とは何でしょうか?わたくしはどうしても自然災害を想ってしまいます。全能の神の造ったこの世界になぜ災害犯罪などの悪が存在するのか。この問題を一緒に考えてみませんか。

岡田大司教さまの絶筆となった原稿を掲載していただきありがとうございます。ブログをもう心待ちにすることもできないと思うと涙が滲みます。大司教様に一度もお目にかかることもないままになってしまいましたが、お教えいただき、お導きいただいたことを糧に信仰の道を歩むことができるようになりますように祈りたいと思います。 


kusano kyoko様
どいう方かだろう?と司教様が口にしていらっしやいました。
昨年からずっとコメントを続けて寄せていただいて喜んでいらしたと思います。
このブログをずっと保存していただけると良いのですが?
多くの方がこれからもコメントを寄せることができるようであればと思うと、
なんとかしたいですね。


yuzuyuzum 様

 ありがとうございます。保存させていただきます。
 今後もブログを通していろいろお話したり、分からないことをお聞きできたらうれしいです。
 

岡田大司教様

大司教様の突然の訃報に接し、深い深い悲しみを隠さずにはいられません。
いつもいつも謙虚でいらしたそのお姿を思い起こすたびに深い尊敬の念を思い起こしますし、このブログもいつも楽しみに拝見しておりました。
どうぞ御父の傍で安らかにお休みください。
そしてどうか私たちのためにお祈りください。

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