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2020年12月 9日 (水)

神の選びと予定

原稿 18 神議論3

 

神はすべての人の救いを望んでいる。―――神の選びと予定

 

二重予定説

多くの信者を悩ませた神学理論に「二重予定説」があります。これは、神はある人々を救いに予定しある人々を滅びに予定しているという説です。もしや自分は「滅び」の方に予定されているのではないかとかんがえる信者を恐怖と不安に陥れた恐ろしい思想でした。

二重予定説はアウグスチヌスに遡るとされます。宗教改革者カルヴァンが引き継ぎ、その後継者がさらに明確に普及させた、と言われています。筆者の若い時にこの教えに出会い、運命論と宿命論と相俟って多いに悩まされたものでした。

アウグスチヌスの予定説は、ペラギュウスとの論争と彼個人の体験によって形成されたようです。およそ次のように説きました。

人間は誰しも生来罪深い。人が救われるのはただ神のあわれみの恩恵によ る。人には神から恩恵の賜物を受ける資格は何も持っていない。神はただ憐れみによって人間を救う。神が誰に恵みを与えるのかということは全く神の自由に帰する。神は自由に、人を選んで、憐れむべきものだけを憐れむ。誰を選ぶかは神の専権事項であり、人間の関与するべきことではない。

その結果、選ばれて恵みに与る者だけが救われるという結論になります。「アウグスチヌスが、これはある人々が地獄へと予定されているという意味ではないということを強調しているのに注目することが重要である。」(マグダラスの同書、636㌻)と弁護されています。ある人々だけは救いに予定されている、ということは、ある人は救われないという論理に結び付きます。ここから「二重予定説」へと論理が展開することになりました。

アウグスチヌスの予定説の特徴は予定に無条件性とて徹底した恩恵論にあり、神の絶対的な主導性と塗動性、恩恵の非撤回性、そして限定性であった(限定性とは限定された選ばれた人々の身が救われ、残りの人は原罪の状態のまま取り残されるという考えのことである。)(『新カトリック大事典』よてい 予定の項、J.アリエタ、石井祥裕担当)

ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』で次のよう人述べています。

 「われわれが予定はと呼ぶものは神の永遠の定めであって、それによって神は各人が何をなすことを自ら望むかを決定した。というのも神はすべての人間を同じ条件に造ったのではなく、ある者は永遠の生命へ、他の者は永遠の断罪へと定めたからである。」(『新カトリック大事典』予定)

 

わたしたちは神の予定についてどう考えるべきでしょうか。

まず確認すべき事項は、神の普遍的救済意志であります。

 

神の普遍救済意志

 

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(一テモテ24-

 

神は例外なくすべての人の救いを望んでいる。これは絶対にゆるぎないキリスト教と聖書の基本的なメッセージです。この命題を否定すれば、キリスト級の土台が崩壊することになります。

それでは、すべての人は例外なく救われるのでしょうか。どんな罪人も、どんな不信仰なものも救われるのでしょうか。この点に関して聖書は沈黙しています。神は人を救いへと強制することはしません。神は救いへの呼びかけ(先行的恩恵)への応答を促しています。しかし、すべての人の救いを望む神はすべての人の救いの道を開いたはずであり、すべての人が救われる機会と可能性を提供しているはずであります。人間には、誰が救われ、誰が滅びるか、を地上で知ることはできません。それは神のみが知る神秘です。

ところで有名な新学者カール・バルトは次のような興味深い説を唱えています。

  カール・バルトによれば、「神の予定はイエス・キリストの選びである」という主張から成り立っている。

  そして「選び」とは二つの選びであり、それは「選ぶ者と選ばれた者」から成り立っている。

  1. 神は人間の友また仲間となる事を選んだ。
  2. 神は人間の贖いのためにキリストを与えた。
  3. 神は人類を贖うために自らを低くし、恥を受けるという道を選んだ。
  4. 神は我々から裁きの否定的側面(棄却、断罪、死)を取り去ることを選んだ。
  5. そこで、神による棄却は二度と人間の分け前・事柄となることはない。それは、罪ある人間の負うべきであったものをキリストが代わりに負ったからでる。
  6. 従って人間は弾劾されることはあり得ない。恩恵は不信仰にも勝利する。

このバルトの見解は人を驚かせまず。これは、救われない人はいない、という意味だろうか。不信仰の罪にさえ、イエスは打ち勝ち、万人を救済する、と言っているのだろうか。※

神の選び

 

聖書は「選び」の書であります。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル・・・彼らは実に「選ばれた人」であった。彼らが選ばれたのは自分自身のため、彼ら自身の繁栄、名誉、栄光のためではなかった。むしろ彼らの受ける迫害、攻撃、恥辱、不名誉、苦難のためであった。彼らを通して神の愛、神の光、神の恵みが伝えられるためであったのです。

そして誰よりも、ナザレのイエスとその母であるおとめマリアは神が選んだ器でありました。

おりしもいま典礼は、待降節である、128日は無原罪の聖マリアの祭日であります。

この日の第二朗読はエフェソ書です。

 

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 1:3-611-12
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

 

実に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ14)

(この箇所を神の二重予定説の教理の聖書上の根拠とするのは実に本末転倒であり、筋違いであります。)

天地創造の前から、神はわたしたちをすでに知っていて、わたしたちをお選びになった、と言っています。人間は、誰しも、「わたしは、どうして、この世に来たのか。何のために生きているのか。そして、どこに行くのか」という、非常に大切な問いを持ちます。

天地万物を造られる前に、神はわたしたちを、すでにお選びになったという言葉は、驚くべきみことばなのですが、わたしたちは、そのような驚くべき信仰をしっかりと持っているでしょうか。神はわたしたちを聖なる者、汚れのない者にしようと、お望みになったのであります。

自分の今の状態はどうでしょうか。聖なる者、汚れのない者と言うことができるでしょうか。わたしたちは日々「主の祈り」を唱え、「わたしたちを誘惑におちいらせず 悪からお救いください」と祈っています。

悪、あるいは罪から免れますように、罪に染まらないようにと、わたしたちは願い、祈っています。

神の創った人間とこの世界はすべてはなはだよい世界であるはずなのに、どうして、罪、あるいは悪というものが、人間と世界のなかにあるのか。あるいは、この世界にあるのでしょうか。それは、深い謎であり神秘であると思います。

神がわたしたちをお選びになったのは、わたしたちを通して神の救いの恵みを広く人々に指し示すためでした。わたしたたちが無原罪の聖マリアに倣う者とし、罪の汚れに染まらない者となり、神の救いの地上におけるしるしとなり希望となるためでありました。

 

 「無原罪の聖マリア」の祭日A年の第一朗読は、創世記39-15,20、でありまして、大変大切であり興味深い教えです。

創世記は、いつごろ、どのようにして、編さんされたのでしょうか。すでに、イスラエルの民は、さまざまな現実、胸を引き裂くような、辛い、悲しい、酷い悪の現実を、十分に見聞きしていたのでしょう。創世記の中ですでに人が人を殺したり、人を傷つけたりします。

男性と女性の関係も、必ずしも、うまくいかない。男性と女性を造られたときに、お互いの存在を、大変大きな喜びであり恵みであると思った。しかし、途中で関係が捩れてしまう。

この世界、この自然も同じで、神の恵み、人間を養い、育てるために、本当に、優しく、温かい環境であったはずなのに、人間を苦しめ、痛めつける環境となってしまった。どうしてだろうか。彼らはこの謎を解こうと考えたのかもしれません。

そこで、今日、改めて、耳に入った言葉、創世記314節の「呪われるものとなった」という言葉に注目したいと思います。

何が、誰が呪われる者となったかというと、蛇です。そして、呪われた蛇と関連して、わたしたち、人間も、その子孫も、そして、この大自然も、調和が失われた状態になってしまった、と創世記は述べています。

あわれみ深い、主なる神は、この自然と人間を購い、元の状態(楽園)以上に善い、聖なる状態、神の幸福に与る状態にしようと、お望みになり、主イエス・キリストをお遣わしになりました。そこに、わたしたちの信仰の中心があります。

その、主イエス・キリストに、最もよく協力した女性として、聖母マリア、今日の福音では、ナザレに住んでいた、ひとりのおとめ、マリアという人であったと、ルカの福音が告げています。

ガブリエルという天使から、「救い主の母となる」というお告げを受けて、「そのようなことがありえるだろうか。それは、とんでもないことではないか」と思ったが、「神にできないことは何一つない」と言われて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ138)とお答えになった。

最初の女性、エバの不信仰を帳消しにし、神と人間とのふさわしい関係を再構築し、もっと素晴らしいものにするために、イエス・キリストは来られましたが、イエスの誕生に協力したおとめが、マリアであったと、聖書は告げています。

神がわたしたちを大切に思い、わたしたちをご自分のもとに招いておられるということを、信じるということは、どのようなことだろうか。わたしたちも心のどこかで、疑いと不安が忍び寄ってこないだろうか。「どうして、このようなことがあるのだろうか。わたしたちを、どうして、このようなひどい目に合わせるのか」というような思いが兆すことはないだろうか。

現在、この世界には、さまざまな矛盾、不条理が存在し、暴力がまん延しております。今日、無原罪の聖マリアの日を迎え、神が、すべての人を救い、すべての人を聖なる者、汚れのない者にしようと望んでおられるという、聖書の言葉を、改めて、深く心に刻みましょう。

わたしたちは現代の荒れ野のような状態にあるこの大都市とその周囲に住んでいます。信仰、希望のうちに、神からの愛を深く受け止めることで、神への愛、隣人への愛を育み、強めていただけますよう、聖母に祈りをお献げいたしましょう。

 

※(注1)

このカール・バルト理解に対してバルトの専門の研究者はどう答えるのでしょうか。微力で浅学にて、今の筆者にはこれ以上研究する余裕がありませんが、どなたかご教示いただけないでしょうか。カール・バルトは万人救済を唱えたのでしょうか。それともそれは誤解でありましょうか。

 

(注2)無原罪の聖マリアの祭日のミサの第一朗読ならびに福音朗読の本文は以下の通りです。

―――

第一朗読  創世記 3:9-1520
(アダムが木の実を食べた後に、)主なる神は(彼)を呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」
アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。

 

 福音朗読  ルカによる福音書 1:26-38
(そのとき、)天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

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コメント

大司教様
澤田神父様が9日で101歳になられましたね!!101歳、字面だけですごいです、笑。
大司教様が体調が良いときにまた会いに行くのを楽しみにしてます!!

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