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経済・政治・国際

2020年3月29日 (日)

姦通を告発された女性

四旬節第5月曜日ミサ朗読――姦通の女

 

ダニエル書補遺.ダニエルの智慧によって一人の女性、二人の醜悪な長老の仕掛けたえん罪から救われる。

ヨハネの福音の姦通の女の救い。こちらの物語も補遺という説。こちらもユダヤ人の指導者である律法学者とファリサイ人の仕掛けた罠からイエスが姦通の女を救った次第。姦通の相手の男性はどうなったのか?律法学者とファリサイ人の目的はイエスを二律背反のジレンマに追い込むことにあった。女性はそのための道具でしかなかった。何という醜悪な悪だくみだろうか。両者に共通している点は何か。長老、律法学者、ファリサイ派の人々の身勝手で醜悪な在り方。人間の罪深さ。互いに罪深い者であることを知ることが救いへの道ではないか。

 

第一朗読  ダニエル書補遺 スザンナ 1-9.15-17.19-30.33-62
(その日、集まっていた人々は、スザンナを)死罪に定めた。すると、スザンナは、大声で叫んだ。「ああ、永遠の神、隠されたことを知り、あらゆることをその起こる前から知っておられる方よ。彼らがわたしについて偽証したことをあなたはご存じです。御覧ください。この人たちが悪意をもって作り上げたことをわたしは何一つしませんでした。それなのに死なねばなりません。」主は彼女の声を聞かれた。彼女が処刑のために引かれて行くとき、神はダニエルという若者の内にある、聖なる霊を呼び覚まされた。彼は大声で、「わたしは、この婦人の血について責任はない」と叫んだ。それで、人々は皆、ダニエルの方を向いて、「あなたが言ったことは、いったい、どういうことなのか」と言った。ダニエルは人々の真ん中に立って言った。「イスラエルの子らよ、あなたがたは、それほど愚かなのですか。究明もせず、真実も知らずに、イスラエルの娘を断罪するのですか。もう一度、裁きの場に戻りなさい。なぜならこの二人は彼女について偽証したからです。」そこで、人々は皆、急いで戻った。ほかの長老たちはダニエルに言った。「こちらへ来て我々の真ん中に座りなさい。そしてわたしたちにはっきり言いなさい。神があなたに長老の特権を与えられたのだから。」

ダニエルは彼らに言った。「あの二人を遠く引き離してください。わたしが審問いたします。」それで、二人が別々に引き離されると、ダニエルはそのうちの一人を呼んで言った。「悪の日々を重ねてきた老いぼれよ、今や、あなたが過去に犯した罪の報いがやってきた。主が、『罪なき人、正しい人を殺してはならない』と言っておられるにもかかわらず、あなたは不正な裁きを行い、罪なき人を断罪し、責めある者を見逃した。あなたが彼女を見たと言うのなら言っていただきましょう。二人が一緒にいたのはどんな木の下でしたか。」それで彼は、「乳香樹の下だ」と答えた。ダニエルは言った。「まさしくあなたは致命的な偽証をしたのだ。今や、神の使いが、神の判決を受け取り、あなたを二つに裂く。」次にダニエルは彼を去らせ、他の一人を連れて来るよう命じた。ダニエルは彼に言った。「カナンの末裔よ、あなたはユダ族の子孫である資格はない。あなたは美貎に目がくらみ、欲情に心を迷わせた。あなたたちはいつもこのように、イスラエルの娘たちにしていたのだ。彼女らは恐ろしさのあまりあなたたちに身を任せた。しかし、ユダの娘の中に一人、あなたたちのよこしまなふるまいに、屈服しなかった者がいる。さて、わたしに答えていただきましょう。二人が一緒のところをあなたが捕らえたのは、どんな木の下でしたか。」彼は、「かしわの木の下だ」と答えた。ダニエルは言った。「まさしくあなたも致命的な偽証をした。神の使いが剣を持ち、あなたを真っ二つに切り裂こうと待ち構え、あなたたちを討ち滅ぼす。」すると全会衆は大声で叫び、神を、すなわち御自分に望みを置く人々を救われる神を賛美した。人々は二人の長老に対して立ち上がった。なぜなら、彼らが偽証人であったことをダニエルが彼ら自身の証言によって明らかにしたからである。人々は二人がその隣人を陥れようとしたのと同じことを彼らに対して行った。すなわちモーセの律法に従って二人を死刑に処したのである。こうしてこの日、無実の人の血が流されずにすんだ。

福音朗読  ヨハネによる福音書 8:1-11
(そのとき、)イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女

が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。生きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 

 

 

2020年3月21日 (土)

3/15主日説教

四旬節第3主日 A

    3月15日

    本郷教会

 

第一朗読:出エジプト記 出エジプト17・3−7

第二朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙

福音朗読:ヨハネによる福音 ヨハネ4・5−15、19b–26、39a、40–42

 

説教

 

今年の四旬節第3主日は、世界的にコロナウィルスの感染が心配されている中で、ミサは原則として献げないようにということになっております。そういう状況の中で、今日聴いた聖書の言葉、福音の言葉はわたしたちにどのような意味をもたらしてくれるでしょうか。

 

わたくしは第一朗読に、特に身につまされるような響きを受け取っています。イスラエルの人々はモーセに率いられて、エジプトを脱出し、荒れ野に到り、シナイ山から神の掟、十戒を授かりました。喜び勇んで出発したけれども途中で困難を感じている。食べるものにも事欠く、喉が渇く。次第に彼らの心の中に疑いの心が生まれ、そして強くなっていったのだと思われます。彼らはモーセに向かって不平を言った。

「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも殺すためか。」モーセは非常に悩みます。そして神に訴えると、ホレブの岩から水を湧き出させることができました。モーセがホレブで岩を打つとそこから水が出て民が飲むことができるようになりました。その場所をマサとメリバと名付けた。マサとは「試し」という意味であり、メリバとは「争い」であります。

イスラエルの人々は、「果たして主はわたしたちの間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、主を試したからである、とあります。「主は我々の間におられるのか」というこの言葉の中にイスラエルの人々の神への信頼が揺らいでいることが表されている。

 

福音は有名な、サマリアの女がイエスから信仰をいただいたという話であります。ご承知のようにイエスとサマリアの女の間には大きな隔たり、というか障壁がありました。ユダヤ人とサマリア人の関係、それからさらに当時の世界で一般的であった、男性と女性という関係の中に大きな障害があったのであります。今日の話はその二つの障壁を乗り越えて、というか壊して、まことの神への礼拝に至ったという話であります。

サマリアの女は言った。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」この「サマリア人」「女」というこの言葉の中に二つの隔たりが示されている。しかしイエスはこの障害を乗り越えて、この女性をまことの神への信仰に導かれました。この二人の対話を振り返ると、女性のほうは、最初はまじめに受け取っていないようで、からかい気味のふざけたような言葉と感じられるような彼女の応答でありますが、次第に引き込まれて、そして、イエスを預言者、そしてメシアと信じるようになった次第が語られます。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」とイエスは言われました。第一朗読の岩から出てきた水、そしてこのサマリアの女に言われた、イエスが与える水に共通点があると思われる。イエスが与える水、それは永遠のいのちへと導く水であり、そしておそらく、第2朗読でいわれている、信じる者に注がれる神の愛、聖霊のことを言っていると思われます。

パウロは言っております。

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 

ここで今、わたしたちは自分自身のことを思わなければならない。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの人々、それから、イエスに出会ったサマリアの女性、その過去の出来事を振り返りながら、今、わたしたちはあらためてわたしたちの信仰を確かめる時が来ている、と。特別な時を迎えていると考えます。なにしろ、迫害のためにミサを献げられないということはあったが、教会が自分達の判断でミサを献げないことを原則とされた日はほんとうに珍しいことであります。そして多くの人が、いろいろなことで悩み苦しみ、或いは、迷っている。そういう中で、神の愛、聖霊がわたしたちに注がれている。このパウロの言葉をもう一度受け止め直し、神の愛、聖霊に導かれて歩むことができますよう、ご一緒に祈りを献げたいと思います。

2020年3月11日 (水)

身代金

四旬節第2水曜日、2020年3月11日のミサ福音朗読より

東日本大震災発生9周年。復興が「進んでいない」と考える人が約7割に上るとのこと。(時事通信の「東日本大震災」に関する世論調査)。

物事には原因があって結果がある、と考えられる。大震災の原因は科学的に究明されているのだろうか。 神の創ったこの世界になぜこのような自然災害が起こるのか。神が創った世界は「極めて良かった」(創世記131)はずである。

さてイエスは弟子たちに受難の予告をする。しかし弟子たちはイエスの言葉を理解しない。それどころか政権獲得後の自分たちの権益をめぐる思いを露骨に持ち出して仲間争いをしている。イエスの思いと弟子たちの思いの間には大きな隔たりがある。わたしたちにはむしろ弟子たちの思いのほうがわかりやすいのではなかろうか。

イエスは自分の十字架の死を「多くの人の身代金として自分の命を献げる」こととしている。これはどういう意味だろうか。イエスの死とわたしたち人類の救いとの間にはどのような関係があるのか。通常の「因果応報」の原理を適応できるのだろうか。ここに深い神秘が存在する。多くの人々の考察が残されている。

 

福音朗読  マタイによる福音書 20:17-28
イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 

 

 

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