年間第6主日A年の説教
2020年2月16日、茂原教会
第一朗読 シラ書15章15~20
第二朗読 コリントの信徒への手紙2章6~10
福音朗読 マタイによる福音5章17~37
マタイによる福音書の5章は有名な山上の説教であります。
今お聞きになりましたように、主イエスはわたしたちに非常に厳しい教えを伝えています。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである」と言われ、
「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義に勝っていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」
と言われました。この主イエスのお言葉は何を言っておられるのでしょうか?
旧約聖書には膨大な律法や預言の言葉が載せられています。わたしたちは新約の時代に生きています。旧約聖書と新約聖書はどういう関係にあるのでしょうか?イエス・キリストが来られて、わたしたちは新しい時代に入っているのではないだろうか?
しかし、いま聞きましたように、イエスは旧約の律法や預言者を廃止したのではないといわれます。
旧約聖書を読むと非常に細かい規定がたくさん出ています。特に驚くのは、このいけにえの献げ方について、ずいぶん詳しく細かく述べられています。
イスラエルの民は牛や羊などの動物をいけにえとして神に献げていました。わたしたちは、もうそうする必要はないのです。ですから、旧約聖書が規定しているいけにえの献げ方の規則は、もうわたしたちには不要となった。
それでは、聖書が教えている人間の生き方についても廃止されたのかというと、もちろん、そうではありません。もっと、厳しく教えているのではないでしょうか。
「人を殺してはならない」。
これは誰でも、どの国においても、どの時代でも人々が守るべき大切な掟とされています。
今日、イエスが言われたのは「兄弟に腹を立てれば、人を殺したことになるのだ」そこまで言われると困ってしまいます。新約聖書の他の個所を思い出してみましょう。
ヤコブの手紙では次のように言われている。
「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」(ヤコブ1・19-20)
「怒る」ということは、神のみ心に適わないと言っている。
エフェソの手紙は次のように教えています。
「「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」(エフェソ4:26)
「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」(エフェソ4:31)
ですから、新約聖書の教えは明白であって、「怒りとか憤りを捨てなさい」と教えています。
聖書、とくに旧約聖書にはしばしば「神が怒っている」と出ています。
神の怒りとわたしたち人間の怒りとどう違うのでしょうか。
わたしたちが怒るのは、どういうときに怒るのでしょうか?
わたしたちの場合,「憤る、大声を出して喚く」ということはそう度々のことではないでしょう。しかし、一日終わって、「きょうは面白くなかったー、嫌だなぁー、あの人は・・・、とか、気分が悪かった」などと思わないわけではない。「まぁー、馬鹿者とかー」とか思わない人はいない。毎日そう思う人はいないけれど、そう思うことは避けられないですね。わたしたちが不愉快に思うのは、これ、どうしても避けられないことです。こちらがそう思えば、他の人もわたしのことをそう思っているかもしれないわけです。まぁーそこは、わたしたちは大人ですから、自分をきちんと納めて、まっ、大過なく、大きな過ちに陥ることなく過ごしております。
できれば、怒ることがあっても、その怒りを静めて神様にお詫びして、そして、いつも晴れやかでいたい。
あるときに書店で「怒り」についての本を見つけました。その本の題名は「人はなぜ怒るのか」でした。その本の説明によると、怒りとは、「不一致による違和感」であります。難しい説明ですけど、不一致。一致しない。こちらが思うことと相手のすること言うこととが、ぴたっと合わない。こちらがしてほしいと思うとおりに相手がしない。こちらがこうしないでほしいと思うことを相手の人がする。まぁ、仕方がないことですね。わたしたちは互いに違う人間なのですから。こちらのことは解ってくれない。ある程度は分かってくれるけど、完全には解ってくれない。これは仕方のないことなんですが、その度に怒っていたのでは付き合っていけないわけです。
結論を言えば、要するに、世の中というものは自分の思い通りになるわけではないわけです。子供の時、幼い時はそういうことは思わないですけれど、だんだんわかってくる。大人になると、もっと厳しくそう感じるわけです。教会なら大丈夫というと、そうじゃーないんですよねぇー。
人間というのは自分の思いがあって、その思いを他の人に理解してもらいたい、実行してほしいと思うわけです。そういう風に思うことを止めないと、まぁー、怒ったり、不愉快に感じたり、憤ったりするということは止むことがないわけですね。
しかし、まぁー、職場でもこれが問題になっているのでしょうか。どうしたら怒らないで済むかについての本というのが、そういうつもりで見るとたくさんあります。
山上の説教というのは、その行いだけ守っていればそれで済むということではなくて、心が伴っていなければ、その掟を守ったことにはならないのです。まさか人を殺すという人はほとんどいないんです。殺したら犯罪であります。殺さないで、しかし、「こんな奴と会いたくないなぁー」とか、「いなけゃーいいのに」とか、或いは、ひどい場合は「死んでしまえ」とか、心の中で悪態をつくことが、まったくないというわけにはいかないんですねぇ。そう思って、それに承諾すれば、人を殺したも同じだとイエスは言っている。
もしそうならば「人間やってられない」と思ってしまいます。
ですから、「人を殺すなかれ」という掟は、イエスの教えによって更に強化されてしまいました。易しくは全然ならなかった。他の教えについても同じことです。
一日終わって、静かに振り返ったときに、きょう自分の気持ちはどんなふうに推移したか、揺れ、移り変わったか、と反省する。そうすると、もう感謝でいっぱい、感謝以外何もありません、という方は立派な人ですね。逆に、今日あの人はこういうことをした、不愉快だなぁということのほう先に浮かんでくるのであれば、それを逆にして、とにかく、こうしていただいた、それに対してわたしはさほどできなかった、お詫びします、という気持ちが先に来るようでありたい。そして、その後、なぜ自分は面白くないと思っているのだろうか、と自分の心を見つめたらよいのだと思います。
イエス・キリストも勿論人間でありますから、感情を持っていたわけです。彼は律法学者やファリサイ派の人と非常に鋭く対立している。そして、非常に厳しい言葉を投げかけていまして、おそらくお怒りになったのでしょう。ただ、怒る理由がわたしたちと違うのですね。自分の思い通りにならなかった、自分のプライドを傷つけられた、こちらがして欲しいことをしなかったので癪に障るというような動機ではなかった。そのこと自体が神のみ心に適っていないということを、きちんとはっきりと述べたわけです。そうすれば、どのように反撃されるかということは十分に予想していたが、それでもやめなかった。その結果、いろいろ経緯があって彼らに恨まれて、十字架に付けられるというわけになったのであります。
わたしたちは、自分のことが原因で怒る。イエスは天の御父のこと、そして苦しんでいる人貧しい人のために怒った。
わたしたちもイエスの弟子であるからには、少しでもイエスの生き方にならなければならない。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16・24)
とイエスは言われました。
わたしたちは毎日「御心が行われますように」と祈っている。「自分の思いが実現しますように」とは祈らない。ですから、イエスに倣い、そして人とのかかわりの中で、人の苦しみや悩みを自分のものとして受け取ることができますよう、日々お祈りいたしましょう。
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