無料ブログはココログ

ミサ説教

2019年6月16日 (日)

FIAT

 

聖母マリアの土曜日のミサ

2019615()、本郷教会

今日は「お告げの祈り」について、ご一緒に思いを深めたいと思います。

日に三度、鐘の音に合わせて「お告げの祈り」を唱えるという良い習慣がありました、というかあります、と言いたい。東京カテドラルの庭で,ちょうど司教館の前の南側の庭の隅の方に、「お告げの鐘」を納める小さな建物があります。そこにフランスから贈られた「お告げの鐘」が納められています。その鐘を教会に寄付した方は、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードという、法律の先生でありました。

明治の新しい政権が、急いで日本の法律を整備するために急遽ボアソナードを,先進国のフランスから呼び寄せて、日本の法律の制定に力を貸していただいたのでありまして、ボアソナードは日本近代法の父と呼ばれております。そのボアソナードは、非常に敬虔なカトリック信者でありました。

確かその妻の名前と一緒に,教会に一組の「お告げの鐘」を寄付し、その時は東京教区の司教座は築地教会でありまして、司教座が築地から関口に移る時に一つは築地に残り、一つは関口に移って来たのでありました。

「お告げの祈り」は、今読んだルカの福音の出来事を記念するとともに、わたしたち自身の日々の信仰を確かめ深め、そしてさらに神の救いの計画に思いを馳せるための、非常に大切な祈りであります。

わたしたちが毎日唱える「主の祈り」と共に、「アヴェ・マリアの祈り」も、この祈りと共に広められたのでありました。

天使ガブリエルがマリアというおとめに突然現れ、聖霊によってあなたは母となる、その子は神の子と呼ばれ、偉大な働きをすることになる、というお告げをマリアは受けたのでありました。その時に非常に戸惑ったマリアは、「どうして、そのようなことがありましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えています。

天使はマリアに「神にできないことは何一つない。」「神様の救いの計画の中にあなたは置かれている」と言ったので、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えて、神のお告げ、神からのメッセージを受諾したのであります。

「成りますように」という言葉は、ラテン語でフィアットFiatと言います。

この一人のおとめのフィアットによって、わたしたちの救いの計画が新しい段階に進んだのであります。

このマリアの信仰と従順は、最初の人間とよばれるアダムとエバの不信仰と不従順とに比較されるのであります。

最初の人間が置かれた園の中央に木が生えていて、その木の実だけは食べてはいけないと命じられていました。ところが蛇が女に、神への不信仰と不従順をそそのかすように誘惑したのでありました。

その木から果実を取って食べると神のように善悪を知るものになると蛇が言ったので、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も、食べた」と創世記が言っている。

マリアの場合、どうしてそのようなことが起こりえるのでしょうかと天使に反論したが、神様にはおできにならないことはないという返事を聞いて、一切の思いに封印したのでしょうか、受諾したわけであります。

ところが最初の人間アダムとエバは、あたかも神が、自分たちが神のようになることを恐れているというような思いに捉えられて、自分たちも善悪を知るものになりたいと思ったのでありました。

しかし、マリアの信仰と従順によって、救い主が人間となることができたのです。

「お告げの祈り」の祈願を思い出しましょう。

「神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架を通して復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。」

神様の救いの計画は、聖書全体を貫いて述べられていますが、非常に重要な段階は、救い主が人となられたということであって、そのために一人の貧しい少女の承諾を求められた。

このことは非常に大切であります。

そしてさらに、受難と十字架の道をイエスは歩まれて、復活の栄光に到達されました。

わたしたちもそのイエス・キリストの道に従う、その道を歩むことによって、同じように復活の栄光に与ることができます。

神の救いの計画は、非常に遠大というか壮大であります。

わたしたち人間の救いだけではなく、すべてのものの救いを神は計画されています。

考えてみれば、わたしたち人間だけが救われるということは有り得ない。

すべては繋がっていますので、一つのものが救われるということは、それに連なるすべてのものが救いに与るということに他ならない。

第一朗読で、すべての被造物の解放、滅びへの隷属からの解放ということが述べられています。

人間だけが自分の救いを考えるのではなくて、この世界全体が、すべての被造物が、神の救いの計画の完成に与る日が来るのだと、その時をわたしたちは待ち望んでいるのであります。

その神の遠大な壮大な計画の中に、わたしたちも招かれ組み込まれているのであります。

そして,わたしたち一人ひとりに聖霊が注がれ、わたしたちの中で神様がわたしたちを聖霊の神殿として住んで下さり、わたしたちを使って神様の救いの計画を実行してくださる。

その信仰を深め、そして感謝したいと思います。

 

 

FIAT

 

聖母マリアの土曜日のミサ

2019615()、本郷教会

今日は「お告げの祈り」について、ご一緒に思いを深めたいと思います。

日に三度、鐘の音に合わせて「お告げの祈り」を唱えるという良い習慣がありました、というかあります、と言いたい。東京カテドラルの庭で,ちょうど司教館の前の南側の庭の隅の方に、「お告げの鐘」を納める小さな建物があります。そこにフランスから贈られた「お告げの鐘」が納められています。その鐘を教会に寄付した方は、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードという、法律の先生でありました。

明治の新しい政権が、急いで日本の法律を整備するために急遽ボアソナードを,先進国のフランスから呼び寄せて、日本の法律の制定に力を貸していただいたのでありまして、ボアソナードは日本近代法の父と呼ばれております。そのボアソナードは、非常に敬虔なカトリック信者でありました。

確かその妻の名前と一緒に,教会に一組の「お告げの鐘」を寄付し、その時は東京教区の司教座は築地教会でありまして、司教座が築地から関口に移る時に一つは築地に残り、一つは関口に移って来たのでありました。

「お告げの祈り」は、今読んだルカの福音の出来事を記念するとともに、わたしたち自身の日々の信仰を確かめ深め、そしてさらに神の救いの計画に思いを馳せるための、非常に大切な祈りであります。

わたしたちが毎日唱える「主の祈り」と共に、「アヴェ・マリアの祈り」も、この祈りと共に広められたのでありました。

天使ガブリエルがマリアというおとめに突然現れ、聖霊によってあなたは母となる、その子は神の子と呼ばれ、偉大な働きをすることになる、というお告げをマリアは受けたのでありました。その時に非常に戸惑ったマリアは、「どうして、そのようなことがありましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えています。

天使はマリアに「神にできないことは何一つない。」「神様の救いの計画の中にあなたは置かれている」と言ったので、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えて、神のお告げ、神からのメッセージを受諾したのであります。

「成りますように」という言葉は、ラテン語でフィアットFiatと言います。

この一人のおとめのフィアットによって、わたしたちの救いの計画が新しい段階に進んだのであります。

このマリアの信仰と従順は、最初の人間とよばれるアダムとエバの不信仰と不従順とに比較されるのであります。

最初の人間が置かれた園の中央に木が生えていて、その木の実だけは食べてはいけないと命じられていました。ところが蛇が女に、神への不信仰と不従順をそそのかすように誘惑したのでありました。

その木から果実を取って食べると神のように善悪を知るものになると蛇が言ったので、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。

女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も、食べた」と創世記が言っている。

マリアの場合、どうしてそのようなことが起こりえるのでしょうかと天使に反論したが、神様にはおできにならないことはないという返事を聞いて、一切の思いに封印したのでしょうか、受諾したわけであります。

ところが最初の人間アダムとエバは、あたかも神が、自分たちが神のようになることを恐れているというような思いに捉えられて、自分たちも善悪を知るものになりたいと思ったのでありました。

しかし、マリアの信仰と従順によって、救い主が人間となることができたのです。

「お告げの祈り」の祈願を思い出しましょう。

「神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架を通して復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。」

神様の救いの計画は、聖書全体を貫いて述べられていますが、非常に重要な段階は、救い主が人となられたということであって、そのために一人の貧しい少女の承諾を求められた。

このことは非常に大切であります。

そしてさらに、受難と十字架の道をイエスは歩まれて、復活の栄光に到達されました。

わたしたちもそのイエス・キリストの道に従う、その道を歩むことによって、同じように復活の栄光に与ることができます。

神の救いの計画は、非常に遠大というか壮大であります。

わたしたち人間の救いだけではなく、すべてのものの救いを神は計画されています。

考えてみれば、わたしたち人間だけが救われるということは有り得ない。

すべては繋がっていますので、一つのものが救われるということは、それに連なるすべてのものが救いに与るということに他ならない。

第一朗読で、すべての被造物の解放、滅びへの隷属からの解放ということが述べられています。

人間だけが自分の救いを考えるのではなくて、この世界全体が、すべての被造物が、神の救いの計画の完成に与る日が来るのだと、その時をわたしたちは待ち望んでいるのであります。

その神の遠大な壮大な計画の中に、わたしたちも招かれ組み込まれているのであります。

そして,わたしたち一人ひとりに聖霊が注がれ、わたしたちの中で神様がわたしたちを聖霊の神殿として住んで下さり、わたしたちを使って神様の救いの計画を実行してくださる。

その信仰を深め、そして感謝したいと思います。

 

 

2019年6月14日 (金)

姦淫してはならない

年間第十金曜日

2019614()、本郷教会

 

 主イエスは山上の説教をわたしたちに残しました。

正直に言ってこの山上の説教は、わたしたちには実行が非常に難しいと思います。

山上の説教の解釈は様々でありますが、文字通りの実行は人間には非常に困難であると多くの人が感じております。

しかしそこで言われていることは、本当に人間がそうであるべきことであると、わたくしも多くの人々もそう受け取っている。

そこに隙間というか、そうであるべき状態と、そうであるべきであるがそうなっていない自分がいるという、この間の開きを人間は感じる、それが非常に大切ではないかと思う。

別な言葉で言えば、わたしたちは神様が望んでいる状態、あるいは主イエス・キリストを通して示された要求には届いていない。

地上にいる間は完全に届くことはないだろうと思われる。

それではそういう人はまったく救われないのかというと、そうではない。

自分がそのような、人間、つまり罪人であるということを知っている人こそ、神の憐みを受けるに価するものであります。

昨日の説教では、殺してはいけないということについて申し上げました。

刑法の殺人罪を犯す人はほとんどいないでしょう。

しかし他の人のことで恨みに思ったり、あるいは憎んだりしたことのない人はほとんどいないも言えます。

今日の説教も多くの人を悩ませましたし、今も悩ませている。姦淫するなという教えです

姦淫するという実行行為をする人はあまりいないでしょうが、思いで姦淫をしてはいけないと言われると、どういう風に思ったら姦淫をしたことになるだろうか、それだけで青年は悩んでしまう。

そして今日の翻訳をみると他人の妻となっていますが、妻でなければ良いのかというと、そうでもない。(フランシスコ会訳では「情欲を抱いて女を見る者は誰でもで、心の中ですでに姦淫の罪を犯したことになる」とあります。)

わたくしの考えですけれども、女性を自分の欲望の充足の対象としてだけしか見ないことは絶対に許されないという意味であると思います。

 

 

 

文字は殺し霊は生かす

 

年間第十木曜日 ミサ説教

2019613()、本郷教会

 

 昨日は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」という主イエスの御言葉について、ご一緒に考えてみました。

その際、使徒パウロの言葉、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」という言葉をご一緒に深く味わうようにしたのであります。

今日の福音と今日の第一朗読は、その昨日の教えの続きであります。

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」とイエスは言われました。

このイエスの御言葉の意味は何でありましょうか。

殺してはならないという掟をすべての人が知っています。

どんな国にも刑法があって、殺人罪という重い罪が定められている。

実際、人を殺すということは大変重い犯罪であります。

犯罪ではないが人を憎み、人の存在を心の中で否定するならば、それは人を殺したことと同じことになる、と主イエスは言われました。

そう言われると、少しわたしたちは考えさせられる、たじろいでしまうかもしれない。

おそらく殺人という罪を犯した人はいない、非常に少ない。

しかし誰かのことを恨んだり、あるいはいない方がよい、死んでしまえばよいという思いが心をかすめたことのない人というのも、そんなに多くはないかもしれない。

イエスの言葉は非常に厳しいものであります。

聖書全体を通じて、どんな人も完全に神の前に問題のない人、義とされる人はいない、ということが宣言されている。

わたしたちの心は、いわば完全に清められたものではなくて、まだ汚れた部分が残っております。

そのことを深く自覚し、ただイエス・キリストを通して神様の憐みを願う以外にないのかもしれないと思う。

「主の霊のおられるところに自由があります。」と今日の第一朗読が言っています。

わたしたちはイエス・キリストへの信仰をさらに確かめ深め、そして主の霊、聖霊が来てくださるように日々願いましょう。

そのようにして栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていくのであります。

 

2019年6月13日 (木)

律法や預言者を完成するために来た

 

年間第十水曜日 ミサ説教

2019年6月12日(水)、本郷教会

 

今日の第一朗読で使徒パウロが言っています。

「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」

新しい契約に仕える資格と言っていますが、それは古い契約に対して言っている言葉であり、古い契約とは、モーセに与えられた石に刻まれた文字による契約でありました。

十戒(の戒め)によって示されたイスラエルの民が守るべき掟が与えられました。

人々は神様の前ですべてその掟を守り行いますと約束しましたが、彼らはその約束を実行することができませんでした。

そこで、神は預言者を通して新しい契約の締結を預言したのでありました。

エレミヤの預言で言われています。

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。(エレミヤ31・31-32)

これはモーセを仲介者としてシナイ山で締結した古い契約のことを言っています。

しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31・33)

新しい律法が授けられます。その新しい律法は、人々の心に記される律法であります。

同じことを預言者エゼキエルも告げました。

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。(エゼキエル36・26-27)

新しい心、新しい霊は神の霊、聖霊によって与えられました。聖霊降臨の日にエゼキエルの預言が実現したのであります。

かつて与えられた契約の条項は石の板に刻まれていましたが、新しい契約はわたしたちの心の中に与えられています。

聖霊によってわたしたちに神の愛が与えられ告げられ、わたしたちは自分の心から神の愛に応えることができるようにとされています。

「文字は殺しますが、霊は生かします」とパウロは言っています。

文字自身はわたしたちに力を与えることはできない。何を為すべきかを教え、何をしてはいけないかを教えますが、それを守り行う力を与えることができませんでした。

霊はわたしたちに神の愛、神が主イエス・キリストを通してしめされた神の心を伝えます。

わたしたちは神の心を知り、神の心にこたえることができるものとされたのであります。

かくして今日の主イエスの言葉が実現しました。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5・17)

 

バルナバ

聖バルナバ使徒の祝日

2019611()、本郷教会

今日は聖バルナバ使徒の記念日であります。

バルナバという使徒は、使徒パウロにとって非常に重要な役割を果たした人でありました。今日の使徒言行録によりますと、バルナバはアンティオキアというところで活躍し、アンティオキアからサウロ(のちのパウロ)をタルソスへ行って見つけて、アンティオキアに連れ帰ったとなっています。

サウロはアンティオキアの出身です。

サウロが異邦人の使徒になれたのは、バルナバのおかげであると言っても良いのであります。

キリスト教徒を迫害していたサウロが、異邦人に福音を宣べ伝える使徒になることができたのは、バルナバがサウロを理解し、サウロを支持したからであります。

このアンティオキアというところで初めてキリスト者という名前が生まれたと今日の使徒言行録は伝えています。

そして、バルナバとサウロがアンティオキアから派遣されて、異邦人の世界へ福音を宣べ伝えるようになったのでありました。

今日の福音についての一言を申し上げたい。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」という言葉であります。

何をただで受けて、何をただで与えるという意味なのでしょうか。

イエスから派遣された使徒たちは、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払う」という権能を授かりました。

イエス・キリストの行い、イエス・キリストが人々に伝えた恵みを、同じ恵みをあらわし伝えることができるようにされたのだと思います。

ですから、ただで受けたものというのは、主イエス・キリストから受けた賜物、権能のことではないかと思います。

さらに考えてみれば、わたしたちが受けているものはすべてどんなものでも、主なる神からいただいたものでありますので、それを神様の御心に従って活かさなければならない。

神様のみ旨に従って、それを神の栄光のために活かさなければならないと思います。

 

 

 

 

2019年6月 9日 (日)

聖霊降臨

 

聖霊降臨の主日

2019年6月9日(日)、本郷教会

第1朗読 使徒言行録2・1-11

第2朗読 ローマ 8・8-17

福音朗読 ヨハネ14・15-16、23b-26

 

説教

きょうは、聖霊降臨の日でございます。

二千年前に弟子たちの上に聖霊が与えられましたが、きょうはわたしたちは、その出来事を記念するとともに、きょう、わたしたちの上にさらに聖霊を与えてくださるようにお祈りします。

ナザレのイエスは神の国の福音を説き、ペトロをはじめとする弟子たちをつくりましたが、天の父のもとへとお帰りになりました。

その時に弟子たちに約束をされたのであります。

「わたしが去ると、わたしは天の父から聖霊を受けて、聖霊をあなたがたに与えるであろう。」

その約束が実現した日が「聖霊降臨の日」、ユダヤ人のお祭りでいえば「五旬祭」、「五十日祭」という意味であります。

さて、この出来事はわたしたちにとって、どういう意味を持っているのでしょうか。

わたしたち教会は主イエス・キリストからご命令を受けています。

「全世界に行って、わたしの弟子をつくりなさい」

そういう命令を受けているのであります。

イエス・キリストの弟子とは、イエス・キリストのように生きる人であります。

弟子たちは生前のナザレのイエスといわれる人と生活し、行動し、親しくイエス・キリストを知ることができましたが、しかし、それでも十分に知ることはできなくて、イエスが亡くなって、そして、復活されたあと、復活されたイエスと出会って、初めてイエス・キリストの生涯の意味を悟るようになったのでありました。

さらに、聖霊を受けて、弟子たちは知恵と勇気に満たされ、まるで生まれ変わった人のようになって、世界中で、いつでもイエス・キリストをあらわし、伝えることができるようになりました。

 

教会というのは、すなわち、わたしたちが教会ですが、ある意味で、イエス・キリストの身体であり、イエス・キリストをあらわし、延長し、継続させる団体であります。どうしてそういうことができるのかというと、それは、神の霊、「聖霊」を受けることによって可能になります。

パウロの手紙で今日読まれましたが、「神の霊によって導かれるものはみな、神の子なのです」と、パウロが言っています。神の霊によって導かれるならば、わたしたちは神の子であり、イエス・キリストの姿を現す、イエス・キリストの生き方を伝えることができるのであります。

そうは言われても、弱い、そして罪のあるわたしたちにそのようなことがどれくらい可能なのでしょうか。

イエスはわたしたちに、そうできるようにと、さまざまな道、さまざまな手段を残してくださいました。

その中で、おそらくもっとも大切と思われることは、「ミサ聖祭」であり、ミサということばで代表される「典礼」そして、種々の「秘跡」であります。

この「ミサ」、特に主日のミサは非常に大切であります。ミサにおいてわたしたちは復活された主イエス・キリストと出会い、イエス・キリストの声を聴き、そして、イエス・キリストの御体をいただいて、よりキリストに似たものとなることができるのであります。

きょうの福音で、イエスは「弁護者」という名前の「聖霊」を弟子たちに与えてくださると言っております。

わたしたちは地上のイエスに出会うことはできませんが、聖霊の導きを通して、より親しくイエス・キリストを知ることができるのであります。そして、聖霊は、一人一人のこころに働きかけるとともに、わたしたち、この団体、グループに語って下さいます。世界に広がる教会、日本の教会、そして、東京教区に、この本郷教会に聖霊が注がれ、わたしたちが何をなすべきかを教えてくださり、そして、そのための力を与えてくださると信じます。

そして、それが可能であるのは、実に、聖霊のはたらきによるのであります。

そして、その聖霊は確実に与えられるいろいろな機会の中に「典礼」があり、その典礼の中心が「ミサ聖祭」であります。

繰り返しになりましたが。

きょうの第二朗読で、少しわかりにくい表現があると思います。

「肉」という言葉と、「体」という言葉であります。何か、「体」を否定するようにとられると、それは大きな誤解になります。「肉」という言葉と、「体」という言葉は区別される。自分の弱さ、もろさ、自分の限界を知り、ただひたすら神の恵みに頼って生きる人の生き方が、神の霊に導かれる神の子の生き方であります。

自分の力、自分の判断、自分の思いを中心に生きる生き方のことを、「肉の支配にあるもの」と、パウロは呼んでいます。

人間は他の人に対して、いろいろな思いを抱きます。が、人を支配したいとか、思い通りに動かしたいとか、人よりも上に立って、見下したいとかいうような思いにとらわれることがある。そういう思いが「肉の思い」であります。

「霊の思い」に従っている人は、どういう実りをもたらすのかということをパウロは述べております。

それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という聖霊の実りであります。

聖霊の実りを豊かに受けることができるようお祈りいたしましょう。

2019年5月30日 (木)

ノヴェナの祈り

復活節第六木曜日 ミサ説教

2019年5月30日(木)、本郷教会

 

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」とイエスが言われたことについて、弟子たちはその言葉の意味がわかりませんでした。
さらにイエスは言われました。
「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
今日はちょうど聖霊降臨祭の10日前にあたります。
復活節を過ごしているわたしたちは、既に主の復活という信仰の中心を与えられています。
イエスは人々のために、わたしたちのために苦しみを受け、父のもとへと去っていかれましたが、そのイエスを天の父はよみがえらせ、そして弟子たちのもとへと復活したイエスを出現させてくださいました。そしてイエスは40日間にわたって弟子たちにお現れになり、そのあと40日目に天の父のもとへと帰っていかれたのでありました。
「わたしを見なくなる」というのは何を意味しているのでしょうか。
イエスが十字架の刑にかけられることを言っているのだと思われますが、「しばらくするとわたしを見るようになる」とも言われました。それはイエスの復活を意味していると思われます。わたしたちはイエスが復活し、そしてさらに弟子たちに聖霊を注いで教会を誕生させたことを知っています。
地上のイエスの生涯は終わりましたが、イエスは聖霊の派遣を通して、いつもそしていつまでも弟子たちとともにいてくださいます。わたしたち教会はこの救いの歴史の中に置かれています。
教会は聖霊の派遣をうけた神の民であり、わたしたちもその神の民に属しています。
地上の困難な現実の中で主の復活を信じ、そして地上において主の復活の恵みに与ることをさらに深く信じ、聖霊の恵みに感謝しながら、イエス・キリストの復活の証人とし共に歩んでまいりましょう。
ところで今日は「ノヴェナの祈り」というお祈りをしたいと思います。例文を用意いたしました。ミサの終わり拝領祈願のあと、ご一緒に唱えていただけるとありがたいと思います。

 

――
ノヴェナの祈り2019年
慈しみ深い父よ、
聖霊降臨祭を前にして祈ります。
どうかわたしたちに聖霊を注ぎ、聖霊に従って日々歩む者にしてください。
「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の聖霊の実りを豊かに証しすることができますように。
主キリストによって。アーメン。

 

2019年5月27日 (月)

霊の実り

 

復活節第六月曜日 ミサ説教

2019年527()、本郷教会

 

わたしたちは昨日復活節第六主日を祝いました。今年の典礼歴によれば、復活祭は421日でした。従いましてそれから50日後の聖霊降臨祭は69日であります。

聖霊降臨の10日前が主のご昇天の日であります。日本の教会は昇天の日を聖霊降臨の一つ前の主日に移しております。

本来、昇天と聖霊降臨の間には10日間がありました。

そしてこの10日間、弟子たちはマリア様と一緒に聖霊が降ることを求めてお祈りしたと考えられますので、この10日間わたしたちも特に聖霊の賜物、聖霊の実りを祈り求めたいと思います。

 

昨日の典礼でわたしたちは最初の教会が直面した重大な問題、割礼について聖霊の導きによって彼らが決定したということを聞きました。

聖霊は教会の誕生以来わたしたちを教え導き、そして今もわたしたちの中で働いています。

聖霊がどのように働いているかどうかは、わたしたち自身が毎日どのように生きているかということによって明らかにされます。

「霊的生活」という言葉がありますが、「霊的生活」というのは霊に従う生活です。

霊とは神の霊で、聖霊であります。

聖霊に従って生活しているかどうかが、キリスト者にとって最も大切なことであります。

使徒パウロはガラテアへの教会の手紙の中で、霊の実りということを言っています。

「霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。」

霊に導かれていない生き方は「肉の業」と言われています。

「肉の業」がどういう結果をもたらしているかというと、沢山の項目があげられていますが、

わいせつとか敵意、争い、そねみ、怒り、不和、泥酔そういうことが肉の業であると言っています。

霊に従って生きている者は次のような霊の結ぶ実りが与えられていると述べています。

それは次の9項目であります。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であります。

 

わたしたちは毎日聖霊の導きを祈るべきですけれども、特に聖霊降臨前の期間、間が9日ありますので、昔からノベナNOVENA 9日間の祈りと言われてきました祈りを献げて聖霊の賜物が豊かに与えられるようお祈りいたしましょう。

そして自分にもっとも必要な聖霊の実りは何であるのか、この9項目、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、すべて必要であり大切でありますが、特に自分にとって何が必要であり大切であるかということをそれぞれ考えて祈り求めるようにしたいと思います。

 

2019年5月26日 (日)

現代の緊急課題は何か

復活節第6主日C年 説教

2019526日(日)、本郷教会

 聖霊降臨の祭日まであと、二週間となってきました。

イエスは世を去る前に、弟子たちに言われました。「弁護者すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

復活したイエスは、弟子たちに聖霊を注ぎ、聖霊を通して弟子たちを教え、導きました。聖霊の働きによって、ユダヤ人の世界からギリシャ人の世界、さらに、その外の世界へとイエスキリストの福音は述べ伝えられたのであります。

その教会が最初に直面した大きな問題が、「割礼」ということでありました。「割礼」というのは何かというと、 神がアブラハムと契約した時の印であって、男子の性器に傷をつけるという、ちょっと解りにくいことでありますが、それを、すべてのユダヤ人は実行しなければならなかったのであります。

そこで、ユダヤ人でない人が、つまり、異邦人が、イエス・キリストの福音を信じてキリスト教徒になるときに、割礼を受けなければならないのか、受けなくてもよいのかということが大問題となったのでありました。

激しい議論の末に出た結論が、その必要はない、ということでありました。使徒たちは各地に手紙を送りました。

「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切、あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に捧げられたものと、血と絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです」。

ここで、はっきりと使徒たちが自信を持って述べていることは、これは聖霊による結論であるということであります。その結果、使徒言行録が告げておりますように、イエスの福音は、ギリシャの世界から、さらに、その外の世界へと広がり、ついにはわたしたちの国にまで伝えられるようになったのでありました。 

さて、聖霊は、十二使徒、そして使徒言行録の弟子たちにだけ働いたのではなくて、それから後の教会、わたしたちにも、この日本の教会にも、この本郷教会の信者にも同じように働いてくださっているのであります。

最初の教会の大問題が「割礼」を受けなければならないかどうかということでありましたが、その問題は今は無い。それでは、今のわたしたちにとって何が問題であるのか。わたしたちは、様々な問題の中で、何を優先的に取り上げて、取り組まなければならないのでありましょうか。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」とイエスは言われました。そして、さらに、イエスは((次の日曜は主の昇天の祭日になりますが)天の父のもとに上るときに弟子たちに宣教の命令を残された。

「あなたがたは行って福音を述べ伝え、すべての人をわたしの弟子にしなさい。」

ですから、イエスがわたしたちに残されたご命令は、

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

そして、「全世界に言って福音を述べ伝え、すべての人を弟子にしなさい」、ということに集約されます。

考えてみれば、この二つのことは結局同じことになると思います。イエス・キリストの弟子とはどんな人であるかというと、それは、イエスが生きたように生きている人、少なくとも生きようと努めている人であり、イエスが弟子たちを愛して、命を捨てたように、互いに仕えあい、尊敬しあい、赦しあい、愛し合う人たちであるということでありまして、そうしているかどうかによって、イエスの弟子であるかどうかが判定されるということになるのであります。 

これは、先週申し上げたのですが、さて、二千年前の教会にとって最大の問題が「割礼」ということでありましたが、今のわたしたちにとって、何が問題であるのか…、わたしがずっと、感じてきたことは、今のこの、日本の社会において、人々が精神的に、非常に行き詰っている人が多い。自殺する人もいれば、行方不明になる人もいます。肉体的に病気になる人はもちろんいるし、何の問題もないという人はいないかもしれないが、精神的に孤独である、そういう人たちのためにわたしたちは何をすることができるだろうか。この本郷教会が暖かい、潤いのある、安らぎのある交わりになるようにと努めてきましたが、まだ、道は遠いように感じています。 

この広い世界の中で、たった一人でも自分のことを唯一無比の存在として、比べることのできない大切な存在として認めてくれる、受け入れてくれる人がありましたら、わたしたちはどんな困難があっても生きることができるし、ほかの人にも優しくすることができるのではないだろうか。わたしたちの中にそのようなイエス・キリストの生き方がどの程度実現しているのか、いや、実現していると思います。もっとその輪を広げることができますよう祈りたいと思います。

―――

1朗読 使徒言行録151-2,22-29

2朗読 黙示録 2110-14,22-23

福音朗読 ヨハネ1423-29

 

より以前の記事一覧