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ミサ説教

2017年12月17日 (日)

カトリック東京教区大司教を辞するにあたりぜひ伝えたいこと

岡田武夫大司教送別ミサ 2017年12月10日、関口教会

待降節第2主日を迎え、今日の聖書朗読、福音朗読を共に味わいながら、わたくしが、東京大司教として、このカテドラルで主司式する、最後のミサをお献げします。
第一朗読は、イザヤ書、40章です。イザヤ書は、わたくしにとりましても、大変大切な、心に深く響く、聖書の巻物であると、心から、ずっと、そのように思っておりました。
今日の箇所の中で、わたくしの心に強く迫ってくる言葉は、どれであるかと言いますと、 「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ」という箇所です。
イザヤの40章は、バビロン捕囚という、イスラエルの民にとって、非常に、信仰から経験をしていたときに、告げられた言葉であると言われております。イスラエルの民に、ユダヤの民が滅ぼされ、そして、ユダヤの指導者たちは強制移住させられ、そこで、毎日、辛い経験をしておりました。そのときに、彼らの信仰は、清められ、強められ、そして、メシア、キリストへの信仰癡希望が、強く、彼らの心に刻まれてきたと言われております。
「どうして、わたしたちは、このような目にあっているのだろうか」という、彼らの日々の反省の中で、主なる神への信仰が清められ、希望が強められていきました。
わたくしが司教になりましたときに、日々の心構えとして、イザヤの40章の終わりの部分を選びました。今日の朗読箇所の後の部分ですが、その言葉は、「主に望みをおく人」という部分の言葉です。その前後を、もう一度読み上げて、みなさまに、最後の言葉として、お伝えしたいと思います。
「ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦(う)むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲(わし)のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザタ40・28-31)

「主に望みをおく人は新たな力を得る。」(イザヤ40・31)。
わたしたちは、厳しい現実の中で、力を落とし、失望するという経験を持つことがありますが、どのようなことがあっても、神への信頼、信仰、希望を新たにし、あくまでも、いつも「主に望みをおく人」として、神様からの力をお願いする。そのような者として歩みたいと、望みました。
今日は、待降節第2主日であり、主イエス・キリストのご降誕を、喜び、祝う準備のときですが、同時に、わたしたちは、主の再臨、「主イエス・キリストが、世の終わりに、ご自分の計画を、完全に成就し、父なる神の創造の働きが完成するために再びわたしたちの所に来てくださる」という、わたしたちの信仰を新たにし、希望を強めていただき、日々、愛の務めに励むことを、改めて確認する、大切なときです。

第二朗読を、ご一緒に見てまいりたいと思います。
わたしたちが生きている、この世界の現実の中には、混乱、不条理、矛盾という現実があります。そして、人間と自然界との関係も、うまくいっていない。 教皇フランシスコの「ラウダート・シ」という教えを、みなさん、ご存知ですね。
神様のお造りになった、この世界、自然が、本来の姿を傷つけられ、自然界と人間との関係に破たんが生じているということを、教皇様は指摘しております。
神の救いの働き、贖(あがな)いの働きは、人間はもちろんのことですが、この世界の、神様がお造りになったすべてのものを、神のお望みになる、新しい天と、新しい地に、造り変えてくださる。そのような、神様の計画を、わたしたちは、改めて信じ、神様のみ心に希望を持って、日々を歩んでいかなければならないと、今日の福音朗読が告げていると思います。
「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ニペトロ3・12-13)
わたしたちは、毎日、いろいろなことをしなければならない。いろいろなものに囲まれ、捉われて、そして、神様のみ心を見失いがちです。 本当に大切なことを第一にして、生きていくことから、逸れてしまっている日々を、わたしたちは送っているのではないか。いろいろなことがあり、いろいろなものがあるが、そのようなものは、すべて、いつかはなくなる。過ぎ去ってしまう。神のみ心に従って生きる。わたしたちの、愛の行いだけが、永遠のいのちを持っているのであると、聖書は謳っているのではないかと思います。

さて、日本の教会の、これからの歩みを、改めてご一緒に考えてみたいと思います。 ご承知のように、1549年、聖フランシスコ・ザビエルが、日本に福音を伝えてくださいました。それから、400年、500年が経過しています。 日本のカトリック教会は、第二ヴァチカン公会議の教えを受けて、主イエス・キリストの福音をのべ伝え、日本の社会の福音に適ったものに変えていくために、力を尽くしたいと考え、日本の司教協議会が主催して、福音宣教推進全国会議という、画期的な会議を開催しました。今から30年前、1987年のことです。
わたくしは、それから13年後、大聖年の年ですが、2000年9月3日、こちらで、東京大司教に就任し、着座式が行われました。いま、東京大司教の任務を終了するにあたり、17年前の9月3日に、みなさまにお伝えしたことを、もう一度、思い起こし、そのときに、みなさまにお願いしたことを、改めて、お伝えしたいと思います。
第1回福音宣教推進全国会議、NICE-1では、「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。誰に開かれた教会であるかというと、もちろん、すべての人に開かれているという意味ですが、わたしたちの教会は、非常に近づきにくい、苦しんでいる人、悩んでいる人、あるいは、自分のような者は、とても、キリスト教の教えには縁がないと思う人、病気の人、体だけではなく、心に問題を感じている人、周りの人からも変わっていると思われている人、そのような人が温かく受け入れられ、大切な人として扱われ、自分の居場所がある、安らぎがある、慰めがある、生きる意味を見いだすことができる、そのような教会になりたい。もちろん、そのようになっている部分もありますから、みなさまは、教会に来られているのだと思いますが、多くの人にとって、わたしたちの教会は、自分にとって、安らぐことができる、そういうものになっていないというのが、現実です。 わたしたち自身の間にも、なかなかうまくいかない、いろいろなことがあると思います。どうか、聖なる助けによって、そのような現実の中で、互いに受け入れ合い、ゆるし合い、そして、不完全な人間、弱い人間、道から外れてしまう人間同士が、支え合い、助け合う、そのような教会が、成長し、広がって行きますよう、心から願い、祈ります。
弱い人間が、そのようにできるためには、神の助け、聖霊の導きが必要です。わたしたちは、父と子と聖霊を信じています。特に、人間としてのナザレのイエスが去ったときに、わたしたちに聖霊を注いでくださった。聖霊は、いまも、いつも、わたしたちとともにいてくださいます。聖霊の導きを信じ、そして、このような自分も、神から赦され、受け入れられている者であるという信仰を、より強くしていただき、お互いに、ゆるし合い、助け合う、そのような、キリスト教会の姿を、人々に表し、伝えていきたい。
教会に行ったけれども、冷たかった。だれも、わたしのことを認めてくれない。もう、そのようなところには行きたくない。そのような言葉を、聞かないわけではない。わたしたちには、そのようなつもりはありませんが、外から見ると、わたしたちの教会は、そのように見えることがあるようです。 わたしのような者でも、そちらに行けば、ほっとする。そのような交わりを、わたしたちの教会は、もっとしっかりとしたものに押し広げていきたい。
教皇ベネディクトは、即位されたときに、「現代の荒れ野」ということを言われました。本当に、生きることが難しい、この社会、この時代、わたしたちのつながりのなかで、生きる力、生きる希望を、日々見出すことができるよう、そのような教会でありたいと思います。

ヨハネの言葉を、最後にお伝えします。 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34)

2017年7月25日 (火)

父母を敬え

2017年7月17日  宣教・福音化年「合宿研修」派遣のミサ

第一朗読 出エジプト記1.8~14,22

福音朗読 マタイ10.34~11.1   

昨日の夕方6時過ぎにやっと到着して、夕食にあずかり、今のこの時まで皆さんと一緒に過ごしてきました。昨日、そして一昨日はいなかったので、皆様のお話しを伺うことができず、残念でございました。それから夕べと今日も皆さんのお話しを聞いたのですけども、正直よくわからないところがありまして、もっと更に伺いたいという気持ちが残っております。

今日のマタイによる福音を読んで、わたくしが今思いますことをお伝えし、皆さんの参考に供したいと思います。 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 イエズス様の大変厳しいお言葉であります。

わたくしも若い時、この言葉を黙想し、できたら司祭になろうと思い、ある時決心をして、神学校に入れてくださいと頼んで、そのあと司祭への道を歩み司祭になりました。その時は、司祭になろうと思った時は、このイエスの言葉に自分は応えるのだと思って、決心をしたのであります。まあしかし、司祭になり、司教にまでなってしまった後で振り返ってみると、自分の動機は本当に純粋なものであったであろうかと思うのであります。今更言ってもしかたがないんですけども、皆さんのお話しを聞いて刺激されて、自分のことを少しだけ話そうかな、打ち明けようかなと思いました。

わたくしは、千葉県の房総半島の山奥にある市原市鶴舞というところで、生まれ育ちました。わたくしの家庭はいろんなことがあって、あまり恵まれていなかったんですね。わたくしは長子、長男であります。父や母は一生懸命生き、わたしたちを育ててくれましたが、わたくしどもはその父母の心をよく受け止めず、よくわからず、どちらかというと恨みがましく思っていたのであります。本当に申し訳ありませんでした。皆さんに謝ってっても仕方がないのですけども。・・・父や母の苦しみや痛み、悲しみを理解しなかったですね。大きくなって何十年もたってわかってきた。

わたくしが千葉県の教会に行きましてミサをあげました後、一人の方がこうおっしゃいました。「私はあなたのお父さんをよく知ってますよ。」「え、知ってたんですか?」「あなたのお父さんは立派な教育者、学校の先生でした。」その方も教育者で、父は先輩にあたる。息子の目にはそうは見えなかった。「あなたのお父さんのおかげを被って感謝している人がいます」と。間もなくその感謝している方からの手紙がきました。「あなたの父上は私の恩人であります。」とこう縷々と書いてある。おれの親はこんなに偉い人だったのか!

母につきましても、・・・母のことをよく知っている方が、教会におりましてですね、別の教会ですけど訪問した時に、その方のお話しを聞くことができた。「あなたのお母さまは大変立派な方で、みんなのことをよくお世話をし、そして尊敬されていた」と。わたしは母のことは断片的にしか憶えておりません。幼い時に母とは離された状態になりました。わたくしが大学生になったときに、突如母親に会うことになったわけなんです。わたくしと下の「きょうだい」の心には父や母のことをあまり思い出したくないという思いがあったんですね。・・・わたくしは本当に申し訳ないが、大変後になって、父や母のことをもっと知りたいと思うようになった。わたくしが司祭になってから、二人とも帰天しております。臨終洗礼を受けて東京のカテドラルに葬られております。すぐそばなんで毎日でも墓参りできるのですけど、これがまたしないんですね。なんて親不幸な息子であるかと思いますが。

ですから本当にイエズス様の呼びかけに応えて父や母のもとを出る人もいるけれども、かなり不純な動機で、やなことをしたくないからイエスに従うという理由を見つけるという、そういう人もいるのではないかと。このイエスの言葉は大変難しい要求だと思います。 わたしたちは父や母から生まれますが、生まれた時から健全な家庭があるわけではない、家庭を知らない人もいる。両親がそろっていない方もいる。それから親がわからないという人もいる。人は家庭で生まれ育ち、両親の愛に育まれると、それは理想ですが、そうはいかない現実の中で、わたしたちはまず自分の家庭のことを思いますが、多くの方々の家庭のことも思い、本当にあなたは大切な存在、かけがえのない、なくてはならない人なんですということをどうやって伝えられるだろうか。親は自分を捨てて逃げちゃった、という場合に、自分は大切にされたとなかなか思えないわけであります。わたしの父、母は大切に思って一生懸命育ててくれたわけなんですけども、子供からみたら、ああだ、こうだと思うのですが、どんなに一生懸命生きたかということがわかる。実際、生きるということは大変なことであって、子供を産んで育てるということが、今、更に難しくなっているわけで、子供の貧困ということが言われておりますが、親が子供のお世話をよくすることが難しい環境にある。経済的のみならず精神的にも余裕がない、そういう状況で、子供が愛に包まれて育つということは難しい。そういう中で、わたしたち教会はどうしたらいいだろうか。

話は飛びますが1993年、ずいぶん昔ですが、日本のカトリック教会は福音宣教のための全国会議を開いた。そして家庭の問題をとりあげた。そして、それぞれの教区で、家庭について何ができるかということを考え実行しようということになりました。当時の浦和教区では、わたくしが浦和司教でありましたが、宣教司牧評議会を立ち上げて、そして青年、女性の皆様の協力をお願いしました。昨日その話をしたんですけども、女性をもっと励ますと。そしたら、もう励ます必要ないんだそうですね。「男性を励まさないといけないんですよ、司教さん。」ああそうですか。青年はどうなんですかね。青年はあまり元気がないように思うのですけども、子供ですよね。子供は今本当にかわいそうな状況にある。子供を暖かく受け入れ励ます。親が自分の子供のお世話もできない。お世話をすることを学んでいない親もいるという状況で、教会はそういう方々のためにきめ細かくできることをしていかなければならないんだろうと思います。 自分の言葉で、自分にできることを真心こめてお献げする、ということが福音宣教であると思います。この三日間、教会の働きを見事にあらわしている良い試みであると思い、このような集いは更に発展することを願っております。

2017年5月 2日 (火)

4月29日司祭叙階式説教、大宮教会

受階者:ペトロ 髙瀬 典之
第一朗読 出エジプト記3:1-12
福音朗読 ヨハネ15:9-17

これから司祭に叙階される髙瀬典之さん。そして叙階式に参加している全ての皆さん。この大変喜ばしい、大切な叙階式にあたり、ご一緒に司祭の務めについて分かち合いをしたいと思います。

今日の第一朗読は出エジプト記。モーセの召命を語る箇所であります。神はホレブの山でモーセをお呼びになりました。「モーセ、モーセ」と、モーセをお呼びになったのであります。そしてモーセに使命を授けました。イスラエルの民の叫び、苦しみを神は心に留めて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放することを決意し、その解放する指導者としてモーセを選んだのであります。このエジプトから人々を解放して、新しい土地へ導くという仕事は本当に難しい仕事であると思われます。モーセの心の中に躊躇い、そして苦しみが生じたことは想像するに難くないと思います。主なる神はそのモーセに言われました。わたしは必ずあなたと共にいる。いつも一緒にいるから、あなたを教え導くから大丈夫、やりなさい、そういう神の声があったのであります。
召命とは、神がわたしたちをお呼びになり、そしてその呼びかけにわたくしたちが応えるということであります。
今日の福音として選ばれた箇所は、ヨハネの福音の15章であります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
わたしたちは神の呼びかけに応えた者ですが、さらに神様の呼びかけがあった。神様が選んで、わたしたちに声をかけてくださった。イエスの時代になると、イエスを通して、神は人々を呼び出しになり、そしてイエスの最初の弟子たちが十二使徒たちであります。わたしが選んだ。そしてわたしがあなたがたを遣わす。そして、
「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
と言われました。
今、司祭に叙階される髙瀬さんも、神の呼びかけに応える者でありますが、同時に主イエスから選ばれ、呼び出されたのであります。人間というのは何か問題にぶつかったり、困難に出会う時に、自分はなぜ此処にいるのか、何のために此処にいるのか、ということを思い起こすことがある。自分の出発点をもう一度確かめなければならないと感じることがある。神から呼びかけを受け、そしてそのために必要な力を、恵みを、光を、支えを、導きを、いただいた者がわたしたちであり、特に司祭であります。
さて、叙階される司祭は司祭団という団体に加入し、そして司教の協力者となります。
今日の叙階式の式文で、度々言われておりますが、司祭というのは司教の協力者であります。司教は司祭の存在、そして協力によって司教の任務を果たすことができるのであります。この司祭と司教との親密な交わりということが、非常に大切であります。自分の司教がどんな人であるかは、選ぶことができない。しかし、それぞれの役割を同じイエズス様からいただいておりますので、司教の話はよく聞いて、わたしの後継者の司教の話もよく聞いていただく。そればかりではないですね。自分の希望、自分の問題、自分の本当の思いというものを率直に司教に話していただきたいと思います。
そして、今日の福音朗読で言われておりますが、互いに愛し合うこと。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」という主イエスの言葉を、司祭の交わりの中で具体的な姿をとって、実現するように努めましょう。あなたの先輩の司祭、年長の司祭、色々な方がおります。あなたも色々な方の一人になろうとしてるわけですけれども。互いに赦し合い、助け合い、そして人々がわたしたちの様子を見て、僕も司祭になりたいなと思ってくれるようでありたいです。素晴らしいからそういう風になりたいなと思う場合もありますが、ああじゃいけないので自分がなろうという場合もあると思います。
第三点。司祭と信徒の繋がりについてであります。司祭は信徒のために、司祭になります。司祭は信徒の声によく耳を傾け、信徒の要望に応えるように努めなければなりません。そして、信徒の皆さんが自由に、自発的に教会の宣教・司牧活動を行い、あるいは協力するように励まし、導かなければならない。司祭は一方的に指示し、命令するものではありません。
さて、来る5月7日は世界召命祈願の日であります。全ての人が自分の召命を知り召命に生きるよう、励まさなければなりません。もちろん司祭、奉献生活者への召命を呼びかけ、励ますことは大切でありますが、全ての人、全ての信徒は福音宣教者となるという召命をうけております。それぞれの方が自分の場所で、自分の立場で、主イエスの御心に従い、信仰を証しし、福音をのべ伝えることができるように教え、導き、励ますことこそ、特に司祭の役割であると思います。さいたま教区は宣教・福音化年を掲げて、そして祈りとともに、皆さんの協力をお願いしております。聖霊があなたを守り導いてくださいますように。アーメン。

2016年1月 4日 (月)

世界平和の日・神の母マリア

(説教)
 皆さん、明けましておめでとうございます。
 本日は主のご降誕の日12月25日から八日目にあたり、神の母聖マリアの祭日となっています。本日の第二朗読で、  「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」  とありますように、イエスは律法のもとにあるユダヤ人として生まれ、八日目に割礼を受け、イエス(主は救う)と名付けられました。今日の福音はその次第を告げています。
 さて本日は同時に「世界平和の日」でもあります。  2015年は、胸の痛くなるような悲しく酷い出来事の続く年でした。シリヤなどの中東から多くの避難民が生まれました。今朝聞いたばかりですが、ドイツのメルケル首相はドイツ国民に向かって、100万人の避難民を受け入れる決意を告げて、理解と協力を求めています。教皇様も、困り果て苦しみの最中にいる難民・移住者の家族を受け入れるようと呼びかけました。
 今年の「世界平和の日」教皇メッセージは「無関心に打ち勝ち、平和を獲得する」です。様は傷つき苦しみ途方にくれている人々の心を向けるよう、わたしたちに教えわたしたちを励ましています。
 今年のメッセージの冒頭のことばは非常に印象的です。
 「神は、無関心ではありません。神は、人類を大切にしてくださいます。」  いきなりこのような言葉で始まっています。無関心であってはならない、と強く戒めています。 (ぜひ「世界平和の日」教皇メッセージをお読みになってください。なお本日の聖書と典礼にはその要約といえる適切な記事が出ています。参考にしてください。)
 実際、わたしたちは、自分のこと、自分の健康や生活のこと、自分たちの課題で心が覆われています。他の人のためにどのくらいの心の場所を用意しているでしょうか。自分の仕事にためには心を用います、しかし、ほかのこと、ほかの国で起こっている世界の現実は自分には関係ない、と思い、関わろうとはしません。自分の、自分たちの問題で心も頭の一杯です。わたしたちは、世界の悲惨な現実へ向かって、人類共通の課題へ向かって、貧しい人々の状況について、心を開かなければなりません。
 神はいつくしみ深い神です。聖書は、旧約聖書、新約聖書はすべて、神が人々の苦しみの叫びに応えている次第を告げています。 いつくしの神の目に見える顔が主イエス・キリストです。 いまわたしたちは《いつくしみの特別聖年》を過ごしています。神がいつくしみ深いようにわたしたちもいつくしみ深い者でなければなりません。神のいつくしみをさらに深く知るように祈りましょう。「無関心」から抜け出し、神のいつくしみを実行できるよう、祈りましょう。

主の公現

主の公現の説教
2016年1月3日、鴨川教会
第一朗読 イザヤ60・1-6
第二朗読 エフェソ3・2,3b、5-6
福音朗読 マタイ2・1-12 (本文)

「主の公現」とは主なる神が御子イエス・キリストを諸国の民に示された、という神のみわざを表すことばです。
 今日のマタイの福音は、占星術の学者がベツレヘムに来て幼子イエスを拝み、黄金,乳香、没薬を贈り物として献げた、と述べています。
 「占星術の学者」は博士とも賢人とも呼ばれています。原語は「マゴイ」で、ここからmagic(手品)という言葉で出てきたと言われています。  ふつう、「三博士」と言われていますが、それは、「黄金,乳香、没薬」の三つの贈り物から来てくる数字です。福音書には博士の人数は出ていません。 後に三人の名前も伝えられるようになりました。 三人は、伝説によれが、 メルキオール、バルタザール、カスパールと言い、メルキオールはメシアの王権を表す黄金を献げました。バルタザールは神性を表す乳香を、カスパールは埋葬を表す没薬を献げました。確かにヨハネの福音では、イエスの埋葬のために没薬と沈香が用意された、とあります。(ヨハネ19・39-40参照) ちなみに、東京教区が大変お世話になっているケルン教区の大聖堂にはこの「東方三博士(賢王)」の聖遺物が祀られています。 なお、3月4日には、ケルン教区のヴェルキ大司教(枢機卿)がこの聖遺物とともに、わたしたちの東京教区を訪問してくださいます。
さて、三博士は東方から来たのですが、さらに東にあるこの日本にもメシア=キリストの光が届きました。わたしたちは御子キリストの光を受けて、その輝きを人々に表し伝えるという使命を受けています。 今日の奉納祈願でわたしたちは祈ります。
 「いのちの源である神よ、教会の供えものを顧みてください。黄金、乳香、没薬ではなく、主イエス・キリストご自身をあらわすこの供えものによって、いのちの糧を受けることができますように。」
 わたしたちは黄金、乳香、没薬は持っていません。その代りに日々の生活すべてを、ミサにおいて、主イエスを表すパンと葡萄酒とともに父である神に献げるのです。
  先ほど皆さんは「教皇フランシスコ いつくしもの特別聖年のための祈り」を唱えました。その中で次にように祈ったのです。
 主イエス、・・・・
  あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。
何よりもゆるしといつくしみによって、自らの力を示される神のみ顔です。
  教会がこの世において、復活し栄光に満ちておられる主のみ顔となりますように。
 あなたは、ご自分に仕える者が弱さを身にまとい、 無知と過ちの闇の中を歩む人々を、 心から思いやることができるようお望みになりました。
 これらに仕える者に出会うすべての人が、 神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じるこことができますように。
 実はわたしたち自身が罪深くまた弱い人間です。だからこそこの世の中で「無知と過ちの闇の中を歩む人々を、 心から思いやることができる」はずなのです。「ご自分に仕える者」とは、わたしたち教会です。わたしたち一人ひとりのことです。わたしたちを通して神のいつくしみが現れ伝えられるのです。わたしたちと出会う人々が、自分は「神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じる」ようでありたいものです。
 主イエスに倣い、弱い人間、それて知らずに過ちに陥っている人々にお仕えすることによって、自分の献げものをささげるのです。 わたしたちによって、キリストの復活の光が現れ伝えられますように。罪人である弱い人間を通して主キリストのみ顔が示されますように。わたしたちが神のいつくしも目に見えるしるしとなることができますように、祈りましょう。

2015年9月 8日 (火)

エッファタ

  大司教着座15周年記念ミサ説教 2025年9月6日 年間第23主日、関口教会
 いま読まれた福音は、イエスが、耳が聞こえず口も聞けない人を癒された話です。このときイエスは「エッファタ」というアラマイ語の言葉を使っています。「これは『開け』という意味である」(マルコ7・34)とギリシャ語で説明しています。実際にイエスが話したアラマイ語でした。  しかし現代に伝わるマルコ福音はギリシャ語で書かれています。ただし「エッファタ」の例のように、何箇所かで、イエスが実際に口に上らせたアラマイ語が表記されています。
 イエスがこの言葉を発するとすぐに、この言葉が意味する結果が実現し、その人は癒されたのでした。このイエスの癒しの場面を目撃した人々の心にイエスのこの言葉の音声が深く印象付けられたに違いありません。(このような例は他にも「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)(マルコ5・41)や十字架上のイエスの言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15・34)という言葉が、アラマイ語だと思います。福音書はギリシャ語で書かれていますが、これらの部分にはアラマイ語の表記のまま残されたのでした。
 イエスの言葉には力がありました。その言葉は必ずその指し示す意味を実現します。  本日の第一朗読のイザヤ書はあらかじめこのイエスの癒しのみ業を、メシアの到来のしるしとして告げている、と福音書作者は理解したと考えられます。
 主日の福音はイエスの生涯、イエスの言葉、イエスの生き方を伝えています。
 人の話を聞き、人に話すということは人間が人間らしく生きるために欠かせない、基本的な、他の人との交わりの手段です。イエスはこの働きを奪われていた人に深く同情し、その働きを回復させ、人間らしく生きる道を整えたのでした。
 わたしたちキリストの弟子たちは、病気・障がいのために他者とのコムニケーションの手段を奪われている人が存在しています。また言語の違い、差別、排斥、除外の状態に置かれて、通常の交わりの手段を否定されている人々が存在しています。人々の間に心の交わりの手段を回復し、人々の間のコミュニケーションを発展させるということは、キリストの弟子たちの大切な務めです。
 きょうはさらに、言葉の大切さ、ということにあらためて思いを深めたいと思います。とくに次の二点に留意したいと思います。
1.自分の言葉に責任を持つ。言葉は、人を励まし、慰め、導くために言葉を使う。誠実の誠とは、言葉が成る、実現する、という意味ではないでしょうか。
2.言葉で人を傷つけたり欺いたりしないよう、厳に気を付ける。  どんな宗教も言葉の大切さを教えていると思います。*
 エフェソ書の教えを肝に銘じましょう。 「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。・・・ 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。)」 * 仏教の教え十善回の中の4つは言葉についてのお教えです。(不妄語、不綺語、不悪口、不両舌。)

2015年3月 3日 (火)

イサクの犠牲

四旬節第二主日説教 今日の福音はイエスのご変容です。

  「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9・2-3) わたしたちは神からの神であるイエスを信じえいますが、福音書のイエスはわたしたちと同じ人間の姿をとっていました。普段は神であるイエスの栄光は隠れたままでした。しかしこのときは、神であるイエスの栄光が現われたのでした。これは、イエスが受難を経て栄光を受けることをあらかじめ指し示した出来事と考えられます。イエスの十字架は弟子たちにとって理解し難い出来事であり、大きな躓きでありました。イエスはあらかじめご変容によって弟子たちの心をご自分の受難へ向けて準備し、彼らの信仰を支えるための励ましにしようと考えられた、と思われます。
  「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」(マルコ9・7) イエスは父である神の愛する独り子でした。イエスの言動はすべて神の意に適う言動でした。イエスは父のみ心に従って歩み、自分を迫害するもののために祈り,すべての人のあがないのために、十字架の上上で命を献げたのでした。そして父である神はその愛する子イエスを「惜しまずに死に渡されました。」(ローマ8・32) 神は愛する子が苦しむことを拒まれなかったのです。ここに神の愛の神秘があります。
さて今日は第一朗読に注目したいと思います。 アブラハムが一人イサクをささげる話です。 神はアブラハムを試して言われました。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22・2)
なんとむごい命令でしょうか。なんと不条理な命令でしょうか。分かりにくい話です。このような命令を神が本当にしたのでしょうか。 信仰の人アブラハムは神への反論なしにすぐに命令に従います。
  「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。(22・3)    三日目になって、目的地が見えるところまで来ました。アブラハムは若者たちを残し、イサクと二人だけで山に登ります。
  「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。」(22・6) なんということでしょうか、イサクは自分を焼き殺すために薪を背負わされたのです。このときイサク何歳だったのでしょうか。二人は道々何を考えていたのでしょうか。 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけ、言いました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」(22・7)
このイサクの問い、なんと健気なことでしょうか。イサクは自分が焼き殺されるはずだとは夢にも考えていなかったのでしょうか。
  「アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」(22・8-10) このときイサクは何も抵抗しなかったのでしょうか。唯々諾々従容として父に屠られるままに任せていたのでしょうか。
「そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が、『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』」(22・10-12) 土壇場で神がアブラハムに声をかけてイサクをほふることを止めさせます。
「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(22・13) 「御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」(22・16-18) この「自分の独り子である息子すら惜しまなかった」と言う表現は、今日の第二朗読の「その御子をさえ惜しまずに死に渡された方」(ローマ8・32)と言う表現と重なります。 アブラハムはその信仰が賞賛されている人です。その信仰とは不条理の中でもあえて神への信頼を貫くということでしょう。
信仰とは確かに不条理の中でこそ意味があるのかもしれません。人生には不条理が一杯あります。その現実の中で、どのようにして神を信じることができるかが誰にとっても大きな課題です。アブラハムの受けた試練は確かに信仰とは何かを考えさせる大切な何かを教えています。
  ところで、信仰の模範と言えばイサクの信仰も賞賛されます。従容として薪を背負い、父に殺されそうになったイサクはイエスの先駆者と言えるでしょう。 今日わたしが深く考えてみたいと思うのは、不条理の中での信仰、ということです。この、イサクの犠牲の話は分かりにくい話です。しかし、新約のイエス・キリストの十字架の犠牲と合わせて読んでみれば復活の光がほのかに見えてくると思います。 旧約聖書は新約聖書の光に照らして読まなければなりません。 今日のご変容に福音ですが、わたしたちの日住生活にも「小さなご変容」というべき出来事があるのではないでしょうか。わたしたちは、日常の中にある復活の光によって支えられ励まされていると思 うのです。

誘惑

四旬節第一主日・洗礼志願式説教

 今日は四旬節第一主日、ミサのなかで洗礼志願式が行われます。今日の聖書朗読と福音朗読はいずれも、洗礼を受ける準備のためにふさわしい聖書の箇所として選らばれています。

 第一朗読の創世記9章は、有名なノアの洪水について語ります。その前の6章を見ますと、「神は人間を造られたことを後悔した」という、不思議な表現が出てきます。

 「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。 主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』」(創世記65-7)

 「神が後悔する」というのは不思議な話です。さらに「心を痛められた」とあるのは非常に興味深い記述です。わたしたちの神は「後悔し、心を痛める神である」ということを心に留めましょう。

 神は洪水を起こし、すべての生き物を滅ぼしますが、ノアとその箱舟に載っていた生き物は救われました。神は契約を立て「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(創世記911)と言われました。そしてその契約のしるしを「虹」としたのです。

 わたしたちも時々空に虹を見ることがあります。虹とはしばし現実の世界の問題を忘れさせてくれる美しい現象です。神はこの虹を持って、すべての生き物を救おうとする神の約束のしるしとしたのです。虹を見るたびにわたしたちは、神はすべての生き物を救おうと望んでいる、という信仰と希望を新たにすることができます。

 新約聖書からみれば、神が洪水の後ノアに与えたこの約束は、洗礼の恵みの前表、すなわち新約の救いの出来事をあらかじめ指ししめすための旧約聖書のなかでの出来事、と考えられます。

 今日の第二朗読、ペトロに手紙は、ノアの箱舟を持って、あらかじめ教会を指し示しているしるしと考え、箱舟に載って救われた人々は、洗礼によってイエス・キリストの復活の神秘に与る人々をあらかじめ指し示している、と考えます。

 さて、今日、四旬節第一主日、毎年、福音書はイエスが荒野での40日間にわたる悪霊の誘惑に打ち勝たれた次第を告げています。マタイ、ルカの併行箇所と比較すると、今日のマルコの福音の記述は実に簡潔です。

 「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マルコ112)

とだけマルコは伝えるのみです。

 マタイ、ルカの福音書ではイエスは三回の誘惑を受けたことが記されていますが、マルコはただ、「サタンから誘惑を受けられた」と告げているだけです。 

 まことの人間であったイエスはサタンから誘惑をうけることができました。イエスの受けた誘惑はわたしたち自身の受ける誘惑です。イエスはわたしたちのために誘惑と戦い、悪霊に勝利したのでした。

 荒れ野は野獣の住む危険なところです。東京というところも現代の荒れ野ではないでしょうか。わたしたち教会はその荒れ野に置かれ、日々悪霊の誘惑にさらされています。

 他方、イエスには天使が仕えた、とあります。イエスは天使の助けを受け誘惑に打ち勝ちました。わたしたちも天使に助けられて誘惑に打ち勝たなければなりません。

 わたしは、天使といえば、さりげない励ましの言葉、優しい笑顔、親切な行い、思いやりと同情など、そして何よりも日々の祈りを連想します。

 このような日々の善意がどんなにか、わたしたちを助けてくれていることでしょうか。このような善意がわたしたちを孤独から救い、一つの神の民、人類としてつないでくれていると思います。

 大都会のオアシスであろうとする教会は、天使に導かれて、日々互いに支えあい励ましあわなければなりません。

 今日はこれから洗礼志願式が行われます。

 洗礼は信仰の旅の出発です。この信仰の旅は、地上の生命の終わりのとき、死から永遠の命へ移される時に終わります。この時わたしたしたちは決定的に主の過ぎ越しの神秘に与り、主キリストの復活の命にあずかる者とされるのです。

 洗礼志願式では信条の授与が行われます。信条はわたしたちの信仰告白を、簡潔な文章にまとめたものであり、日々唱えて信仰を深める縁(よすが)とすべき大切な祈りです。

その最初の部分は

「天地の創造主、全能の父である神を信じます」

という信仰告白です。

 この世界は神によって創られました。神の創造の働きは今も続いています。神は聖霊を送り、常に地上を新たにしています。

 わたしたち人間も聖霊の働きを受け、日々新しい人として生まれ変わることができます。信仰の旅は日々生まれ変わり新たにされる体験の連続であります。

 神の創造の働きはやがて完成の時を迎えます。その時とは主キリストの再臨の時です。

 洗礼志願者の皆さんは、日々この信条を唱えながら、信仰と希望を深め、また日々愛の業に励んで下さるようにお願いします。

2015年1月 2日 (金)

現代の奴隷制

正月元旦は神の母聖マリアの祭日であり、また「世界平和の日」です。
今日の福音でルカは、 「マリアはこれらの出来事をすべてこころに納めて,思い巡らしていた」(ルカ2・19) と記しています。
ことしの「世界平和の日」の教皇メッセージの題名は「もはや奴隷としてではなく、兄弟姉妹として」であります。
以下にこのメッセージを読んでのわたくしの要約をお伝えし、併せてわたしの新年の思いをお伝え致します。
ことしの教皇の「世界平和の日」のメッセージは使徒パウロの「フィレモンへの手紙」からとられた言葉です。オメシモという奴隷がいました。彼はフィレモンの奴隷でした。しかしオネシモはパウロのもとでキリスト者となりました。パウロはオネシモを主人であったフィレンモンに送り返すにあたり手紙を書き送り、オネシモを「もはや奴隷としてではなく、兄弟姉妹として」受け入れるように頼みます。
人は皆同じ神を父とする神の子、であり、兄弟姉妹です。しかし人類の歴史は殺人と犯罪、人権侵害、そして奴隷制の歴史です。人類最初の殺人はカインによる弟アベルの兄弟殺しでした。カインはアベルを兄弟として受け入れず、嫉みに駆られて弟を殺しました。
奴隷制とは他者を兄弟として認めず、人間の尊厳と自由を否定し、人間を所有物とみなし、人間を単なる手段とする、大きな悪であります。
現在においては公式には奴隷制は廃止されており、国際法により禁止されています。しかし今なお多くの人々が事実上奴隷の状態に置かれていることをわたしたちは認識しなければなりません。
恐ろしいことですが、違法な労働条件で働かされている労働者、恐怖と不安の中で非人道的な扱いを受けている移住者、売春を強いられ、ある結婚を強制されている人々、臓器売買のためにまた兵士にするために取引され売り渡されている子どもたち、テロ組織により拉致され戦闘員にされている人々や性的奴隷にされている少女や女性たちが多数存在しています。 このような恐ろしいことが起こっているのは何故かといえば、人を物のように扱うことが許されているという考え方が人を支配しているからです。また人身売買が起こる原因には極度の貧困という現実があります。さらに奴隷売買と人身売買に携わる人々の汚職という問題、その背景には、軍事紛争、テロ、暴力、犯罪という人類の構造悪が存在しています。
わたしたちは、人身売買、違法な移住取引に対して無関心であってはなりません。すでにこの問題に取組み、この悪と戦っている修道者の存在は敬意に値します。 人間の搾取と取り組むためには予防措置,犠牲者の保護、加害者への法的措置の三つの組織的活動を世界的ネットワークで行う必要があります。
国家は自国の法律が人間の尊厳を尊重したものになるよう努めなければなりません。国際機関は、人身売買や違法移住取引を取り締まるための組織を整備するよう求められています。企業には、人間の尊厳を尊重した労働条件と適切な賃金を保障する義務があります。 人は神のよびかけに応えて回心すれば、隣人に対する見方を変え、一人ひとりを人間家族の兄弟姉妹として認め、その人に人間としての尊厳を認めるようになります。
スーダン出身の聖人、奴隷とされていたジョゼピーナ・バキータの生涯のあかしは、この教えについての美しい、そして大きな励ましの物語です。
教皇は今年の世界平和の日のメッセージを次のように呼びかけて結びとしています。

「神はわたしたち一人ひとりに、『おまえの兄弟姉妹に何をしたのか』(創世記4・9-10)とお尋ねになることを、わたしたちは知っています。現在、大勢の兄弟姉妹の生活を苦しめている無関心のグローバル化に対処するためには、わたしたち全員が、連帯と兄弟愛のグローバル化を実現させる必要があります。そうすれば、彼らは、新たな希望を抱き、現代のさまざまな問題に直面しても新しい展望のもとに勇気をもって歩むことができるでしょう。その展望は、彼らが切り開くものであると同時に、神によってわたしたちの手にゆだねられたものでもあるのです。」

今年は第二次世界大戦終了、広島・長崎原爆投下の70周年にあたる年です。ぜひとも戦争という人類最大の悪の終息と核兵器廃絶に向けてわたしたちの声を響かせまたそのための運動により一層の努力を傾けなければならないと思います。 本日の第二朗読でパウロは言いました。「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によってたてられた相続人です。」(ガラテヤ4・7)) すべての人がキリストの霊を受けた神の子として尊重される世界の到来を心から待ち望みましょう。

2014年12月27日 (土)

年末の挨拶

 2014年テ・デウム集会・聖体賛美式中の挨拶  ― カテドラル献堂50周年を迎えて ——  教皇庁大使ヨセフ・チェノットゥ大司教様、神父様、ブラザー・、シスターの皆さん、お集まりの皆さん、  クリスマスおめでとうございます。  今年も無事に年末の「テ・デウム」の集会を迎えることができました。父と子と聖霊の三位の神様と、わたしを支え助け導き、わたしの為に祈ってくださっているすべての皆さんに、心から感謝いたします。  教皇ベネディクト十六世による『信仰年』は2013年11月24日の「王であるキリスト」の祭日で終了いたしましたが、その日に、教皇フランシスコは新しい使徒的勧告『福音の喜び』Evangelii Gaudiumを発表いたしました。  これは、悩み悲しんでいる世界中の人々への希望と慰めの書、勇気と希望を与える教えであります。  わたしたちはこの一年、この教えを学んで参りました。なお来るべき2015年、この教えに励まされて、人々へ慰めと希望を伝え証するという教会の使命を遂行してまいりましょう。  2014年10月にはヴァチカンで臨時シノドスが開かれ、わたくしが日本カトリック司教協議会会長として出席いたしました。主題は「福音化を背景とした家庭への司牧的挑戦(Pastral Challenges to the Family in the Context of Evangelization)」です。  2015年10月にはその継続である通常シノドスがヴァチカンで開催されます。主題は「教会と現代世界における家庭の召命と使命」(The Vocation and Missionary of the Family in the Church and Contemporary World )」です。 家庭という誰にとっても非常に大切な共同体の福音化のために今年も祈りそのために働きたいと思います。 2014年12月には、わたしたちは東京カテドラルの献堂50周年記念行事を実施行いたしました。ケルン教区をはじめとする多くの皆さんの祈りと支援に改めて感謝いたします。  献堂50周年を記念し、教区の「祈りの家」の中心であるカテドラルの使命をより明確に示す為に、主日と祭日の晩の祈りを大聖堂で開始いたしました。  多くの皆さんの参加をお願いします。 なおご存知のように東京教区の優先課題は次の三つです。 1) すべての信者の霊的成長(信仰の生涯養成) 2) 多国籍教会としての成長と互いのサポート(CTICなどの活動) 3) 心の問題へ理解と助け合い  これは変わることのない東京教区の優先課題です。来年も種々の機会にこの課題の内容を検討しまた深める努力を重ねて行きたいと考えております。  2014年を振りかえりますが、すぐに心に浮かんでくる出来事は、6人の教区司祭が亡くなられたことです。  特に11年間教区事務局長を務めたチエレスティーノ神父の帰天はわたくしにとって大変辛く悲しいことでした。  帰天された神父様方のために、慎んで永久の安息を祈ります。