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ミサ説教

2020年2月23日 (日)

「敵を愛しなさい」という難しい教え

年間第7主日A年

2020年2月23日、本郷教会

 第一朗読 レビ記 レビ19・1-2、17-18

第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙 一コリント3・16-23

福音朗読 マタイによる福音 マタイ5・38-48

 

きょうの福音も、先週の続き、山上の説教であります。
「敵を愛しなさい」とイエスは教えました。
このイエスの教えは、キリスト教徒でない人にも広く知られています。
一体、人間に敵を愛するということはできるのでしょうか…。

きょうの、福音朗読の結びの言葉の、
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい」という言葉も、非常にむずかしい教えであると感じないでしょうか。

既に、「隣人を愛しなさい」という教えは、旧約聖書の教えでありました。
この、隣人とはだれであるかということについての、理解の発展がありました。当初、イスラエルの人々は、自分の周りの人々、家族、親類、あるいは、同じ部族、同じ集団の人のことを「隣人」と考えていたようであります。

しかし、神の教えが次第に明らかにされるに従って、隣人というのは、自分たちの枠「イスラエル民族」という枠を超えた外にいる人々、そして、全ての人を指すというようになったと思います。

そして、隣人を愛するということについて、謂わば、このようなことはしないようにしなさいということと、このようにしなさいということと、二つに分けて考えられるようになったのではないでしょうか。

隣人を愛するというというのは、隣人に害を与えないだけでなく、心の中で人々に恨みを抱くことのないようにしなさいというように既にレビ記が教えています。

きょうの福音では、さらに、「敵」と思われる人に対して、つまり、「自分を迫害するもの」に対して、「その人々のために祈りなさい」、と教えています。

新約聖書では、一貫して敵のために良いことをするようにと教えております。

使徒パウロのローマの教会への手紙の中には次のように言われている、
「だれに対しても、悪に悪を返さず、すべての人の前で、善を行うように心掛けなさい。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
ですから、自分が自分の敵であると感じる人に対しても、悪く思わないだけでなく、進んで善を行うようにしなさいと教えているのであります。

きょうのイエスの教えでは、その動機と理由について、次のように述べられています。
「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせてくださる」
天の父は、善人に対しても、悪人に対しても、正しい者にも、正しくない者にも等しく恵みを注いでくださる、あなたがたもそのようにしなさい。そういう意味であります。

そして、自分に良くしてくれる人にそのお返しとして良くすることは易しいことであり、だれにもできるではないか、あなたがたは、その人間の通常の状態を超えるもの、天の父の子になるように努めなさいと言っているのであります。

そして、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
この完全な者になりなさいと言われると、ちょっとひるんでしまう。「わかりました。やります」と、言えるかたは幸いですけれども…。この言葉に悩みますね。わたくしも考えてみましたが、明快な解答は得られません。まあ、こういうことではないかと思うことを申し上げます。

「完全である」というのはどういう言葉を訳したのかなと思いまして調べましたら、やはり、「完全」なのです。英語で言うとパーフェクトなのですね。ギリシャ語の原文も、どれをみても、日本語で完全となっている。

「完全」というのは、人間にはあり得ないのではないかと思う。

『聖書と典礼』の脚注にありますが、ルカによる福音では、「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい。」(ルカ6・36)となっているのですね。こちらの方だと少しは分かりやすいかなという気がする。でも、憐み深いという訳語に、わたしは、ちょっと引っかかる。「いつくしみ深い」という言葉もあります。
フランシスコ教皇は慈しみの特別聖年を提唱されました。いかに天の父がいつくしみ深いかたであり、そのいつくしみはイエス・キリストにおいて完全に表され、実行されたということを言われたのであります。ですから、完全と言う言葉をいつくしみ深いという言葉に入れ替えると、もっと近づきやすい教えになるのではないかと思う。

わたしたちはいつくしみ深くされたので、神の愛を信じ、そして、人を通して、自分が大切にされているという体験を持つことができたのであります。

「主の祈り」を思い起こしますと、「わたしたちの罪をおゆるし下さい、わたしたちも人をゆるします」と祈っているのであります。実に、わたしたちはゆるしてもらわなければならない存在であります。単に、不完全であるというだけでなく、道を踏み外す、過ちを犯すものであります。それは、どんなに努力しても完全に神の掟、イエス・キリストの教えを実行することができる者には、完全には、なり得ないでしょう。

完全にはできないから、どうでも良いということにはならないわけで、できる限り努めます。
その際、自分がゆるされている者であり、ほかの人から受け入れられ、大切にされている者であるという自覚を持つならば、より、いつくしみ深くあれという教えを実行することができるのではないでしょうか。

自分にとって気に食わないことをする人を好きにはなれないのでありますが、「敵を愛しなさい」という場合に、どんな人のことも好きになりなさいといっているわけではない。愛するということと、好きになるということは、まあ、重なりますけれども同じではないわけであります。

わたしたちは、皆、罪びとであり、欠点を持っている者であります。お互いにゆるし合い受け入れ合わなければならないのであります。そして、その際、自分にとって受け入れることがむずかしいと感じる人であっても、その人が自分のためにしてくれていることを想い、その人の良さを認め、そして、更に、その人の中に神の美しさが輝いているということを認めることができるようになり得ると思います。

全ての人は神の似姿であり、イエス・キリストの十字架によって贖われたものであり、そこに、キリストの復活の光が射しているのであります。

ですから、「敵を愛する」ということは、人に対して恨みを抱かないということから始まって、全ての人の中に、神の美しさを見出すように努めること、どんな人も、その人にしかない良さが与えられていることを、フランシスコ教皇もたびたび言っておられますが、「その人の中にある良いこと、美しいことを見つけるように努めたい」と思う。

そして、天の父からの恵みを自分がどんなにたくさん受けているかということをいつも思い起こし、感謝を献げるようにいたしましょう。

 

使徒座

聖ペトロの使徒座のミサ説教

2020年2月22日、本郷教会

最初のローマの司教聖ペトロ

 

 2020年2月22日という日、間もなく「灰の水曜日」を迎えようとしている今日、わたしたちは使徒ペトロの使徒座の祝日を祝います。

  イエスはペトロをはじめとする12人を選び使徒とされ、そして使徒たちにご自分の任務を引き継ぐように命じました。ペトロは12人の代表とされており、今日の福音によりますと、彼は使徒を代表してイエスに対する信仰告白を行っております。

「あなたはメシア、生ける神の子です」。

このペトロの信仰告白の上に教会が成立し、そして存続してきました。

きょうの集会祈願で私たちは祈ります。

「全能の神よ、あなたは使徒の信仰をいわおとして、教会をゆるぎないものとしてくださいました」.

この使徒たちは、決して優秀なユダヤ教の信徒ではなかった。彼らは概ね漁師などの仕事をするものであり、特別に学問を修めた者でもなかった。率直に素朴にイエスを尊敬しイエスに従ったのであります。

とくにペトロのことを思い起こしてみますと、彼は、ほんとうに率直で、そして単純な人であったと思われます。

今日のこの信仰告白、「あなたはメシア、生ける神の子です」のすぐ後で、イエスはご自分の受難のことを打ち明けますと、つまり、

「わたしは、やがて、長老、祭司、そして律法学者たちに迫害されて、そして、やがて殺されてしまうが、三日目に復活することになっている」といわれたときに、ペトロは非常に正直に反応します。「いえ、先生、そんなこととんでもないことです。絶対にそんなことがあってはなりません」。

そのペトロに対して、イエスはなんと言われたか?

「サタンよ、退け!」

まっ、サタンというのは悪魔ということよりも、神のみ心に反対する者という意味であります。

さらに、思い起こせば、ペトロはイエスが十字架にかけられる直前、三度もイエスのことを「わたしは知らない。あの人はわたしに関係ない」と言って、しらを切ってしまった人であります。

復活したイエスがペトロに現れて「わたしの羊を僕しなさい」と三度も言われました。この三度というのは、ペトロが三度もイエスを否んだことを表していると思われるのであります。

 そのような、いわば頼りない人が、どうして教会の礎となり、そして、ローマの使徒座の最初の司教となることができたのでしょうか?

それはひとえに、神が共にいてくださる、復活したイエスが、ペトロと共に歩んでくださるという私たちの信仰によるのであります。

 ペトロが非常に立派な人であり、頼もしい人ではありますが、わたしたちにとっては(教会を信じることが)ちょっと難しいという気がする。

わたしたちと同じ弱い人間であり、臆病風に吹かれて、主イエスを否定してしまうような人間が教会の指導者になったということは、わたしたちに対する、まぁ、ある意味で慰めではないだろうかと。

 ペトロの手紙が、きょう第一朗読で読まれました。この中の言葉で、特に気を付けるべき言葉は次の言葉ではないかと思います。

「権威を振り回してもいけません」

教会の第一人者とされたという意識は、「自分は偉いんだ。自分には何もかも許されているんだ。わたしの言うことは全部正しくて間違いがない」.

という思い込みに陥りがちであり、自分に委ねられたと考える権威、それは権限に通じる。権限を行使して、自分の満足、自分の支配のために乱用するという危険が生じるのであります。

実際、教会の歴史を見れば、最初は、貧しい人々、迫害され、そして、片隅に追いやられている人々の集いに過ぎなかったイエス・キリストの教会が、やがて多くの人が信者になるにしたがって、ローマ帝国はキリスト教を公認いたしました。313年という年。それからほどなく、さらに、キリスト教をローマ帝国の宗教と定めたのでありました。

そのところから教会の深刻な問題がはじまったのではないでしょうか。「権威を振り回してはいけません!」というこの言葉を肝に銘じて、歴代のローマの司教は謙遜に神と人に仕えなければならなかったのであります。実際に多くのローマの司教はそうしましたが、そうしなかった、そうできなかった人もいたことをわたしたちは知っている。

そこで教会の歴史の中では様々な問題が生じた。宗教改革という出来事もあったのであります。

いま現在、ペトロの使徒座はローマ教皇庁といわれている。

この教皇庁の改革ということが真剣に望まれているのであります。

ローマの使徒座は、世界中にあるそれぞれの教会の連絡の中心となっていますし、もっとそうならなければならない。お互いによく知り合うための仲介者の役割が大切であります。

そして、それぞれの地方の教会が自分たちの考えで、自分たちのやり方でイエス・キリストを述べ伝えることができるよう励まさなければならない。自分のやり方を強制してはならないのであります。

そして、もともと貧しい者の教会であったので、権力、権威、財力、そういうものから離れたできるだけ小さな存在として貧しい僕、イエス・キリストの姿を現すものでなければならないのであります。

現在のローマの司教、フランシスコはその教会の原点に立ち返るべく大きな努力をしていると思います。

教皇様のためにお祈りいたしましょう。

 

2020年2月21日 (金)

死から命へ

年間第6金曜日のミサの朗読より

2020221日、本郷教会

「死から命へ」

月曜からの第一朗読はヤコブの手紙。行いの伴わない信仰は死んだ信仰であると言っている。

今日の福音。

《自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。》

救いたいと思う自分の命は地上の命、福音のために失って救う命は永遠の命、神の命である。失う命は偽りの命、救う命は真の命である。キリスト者の生涯は偽りの命を捨てて真の命へ至る旅,死から命への歩みである。

 

 

第一朗読  ヤコブの手紙 2:14-2426
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

福音朗読  マルコによる福音書 8:34-9:1
(そのとき、イエスは)群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 

 

2020年2月20日 (木)

勘違い、思い違いはないか?

年間第6木曜部ミサの福音朗読について

人には神の思いははるかに超えている》

2020年2月20日

 

イエスが弟子たちに、

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と訊ねるとペトロが答えました。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

マタイ福音書では、イエスは

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16・16-19)

と言われました。ペトロを称賛しさらに重要な任務を授けているのです。それにもかかわらず、ペトロがイエスを脇へお連れしてお諫めするとイエスは

ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

この落差をどう受け取ったらいいのでしょうか。最高に褒めておいてサタン呼ばわりをするとはどういうことでしょうか。それは、確かに人間には神の思いが分かりませんよ。だからと言ってもう少し言いようがあるのではないか、とも思いませんか・

わたしたちは主の祈りで

「み旨が行われますように」

と日々祈っています。自分がどうすることがみ旨を行うことに適うのか、真剣に願い求めているのではないでしょうか。問題は具体的に何が神のみ旨であるのか、すぐには明白にはならない、ということです。さらに明白の成っても、それを実行する力があるだろうか、という不安があります。

神の思いは人の思いをはるかに超えています。実にイザヤ書が言っています。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55・8-9)

 

人と人との思いのすれ違いとか勘違いとかよく起こります。まして人と神の間では思いが通じるということは難しんではないだろうか。人が勝手に自分の思いを神の思いと信じる場合もあります。

 

 

  マルコによる福音書 8:27-8:33
(そのとき、)イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 

2020年2月19日 (水)

心の目を開くには?

年間第6水曜日説教

2020219日、本郷教会

 

今日のマルコによる福音はイエスが一人の盲人をいやされたという話であります。

今日の話を読んで気の付いたことを少し申し上げます。

イエスは非常に丁寧に優しく盲人の目を開けてあげています。

「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し」とあります。どうして村の外に連れ出したのでしょうか。人の目に触れないところに連れて行ってお癒しになったのであります。

「その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。」

イエスは段階的に盲人のいやしを行いました。

「すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』

そして次の段階で

「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」

のであると記されています。

そしてイエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰されました。

「メシアの秘密」という言葉があります。イエスはたびたび、いやしを行った時に、この事を人に話してはならない、と告げています。何故であるのか、が論じられています。おそらくご自分の使命が誤解されるのを恐れたからであろうと言われています。

盲人の目を開けてあげたという話は他にも出ています。

ところで今思いますに、わたしたちは心の目をもっと開けるようにしなければならないのではないでしょうか。心が開いていないと見ても見えない、ということがあります。聞いていても聞いていない、ということがあります。

本当に事が見えるように、神の栄光、神の美しさが見えるように、わたしたちの心を清めていただけるよう祈りましょう。見える人にはこの世には神の美しさが現れているのです。

 

第一朗読  ヤコブの手紙 1:19-27
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現ないからです。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

 

福音朗読  マルコによる福音書 8:22-26
(そのとき、イエスと弟子たちは)ベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された

 

 

2020年2月18日 (火)

ファリサイ派のパン種に気をつけなさい

年間第6火曜日ミサ説教

 2020年2月18日、本郷教会

第一朗読は使徒ヤコブの手紙です。

ヤコブは「神は決して人を誘惑することはない」とはっきりと言っています。誘惑することはありませんが試練に遭わせることはあります。人が罪をおかすのは「それぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥る」からです。

今日の福音ではイエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました。このイエスの言葉を弟子たちは悟ることが出来ませんでした。パンを持ってくることを自分たちが忘れたことをイエスが言っているのだと考えたのです。これは、イエスがパンを増やす奇跡を二度も行った後のことでした。イエスは弟子たちの無理解に対して彼らをやさしく諭しています。わたしが何千二もの人を養うパンの奇跡をおこなったことをあなたがたは知っているでしょう。わたしが言っているのはパンのことではない。イエスは、パリサイ派の人々、そしてヘロデ王(その周りの人々)のこと、その生き方の事を言っています。この人々はしばしばイエスと敵対しました。パリサイ派の人々の偽善、ヘロデの権力欲と誤った支配についてイエスは言っています。少数の人が全体に悪い影響を与え腐敗させることがあります。わたしたちは神の国のパンだねとして全体を神の国に変えていく小さな存在であるのです。神はわたしたちを通して世界を神の御心が行われる民の共同体に変えてくださるののだと信じ希望しています。

 

第一朗読  ヤコブの手紙 1:12-18
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

 

福音朗読  マルコによる福音書 8:14-21
(そのとき、)弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

 

2020年2月17日 (月)

「思い」で人殺す?

年間第6主日A年の説教

2020年2月16日、茂原教会

第一朗読 シラ書15章15~20

第二朗読 コリントの信徒への手紙2章6~10

福音朗読 マタイによる福音5章17~37

 

マタイによる福音書の5章は有名な山上の説教であります。

今お聞きになりましたように、主イエスはわたしたちに非常に厳しい教えを伝えています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである」と言われ、

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義に勝っていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」

と言われました。この主イエスのお言葉は何を言っておられるのでしょうか?

旧約聖書には膨大な律法や預言の言葉が載せられています。わたしたちは新約の時代に生きています。旧約聖書と新約聖書はどういう関係にあるのでしょうか?イエス・キリストが来られて、わたしたちは新しい時代に入っているのではないだろうか?

しかし、いま聞きましたように、イエスは旧約の律法や預言者を廃止したのではないといわれます。

旧約聖書を読むと非常に細かい規定がたくさん出ています。特に驚くのは、このいけにえの献げ方について、ずいぶん詳しく細かく述べられています。

イスラエルの民は牛や羊などの動物をいけにえとして神に献げていました。わたしたちは、もうそうする必要はないのです。ですから、旧約聖書が規定しているいけにえの献げ方の規則は、もうわたしたちには不要となった。

それでは、聖書が教えている人間の生き方についても廃止されたのかというと、もちろん、そうではありません。もっと、厳しく教えているのではないでしょうか。

「人を殺してはならない」。

これは誰でも、どの国においても、どの時代でも人々が守るべき大切な掟とされています。

今日、イエスが言われたのは「兄弟に腹を立てれば、人を殺したことになるのだ」そこまで言われると困ってしまいます。新約聖書の他の個所を思い出してみましょう。

ヤコブの手紙では次のように言われている。

「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」(ヤコブ1・19-20)

「怒る」ということは、神のみ心に適わないと言っている。

エフェソの手紙は次のように教えています。

「「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」(エフェソ4:26)

「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」(エフェソ4:31)

 ですから、新約聖書の教えは明白であって、「怒りとか憤りを捨てなさい」と教えています。

聖書、とくに旧約聖書にはしばしば「神が怒っている」と出ています。

神の怒りとわたしたち人間の怒りとどう違うのでしょうか。

わたしたちが怒るのは、どういうときに怒るのでしょうか?

わたしたちの場合,「憤る、大声を出して喚く」ということはそう度々のことではないでしょう。しかし、一日終わって、「きょうは面白くなかったー、嫌だなぁー、あの人は・・・、とか、気分が悪かった」などと思わないわけではない。「まぁー、馬鹿者とかー」とか思わない人はいない。毎日そう思う人はいないけれど、そう思うことは避けられないですね。わたしたちが不愉快に思うのは、これ、どうしても避けられないことです。こちらがそう思えば、他の人もわたしのことをそう思っているかもしれないわけです。まぁーそこは、わたしたちは大人ですから、自分をきちんと納めて、まっ、大過なく、大きな過ちに陥ることなく過ごしております。

できれば、怒ることがあっても、その怒りを静めて神様にお詫びして、そして、いつも晴れやかでいたい。

 あるときに書店で「怒り」についての本を見つけました。その本の題名は「人はなぜ怒るのか」でした。その本の説明によると、怒りとは、「不一致による違和感」であります。難しい説明ですけど、不一致。一致しない。こちらが思うことと相手のすること言うこととが、ぴたっと合わない。こちらがしてほしいと思うとおりに相手がしない。こちらがこうしないでほしいと思うことを相手の人がする。まぁ、仕方がないことですね。わたしたちは互いに違う人間なのですから。こちらのことは解ってくれない。ある程度は分かってくれるけど、完全には解ってくれない。これは仕方のないことなんですが、その度に怒っていたのでは付き合っていけないわけです。

結論を言えば、要するに、世の中というものは自分の思い通りになるわけではないわけです。子供の時、幼い時はそういうことは思わないですけれど、だんだんわかってくる。大人になると、もっと厳しくそう感じるわけです。教会なら大丈夫というと、そうじゃーないんですよねぇー。

人間というのは自分の思いがあって、その思いを他の人に理解してもらいたい、実行してほしいと思うわけです。そういう風に思うことを止めないと、まぁー、怒ったり、不愉快に感じたり、憤ったりするということは止むことがないわけですね。

 しかし、まぁー、職場でもこれが問題になっているのでしょうか。どうしたら怒らないで済むかについての本というのが、そういうつもりで見るとたくさんあります。 

 山上の説教というのは、その行いだけ守っていればそれで済むということではなくて、心が伴っていなければ、その掟を守ったことにはならないのです。まさか人を殺すという人はほとんどいないんです。殺したら犯罪であります。殺さないで、しかし、「こんな奴と会いたくないなぁー」とか、「いなけゃーいいのに」とか、或いは、ひどい場合は「死んでしまえ」とか、心の中で悪態をつくことが、まったくないというわけにはいかないんですねぇ。そう思って、それに承諾すれば、人を殺したも同じだとイエスは言っている。

もしそうならば「人間やってられない」と思ってしまいます。

ですから、「人を殺すなかれ」という掟は、イエスの教えによって更に強化されてしまいました。易しくは全然ならなかった。他の教えについても同じことです。

一日終わって、静かに振り返ったときに、きょう自分の気持ちはどんなふうに推移したか、揺れ、移り変わったか、と反省する。そうすると、もう感謝でいっぱい、感謝以外何もありません、という方は立派な人ですね。逆に、今日あの人はこういうことをした、不愉快だなぁということのほう先に浮かんでくるのであれば、それを逆にして、とにかく、こうしていただいた、それに対してわたしはさほどできなかった、お詫びします、という気持ちが先に来るようでありたい。そして、その後、なぜ自分は面白くないと思っているのだろうか、と自分の心を見つめたらよいのだと思います。

イエス・キリストも勿論人間でありますから、感情を持っていたわけです。彼は律法学者やファリサイ派の人と非常に鋭く対立している。そして、非常に厳しい言葉を投げかけていまして、おそらくお怒りになったのでしょう。ただ、怒る理由がわたしたちと違うのですね。自分の思い通りにならなかった、自分のプライドを傷つけられた、こちらがして欲しいことをしなかったので癪に障るというような動機ではなかった。そのこと自体が神のみ心に適っていないということを、きちんとはっきりと述べたわけです。そうすれば、どのように反撃されるかということは十分に予想していたが、それでもやめなかった。その結果、いろいろ経緯があって彼らに恨まれて、十字架に付けられるというわけになったのであります。

わたしたちは、自分のことが原因で怒る。イエスは天の御父のこと、そして苦しんでいる人貧しい人のために怒った。

わたしたちもイエスの弟子であるからには、少しでもイエスの生き方にならなければならない。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16・24)

とイエスは言われました。

わたしたちは毎日「御心が行われますように」と祈っている。「自分の思いが実現しますように」とは祈らない。ですから、イエスに倣い、そして人とのかかわりの中で、人の苦しみや悩みを自分のものとして受け取ることができますよう、日々お祈りいたしましょう。

 

 

 

イエス、異邦人を癒す

年間第五木曜日 ミサ説教

2020年2月13日(木)、本郷教会

 

今日の福音はイエスがティルスという地方で、シリア・フェニキア生まれのギリシア人の女性の娘をいやしたという物語を伝えています。

この女性はイエスに「娘から悪霊を追い出してください」と頼みました。

その答えは意外にも非常に厳しい侮蔑的とも思われる言葉でありました。

新共同訳の聖書では、

「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

調べてみますと、この言葉がイエスの真正な言葉であったか、あるいはマルコの福音記者が後から付け加えた言葉であるのか、よく分からないそうであります。

しかし、マルコの福音が書かれた時には、このような表現が成立していたのである。

ユダヤ人から見れば、フェニキアにいるギリシア人は完全に異邦人であります。

その異邦人のことを、「子犬」という侮蔑的とも思われる言葉であらわしたわけです。

「子供たち」であるユダヤ人にはパン(恵み)を与えるが、「子犬」である異邦人には与えられないとイエスは思われたのでしょうか。

しかし、女性はイエスの否定的な言葉にめげないで答えます。

「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」

マルコの福音でイエスのことを「主よ」と呼びかけているのは、この箇所だけだそうです。

ほかの福音書では珍しくないですが、マルコではこの箇所だけであります。

マルコの福音が最も古い成立であり、最初にできた福音書であることは確かであるので、非常に注目すべき箇所であるといえましょう。

『そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊は

あなたの娘からもう出てしまった。」』

このイエスの言葉を別の翻訳で読むと、こうなります。

「その言葉のゆえに、行くがよい。娘さんから霊は出ていった。」

「その言葉のゆえに」直訳ではそうなるのであります。

どのように受け取ったら良いのか、翻訳は苦労しております。

おそらく、イエスはこの時、ユダヤ人と異邦人の境を越えて、人びとに福音を宣べ伝えることをあらためて決意したのではないでしょうか。

それは「主よ」と呼びかけたこの女性の強い信仰に心を動かしたからであると思います。

出血症の女性をいやされた時にイエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(マコ5:34)と言われました。

イエスの言葉をへりくだって受け入れ、「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」と機知にとんだ答えをしたフェニキアの女性に、イエスは心を動かされたのではないだろうかと思います。

 

2020年2月16日 (日)

主よ、教えてください、わたしの使命、任務を!

年間第5土曜 召命のためのミサ

2020215()14:00、本郷教会

第一朗読 創世記 121-4a
福音朗読 ルカによる福音1425-33

説教

きょうは召命のためのミサを選びました。
「召命」というのは、神が、わたしたちを呼び出される、神がわたしたち一人ひとりに、ご自分の計画を実現するための協力を求められるという意味であります。

狭い意味では、召命といえば、従来、カトリック教会では司祭、あるいは、修道者への召し出しを意味していました。

今日、わたしたちは、召命という言葉をもっと広い意味にとり、それぞれの人が、神さまに望まれている自分の務めを果たすということを意味するようになっております。

さて、きょうの、召命のためのミサのために、第一朗読は、創世記にある、「アブラムの話」であります。

アブラムですけれども、後に、「アブラハム」という名前に変えられます。アブラハムというのは「諸民族の父」という意味であります。チグリス・ユーフラテス川のほとりに「ウル」というところがあって、紀元前1500年頃なのでしょうか、そこにアブラハムとその一家が住んでいました。
そのアブラハムに神の声が降った。何という声であったかというと、ここにある言葉であります。
「あなたは、生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。/わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創121-2

生まれ故郷を離れて、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい…、わたしの示す地というのはどこか、この時点では、はっきりしていない。
そして、そのあと、どうなるのか。
「あなたを大いなる国民に」するといっても、それは何を意味しているのかよくわからない。
人間は、特に、この時代、この地縁と血縁のつながりの中で生きている。

「地縁」(土地の地とのつながり)と、それから「血縁」ですね、血のつながりの中で、人々は自分の存在を確認し、そして、そのつながりの中で日々の仕事と生活を送っております。
それを一切やめて、どこか訳の分からないところへ行くというのは、大変な冒険であります。行ってどうなるのだろうか…。
アブラハムは、その神の言葉に従って、すぐに、ふるさとと家々を離れて出発しました。

召命というのは、「神の呼びかけに応える」ということであります。そこには、リスクというものが伴う。
わからない所で、わからない人との関係の中で、これから自分の人生を新たに築いていくということは、不安と、そして、恐れを伴うものでありますが、アブラハムは、すぐに神の呼びかけに応えて、出発したのでありました。

福音朗読は、イエスが弟子たちに向かって言われた言葉を告げている。

キリストの弟子というのは、つまり、キリストに従う者であるという意味であります。

イエスは、
「わたしに、ついてきなさい。」(マコ117ほか)と、言われました。
ついていくというのは、どういうことであろうか、と…。
きょうの言葉は、文字通り受け取ると、とても難しい、極端な言葉のように聞こえはしないでしょうか。
まあ、アブラハムは故郷を捨て、家族を捨てて、殆ど捨てたのではなくて、家族は一緒でしたが、父の家を離れて出発した。イエスの要求は、もっと激しい。
家族ですね、血縁、父、母、きょうだい、姉妹を置いて、わたしに従いなさい。

ここでは、「それを憎まないなら」と、これが分かりにくい表現であります。キリストの弟子になるためには、自分の家族を憎まなければならないのか、そんな非常識なことをイエスは言っているのだろうか…。多くの人は、この言葉に疑問を持ち、あるいは、躓いてしまう。

イエスが言われたのは、まあ、文字通り家族を「憎む」ようにしなさい、という意味ではない。
聖書の言葉は、わたしたちが使っている日本語と全く違う言語なので、正確な意味を理解することは、易しくは無いのでありますが…。(少なく愛するという意味)
この「憎む」というのは、いわば、自分自身の「エゴ」というか、「小さな我」、「小我」と言いましょうか、「小さな自分」、「小さな我」の思い、願い、欲望を捨てて、イエスの声に聴き従いなさい。わたしの言うことを優先しなさい、という意味であります。

そうするならば、本当の意味で、父、母、家族を愛することができる。そうでないならば、自分の小さな我欲に振り回されて、本当に家族を大切にすることにはならないのだ、と。

人間は、日々、いろいろなことを望み、欲し、そして、気にしている。そして、しばしば、自分の思い通りにはならないのであります。

「自分の十字架を背負ってついて来」なさい(ルカ1427ほか)、これは、どういう意味でしょうか。
わたしたちは、だれでも、ああしたい、こうしたい、あるいは、ほかの人にこうしてもらいたい、そういうことはしてもらいたくない、自分の期待に反することをほかの人がするならば、あるいは、期待しないことをするならば、わたしたちの小さな自分、エゴが傷つく。十字架を背負うというのは、自分の小さな思い、「小我」を捨てて、本当の自分の姿に目覚めなさい、という意味であります。

同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない。考えてみれば、いや、考えなくても明白ですが、わたしたちはいろいろなものを持っていて、そして、持ち物を完全に支配していればよいですけれども、持ち物によって支配されているということが無いだろうかと…。

全ての物から自由になり、そして、全ての物とのふさわしい距離を持ちながら、本当の自分の声、自分の心の底の底に住んでおられる神さまの声を聴いて、それを実行するものでなければならない。

召命のためのミサを献げていますが、召命というのは、「神の呼びかけに応えること」であります。

神の呼びかけとは、いつ、どのようにして聴こえて来るのか…。自分の都合の良いような声だけでなく、自分にとって都合の悪いこと、嫌なこと、苦しいことも神さまがお望みになっているかもしれない。
その場合、自分を捨て、自分の命、この自分の地上の命であっても、それよりも神さまがくださる命の方を大切にする。神の命を優先することが、キリストの弟子の道ではないかと思います。
きょうの福音は、そういうことを言っているのではないだろうか。

 

2020年2月14日 (金)

認識の枠組み

聖チリロ隠棲修道者 聖メトジオ司教 記念日ミサ説教


2020年2月14日(金)、本郷教会

 

今日の福音もイエスが「いやし」をなさったという話です。耳の聞こえない人の耳を開いてあげたという話であります。
今日のいやしの話は、これまでのいやしの話と比べると、丁寧というか具体的である。
イエスは直接その人に接触して、「エッファタ」という言葉を使って、いやされました。
「エッファタ」(開けの意)というのはアラム語(アラマイ語)で、その時実際にイエスの口から出た言葉であります。

 

人間の言語能力というのは、生まれた時から周りの言葉を聞いて、次第に発達していくのでありましょう。親から、特に母親からの影響が大きいと思われます。母国語のことを英語ではマザータンmother tongue と言います。
その一番大切な言語習得の最初の部分が不十分だと、人間の言語能力は十分には発達しないのであります。人は聞いて、話すことを学ぶ。
それゆえに、「ろうあ者」と申し上げて良いでしょうか、聞こえない人は話すこともできなくなるのであります。
耳の機能が不十分ですと、言語の能力が成長しないということである。

 

神の言葉を聞く用意がないと、神の言葉を行うことも出来なくなるのではないでしょうか。。
預言者は神の言葉を人びとに告げるという使命を授かった人です。
「エゼキエル書」という預言書を読んでみますと、いかにイスラエルの民ユダの人が神の言葉に対して耳を塞ぎ、反抗し、頑なであったかということが述べられている。その次第が詳しく述べられているのであります。
エゼキエル預言者の告げた民に限らず、人びとは神の言葉を聞き入れようとはしない。
人間は大人になる段階で物事を理解するための枠組みというものが形成されています。
「認識論」という哲学の分野がありますが、人間はどのようにして認識するのかということについて、いろいろな考え方があるそうです。そこでは、人間はもうすでに埋め込まれている認識の枠組みがあるので、その枠組みに嵌らないものは受け入れられないということが論議されています。
神の言葉がその人の認識の枠の外にあると、人は聞こうとせず、理解しようとしないのであります。人間の認識の枠組みというものは、もうこうだと思っておりますと、その思いの外にあることは受け入れられないのです。
誰しもそういう問題を持っている。いくら言っても、言っても、分かろうとしない。
人のことではなくて、わたくし自身もそういう根源的な問題を持っているのではないだろうか。無心になるということは、そのような先入観から解放されることであります。
神の霊のはたらきに心を開くということではないでしょうか。

 

 

第一朗読  列王記 上 11:29-32、12:19
そのころ、ヤロブアムがエルサレムを出ると、シロの預言者アヒヤが道で彼に出会った。預言者は真新しい外套を着ていた。野には二人のほかだれもいなかった。アヒヤは着ていた真新しい外套を手にとり、十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。
「十切れを取るがよい。イスラエルの神、主はこう言われる。『わたしはソロモンの手から王国を裂いて取り上げ、十の部族をあなたに与える。ただ一部族だけは、わが僕ダビデのゆえに、またわたしが全部族の中から選んだ都エルサレムのゆえにソロモンのものとする。
このようにイスラエルはダビデの家に背き、今日に至っている。
福音朗読  マルコによる福音書 7:31-37
(そのとき、)イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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