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ミサ説教

2019年10月13日 (日)

重い皮膚病

年間第28主日C年

2019年10月13日、本郷教会

第一朗読 列王記下 5・14-17

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ 2・8-13

福音朗読 ルカによる福音 17・11-19

 

説教

イエスの一行は、ガリラヤからエルサレムに戻る旅をしておりました。そして、サマリアを通られた時に、十人の重い皮膚病の人と出会いました。

重い皮膚病という言葉は、従来は「らい」という言葉で訳されていました。しかし、この「らい」という言葉を使うことには問題があり、人々に不快感を与え、あるいは、差別を助長されるという理由で、この言葉は使わないことになりました。

らい」と訳されたギリシャ語は「レプラ」という言葉であります。そして、この「レプラ」は、旧約聖書では、「ツァラート」という言葉のギリシャ語訳であります。

そこで、このヘブライ語をどう訳したらよいかということが問題になりました。いろいろな研究と検討の結果、旧約聖書の「ツァラート」という言葉は必ずしも…、「レプラ」はあとで「ハンセン病」と言われるようになったのですが、「ハンセン病」であるとは言えない。そういうことで、結局、「重い皮膚病」という、少し曖昧な訳語に落ち着いたのであります。

因みに、昨年、聖書教会共同訳という新しい翻訳が出まして、ここでは、混乱するのですが、「既定の病」となっています。ここでは旧約聖書で規定されている病という意味です。

まあ、このような言葉の問題はさておいて、重い皮膚病の人の苦しみをわたしたちは知らなければならない。非常に忌み嫌われ、そして、隔離されていたわけでした。日本でもそうでした。「らい予防法」は、今日では撤廃されて無くなったわけですが…。

そして、さらに、この人は「サマリア人」でありました。サマリア人とユダヤ人は非常に仲が悪かった。その当時、二重に差別され、忌み嫌われていたのであります。「重い皮膚病」を患っている、「サマリア人」である、そして、全く、その社会の中で排除され、自分の場所の無いまま、さ迷い歩かなければならない。そういう人でありました。

そこで、十人の重い皮膚病の人、その中の一人は「サマリア人」であったということがわかります。

「先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(ルカ・17:13)この、必死の言葉を、イエスは耳にとめて、そして言われました。

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(ルカ・17:)、彼らはそこへ行く途中で清くされた。

十人全員が清くされたのでありますが、その中で一人だけ「大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(ルカ・17:16)と、あります。

イエスは、そのサマリア人に言いました。

「あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ・17:19)

このイエスの言葉は彼にとって、どんなに大きな力、なぐさめになったでしょうか。

福音書には、イエスが他の人々にも同じような言葉をお与えになったことが記されています。

罪深い女と呼ばれている女性に対して、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

出血が止まらないで何年も苦しんでいた女性に向かって、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(マタイ9:22)

さて、わたしたちは、イエスが「あなたの信仰があなたを救った」(マタイ9:22)といってくださるような強い信仰を持っているだろうか、そして、この排除されていた人々に対する深い同情、いつくしみの心を持っているだろうか。この点を反省したいと思います。

第二朗読を思い起こしましょう。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。」(二テモテ2:11-12)

わたしたちは、いわば「キリストと共に死んで、キリストと共に生きる」ものとされたのであります。

洗礼とは、「古い自分に死んで、新しい自分となって、新たに生きる」ということを意味しております。一度洗礼を受ければ、そのような生き方が完成するというわけではなくて、日々、この洗礼の精神を生きなければならない。

「古い自分に死ぬ」というのは、パウロの言葉に従えば、いわば、「肉の業とたたかい、肉の思いを捨てること」(ガラテヤ5・16-22)であります。

肉の業とは、例えば、「敵意、争い、妬み、憤り、みだらな心」(ガラテヤ5・19参照))などを指しています。

「キリストと共に支配するようになる」(二テモ 2:12)という時に、「キリストから与えられる聖霊に従って生きる」ということを意味しております。それは、「キリストの霊の実りを生きること」であります。

霊がわたしたちに与えてくださる賜物、それは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると、パウロがガラテヤ書で言っております。(ガラテヤの信徒への手紙5:22-23参照)

わたしたちの心は、どういう状態なのだろうか、いろいろな人との関わりの中で、わたしたちは出来うる限り、霊の実りにふさわしい、聖霊の勧めに従う心を持つことができますよう、聖霊の助け、照らしを願い求めましょう。

 

第一朗読  列王記 下 5:14-17
(その日、シリアの)ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。

第二朗読  テモテへの手紙 二 2:8-13
(愛する者よ、)イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」

福音朗読  ルカによる福音書 17:11-19
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

 

2019年10月10日 (木)

霊的生活

年間第二十七木曜日 ミサ説教

2019年10月10日(木)、本郷教会

 第一朗読  マラキ書 3:13-20a
福音朗読  ルカによる福音書 11:5-13
(そのとき、イエスは)弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも
、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 

説教

今日の福音の言葉もよく知られている教えであります。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(ルカ11:9)

求めること、探すこと、門をたたくことがなければ、与えられたり、見つけたり、開かれたりすることはないだろう。

何よりも求める心が大切である、と教えていると思います。

懸命に求めれば、与えられることがあるだろうと考えられる。

わたくしたちの日常体験によっても、そのことは納得できるのではないでしょうか。

 今日の福音朗読の最後の部分であります。

「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)

この言葉の前までは分かりやすいと思いますが、この最後の部分は前との繋がりがよく分からない感じを与えている。

「聖霊」が出てくるのであります。

おそらく、わたくしたちが求めるべき最も大切なこと、大切のもの、は聖霊であり、聖霊を求めなければならないという意味だと思います

わたくしたちはいろいろなこと、いろいろなものを必要とし、求めています。

自分の胸に手を当てて、何が必要だろうか何を求めているだろうかと考えた時に、どういう答えがあるだろうか。

この「聖霊」ということが、わたくしたちの心に浮かんでくるだろうか。

 わたくしたちは毎日「主の祈り」を唱えています。

昨日の福音は「主の祈り」についての教えでありました。

「主の祈り」に聖霊という言葉は出てきませんが、聖霊の恵みを求めているということと、繋がっているのではないだろうかと思います。

そして聖霊を求めるには、求める強い気持ちがなければならない。

あればその求めに応じて神様が与えてくださる、というよりも、もう与えてくださっているのであります。

与えてくださっていることに気がつき、そしてそれに応えることができるように祈らなければならないのではないかと思います。

聖霊がすでにわたくしたちの心に注がれていることを知り、その聖霊の働きに応えることが大切ではないだろうか。

 キリスト者の生活は、霊的生活と呼ばれます。霊的生活というのは、聖霊の導きに従う生活ということであります。

聖霊の導きに従うことを妨げるさまざまなことから解き放たれなければならないのであります。

 

2019年10月 8日 (火)

マリアとマルタ

年間第二十七火曜日 ミサ説教

2019年10月8日(火)、本郷教会

第一朗読  ヨナ書 3:1-10

福音朗読  ルカによる福音書 10:38-42
(そのとき、)イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

今日の福音は、「マルタとマリア」の姉妹の話であります。

よく知られている場面が読まれました。

マルタはイエスをもてなすために、姉妹のマリアが自分と一緒に働いて欲しかったのでした。

その気持ちはよく分かるような気がします。

マルタは思うだけでなく、イエスに向かって言いました。

「手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)

そう思っても言うか言わないかはその人の決めることですが、マルタのこの言葉の内に不満、苛立ちを感じます。

マルタはいろいろなことを心配していました。

わたくしたちの人生も、毎日いろいろなことを心配したり、場合によっては恐れたりするようなことがあるのかもしれない。

なぜわたくしたちは心配したり、恐れたりするのだろうか。

それは相応しく正しいことであるかもしれないが、それが過ぎるとイエスの福音の精神には合わないことになります。

神様はすべてのことを備えてくださいます。

「何よりもまず、神の国とその義を求めなさい。」(マタ6:33)

そして復活したイエスは弟子たちに言われました。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ28:20)

さらにヨハネの手紙で言われています。

「完全な愛は恐れを取り除く」(一ヨハ4:18)

わたくし自身、心配や恐れにいつも囚われがちであると思います。

聖霊がわたくしたちを本当の自由、古い自分から新しい自分になることができるように、助けてくださいますように。

 

2019年10月 6日 (日)

福音宣教特別月間

年間第27主日C年

2019年10月6日、本郷教会

 

第一朗読 ハバククの預言 1・2-3, 2・2-4

第二朗読 使徒パウロのテモテへの手紙 二テモテ1・6-8、13-14

福音朗読 ルカによる福音 17・5-10

 

説教

 

「福音宣教のための特別月間」を迎え、わたくしたちは本郷教会としても、この一か月をどのように過ごしたら良いだろうかとご一緒に考えたいと思います。

教区からは、この一か月にこういうことについて、できることを実行するようにという勧めが来ております。

教皇さまの教え「福音の喜び」を学ぶこと。

或いは、10月20日の日曜日―「世界宣教の日」であります―カテドラルで「晩の祈り」がありまして、大司教が司式しますのでできるだけ出席してください。

それから先ほど申し上げましたが、ミサのときはご一緒に宣教のためのお祈りをいたしましょう。さらに10月31日ですが、尊者エリザベット・マリア北原怜子さんの足跡を、歩いた道をたどる巡礼が企画されておりますので、できる方はぜひご参加ください。

今日の福音朗読からわたくしが感じましたことを申し上げたいと思います。

弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と言われた。この信仰というのはどういう内容であろうか。神に従う人は信仰によって生きるという旧約聖書、ハバクク書の言葉も読まれました。

わたしたちにとって「信仰」が非常に大切であります。折しも聖書通読会を本郷教会として行っておりますが、旧約聖書の「ヨブ記」を読んでいます。

ヨブは大変な試練に遭いました。持っているものは全部奪われ、そして非常に辛い病気になり、そして家族からも見放される、いう辛い試みに出遭った。それでも彼は神への信仰を貫くことができただろうか。そういうことについての物語であります。

順調な時に神に感謝することは易しい。しかし逆境にあって、それでも神への信頼を失わず、神のみ心に従って生きようとすることこそ真の信仰であります。弟子たちの言った「信仰」がそういう信仰であるかどうかわかりませんが、わたくし個人としては、自分はそういう信仰を持っているだろうか、そういう信仰を強くするように祈っているだろうかという思いがいたします。

もうひとつの点は、「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです。」という言葉です。前の話と後の話のつながりがわたくしにはよく見えないんですが、この僕というのは誰を指しているのだろうか。当然のことをしたから、なんら感謝されることはないんだと。「よくしてくれたね、ご苦労様」ま、普通はそう言いますけれど、いたわりも感謝も一言もない。それに対して物足りなさとか不満を感じないだろうか。普通の人は感ずる。

この僕というのは誰を指しているのか。おそらく最初の教会の奉仕者、今日でいえば、司祭とか司教とかそういう人のことだろうと言われています。彼らは一生懸命働く。それなのに、自分たちの努力が十分に報われていないと感じていたのかもしれない。感謝が足りないとか、もっとわたしたちのことを理解しろとか、そういう思いがあったのかもしれない。いや、かもしれないではなくて、そうだろうと思う。なにしろわたくしもそうですから。

人に奉仕する者は見返りを期待しないで、当然成すべきことをしているのだと思わなければならない。なにしろわたしたちは罪人(つみびと)であり、不完全な者であります。そういう者を神様が用いて、神様の御用に使っていただいている。それだけでおおいに感謝すべきであって、わたしはこんなことをしているのだ、してやっているのだと思って、自分が思うように報いが与えられないときに不満に思ったりするのは、神を信じる者のとるべき態度ではないという意味なのだろうと思います。

 

「信仰を増してください」そして「わたしは取るに足りない僕です」 この二つの言葉は、わたしたちが神の僕として当然の務め、つまり福音宣教するときに、非常に大切な心構えではないだろうかと思います。

お互いに相手を自分よりも優れた者と思い、感謝を捧げ、そして至らないところをお詫びするようでありたい。そうできますようにお祈りをいたしましょう。

 

 

第一朗読  ハバクク書 1:2-3、2:2-4
主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
わたしが、あなたに「不法」と訴えているのにあなたは助けてくださらない。
どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。
暴虐と不法がわたしの前にあり争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

第二朗読  テモテへの手紙 二 1:6-8、13-14
(愛する者よ、)わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

福音朗読  ルカによる福音書 17:5-10
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 

聖フランシスコ

聖フランシスコ(アシジ)修道者記念日 ミサ説教

2019年10月4日(金)、本郷教会

聖フランシスコという方は、カトリック教会だけではなく、教会の外の人からも愛されている聖人であります。

福音の勧めにすべてを献げて、生涯を貧しい者、小さな者として生きました。

今日のルカの福音は、人々の無信仰を責めています。

カファルナウムという地名が出てきますが、ガリラヤ湖畔の町で、イエスの活動の主な場所になったところです。

聖フランシスコはある時、キリストからの呼びかけを聞きました。

「わたしの教会を建て直しなさい。」

初は文字通り教会の建物を建て替えることであると思ったようでありますが、イエス・キリストの言葉を実践することによって、彼は十二世紀のカトリック教会のいわば刷新・改革をしたのであります。

多くの場合、教会の指導者を攻撃したり批判したりすることによって、改革し刷新することになりますが、聖フランシスコはそういうことは一切しなかったんですね。

しなかったが、そのままで良いとは決して思わなかったので、自分からイエスの言葉を実行し始めた。

その聖フランシスコに共感した人達が加わって、われわれは「フランシスコ会」と呼んでいますが、正式の名前は「小さい兄弟たちの会」が生まれました。

彼が心がけたイエスの福音の中心は、「貧しさ」ということでありました。

貧しいということは、物を持たない、物に依存しない、物から自由になる、ということでありました。

そして次に、「権力とか権限」を持たない。

人を支配したり命令したりする立場を放棄する。

人に力で接する、その力とは、金の力 肉体的な力、政治的権力でしょうが、そういうことを行使しない。

三番目は、「地位とか名誉とか威信」の放棄。

因みに、所有はポゼッションPossession、権力はパワーPower、威信はプレステージPrestige。

これを「三つのP」と言います。

貧しい、物を持たない、だけでなく、心においても小さな者として生きることによって教会を刷新したのでありました。

聖テレジア(幼いイエスの)おとめの精神に通うところがあります。

わたくしたちの教会も、この聖フランシスコの精神に従って改革されなくてはならないと思います。

2019年10月 1日 (火)

リジューのテレジア

聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士記念日 ミサ説教

2019101()、本郷教会

イエスの一行は、エルサレムへ向かって歩んでおりました。

その時、サマリア人の村を通過することになりましたが、村人はイエスを歓迎しませんでした。

サマリア人とユダヤ人の間にあった対立が影響していたのでしょうか。

その時に、弟子のヤコブとヨハネは、サマリア人のそのような態度に対し恐らく怒りを覚えて、彼らを滅ぼしてしまいたいと考えました。

「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ954)と言いましたが、イエスは二人を戒められたのであります。

自分たちに反対するものを打ち滅ぼしてしまう、あるいは徹底的にないものとしてしまうという気持ちが人間には起こるかもしれませんが、イエスはそのような心の動きに対して、非常に消極的な態度を示されました。

御承知の通り、「山上の説教」(マタ5312、ルカ62023)で敵を愛するように教え、自らもその教えを実行したのでありました。

さて、今日は聖テレジア(幼いイエスの)おとめ教会博士の記念日であります。

聖テレジアおとめは、教会博士にあげられました。

彼女の生き方が、すべての人の模範になると認められたからであります。

彼女の遺した自叙伝によると、彼女は自分が小さい者であり、病弱でもあったので、神様にお仕えすることについて、非常に困難を感じたことがあったと述べています。

自分の召命は何であろうかと黙想をしながら聖書を読んでいて、コリントの信徒への手紙一13章の中に見つけた言葉が、自分の召命を示しているということに気付き、大いに喜んだとあります。それは有名な「愛の賛歌」であります。

自分の召命は「愛」ということにあると彼女は確信しました。

ちなみにその言葉は次のようになっています。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(一コリ134

 

 

2019年9月29日 (日)

Pope

 フランシスコ教皇様のためのミサ

聖トマス西と15殉教者の祝日 ミサ説教

 2019928()、本郷教会

 わたしたちの教会、ローマカトリック教会の最高司牧者であるフランシスコ教皇様が、11月に日本に来られますので、教皇様の良きお働きのために、このミサを献げたいと思います。

 今日のミサは、聖トマス西と15殉教者の記念日となっております。

 日本は殉教者が多い国であります。

 「殉教者の血はキリスト者の種」という言葉がありますが、わたしたちのキリスト教という宗教は、この殉教という事実によって成立し、発展して来ました。

 今読んだ福音は、イエスが御自分の受難について予告している言葉だと思われます。

 「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」(ルカ944

 この言葉の意味を、弟子たちはよく理解できなかったが、朧気ながらも感じています。

 「彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」(ルカ945)とあります。

 実際のところ、福音書が多くのスペースを割いて述べているように、ナザレのイエスは、人々から見捨てられ惨めな恥ずべき犯罪人として処刑されたのでありました。

 磔の刑になった人を創始者と仰いでいる宗教というのは、ほかの宗教のことをよく知っているわけではありませんが、非常に珍しい。

 わたしたちは当たり前に受け入れておりますが、これは大変なことで、ナザレのイエスという人は、政治的にも宗教的にも恥ずべき犯罪者、異端者、反逆者と烙印を押されて、処刑されました。

 弟子たちは、そのイエスのことが最初は分かりませんでしたが、後にイエスの復活という出来事に遭遇し、生前のイエスの言葉と行動の意味を理解することができるようになりました。

 イエスの弟子の筆頭、12人の使徒のかしら(頭)とされた人がペトロという人ですが、ペトロの最期は、今の教皇庁の置かれているバチカンの丘で処刑されたと伝えられています。

 ペトロの後継者たちも次々と殉教しました。

 ローマカトリック教会は、その指導者が続けて次々と処刑されたのであります。

 そのような迫害と殉教の時代が約三百年続いて、その後多くの人がキリスト教に帰依するようになりました。

 ペトロをイエスの弟子の代表と考えるキリスト教は、ペトロの後継者をローマの司教と考え、その後継者たちが全世界の教会の最高の牧者であると仰いでいるのであります。

 二千年の間にいろいろなことがありましたが、歴代の教皇たちは主イエス・キリストと最初の弟子たちであるペトロたちに倣うように努力を重ね、教会の刷新に努めて来ました。

 現在の教皇フランシスコは、就任以来教会の刷新に努力する決意を表明し、貧しい人のための教会となるように、ご自身の教会の総本部であるローマ教皇庁を改革する決意を公にされたのであります。

 教皇フランシスコについては、いろいろな人がいろいろなことを言っておられるので、今日はわたくしがローマ滞在中に知った教皇様について少しお話ししたいと思います。

 わたくしは、わたくしの前任者である白柳誠一大司教(のちの枢機卿)の命令で、1975年にローマに留学しました。

 時の教皇はパウロ6世(在位19631978)という方でありました。

 大変立派な方で、のちに列聖されたヨハネ23世の開催した第二バチカン公会議(19621965)を引き継ぎ、成功裡に実り豊かな成果を得て終了させた方です。

 そ10年後の1975年には、「教会の使命は福音宣教である。良い便りを人々に宣べ伝えると共に、福音の教えを実行することである」ということを強調されました。

そのパウロ6世は、1978年の8月にお亡くなりになりました。

 そして、教皇選挙が行われて、イタリア人の司教でヴェネツィアの総大司教のアルビーノ・ルチアーニAlbino Lucianiという方が選出されたのであります。

 この方は、史上初めて教皇名にダブルネームというか二つの名前(複合名)を採用した、ヨハネ・パウロ1世(19121978)です。

 その後のヨハネ・パウロ2世は皆さんよく記憶していると思いますが、ヨハネ・パウロ1世を名乗ったのです。

 2世、3世が続くかどうか分からないのに、最初から1世を名乗るのは異例であり、1世とはつけないのが歴史上の慣例でしたが、彼はヨハネ23世教皇とパウロ6世前教皇二人の前任者たちへの尊敬を込め、彼らの路線を継承し、発展させる決意を示すために、二人の教皇名を受け継いだと言われております。

 しかし、就任僅か一か月余り、33日間の在位で亡くなってしまったのです。1978928日のことでした。

 非常に残念なことでありました。

 僅か一か月余りの在位でしたが、ヨハネ・パウロ1世は大きな働きをしました。

 さまざまな改革の方針を明確に打ち出し、具体的な改革の実行に取りかかりました。

 就任式を従来の豪華な戴冠式ではなく、牧者に就任する式としました。

 ローマの司教はローマ司教区だけでなく、全世界の教会を司牧する責任者であるので、従来は王や皇帝が就任する時に冠を受けるような教皇戴冠式をおこなっておりました。

 それを廃止して、最高の司牧者に就任する式としました。

 教皇冠は三重冠と言って、三重になっていて三つの権能を表していると言われている非常に豪華な美しい宝石をちりばめた冠ですけれども、その戴冠式をおこなわずに、最高の司牧者に就任する式、牧者の任務を開始する式というように命名をしました。

 さらに教皇は、お父さんという意味の英語ではポープPope、イタリア人はパーパ Papaと言いますが、それに大祭司という意味のポンティフィックスPontifex、ローマの大祭司の称号がローマの司教の称号と一緒になって、シュプリームポンティフィクスSupreme Pontifex最高位の大祭司と言うようになって、どんどん名称が栄誉ある名前になり、複雑になったのです。

 ポープ・ジョンポウル・ジ・ファーストPope john Paul the Firstになった訳であります。

 教皇が人々の前で公式に発言する時は、従来は一人称を特別な言い方(日本の戦前の天皇陛下のお言葉に思い起こすと「朕」という言い方でしたが「わたくし」という意味であります)、教皇も「朕」に相当する一人称複数である「我々」(「我々は今日風邪をひいた」というように使い、「我々」と言っても御自分一人の意味でありますが)を止めて、普通に「わたくし」という言い方にしました。

 彼は、飾らない柔和謙遜で率直な人柄で愛され、人々から「微笑の教皇」スマイリングポープSmiling Popeと呼ばれておりました。

 司牧者から教皇になった方でありまして、経歴から言って教皇庁の重要な職務に就いていた人ではなかった。

 何々省の長官とかそういう役職をしていて、それから教皇に選ばれた方ではないです。

 そして、就任する時は、大司教に就任する時に受けるパリウムPallium、これは世界中で教区大司教になる人は全部受けるものですけれども、そのパリウム、首輪のような物を受けて、冠は着けない、立派な輿に乗ることも止めまして、素朴な皆に仕える牧者であるということを身をもって表現しました。

 そして、教皇庁の改革を決意し、当時バチカン銀行(正式名称:宗教事業協会)のスキャンダルがいろいろ報道されていましたが、バチカン銀行の改革をすると宣言したりしたのですが、一か月で亡くなってしまわれました。

 本当に残念なことでした。

 このヨハネ・パウロ1世の次を選ぶために、僅か一か月でまた教皇選挙になって、帰ったばかりなのにまた呼び集められてもう一度選挙をして、ヨハネ・パウロ2世が選ばれたわけです。

 ヨハネ・パウロ2世は難病を持っていましたが、非常に長い年月を最期まで教皇を務められました。

 その後のベネディクト16世は、皆様覚えていらっしゃるでしょうが、6年ほど前に数百年ぶりに終身ではなくて在任中に退位を宣言し、そこで今のフランシスコ教皇が選出されたという歴史があるわけです。

 教皇という重責を担われる方々が、どんなに大きな負担を担っておられるかを想像しながら、日本に来てくださるフランシスコ教皇様のために、わたしたちの心からのお祈りを献げると共に、教会の改革が進むようにとお祈り申し上げたいと思います。

 

 

大きな隔ての淵

年間第26主日C年

2019年9月29日、本郷教会

 第一朗読 アモスの預言 6・1a,4-7

第二朗読 使徒パウロのテモテへの第一の手紙 6・11-16

福音朗読 ルカによる福音 16:19-31

(そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。)「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

説教

 

ラザロという貧しい人と、ある金持ちの話でございます。
ラザロという名前は「神は助ける」という意味であります。
その言葉の通り、ラザロは死後、アブラハムのいる、神のところへと上げられたのでありました。
きょうの話から、わたしたちは何を学ぶことができるでしょうか。金持ちは、亡くなって陰府(よみ)に落とされました。
この金持ちと、そして、アブラハムとラザロのいるところの間には、「大きな淵」があったと、きょうの福音書は言っています。
淵というのは、お互いに行ったり来たりすることができない大きな隔てとなっているところです。

どうして、このような淵があるのだろうか、この話全体から考えてみますと、実は、この淵は金持ちが地上にいた時からできていたのではないだろうか。この金持ちとラザロの間には淵ができていた。この淵がはっきりしたのは死後の世界である、と言えないでしょうか。

この金持ちは毎日贅沢に、おもしろおかしく暮らしておりました。特に何か悪い事とか、ひどいことをしたわけではないようです。しかし、自分の家の門の前に、貧しい人が横たわっていることに、何の関心も払わなかった。食べるものにも事欠くありさまであり、全身ができものだらけで、非常に惨めな状態に置かれていた人であります。
金持ちは悪い事はしなかったかもしれないが、ラザロという人に関心を持たなかった。ラザロのために何もしなかったのであります。

この、しなかったというのは、「怠り」の罪が問われているのではないでしょうか。
金持ちは、自分の毎日の生活のことに、心がいっぱいで、自分のすぐそばにいる人、あるいは、自分の生きている世界の現実には関心を持たなかったようであります。
いつでも、貧しさに苦しんでいる人、病気、あるいは、様々な問題に、苦しみに出会っている人います。そういう人のために自分にできることは何かと考えて、いささかなりとも、何かのいつくしみの業を行わなければならなかったのではないでしょうか。

このたび、日本に来て下さるフランシスコ教皇は、「いつくしみの特別聖年」という、特別な一年を提唱され、神のいつくしみを実行するようにと、わたしたちに勧めてくださいました。
神のいつくしみは聖書の教えであります。それに、旧約聖書のモーセも預言者も教えている。旧約聖書の世界では、社会的に弱い立場に置かれている人々、親のない子ども、あるいは夫に死なれた女性、あるいは寄留者、国を追われた人達が、特に、困難な状況に置かれているので、そういう人々に心から同情し、必要な助けをするようにということが、モーセの教えであり、預言者の勧めでありました。
この金持ちは、そのモーセと預言者の教えには無頓着であったようであります。

わたしたちの主イエスは、人々のために、さまざまな「癒し」と「奇跡」を行いました。そして、多くの人は、イエスのみわざに感嘆したのでありましたが、他方、イエスを受け入れ、信じた人が多くはなかった。どんなしるしを見ても信じない人は信じないのであります。

この金持ちは、亡くなってから、せめて自分の兄弟が同じような苦しみに遭わないようにしてあげたいと考えたようであります。
生きているときに、そのような思いをもっと抱き、そして、兄弟だけでなく、多くの人に、いつくしみとあわれみの心を実行しなければなりませんでした。

マタイの福音書の25章で、わたしたちが「最後の審判」の時に、どういう基準で裁かれるかということが綴られております。
「飢えている人や、渇いている人、裸の人、寝る場所が無い人、居る場所が無い人のためにできる奉仕をしなさい」という教えであります。
「いつくしみの特別聖と教皇は教えました。
人間は身体と精神から成り立っておりますので、両方の苦しみはつながっております。

いまの日本の社会で、もっとも助けを必要とする人とはどんな人でありましょうか。
だれにも話を聴いてもらえないとか、だれにも相手にしてもらえないとか、自分のいる場所が見つからないとか、そういう思いを持っている人が少なくはないでありましょう。
もちろん、経済的に貧しい人もいないわけではありません。

「天の御父がいつくしみ深いようにあなたがたもいつくしみ深いものでありなさい」とイエスは言われました。

ややもすると、わたしたちは自分のことに追われて、人の必要を顧みることが後回しになってしまいますが、せめて、きょう、この「金持ちとラザロの福音」を聴いておりますので、既に、この地上において越えがたい淵を自分で作ってしまわないようにしたい。
この淵は、死後、明らかになったのでありますが、その淵を作ったのは、地上においてこの金持ちが自分で作り出したものではないだろうか。
わたしたちも、自分で、ほかの人との間に、貧しい人との間に「淵」、「越えがたい淵」をつくってしまっているのかも知れない。
神さまの呼びかけに応えるように、自分の心を静かに見つめたいと思います。
そして、日本に来て下さる教皇様の教えを、わたしたちも、心から良く学び、実行できるようにしたい。
生きているときに大金持ちであった人が、実は、不幸な人であったと言えることが明らかにされたのであります。
ルカによる福音では、「貧しい人は幸い」とイエスは言われました。
マタイによる福音では「心の貧しい人は幸い」となっております。
貧しい人に神さまは特別に関心を持ち、そして、ご自分の幸せに招いてくださるのであります。
わたしたち自身の日々のあり方を、心から反省したいと思います。

したいと思います。

2019年9月27日 (金)

イエスは誰か?

聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭記念日 ミサ説教

2019年9月27日(金)、本郷教会

第一朗読  ハガイ書 1:15b-2:9
ダレイオス王の第二年、七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。お前たち、残った者のうち誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。今、お前たちが見ている様は何か。目に映るのは無に等しいものではないか。今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たときわたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かし諸国のすべての民の財宝をもたらしこの神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。銀はわたしのもの、金もわたしのものと万軍の主は言われる。この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と万軍の主は言われる。

 福音朗読  ルカによる福音書 9:18-22
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者
ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」

 

 説教

イエスは弟子たちにお尋ねになりました。

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」

(ルカ9:20)

立派な答えをしたのでありました。

しかしまだ、弟子たちはイエスの使命について、理解していなかったのであります。

受難の予告と呼ばれますが、今日の福音でイエスは自分が受けるべき苦しみについて宣べています。

 

アレルヤ唱でわたくしたちが唱えた、「人の子が来たのは仕えるため、多くの人のあがないとして自分のいのちを与えるため。」は主イエスの使命を示しています。

ご承知のように、ペトロはローマで殉教しました。

ペトロの後継者がローマの司教であり、こんにちローマ教皇と呼ばれる方々であります。

ローマの司教は、イエス・キリストの教えを最もよく実行し現すことが期待されており、わたしたちはミサの中で、常にローマの司教のために祈りを献げています。

最近、わたくしの心の中に浮かんでくる一人の教皇様がいます。

ヨハネパウロ1世という方です。

その方について、いつか一言お話ししたいと思います。

2019年9月26日 (木)

ペルソナ化

年間第二十五木曜日 ミサ説教

2019年9月26日(木)、本郷教会

 

今日の福音では、領主ヘロデが登場します。

最近のことですが、8月29日に洗礼者聖ヨハネの殉教を記念いたしました。

ヘロデによって、斬首されたのでありました。その時に、ヘロデという人がどんな人だったのかということを、ご一緒に考えてみたと思います。

ヘロデは、一方ではヨハネを尊敬していたようでありますが、自分の誕生日に(褒美にヨハネの首を所望されて)列席の人の前で大見得をきったこともあって、ヘロデはヨハネの首を刎ねるように命じなければならなかった。

そういう話でありました。

今日の福音では、ヘロデはイエスの噂を聞いて、「イエスに会ってみたいと思った。」(ルカ9:9)とあります。

実際にご受難の時に会うことになります。

 

人生は、人との出会いが非常に大切であります。

イエスの弟子たちは、ナザレのイエスという人に出会って、大きな影響を受けて、そしてそれぞれイエスの弟子としての生涯を送ることができた。欠点や問題のある人たちでありましたが、ペトロをはじめとする弟子たちは、イエスという人との出会いによって、人生が変えられた。

このヘロデは、そこまで至らなかった

人間は自分の立場や欲望、都合、いろいろのものに支配されていますので、そういうものを振り切って、まことの神、道であり真理であり命であるイエスに出会うということが、場合によっては難しい。

わたしたちの場合、さいわいイエスに出会っていると言えます。

しかし、地上のイエスはおられないので、いわば霊的にイエスと出会うのであります。

 

先日お会いした福田さんという方は、ヨハネ・ドンス・スコトゥス(1266?~1308)というフランシスコ会の偉い学者のことを勉強した方です。

名前のスコトゥスはスコットランドから由来していますが、1308年に亡くなっているので、

日本では鎌倉時代の終わり頃に当たると思います。

イエスのペルソナに限りなく近づくことが、キリスト者の道であるということでした。

これをペルソナ化と言います。

イエスのペルソナに触れて、イエスのペルソナに感化されるということなのでしょうか。

ペルソナ化ということを勉強したのだそうです。

わたしたちも甚だ不完全ではありますが、イエスに出会い、イエスのペルソナに触れ、イエスのペルソナに倣うものではないかと思います。

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