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ミサ説教

2018年3月29日 (木)

聖香油のミサ2018

桜の花が美しく咲いている、この前橋の教会に集まって、今年の聖香油のミサをお献げ致します。思い出してみると、4年前もこの前橋で聖香油のミサを献げました。それは416日でした。その前に、321日、山口一彦さん、高橋史人さんのお二人が司祭に叙階されています。そこで、司祭の叙階の時にしていただいた約束について話しました。そして次のように言ったのであります。

「司祭は自分の務めを実行するに際して、試練に出会い、また誘惑を受けることが少なくありませんが、主イエスに倣い、試練に打ち勝ち、誘惑を退け、互いに赦し合い、励まし合い、互いのために祈るようにしなければなりません。」 

その翌年は、浦和教会で聖香油のミサを献げました。

聖香油のミサというのは、司祭のためのミサのようなミサなので、どうしても司祭についての話が多い。やはり同じように、司祭に叙階される時の約束の更新について述べています。そして、その年はわたしども日本の司教がローマの使徒座(バチカン)訪問の年で、帰国して間もなくの時でありました。そこで聖香油のミサの日の時に、日本の司教団が教皇庁を訪問し、教皇様にお会いました、ということを一言付け加えております。

 その翌年は、水戸教会、323日でした。

聖香油のミサは司祭職制定の記念のミサですのでこの時も、司祭の務めについて述べています。このときはさらに、司教の務めについても述べました。そして、さいたま教区の司教と司祭は、次のようなことを心掛けましょう、と述べています。

1. 霊的生活を大切にし、祈りに熱心であること。

2. 多国籍教区として国籍、言語、文化、習慣等の違いを尊重しながら、キリストにおける交わりと一致を推進すること。

3. 司祭の生涯養成と霊的生活の指導と配慮に特に注意を払うこと。

4. 精神的に不安定な人々の保護、指導、援助に配慮する。

 そして昨年は宇都宮の松が峰教会でした。

去年は聖香油のミサにおいては、三種類の油が祝福され、聖別される、という話をしました。

信者はみんな油を塗っていただいています。それが「塗油」ですが、塗油とは聖霊の力、聖霊の助けを表しています。塗油を受けた人がキリス者です。みんなイエス・キリストのようになっている。ですからキリストになっているのですから、キリストの働きをしましょう、できます、という話をしたわけです。

 

そして今日を迎えました。

去年の続きになりますが、この聖香油、クリスマといいます。そこからキリスト者という言葉が生まれているわけです。油を注がれた人がメシア、キリストです。ですからイエス・キリストはお一人しかいないわけですけれども、わたしたちはそのキリストにつながる者、キリストの弟子として、油を注いでいただき、油を塗っていただいた者です。

いつ油を塗ってもらったでしょうか。洗礼、堅信の時です。司祭、司教はさらにその上でまた叙階の時に塗油を受けています。

 そこでこの一年、さいたま教区は宣教・福音化年として、教区あげてみんなでイエス・キリストからいただいた教会の使命を一生懸命やって行こうと努めてきました。そのための準備として、四県で、それぞれ自分の信仰を、自分の言葉で、自分のやり方で述べ伝得る準備の研修会をしてきました。自分が信じていること、自分がこの世界の中で信者として生きているということを、他の人に言い表すとしたらどういうように言うのでしょうか。そのための準備の勉強会をしましょうということで、四県で色々な企画があり、その研修プログラムが今終わろうとしています。復活祭の後宣教・福音化年の第二年目に入ります。二年目はもっとしっかりやりましょうと話し合っております。

今日は、「二年目に向かって、よろしくお願いします」という、このお願いのプリントを各教会にお渡しします。ポスターも作っていただきました。

 信仰を分かち合う集い、わたしの信仰体験の集いを開いていただけないでしょうか。そんなに度々開催は難しいので、今年度2回くらい、春と秋とか適当な時、適当なところで、それぞれ集まって、今年一年はどのように過ごしたか、そしてどういうことで自分の信仰の目覚め、活性化というのか、そういうことがあったのか、ということを話し合っていただきたい。あるいはそもそも、わたしはどうして信者になったのか。そして他の人に説明するとしたら、どういうような言葉で説明できますか。あるいは自分の人生の色々な場面で、自分は信仰があったので、支えられたとか、あるいは他の人との関係で、こういうような素晴らしい、嬉しいことがあったのですとか、いうことを話していただけないだろうかと思います。

どっかの本に書いてあることをテキストにして勉強するということも大切で、いいのですけれども、それは脇に置いておいて、自分の言葉で、自分の体験を話し、分かち合うという集いをしていただけないでしょうか、というお願いを、今日いたします。新福音化委員会とわたくしとでこのような文章を作りました。あとは開催予定を記入するフォーマット、いつどこでどういうふうにやるかということを書いていただくための用紙も、用意していただきました。

 この機会にわたしも一信者として、わたしはなぜ信じたのか、どう信じているのか、ということをもう一度見直しをしております。

人それぞれ色々な時、色々な動機で信者になっていると思います。日本においてキリスト者は非常に少ないです。諸教会諸教派全部合わせても人口の1%くらいと言われているわけです。人数は少なくとも、あの人達はイエス・キリストを信じ、イエス・キリストとともに、イエス・キリストに支えられて歩んでいる人なのだと思っていただけるような教会でありたい。よく見ると色々な問題があるのかもしれないが、でもしっかりと歩んでいるねと、わたしもそういう人々の仲間になりたいな、と思っていただけいるような、わたしたちでありたいと。

 聖香油のミサは、司祭、助祭が集まってあげるミサということなのですけれども、今日こんなに多くの信徒の方が集まってくださって、本当にありがたく嬉しく思います。司祭の数も減ってきましたし、病気の方もいますし、充分な働きができないのですけれども、全員で教会の使命をよりよく果たそうと考えます。

司祭の皆さんには、信徒の方が働きやすいように、やりやすいように、元気を出して、勇気を出して、働けるように励まし、導くように、よろしくご配慮の程をお願いする次第であります。

この宣教・福音化年二年目に向けて、信仰分かち合う集い開催のお願いをご覧いただき、わたしたちの教会の務め、福音宣教を全員で行うようにしたい。聖霊の助けを願って祈りましょう。

2018年3月 2日 (金)

カトリック教会の性虐待被害者へのお詫び

 

 今日、四旬節第二金曜日、日本のカトリック教会は「性虐待被害者のための祈りと償いの日」といたしました。性虐待を受けた被害者の方々、そのご家族の悲しみ、苦しみを思い、癒しと回復の恵みを与えてくださいますように。いつくしみ深い神に祈りましょう。そして、この難しい状況を教会がきちんと認め、そしてその解決、克服のために努力することができますように、神の助けを願いましょう。

 性虐待の問題は、当初アメリカの教会で報告されましたが、日本の教会でも同じ問題があったし、今もあることをわたしたちはしっかりと受け止め、そしてその被害者の皆様に心からお詫び申し上げるとともに、日本の教会あげて、その問題の克服のために祈りと努力、そして償いをするように努力することを、日本のカトリック司教団は心から願っておりそのために努力しております。

さて、今日読まれました福音のことです。聖書はよく葡萄園の話をしています。葡萄園はイスラエルの国や地中海沿岸では非常に馴染み深い風景です。その葡萄園が良い実を結ぶことを願って、主人の神様は人を雇い、そしてそのための様々な手立てを与え、さらに預言者の使者を送って、葡萄畑の農夫を指導されました。最後には自分の一人息子を送り、葡萄園で良い実が実るようにと、最後まで努力をされましたが、その神様の御心は彼らには通じなかった。わたしたちはこのような、おおよその救いの歴史を知っています。

 今、四旬節、そして41日は復活祭となりますが、復活祭の前の晩は復活徹夜祭。復活徹夜祭では聖書の長い朗読があります。その朗読では、非常に長い聖書の中から、救いの歴史を伝える非常に大切な箇所が読まれています。

さて、そのような神の救いの計画の中で、主イエス・キリストの登場、そして宣教、受難、十字架、復活という出来事があり、わたしたち教会が設立されました。教会は神の民であり、神の霊を受けた神の神殿であります。

 しかしながら、それであってもわたしたち人間の弱さと罪が全部無くなったわけではない。弱さの中でわたしたちは過ちを犯しますし、罪の汚れをまだ完全に拭い去ることができない。そして人々に仕え、イエス・キリストの福音をのべ伝えるために選ばれ、そして任命された人たちが神様の御心に背く、性虐待という忌まわしい行いをしたことが明らかになった。本当に残念なことであります。どうしたら良いだろうかと、教皇様、特にヨハネ・パウロ二世、ベネディクト十六世、そしてフランシスコ教皇様は全世界の教会に向けて、この問題の重大さをしっかりと受け止め、この問題をよく見て、そして解決と克服のために努力するように、そして神様の恵みを願うようにと願っておられます。

 今までに教会の行ったことの中で大きな問題であったのに、この問題をちゃんと見なかったということです。隠したり、うやむやにしたりしたということであります。さらに、この問題について、わたしたちの理解が足りない。随分微妙なことなので、話しにくいことがあるでしょう。被害者はこの問題に触れてほしくない。加害者は、自分は加害者であるとはあまり思っていない。両者の間には大きなずれがある。どんなにか、性虐待、性暴力によって人は傷つき、苦しむかということについて、加害者は理解していない。それしかし、わたしたちも同様で、きちんと理解していないのではないかと思うのです。

 人間にとって、性ということは非常に大切なことであり、ふさわしく、正しくこの問題を見つめ、そして一人ひとりの人が本当に人間として、人間の尊厳を認識し、お互いに大切にするようにしなければならない。そのための教会の努力は必要であると。全世界の司教協議会はそのための部署が作られ、かつ各教区にも委員会、担当司祭等が任命されております。これからの一層の努力とお祈りをしなければなりませんので、皆さんのご理解ご協力お祈りを切にお願いする次第あります。

2018年1月30日 (火)

ミサによる入門講座 その1

2018年1月、司祭命日記念ミサ説教
2018年1月19日(金)、浦和教会
第一朗読:サムエル上24・3-21
福音朗読:マルコ3・13-19(そのとき、)イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

――― 説教:イエス、12使徒を選ぶ
 今日記念する3人の神父様方、 パウロ 内野作蔵神父 パウロ 小倉三郎神父 オードリック・フィッシェル神父 は、さいたま教区(旧浦和使徒座知牧区・浦和教区)において司祭として、長い年月奉仕されました。司祭は、司教と共に働く者であります。今日司教と呼ばれる人たちは、主イエス・キリストによって選ばれた使徒の後継者であるとされています。
使徒という言葉は、派遣された者という意味であります。今日の福音は、イエスが12人を選んだという重要な出来事、12使徒任命の由来を述べております。12人を選んだ理由は、彼らを自分のそばに置くため、派遣して宣教させるため、悪霊を追い出す権能を持たせるため、であると述べられています。
 イエスの弟子たちは、まずイエスのそばにいる者、イエスと共にいる者であり、イエスの生き方を学んでいる者であります。そしてさらにそのイエスから派遣されて、イエスから託された使命を果たす者であります。派遣された者は、派遣した方から命じられた、委託されたことを行う者であって、自分のこと、自分勝手なことを行う者ではありません。派遣された者は、派遣した方の御心を行う者であるということであります。司教、司祭について言われておりますが、さらに洗礼を受け、堅信を受けた全ての信者は同じように派遣されておりますので、派遣された方の御心をよく知り、そして行わなければならないのであります。
 悪霊を追い出すということが言われております。これは何を意味しているのでしょうか。福音書を読むと、イエスは度々悪霊の追放ということを行っております。今日のわたしたちの環境では、この言葉を理解するのは戸惑いがあるかもしれませんが、悪の力と考えると分かりやすいでしょう。悪が存在すること、悪が力を持っているということに間違いはない。わたしたちは、悪と戦うために、悪を克服するために遣わされていると言わなければならないと思います。
 イエスは12人を選んだ。ルカによる福音の平行箇所で同じことを述べている。平行している箇所を見ると、イエスは山に登って一晩お祈りをしてから12人を選んだのでした。よく祈ってから12人を選んだのです。たくさんの弟子が集まっていました。その中で選りすぐって、12人を選んだ。そのよく祈った上に決断して選ばれた12人でありますが、その中の一人ユダがイエスを裏切ることになった。これは大変不思議なというか、神秘なことであります。どうしてユダは、イエスを裏切ることになったのでしょうか。使徒の使命から外れてしまったのでしょうか。でも考えてみると、裏切ったのはユダだけではないのです。イエスの弟子は全員、イエスを見捨て、そして逃亡してしまった。五十歩百歩同じようなものです。でもさらに考えてみると、ユダは後悔して、そして自殺してしまいました。ペトロもイエスを裏切りましたが、涙を流して痛悔し、イエスに従う決意を新たにしたわけであります。 今の教会の中にある様々な問題をわたしたちはそれを直接にあるいは間接的に、見たり聞いたりしております。教会は罪びとの集まりでもあります。 イエスが選ばれた弟子たち、その人たちも弱い人であり、踏み外すこともある人であり、そして罪を犯す人々でありました。わたしたち自身もそういう者でないとは言えない。聖霊の導きを謙虚に願いながら、日々自分の歩みを主イエス・キリストがいつも導いてくださるように祈り求めて、歩んでいきたいと思います。

(ミサ説教による入門講座、その1)

2017年12月17日 (日)

カトリック東京教区大司教を辞するにあたりぜひ伝えたいこと

岡田武夫大司教送別ミサ 2017年12月10日、関口教会

待降節第2主日を迎え、今日の聖書朗読、福音朗読を共に味わいながら、わたくしが、東京大司教として、このカテドラルで主司式する、最後のミサをお献げします。
第一朗読は、イザヤ書、40章です。イザヤ書は、わたくしにとりましても、大変大切な、心に深く響く、聖書の巻物であると、心から、ずっと、そのように思っておりました。
今日の箇所の中で、わたくしの心に強く迫ってくる言葉は、どれであるかと言いますと、 「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ」という箇所です。
イザヤの40章は、バビロン捕囚という、イスラエルの民にとって、非常に、信仰から経験をしていたときに、告げられた言葉であると言われております。イスラエルの民に、ユダヤの民が滅ぼされ、そして、ユダヤの指導者たちは強制移住させられ、そこで、毎日、辛い経験をしておりました。そのときに、彼らの信仰は、清められ、強められ、そして、メシア、キリストへの信仰癡希望が、強く、彼らの心に刻まれてきたと言われております。
「どうして、わたしたちは、このような目にあっているのだろうか」という、彼らの日々の反省の中で、主なる神への信仰が清められ、希望が強められていきました。
わたくしが司教になりましたときに、日々の心構えとして、イザヤの40章の終わりの部分を選びました。今日の朗読箇所の後の部分ですが、その言葉は、「主に望みをおく人」という部分の言葉です。その前後を、もう一度読み上げて、みなさまに、最後の言葉として、お伝えしたいと思います。
「ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦(う)むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲(わし)のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザタ40・28-31)

「主に望みをおく人は新たな力を得る。」(イザヤ40・31)。
わたしたちは、厳しい現実の中で、力を落とし、失望するという経験を持つことがありますが、どのようなことがあっても、神への信頼、信仰、希望を新たにし、あくまでも、いつも「主に望みをおく人」として、神様からの力をお願いする。そのような者として歩みたいと、望みました。
今日は、待降節第2主日であり、主イエス・キリストのご降誕を、喜び、祝う準備のときですが、同時に、わたしたちは、主の再臨、「主イエス・キリストが、世の終わりに、ご自分の計画を、完全に成就し、父なる神の創造の働きが完成するために再びわたしたちの所に来てくださる」という、わたしたちの信仰を新たにし、希望を強めていただき、日々、愛の務めに励むことを、改めて確認する、大切なときです。

第二朗読を、ご一緒に見てまいりたいと思います。
わたしたちが生きている、この世界の現実の中には、混乱、不条理、矛盾という現実があります。そして、人間と自然界との関係も、うまくいっていない。 教皇フランシスコの「ラウダート・シ」という教えを、みなさん、ご存知ですね。
神様のお造りになった、この世界、自然が、本来の姿を傷つけられ、自然界と人間との関係に破たんが生じているということを、教皇様は指摘しております。
神の救いの働き、贖(あがな)いの働きは、人間はもちろんのことですが、この世界の、神様がお造りになったすべてのものを、神のお望みになる、新しい天と、新しい地に、造り変えてくださる。そのような、神様の計画を、わたしたちは、改めて信じ、神様のみ心に希望を持って、日々を歩んでいかなければならないと、今日の福音朗読が告げていると思います。
「その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ニペトロ3・12-13)
わたしたちは、毎日、いろいろなことをしなければならない。いろいろなものに囲まれ、捉われて、そして、神様のみ心を見失いがちです。 本当に大切なことを第一にして、生きていくことから、逸れてしまっている日々を、わたしたちは送っているのではないか。いろいろなことがあり、いろいろなものがあるが、そのようなものは、すべて、いつかはなくなる。過ぎ去ってしまう。神のみ心に従って生きる。わたしたちの、愛の行いだけが、永遠のいのちを持っているのであると、聖書は謳っているのではないかと思います。

さて、日本の教会の、これからの歩みを、改めてご一緒に考えてみたいと思います。 ご承知のように、1549年、聖フランシスコ・ザビエルが、日本に福音を伝えてくださいました。それから、400年、500年が経過しています。 日本のカトリック教会は、第二ヴァチカン公会議の教えを受けて、主イエス・キリストの福音をのべ伝え、日本の社会の福音に適ったものに変えていくために、力を尽くしたいと考え、日本の司教協議会が主催して、福音宣教推進全国会議という、画期的な会議を開催しました。今から30年前、1987年のことです。
わたくしは、それから13年後、大聖年の年ですが、2000年9月3日、こちらで、東京大司教に就任し、着座式が行われました。いま、東京大司教の任務を終了するにあたり、17年前の9月3日に、みなさまにお伝えしたことを、もう一度、思い起こし、そのときに、みなさまにお願いしたことを、改めて、お伝えしたいと思います。
第1回福音宣教推進全国会議、NICE-1では、「開かれた教会づくり」を目標に掲げました。誰に開かれた教会であるかというと、もちろん、すべての人に開かれているという意味ですが、わたしたちの教会は、非常に近づきにくい、苦しんでいる人、悩んでいる人、あるいは、自分のような者は、とても、キリスト教の教えには縁がないと思う人、病気の人、体だけではなく、心に問題を感じている人、周りの人からも変わっていると思われている人、そのような人が温かく受け入れられ、大切な人として扱われ、自分の居場所がある、安らぎがある、慰めがある、生きる意味を見いだすことができる、そのような教会になりたい。もちろん、そのようになっている部分もありますから、みなさまは、教会に来られているのだと思いますが、多くの人にとって、わたしたちの教会は、自分にとって、安らぐことができる、そういうものになっていないというのが、現実です。 わたしたち自身の間にも、なかなかうまくいかない、いろいろなことがあると思います。どうか、聖なる助けによって、そのような現実の中で、互いに受け入れ合い、ゆるし合い、そして、不完全な人間、弱い人間、道から外れてしまう人間同士が、支え合い、助け合う、そのような教会が、成長し、広がって行きますよう、心から願い、祈ります。
弱い人間が、そのようにできるためには、神の助け、聖霊の導きが必要です。わたしたちは、父と子と聖霊を信じています。特に、人間としてのナザレのイエスが去ったときに、わたしたちに聖霊を注いでくださった。聖霊は、いまも、いつも、わたしたちとともにいてくださいます。聖霊の導きを信じ、そして、このような自分も、神から赦され、受け入れられている者であるという信仰を、より強くしていただき、お互いに、ゆるし合い、助け合う、そのような、キリスト教会の姿を、人々に表し、伝えていきたい。
教会に行ったけれども、冷たかった。だれも、わたしのことを認めてくれない。もう、そのようなところには行きたくない。そのような言葉を、聞かないわけではない。わたしたちには、そのようなつもりはありませんが、外から見ると、わたしたちの教会は、そのように見えることがあるようです。 わたしのような者でも、そちらに行けば、ほっとする。そのような交わりを、わたしたちの教会は、もっとしっかりとしたものに押し広げていきたい。
教皇ベネディクトは、即位されたときに、「現代の荒れ野」ということを言われました。本当に、生きることが難しい、この社会、この時代、わたしたちのつながりのなかで、生きる力、生きる希望を、日々見出すことができるよう、そのような教会でありたいと思います。

ヨハネの言葉を、最後にお伝えします。 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34)

2017年7月25日 (火)

父母を敬え

2017年7月17日  宣教・福音化年「合宿研修」派遣のミサ

第一朗読 出エジプト記1.8~14,22

福音朗読 マタイ10.34~11.1   

昨日の夕方6時過ぎにやっと到着して、夕食にあずかり、今のこの時まで皆さんと一緒に過ごしてきました。昨日、そして一昨日はいなかったので、皆様のお話しを伺うことができず、残念でございました。それから夕べと今日も皆さんのお話しを聞いたのですけども、正直よくわからないところがありまして、もっと更に伺いたいという気持ちが残っております。

今日のマタイによる福音を読んで、わたくしが今思いますことをお伝えし、皆さんの参考に供したいと思います。 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 イエズス様の大変厳しいお言葉であります。

わたくしも若い時、この言葉を黙想し、できたら司祭になろうと思い、ある時決心をして、神学校に入れてくださいと頼んで、そのあと司祭への道を歩み司祭になりました。その時は、司祭になろうと思った時は、このイエスの言葉に自分は応えるのだと思って、決心をしたのであります。まあしかし、司祭になり、司教にまでなってしまった後で振り返ってみると、自分の動機は本当に純粋なものであったであろうかと思うのであります。今更言ってもしかたがないんですけども、皆さんのお話しを聞いて刺激されて、自分のことを少しだけ話そうかな、打ち明けようかなと思いました。

わたくしは、千葉県の房総半島の山奥にある市原市鶴舞というところで、生まれ育ちました。わたくしの家庭はいろんなことがあって、あまり恵まれていなかったんですね。わたくしは長子、長男であります。父や母は一生懸命生き、わたしたちを育ててくれましたが、わたくしどもはその父母の心をよく受け止めず、よくわからず、どちらかというと恨みがましく思っていたのであります。本当に申し訳ありませんでした。皆さんに謝ってっても仕方がないのですけども。・・・父や母の苦しみや痛み、悲しみを理解しなかったですね。大きくなって何十年もたってわかってきた。

わたくしが千葉県の教会に行きましてミサをあげました後、一人の方がこうおっしゃいました。「私はあなたのお父さんをよく知ってますよ。」「え、知ってたんですか?」「あなたのお父さんは立派な教育者、学校の先生でした。」その方も教育者で、父は先輩にあたる。息子の目にはそうは見えなかった。「あなたのお父さんのおかげを被って感謝している人がいます」と。間もなくその感謝している方からの手紙がきました。「あなたの父上は私の恩人であります。」とこう縷々と書いてある。おれの親はこんなに偉い人だったのか!

母につきましても、・・・母のことをよく知っている方が、教会におりましてですね、別の教会ですけど訪問した時に、その方のお話しを聞くことができた。「あなたのお母さまは大変立派な方で、みんなのことをよくお世話をし、そして尊敬されていた」と。わたしは母のことは断片的にしか憶えておりません。幼い時に母とは離された状態になりました。わたくしが大学生になったときに、突如母親に会うことになったわけなんです。わたくしと下の「きょうだい」の心には父や母のことをあまり思い出したくないという思いがあったんですね。・・・わたくしは本当に申し訳ないが、大変後になって、父や母のことをもっと知りたいと思うようになった。わたくしが司祭になってから、二人とも帰天しております。臨終洗礼を受けて東京のカテドラルに葬られております。すぐそばなんで毎日でも墓参りできるのですけど、これがまたしないんですね。なんて親不幸な息子であるかと思いますが。

ですから本当にイエズス様の呼びかけに応えて父や母のもとを出る人もいるけれども、かなり不純な動機で、やなことをしたくないからイエスに従うという理由を見つけるという、そういう人もいるのではないかと。このイエスの言葉は大変難しい要求だと思います。 わたしたちは父や母から生まれますが、生まれた時から健全な家庭があるわけではない、家庭を知らない人もいる。両親がそろっていない方もいる。それから親がわからないという人もいる。人は家庭で生まれ育ち、両親の愛に育まれると、それは理想ですが、そうはいかない現実の中で、わたしたちはまず自分の家庭のことを思いますが、多くの方々の家庭のことも思い、本当にあなたは大切な存在、かけがえのない、なくてはならない人なんですということをどうやって伝えられるだろうか。親は自分を捨てて逃げちゃった、という場合に、自分は大切にされたとなかなか思えないわけであります。わたしの父、母は大切に思って一生懸命育ててくれたわけなんですけども、子供からみたら、ああだ、こうだと思うのですが、どんなに一生懸命生きたかということがわかる。実際、生きるということは大変なことであって、子供を産んで育てるということが、今、更に難しくなっているわけで、子供の貧困ということが言われておりますが、親が子供のお世話をよくすることが難しい環境にある。経済的のみならず精神的にも余裕がない、そういう状況で、子供が愛に包まれて育つということは難しい。そういう中で、わたしたち教会はどうしたらいいだろうか。

話は飛びますが1993年、ずいぶん昔ですが、日本のカトリック教会は福音宣教のための全国会議を開いた。そして家庭の問題をとりあげた。そして、それぞれの教区で、家庭について何ができるかということを考え実行しようということになりました。当時の浦和教区では、わたくしが浦和司教でありましたが、宣教司牧評議会を立ち上げて、そして青年、女性の皆様の協力をお願いしました。昨日その話をしたんですけども、女性をもっと励ますと。そしたら、もう励ます必要ないんだそうですね。「男性を励まさないといけないんですよ、司教さん。」ああそうですか。青年はどうなんですかね。青年はあまり元気がないように思うのですけども、子供ですよね。子供は今本当にかわいそうな状況にある。子供を暖かく受け入れ励ます。親が自分の子供のお世話もできない。お世話をすることを学んでいない親もいるという状況で、教会はそういう方々のためにきめ細かくできることをしていかなければならないんだろうと思います。 自分の言葉で、自分にできることを真心こめてお献げする、ということが福音宣教であると思います。この三日間、教会の働きを見事にあらわしている良い試みであると思い、このような集いは更に発展することを願っております。

2017年5月 2日 (火)

4月29日司祭叙階式説教、大宮教会

受階者:ペトロ 髙瀬 典之
第一朗読 出エジプト記3:1-12
福音朗読 ヨハネ15:9-17

これから司祭に叙階される髙瀬典之さん。そして叙階式に参加している全ての皆さん。この大変喜ばしい、大切な叙階式にあたり、ご一緒に司祭の務めについて分かち合いをしたいと思います。

今日の第一朗読は出エジプト記。モーセの召命を語る箇所であります。神はホレブの山でモーセをお呼びになりました。「モーセ、モーセ」と、モーセをお呼びになったのであります。そしてモーセに使命を授けました。イスラエルの民の叫び、苦しみを神は心に留めて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放することを決意し、その解放する指導者としてモーセを選んだのであります。このエジプトから人々を解放して、新しい土地へ導くという仕事は本当に難しい仕事であると思われます。モーセの心の中に躊躇い、そして苦しみが生じたことは想像するに難くないと思います。主なる神はそのモーセに言われました。わたしは必ずあなたと共にいる。いつも一緒にいるから、あなたを教え導くから大丈夫、やりなさい、そういう神の声があったのであります。
召命とは、神がわたしたちをお呼びになり、そしてその呼びかけにわたくしたちが応えるということであります。
今日の福音として選ばれた箇所は、ヨハネの福音の15章であります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
わたしたちは神の呼びかけに応えた者ですが、さらに神様の呼びかけがあった。神様が選んで、わたしたちに声をかけてくださった。イエスの時代になると、イエスを通して、神は人々を呼び出しになり、そしてイエスの最初の弟子たちが十二使徒たちであります。わたしが選んだ。そしてわたしがあなたがたを遣わす。そして、
「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
と言われました。
今、司祭に叙階される髙瀬さんも、神の呼びかけに応える者でありますが、同時に主イエスから選ばれ、呼び出されたのであります。人間というのは何か問題にぶつかったり、困難に出会う時に、自分はなぜ此処にいるのか、何のために此処にいるのか、ということを思い起こすことがある。自分の出発点をもう一度確かめなければならないと感じることがある。神から呼びかけを受け、そしてそのために必要な力を、恵みを、光を、支えを、導きを、いただいた者がわたしたちであり、特に司祭であります。
さて、叙階される司祭は司祭団という団体に加入し、そして司教の協力者となります。
今日の叙階式の式文で、度々言われておりますが、司祭というのは司教の協力者であります。司教は司祭の存在、そして協力によって司教の任務を果たすことができるのであります。この司祭と司教との親密な交わりということが、非常に大切であります。自分の司教がどんな人であるかは、選ぶことができない。しかし、それぞれの役割を同じイエズス様からいただいておりますので、司教の話はよく聞いて、わたしの後継者の司教の話もよく聞いていただく。そればかりではないですね。自分の希望、自分の問題、自分の本当の思いというものを率直に司教に話していただきたいと思います。
そして、今日の福音朗読で言われておりますが、互いに愛し合うこと。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」という主イエスの言葉を、司祭の交わりの中で具体的な姿をとって、実現するように努めましょう。あなたの先輩の司祭、年長の司祭、色々な方がおります。あなたも色々な方の一人になろうとしてるわけですけれども。互いに赦し合い、助け合い、そして人々がわたしたちの様子を見て、僕も司祭になりたいなと思ってくれるようでありたいです。素晴らしいからそういう風になりたいなと思う場合もありますが、ああじゃいけないので自分がなろうという場合もあると思います。
第三点。司祭と信徒の繋がりについてであります。司祭は信徒のために、司祭になります。司祭は信徒の声によく耳を傾け、信徒の要望に応えるように努めなければなりません。そして、信徒の皆さんが自由に、自発的に教会の宣教・司牧活動を行い、あるいは協力するように励まし、導かなければならない。司祭は一方的に指示し、命令するものではありません。
さて、来る5月7日は世界召命祈願の日であります。全ての人が自分の召命を知り召命に生きるよう、励まさなければなりません。もちろん司祭、奉献生活者への召命を呼びかけ、励ますことは大切でありますが、全ての人、全ての信徒は福音宣教者となるという召命をうけております。それぞれの方が自分の場所で、自分の立場で、主イエスの御心に従い、信仰を証しし、福音をのべ伝えることができるように教え、導き、励ますことこそ、特に司祭の役割であると思います。さいたま教区は宣教・福音化年を掲げて、そして祈りとともに、皆さんの協力をお願いしております。聖霊があなたを守り導いてくださいますように。アーメン。

2016年1月 4日 (月)

世界平和の日・神の母マリア

(説教)
 皆さん、明けましておめでとうございます。
 本日は主のご降誕の日12月25日から八日目にあたり、神の母聖マリアの祭日となっています。本日の第二朗読で、  「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」  とありますように、イエスは律法のもとにあるユダヤ人として生まれ、八日目に割礼を受け、イエス(主は救う)と名付けられました。今日の福音はその次第を告げています。
 さて本日は同時に「世界平和の日」でもあります。  2015年は、胸の痛くなるような悲しく酷い出来事の続く年でした。シリヤなどの中東から多くの避難民が生まれました。今朝聞いたばかりですが、ドイツのメルケル首相はドイツ国民に向かって、100万人の避難民を受け入れる決意を告げて、理解と協力を求めています。教皇様も、困り果て苦しみの最中にいる難民・移住者の家族を受け入れるようと呼びかけました。
 今年の「世界平和の日」教皇メッセージは「無関心に打ち勝ち、平和を獲得する」です。様は傷つき苦しみ途方にくれている人々の心を向けるよう、わたしたちに教えわたしたちを励ましています。
 今年のメッセージの冒頭のことばは非常に印象的です。
 「神は、無関心ではありません。神は、人類を大切にしてくださいます。」  いきなりこのような言葉で始まっています。無関心であってはならない、と強く戒めています。 (ぜひ「世界平和の日」教皇メッセージをお読みになってください。なお本日の聖書と典礼にはその要約といえる適切な記事が出ています。参考にしてください。)
 実際、わたしたちは、自分のこと、自分の健康や生活のこと、自分たちの課題で心が覆われています。他の人のためにどのくらいの心の場所を用意しているでしょうか。自分の仕事にためには心を用います、しかし、ほかのこと、ほかの国で起こっている世界の現実は自分には関係ない、と思い、関わろうとはしません。自分の、自分たちの問題で心も頭の一杯です。わたしたちは、世界の悲惨な現実へ向かって、人類共通の課題へ向かって、貧しい人々の状況について、心を開かなければなりません。
 神はいつくしみ深い神です。聖書は、旧約聖書、新約聖書はすべて、神が人々の苦しみの叫びに応えている次第を告げています。 いつくしの神の目に見える顔が主イエス・キリストです。 いまわたしたちは《いつくしみの特別聖年》を過ごしています。神がいつくしみ深いようにわたしたちもいつくしみ深い者でなければなりません。神のいつくしみをさらに深く知るように祈りましょう。「無関心」から抜け出し、神のいつくしみを実行できるよう、祈りましょう。

主の公現

主の公現の説教
2016年1月3日、鴨川教会
第一朗読 イザヤ60・1-6
第二朗読 エフェソ3・2,3b、5-6
福音朗読 マタイ2・1-12 (本文)

「主の公現」とは主なる神が御子イエス・キリストを諸国の民に示された、という神のみわざを表すことばです。
 今日のマタイの福音は、占星術の学者がベツレヘムに来て幼子イエスを拝み、黄金,乳香、没薬を贈り物として献げた、と述べています。
 「占星術の学者」は博士とも賢人とも呼ばれています。原語は「マゴイ」で、ここからmagic(手品)という言葉で出てきたと言われています。  ふつう、「三博士」と言われていますが、それは、「黄金,乳香、没薬」の三つの贈り物から来てくる数字です。福音書には博士の人数は出ていません。 後に三人の名前も伝えられるようになりました。 三人は、伝説によれが、 メルキオール、バルタザール、カスパールと言い、メルキオールはメシアの王権を表す黄金を献げました。バルタザールは神性を表す乳香を、カスパールは埋葬を表す没薬を献げました。確かにヨハネの福音では、イエスの埋葬のために没薬と沈香が用意された、とあります。(ヨハネ19・39-40参照) ちなみに、東京教区が大変お世話になっているケルン教区の大聖堂にはこの「東方三博士(賢王)」の聖遺物が祀られています。 なお、3月4日には、ケルン教区のヴェルキ大司教(枢機卿)がこの聖遺物とともに、わたしたちの東京教区を訪問してくださいます。
さて、三博士は東方から来たのですが、さらに東にあるこの日本にもメシア=キリストの光が届きました。わたしたちは御子キリストの光を受けて、その輝きを人々に表し伝えるという使命を受けています。 今日の奉納祈願でわたしたちは祈ります。
 「いのちの源である神よ、教会の供えものを顧みてください。黄金、乳香、没薬ではなく、主イエス・キリストご自身をあらわすこの供えものによって、いのちの糧を受けることができますように。」
 わたしたちは黄金、乳香、没薬は持っていません。その代りに日々の生活すべてを、ミサにおいて、主イエスを表すパンと葡萄酒とともに父である神に献げるのです。
  先ほど皆さんは「教皇フランシスコ いつくしもの特別聖年のための祈り」を唱えました。その中で次にように祈ったのです。
 主イエス、・・・・
  あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。
何よりもゆるしといつくしみによって、自らの力を示される神のみ顔です。
  教会がこの世において、復活し栄光に満ちておられる主のみ顔となりますように。
 あなたは、ご自分に仕える者が弱さを身にまとい、 無知と過ちの闇の中を歩む人々を、 心から思いやることができるようお望みになりました。
 これらに仕える者に出会うすべての人が、 神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じるこことができますように。
 実はわたしたち自身が罪深くまた弱い人間です。だからこそこの世の中で「無知と過ちの闇の中を歩む人々を、 心から思いやることができる」はずなのです。「ご自分に仕える者」とは、わたしたち教会です。わたしたち一人ひとりのことです。わたしたちを通して神のいつくしみが現れ伝えられるのです。わたしたちと出会う人々が、自分は「神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じる」ようでありたいものです。
 主イエスに倣い、弱い人間、それて知らずに過ちに陥っている人々にお仕えすることによって、自分の献げものをささげるのです。 わたしたちによって、キリストの復活の光が現れ伝えられますように。罪人である弱い人間を通して主キリストのみ顔が示されますように。わたしたちが神のいつくしも目に見えるしるしとなることができますように、祈りましょう。

2015年9月 8日 (火)

エッファタ

  大司教着座15周年記念ミサ説教 2025年9月6日 年間第23主日、関口教会
 いま読まれた福音は、イエスが、耳が聞こえず口も聞けない人を癒された話です。このときイエスは「エッファタ」というアラマイ語の言葉を使っています。「これは『開け』という意味である」(マルコ7・34)とギリシャ語で説明しています。実際にイエスが話したアラマイ語でした。  しかし現代に伝わるマルコ福音はギリシャ語で書かれています。ただし「エッファタ」の例のように、何箇所かで、イエスが実際に口に上らせたアラマイ語が表記されています。
 イエスがこの言葉を発するとすぐに、この言葉が意味する結果が実現し、その人は癒されたのでした。このイエスの癒しの場面を目撃した人々の心にイエスのこの言葉の音声が深く印象付けられたに違いありません。(このような例は他にも「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)(マルコ5・41)や十字架上のイエスの言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15・34)という言葉が、アラマイ語だと思います。福音書はギリシャ語で書かれていますが、これらの部分にはアラマイ語の表記のまま残されたのでした。
 イエスの言葉には力がありました。その言葉は必ずその指し示す意味を実現します。  本日の第一朗読のイザヤ書はあらかじめこのイエスの癒しのみ業を、メシアの到来のしるしとして告げている、と福音書作者は理解したと考えられます。
 主日の福音はイエスの生涯、イエスの言葉、イエスの生き方を伝えています。
 人の話を聞き、人に話すということは人間が人間らしく生きるために欠かせない、基本的な、他の人との交わりの手段です。イエスはこの働きを奪われていた人に深く同情し、その働きを回復させ、人間らしく生きる道を整えたのでした。
 わたしたちキリストの弟子たちは、病気・障がいのために他者とのコムニケーションの手段を奪われている人が存在しています。また言語の違い、差別、排斥、除外の状態に置かれて、通常の交わりの手段を否定されている人々が存在しています。人々の間に心の交わりの手段を回復し、人々の間のコミュニケーションを発展させるということは、キリストの弟子たちの大切な務めです。
 きょうはさらに、言葉の大切さ、ということにあらためて思いを深めたいと思います。とくに次の二点に留意したいと思います。
1.自分の言葉に責任を持つ。言葉は、人を励まし、慰め、導くために言葉を使う。誠実の誠とは、言葉が成る、実現する、という意味ではないでしょうか。
2.言葉で人を傷つけたり欺いたりしないよう、厳に気を付ける。  どんな宗教も言葉の大切さを教えていると思います。*
 エフェソ書の教えを肝に銘じましょう。 「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。・・・ 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。)」 * 仏教の教え十善回の中の4つは言葉についてのお教えです。(不妄語、不綺語、不悪口、不両舌。)

2015年3月 3日 (火)

イサクの犠牲

四旬節第二主日説教 今日の福音はイエスのご変容です。

  「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(マルコ9・2-3) わたしたちは神からの神であるイエスを信じえいますが、福音書のイエスはわたしたちと同じ人間の姿をとっていました。普段は神であるイエスの栄光は隠れたままでした。しかしこのときは、神であるイエスの栄光が現われたのでした。これは、イエスが受難を経て栄光を受けることをあらかじめ指し示した出来事と考えられます。イエスの十字架は弟子たちにとって理解し難い出来事であり、大きな躓きでありました。イエスはあらかじめご変容によって弟子たちの心をご自分の受難へ向けて準備し、彼らの信仰を支えるための励ましにしようと考えられた、と思われます。
  「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」(マルコ9・7) イエスは父である神の愛する独り子でした。イエスの言動はすべて神の意に適う言動でした。イエスは父のみ心に従って歩み、自分を迫害するもののために祈り,すべての人のあがないのために、十字架の上上で命を献げたのでした。そして父である神はその愛する子イエスを「惜しまずに死に渡されました。」(ローマ8・32) 神は愛する子が苦しむことを拒まれなかったのです。ここに神の愛の神秘があります。
さて今日は第一朗読に注目したいと思います。 アブラハムが一人イサクをささげる話です。 神はアブラハムを試して言われました。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22・2)
なんとむごい命令でしょうか。なんと不条理な命令でしょうか。分かりにくい話です。このような命令を神が本当にしたのでしょうか。 信仰の人アブラハムは神への反論なしにすぐに命令に従います。
  「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。(22・3)    三日目になって、目的地が見えるところまで来ました。アブラハムは若者たちを残し、イサクと二人だけで山に登ります。
  「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。」(22・6) なんということでしょうか、イサクは自分を焼き殺すために薪を背負わされたのです。このときイサク何歳だったのでしょうか。二人は道々何を考えていたのでしょうか。 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけ、言いました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」(22・7)
このイサクの問い、なんと健気なことでしょうか。イサクは自分が焼き殺されるはずだとは夢にも考えていなかったのでしょうか。
  「アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。」(22・8-10) このときイサクは何も抵抗しなかったのでしょうか。唯々諾々従容として父に屠られるままに任せていたのでしょうか。
「そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が、『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』」(22・10-12) 土壇場で神がアブラハムに声をかけてイサクをほふることを止めさせます。
「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(22・13) 「御使いは言った。『わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』」(22・16-18) この「自分の独り子である息子すら惜しまなかった」と言う表現は、今日の第二朗読の「その御子をさえ惜しまずに死に渡された方」(ローマ8・32)と言う表現と重なります。 アブラハムはその信仰が賞賛されている人です。その信仰とは不条理の中でもあえて神への信頼を貫くということでしょう。
信仰とは確かに不条理の中でこそ意味があるのかもしれません。人生には不条理が一杯あります。その現実の中で、どのようにして神を信じることができるかが誰にとっても大きな課題です。アブラハムの受けた試練は確かに信仰とは何かを考えさせる大切な何かを教えています。
  ところで、信仰の模範と言えばイサクの信仰も賞賛されます。従容として薪を背負い、父に殺されそうになったイサクはイエスの先駆者と言えるでしょう。 今日わたしが深く考えてみたいと思うのは、不条理の中での信仰、ということです。この、イサクの犠牲の話は分かりにくい話です。しかし、新約のイエス・キリストの十字架の犠牲と合わせて読んでみれば復活の光がほのかに見えてくると思います。 旧約聖書は新約聖書の光に照らして読まなければなりません。 今日のご変容に福音ですが、わたしたちの日住生活にも「小さなご変容」というべき出来事があるのではないでしょうか。わたしたちは、日常の中にある復活の光によって支えられ励まされていると思 うのです。