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ミサ説教

2019年8月18日 (日)

宣教・福音化

宣教・福音化のための土曜日のミサ 説教

2019817()、本郷教会

 

わたしたち教会がなすべき使命は「福音宣教」、あるいは「福音化」という言葉で言い表されます。

今日の福音でイエスは言われました。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタ2819

イエスの弟子をつくることが、福音宣教であると思います。

しかし、イエスの弟子になるということと、福音を受け取ってイエスに従う者になるということの間に、繋がりがあるはずでありますというよりは同じことであります。

イエスの教えは「福音」と呼ばれ、喜ばしい便りであります。

教会は、人々にとって、喜ばしい便りを伝えてきました。

そこで多くの人が教会に加わった。

当初、イエスの福音を受け入れた人は、貧しい人々でありました。

イエスの周りに集まった人は、貧しくそして力がない、社会の中で周辺に押しやられていた人々であります。

「貧しい人々は、幸いである」(ルカ620)、あるいは「心の貧しい人々は、幸いである」(マタ53)とイエスは言われました。

貧しい人にとって、イエスの存在とイエスの言葉は、本当に喜ばしい言葉、救いの言葉でありました。

ところで、時代は移り変わって、キリスト教は当初は迫害される宗教でありましたが、ローマ帝国の中で非常に人数が増えると、ローマ帝国はキリスト教徒の存在を認め、そして紀元313年という年に、キリスト教を公認しました。

そして、その後キリスト教はさらに発展し、ついにローマ帝国の宗教、いわば支配階級の宗教となりました。

そこから本来の教会の在り方に少しずつ変化が生じてきたのであります。

貧しい人の宗教であった、貧しい人のための福音であったにもかかわらず、支配する人、権力のある人、財産を持っている人、名誉のある人々の宗教になっていったために、本来のイエスの教えと逸れていくという問題が生じたわけであります。

そこで教会は、何度も改革をしてきました。

1962年から1965年、「第二バチカン公会議」が開催されました。

その公会議を受けて、その10年後の1975年にパウロ6世教皇は福音宣教についての新しい教えを発表しました。

日本のカトリック教会としては、1987年に「福音宣教推進全国会議」を開いて、日本の社会にイエス・キリストの福音を宣べ伝える努力をすることを再度決意したのであります。

その時に、「開かれた教会」にしようという目標を掲げました。

そして、貧しい人、苦しんでいる人、孤独に苦しんでいる人々にとっての温かい交わりが憩い、助け、支えとなる、そういう共同体を造ろうという決心を表明したのでありました。

それからもう30年以上経ったわけでありますけれども、この決意はどの程度実行されてきたでしょうか。

開催時の決意を実行する当事者の一人であるわたくしとしては、とてもまだ道は遠く、大変恥ずかしいという状況にあると思います。

一人ひとりの人が、自分にとって福音とは何であるのか、自分はなぜキリスト者になったのか、どういう喜びをもって信者になり、どういう支えをいただいてきたのかということをご自分の言葉で話し、かつその信仰を生活の中に反映させることが、本当に正しい有効な宣教ではないかといつも考えております。

この暑い夏が過ぎて、秋になる時に改めて教会の使命をご一緒に考えたいと思います。

よろしくお願いします。

 

 

 

 

2019年8月15日 (木)

聖母の被昇天

聖母の被昇天

                                                                                                                2019年8月15日、本郷教会

第一朗読黙示録11.19a,12.1-6,10ab

第二朗読:1コリント15.20-27a

福音朗読:ルカ1.39-56

 

福音の本文

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 説教

皆さん今日は8月15日です。わたしたちカトリック信者にとっても日本国民、あるいは世界中の人々にとっても記念すべき日です。

8月15日は聖母マリアの被昇天を祝う日であり、また、第二次世界大戦、あるいはアジア太平洋戦争が終わり、平和が回復された日、日本にとっては敗戦を受け入れた日でもございます。

8月6日から15日はカトリック平和旬間できょうはその締めくくりの日となります。

マリア様のこと、平和のこと、わたしたちの日々の霊的生活のことにとって非常に意味深い日であります。わたしにとっては、この本郷教会での初めて聖母の被昇天の日です。

 聖母の被昇天という教えは、1950年に、時の教皇 ピオ12世が、正式にカトリック教会の教えとして、すべての人に向かって宣言して教義として定めた教えでございます。

すべての人は死ななければなりません。遺体は腐敗するのです。葬儀とは、遺体への尊敬を込めた葬送の儀礼と申しましょうか、聖母の場合は、そのご遺体は腐敗を免れて天に上げられたとわたしたちは信じます。それは聖母が死後直ぐに主イエスの復活の体の状態に上がられたということを意味しています。

 きょうの第二朗読で使徒パウロが教えていますが、わたしたちも主イエス・キリストのご復活に与り、栄光の体に変えていただけるという希望を与えられているのです。わたしたちの生身の身体は朽ち果てても、主の復活の体と同じような復活の体、朽ちることのない永遠の命を表し伝える体にしていただけるのです。

本日の第二朗読は述べています。

一人の人によってこの世に死が入ってきたが、一人の人によってすべての人にいのちが及ぶことになった。このいのちとは、わたしたちすべてのものに与えられる復活のいのちであります。

 ところで、きょうは第一朗読に注意を留めていただきたい。ヨハネの黙示録を読んで感じたことを申し上げたい。

身ごもった女と竜の壮絶な戦いが述べられています。

女とはわたしたち神の民を指しており、竜とはサタン、悪魔、悪の力を意味しているといいます。

本郷教会では昨年7月から火曜の晩に教皇文書の「読書会」をしてきました。無事、一年が経過しましたが、先日、三番目の文書『喜びに喜べ』を終了しました。

ここで教皇フランシスコが強調している点は、キリスト者の日々は悪とのたたかいである、ということです。悪とはサタンであり、人間を悪へ誘う霊的な存在です。

主の祈りの中で「悪からお救いださい」と祈っておりますが、それは、悪魔の誘惑に陥らないように守ってください、という意味であります。

悪との戦いとは、悪霊の誘惑を退け、聖霊の導きに従うことに他なりません。

それは思い上がらないように、高ぶらないようにとの聖霊の導きに従うことであります。

マリアの賛歌、マグニフィカトは述べています。

 主はその腕で力を振るい、

 思い上がる者を打ち散らし、

 権力ある者をその座から引き降ろし、

 身分の低い者を高く上げ、

 飢えた人を良い物で満たし、

 富める者を空腹のまま追い返されます。

 その僕イスラエルを受け入れて、

 憐れみをお忘れになりません、

それは権力への欲求、名誉、所有への欲望を放棄し、貧しい人々へ仕えることを意味しています。

 

主イエスと聖母の生き方に倣って、謙遜、柔和に生きることこそ、平和を実現するために使徒として生きることなのです。

日々そのような歩みを続けることが出来ますよう、聖霊の導きを祈りましょう。

アーメン。

 

2019年8月14日 (水)

兄弟の罪を赦す

聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教

                                                                                                                                             2019年8月14日

 第一朗読  申命記 34:1-12

 福音朗読  マタイによる福音書 18:15-20
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

説教

今日は聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の殉教を記念します。

昨日の福音は、子どものようにならなければ天の国に入ることが出来ない、という主イエスの教えでありました。それはマタイによる福音の18章の最初の部分にある教えです。今日の福音は同じ18章から取られています。そこで18章全体を見ますと、見出しだけ見れば、最初の話は先ほど言ったように、天の国一番偉い者は誰か、という話で、次は、小さな者を躓かせてはいけないという話、そして次は、迷い出た羊の話。100匹の中で一匹が迷い出た時にどうするかという話。それから今日の箇所で、兄弟に忠告する場合にどうするかという話。ちなみにそのすぐあと、兄弟が自分に罪を犯したなら、7の70倍まで赦しなさいという教えであります。

そいう文脈の中であらためて今日の教え、「兄弟的忠告」という教えを読んでいきましょう。

「兄弟があなたに罪を犯したなら」とあります。兄弟がいて、その兄弟が自分に罪を犯した、という場合。どんな罪なのか分かりませんが、罪を犯した場合ですから、自分とその兄弟の間の問題なのですね。あまりこの言葉に注意を向けていなかったのです。誰かが困ったことをしているとか、問題を起こしているという場合に、その人に忠告するということはよくあるのですが、自分に罪をおかした場合、となると、なかなか難しい(ケースだ)という気がするのです。わたしたたちはそういう場合どうしているだろうか。その兄弟に直接言うでしょうか。なかなか言わないような気がする。言うのは難しい。イエスは、二人だけでまず話し合いなさい、二人だけのところで忠告しなさいと言っている。こちらの言うことを聞き入れてくれたら、大変それはよろしい。兄弟を取り戻したことになる。失敗すれば、二人きりの話ではうまくいかなかったので、他に一人か二人一緒に話を聞いてもらうということになる。それで話がつけばよろしいが、それでも聞き入れてもらえなければ、教会に申し出なさい。マタイの福音が成立したころ、教会共同体というものがすでにあった。その共同体が彼の問題を取り扱う。それでも彼が自分の過ちを認めなければ、異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。これはどういう意味だろうかと思いますが、教会共同体の交わりから外すという意味だろうと思います。(わたしの解釈ですが。)

それで地上でつなぐことは天上でもつながれるし、地上で解くことは天上でも解かれることになります。

これは、ペトロに言われたことと同じことのようですが、「あなたがた」と言っていますので、教会共同体に言ったことであって、共同体として兄弟の罪の問題をどういうように扱うか、ということを言っている。

そして、その次の話は、7の70倍赦しなさい、となります。

この話の展開をどういう風に受けとめたらよいだろうかと思います。

「兄弟を赦す。」

赦すためにはその兄弟に、自分の過ちを認めてもらえるようにしないといけない。そこで戒めるわけです。過ちを過ちでないないとすることが赦すことではないのであります。しかし、赦しなさい、7の70倍も赦しなさいと言っておられる。

どう考えたらよいのか?

一人の兄弟を大切にするという思いが強く滲んでいるように思います。

 

子どもの心

間第19火曜日

8月13日 

第一朗読  申命記 31:1-8

福音朗読  マタイによる福音書 18:1-5、10、12-14

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

[ これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 

説教

今日のイエスの言葉をご一緒に黙想しましょう。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

「心を入れ替えて子供のようになる」とは何を意味しているでしょうか。わたしたち大人は自分の考え、自分の思い、というものをもっています。すでに成長する過程で、物事を見、判断するための枠組みが出来ています。その枠組みに合わせて物事を判断し人の価値を決めたりしています。まだ子どもにはそのような枠組みが出来ていない。白紙のような状態でしょうか。教育というのは、子どもに正しい考え方、判断力をつけるようにすることだろうと思います。

子どもの場合、善い事、悪い子も、そのまま子どもの心に入って、刷り込まれてしまいますので大人の責任は重大だと思います。

天の国とは、神様の恵みが行きわたっている状態です。天の国と神の国は同じことです。神の支配が神の国です。わたしたちは、頭では、神の恵みを受け、神の御心を行うつもりでいますが、なかなか素直に、謙遜に、神様の恵みを受け取るようには出来ていないと思います。

例えば、天の国で一番偉いのは誰か、ということが弟子たちの関心事でありました。偉いかどうかということが彼らにとって大切であったようであります。

「偉い」というのは通常の意味で「権力がある」ということです。あるいは、「名誉がある人である」あるいは「人を動かす力がある」ということでしょうか。

自分が偉いかどうかということを第一の関心にする人は天の国の人ではないと思います。

ではわたしたちはどうだろうかと思います。本当に柔和、謙遜なイエスに倣って生きているだろうか、と思います。

この前の日曜日の福音ですが、わたしたちは、自分の生涯の終わりにその人生の総決算をしなければならないのです。その時に、どれだけ柔和、謙遜に生きたか、そして平和を実現するために力を尽くしたか、ということが問われているのだと思います。

 

2019年8月 8日 (木)

聖ドミニコの記念日

説教
8月8日は聖ドミニコ司祭の日であります。
ちょうど6年前の8月8日、わたしはさいたま教区の教区管理者として初めて、さいたま教区の司教座聖堂である浦和教会でミサを献げ、さいたま教区の皆さんに挨拶を致しました。ちょうどその日が聖ドミニコの日でありました。
今日の福音は御存じのとおりペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰宣言をし、イエスからお褒めに与り、天国の鍵を授かったという、カトリック教会にとっては非常に重要な箇所であります。それなのにその直後に当の同じペトロがイエスから、激しい叱責を受けています。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
ペトロの善意には疑いがないのです。イエスのことを思ってお諫めしたのであります。しかしそのペトロの言動はサタンの仕業であるとされて退けられてしまったのです。わたしたちの教会の設立に関しては、この二つの出来事、つまりペトロへのイエスの称賛・承認とペトロに対するイエスの激しい叱責の二つの出来事が同時に深くかかわっていたのです。これは大変不思議な現象ではないでしょうか。
他方わたしたちは毎日のミサで民数記を読み続けてきました。民数記はエジプトを脱出したイスラエルの民がモーセに率いられて約束の地に向かう様子を述べています。民は何度もモーセに反抗し、泣き言を言い、ついにモーセはもうどうにもならないと音を上げて、「どうかわたしのいのちを取り上げてください」とさえ神に訴えたと述べているのです。今日の朗読では「メリバ」という地名の由来が説明されています。「メリバ」というのは「争い」という意味であり、水がないということで民がモーセに逆らったという出来事を表わしています。

2019年の日本の東京というところでわたしたち教会はどう歩むべきでしょうか。様々な試練と誘惑の中でわたしたちが人間の思いではなく神の思いに従って歩むことが出来ますよう、聖霊の導きをお祈りいたしましょう。

2019年8月 4日 (日)

平和を実現する人

年間第18主日C年

2019年8月4日、本郷教会

第一朗読 コヘレトの言葉1・2;2;21-23

第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙3・1-5,9-11

福音朗読 ルカによる福音12・13-21

 

説教

平和旬間の開始にあたりまして、きょうは平和について考える、そして、平和のためにお祈りしたいと思います。

きょうの福音は、「愚かな金持ち」の話であります。この金持ちは、安心したかったのでしょうか、自分のために大きな蔵を立て始めて、そこに自分の全財産をしまい、そして、これで安心できると思ったのでありました。

その金持ちに対して、神が言われたのは『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』

そしてイエスはさらに言われました。「自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」

自分のために富を積むということを、わたしたちもしているのかもしれない。

第一朗読で、「すべては空しい…」と言われました。

どんなに財産を積んでも、所詮、いつか失われるものである。自分のために富を積むのではなくて、神の前に豊かにならなくては意味がない。人生の意味は、自分のために生きるのではなくて、神のために、神様のみこころに従って生きるところにあるのであります。

第二朗読をご一緒に思い起こしましょう。

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い等を捨て去りなさい。」そして、日々新たにされるように努めなさい。

日々新たにされるということは、何よりも、神様のみ旨に従って新しい人間となるように努めることであり、そして、平和のために働くものとなるようになることではないでしょうか。

自分のためにだけ生きる者同士、いつも争いが絶えないのであります。しかし、ともに神のみこころに従い、平和を実現する人として努力するものが集まれば、そこに、平和が生まれるのであります。

イエスは、敵を愛するように教え、そして、暴力に依らないで平和を実現するようにと諭されました。

日本の司教団は、たびたび平和のためのメッセージを発表しております。

次のような事柄が非常に大切であると思いますので、いま、引用いたします。

「教皇ヨハネ・ペウロ二世は、聖パウロの教えに従って、平和は悪が善によって打ち負かされるときにのみもたらされる辛抱強い闘いの成果であることを明らかにしています。軍備と武力行使によってではなく、非暴力を貫き対話によって平和を築く歩みだけが「悪に対して悪をもって報いるという悪循環から抜け出す唯一の道」(注10)なのです。これはガンディーの非暴力による抵抗運動などが示しているように、多くの人の共感を呼ぶものです。この非暴力の精神は憲法第九条の中で、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄、および戦力の不保持という形で掲げられています。(注11)六十年にわたって戦争で誰も殺さず、誰も殺されなかったという日本における歴史的事実はわたしたちの誇りとするところではないでしょうか。」(カトリック中央協議会:戦後70年司教団メッセージ『平和を実現する人は幸い』)

きょうの『聖書と典礼』の7ページを皆さんご覧になって下さい。ここに、那覇教区のウェイン・フランシス・バーント司教様の言葉が出ております。

沖縄のかたのこころからの願いと叫びがここに綴られています。

「キリストのこころをもって新しい人となった皆さん、キリストが望んでいる世界を築く使命を果たしましょう。被爆者の泣き声を聴いて、核兵器を廃絶するために働きましょう。沖縄県民の叫び声に耳を傾けて、戦争の準備となることを止めましょう」。

 

注10:2005年1月1日「世界平和の日」メッセージ

注11:憲法第九条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。第2項:前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。

 

2019年8月 2日 (金)

あなたの信仰があなたを救った!

年間第17金曜日

2,019年月2日

第一朗読  レビ記 23:1、4-11、15-16、27、34b-37

福音朗読  マタイによる福音書 13:54-58
(そのとき、イエスは)故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

説教

イエスの故郷ナザレの人々はイエスに躓き、イエスを信じることが出来なかったと今日のマタイの福音は伝えています。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」(マタイ13・58)のでした。普段から良く知っている人の中に神の力を認めるということは人間にとって難しいことなのでしょうか。ナザレの人々はイエスのことを良く知っていました。小さい時から一緒に育ったのであります。そこで「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」マタイ13・55)と言ってイエスに躓いたのでした。普段から良く知っている人の中に神の力を認め、その人が神から遣わされた人であり預言者であると信じることは、人間にとって難しいことだったと思われます。

逆に人間をイエスを全く知らなかった女性で、必死の思いでイエスに触れた女性は、イエスに触れただけでイエスから癒しの恵みを頂けるだろうと信じたのでした。マタイの福音は十二年間出血症を患っていた女性の癒しについて伝えています。

「すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」(マタイ9・20-22)

「あなたの信仰があなたを救った」という言葉をイエスはいろいろな人に言っています。なんという素晴らしい言葉でしょうか。わたしたちの場合はどうでしょうか。地上のイエスはもはやおられませんが、復活したイエスはいつもどこにでも、わたしたちとともにいてくださいます。復活したイエスから、聖霊の働きを通して、お恵みをいただき、「あなたの信仰があなたを救った」というお言葉を頂くことが出来ますように、より深く強い信仰が頂けますよう

2019年7月31日 (水)

霊操

年間第十七水曜日 聖イグナチオ(ロヨラ)司祭 記念日
                ミサ説教
                                 2019年7月31日(水)、本郷教会

7月31日は、聖イグナチオ・ロヨラの記念日であります。
聖イグナチオの創立したイエズス会の創立の同志である聖フランシスコザビエルが、日本に福音を伝えてくれました。
その聖イグナチオが、多くの人々に伝えた霊性(霊に従う生活)の非常に有力な方法として、霊操という修業があります。
霊操というのは、神の霊に従うための修行であります。
神の霊とは、聖霊であります。
神の霊に従うためには、神の霊に逆らう悪の力を退け、あるいは神の霊の働きから自分を遠ざける誘惑と闘わなければなりません。

ちょうど昨夜の読書会で、イエズス会出身である現教皇フランシスコが出された教え『喜びに喜べ』を読み終えましたが、そこでわたしたちは現代世界においてすべての人がイエス・キリストに倣い、キリストの霊である聖霊に従う道を学んだのであります。

昨日の福音は「毒麦のたとえ」でありました。
長い話はできませんでしたが、あの話の中で「毒麦を撒いた敵は悪魔」(マタ13・39)であるとイエスは言われた。
『喜びに喜べ』の中でも、教皇フランシスコと教皇パウロ6世は、現代の人々に対して悪の力である悪魔の働きに警戒するようにと警告しています。

わたしたちは日々、「わたしたちを悪からお救いください」と「主の祈り」で祈っていますが、この悪とは、「悪い者」と訳すことができるのであり、この悪とは抽象的なものではなく、ペルソナ的な存在であり、サタン、あるいは悪い者、神に逆らう天使のことであります。
悪魔ディア‐ボロスとは、神の計画とキリストにおいて成就した救いの業とに逆らうものだとされています。(『カトリック教会のカテキズム』参照}

わたしたちの心の中にも悪の力が働いていることを自覚し、日々聖霊の導きに従うことができますよう、そのためにご一緒にお祈りすること、ミサを献げることが、非常に大切であると思います。

毒麦の譬え

年間第十七火曜日 ミサ説教

2019730()、本郷教会

毒麦の譬え

マタイによる福音1324-3036-43

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 

説教

イエスは、天の国のたとえを話されました。今日の福音は、「毒麦のたとえ」であります。

この世界、そしてこの世界に住んでいるわたしたち自身は、良い麦と毒麦の両方が撒かれている世界であり、わたしたちの心にも良い麦と毒麦がまかれているような状態にあると思います。

残念ですが、現在のこの世界、そしてわたしたちの心の中にも、毒麦にあたるものが存在しています。

さて、毒麦の譬え話によると、早く毒麦を引き抜いてしまえばよいのにと思う人がいました。

しかし、主人は言います。『今はその時ではない。成長するまで待たせる』と言われます。

その理由は、先ずは良い麦と毒麦の区別が難しい、見たところよく似ているのです。

そして、もう一つ重要な理由があります。それは、良い麦と毒麦が、同じところで一緒に育っている。そうすると、外見が似ているだけでなく、その根が絡まってしまっている。

毒麦だけ引き抜くことが難しい。毒麦を引き抜くと、良い麦も一緒に抜かれてしまうのである。

世の終わりになれば、両者の区別はハッキリする。

この世界にどうして様々な問題があるのだろうか。神が造ったこの世界は極めてよい世界ではないのか。神はどうしてこのような状態を見過ごしておられるのか。

そのような疑問があります。

「毒麦のたとえ」はそのような疑問に対する一つの答えであります。

この世界では、善と悪と言うものは、はっきりと区別できない。人間についても同様である。

同じ人が良いことをすれば、悪いこともする。

悪いことをしないようにするには、その人自身を無いものに、つまり存在しないものにしなくてはならない。

病気の治療のことはよく分かりませんが、悪い細胞を殺すための薬は、同時に良い細胞にも害を与える副作用というものがあるそうであります。

毒麦はどうして入って来たのか。誰が入れたのか。

毒麦を撒いた敵は悪魔である、と福音は伝えています。

毒麦だけ切り離して見分けてそれを取り除くならば、良い麦も一緒に抜かれてしまうので、神は慈しみ深く寛大に、両方が育つままに任せて、世の終わりに総決算をしてくださる。

そのように今日の福音は言っております。

2019年7月29日 (月)

負い目をおゆるし下さい

年間第17主日C

2019728日、本郷教会

 第一朗読 創世記 1820-32

第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 212-14

福音朗読 ルカ111-13

 説教

 今読みましたルカによる福音は、わたしたちが毎日唱える「主の祈り」を伝えています。「主の祈り」は福音の要約と言われています。わたしたちにとって非常に大切な祈りであります。

ある人が、「主の祈り」を他の人たちと一緒に唱えましたが、途中で続けることができなかったそうです。その途中の箇所というのは、罪の赦しについての箇所です。

 わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも人を赦します。

 この言葉を口にすることができない。その人の気持ちがわかるような気がいたします。

わたしたちは天の父に罪の赦しを願っています。

今日のルカの福音によれば、「罪を赦してください」と願ってさらに、「自分に負い目のある人を皆赦します。」と言っています。

罪という言葉は、わたしたちには、なかなかわかりにくい、と申しますか、なじみにくい、そういう響きがあるのではないだろうか。犯罪といえばすぐにわかりますが、罪と犯罪はもちろん違います。「罪」というのはなんでしょうか。あまり罪のことばかり聞いて、だんだん嫌になってしまうという気持ちも出てくるかもしれない。

 「負い目」という言葉もあります。「負い目」、あるいは「負債」とも訳しています。「負い目」というほうがわたしたちの気持ちには通じやすい。わたしたちは負い目をもっている。あるいは、別の言葉でどう言うかと、探してみると、わたしたちが毎日使っているであろう「おかげさま」という言葉ですが、これは抵抗なく「おかげさまでお元気ですか」などのように「おかげさまで」ということばを使っているわけです。

わたしたちはおかげさまで毎日生きている、生活している、いろいろな方々の助け、理解、支えなどによって、そのおかげで今日も過ごすことができた、心から感謝いたします。

この「おかげ」ということをわたしたちは子どものときから教えられているし、いろいろな場面において、おかげでそうすることができている、と思っています。

「負い目」というと少し意味合いが違ってきますが、ま、こちらのほうもいろいろな人に負い目がある、ということは理解できる。マタイの福音書18章に、多大な借金を赦していただいた男が、自分に借金している友達の借金を赦すことができなかったという話が出ております。1万タラントンとかいうものすごい額の負債を持っていた男、その男が、全部帳消しにしていただいて大喜びのはずですが、自分に対して100デナリという、1デナリが一日分の賃金といわれますので、ま、そういう額を、赦すことができなかったという話であって、その話の結論は、あなたがたが兄弟を心から赦さないならば、天の父もあなたがたに同じようにするだろうという言葉で結ばれている。これは考えてみるとかなり恐ろしいことである。「主の祈り」を最後まで祈ることができなかった人も、そのことが心に兆して 自分は赦せない、赦していないと思ったのでしょう。赦せないという気持ちもだいたいの人は経験したと思います。赦しがたい、何年も何年もその悔しい思いとか、嫌な思いが残っている、そういう人生の体験がある、そうでありながらわたしの罪をお赦しくださいとは言い難い。「わたしも人を赦します」と言い難い。この「赦します」というように言っていますが、この「主の祈り」の原文は主に、マタイの福音からとられている。今日はルカの福音ですけれども、そうすると、「赦します」という訳もあるが、「赦しました」、「赦しました」となっている場合もあります。これ悩んでしまう。どっちが正しいのだろう。ま、どちらとも言えるようであります。「赦しました、で、お赦しください」という場合と、「赦します」という場合。「赦します」というと、「今現在赦します」なのか、「これから赦す」のか、曖昧ですけども、「赦してもらう」ということと、「赦す」ということの、このつながりが大切であります。「赦してください」とお願いするならば、自分も赦すということがあるはずだ、と言っています。

 わたしたちは、本当におかげさまでいろいろなことをすることができるし、わたしたちのすることなすことは、本当に足りないことだらけ、人に満足していただけるようなことはなかなかできない。本当にふつつかな僕(しもべ)でありますという気持ちが本来のものでありましょう。そして信仰しているわたしたち、天の父を信じているわたしたちは、自分がいただいているものはすべて天の父からいただいたものであると思う。自分が自分で獲得したものはないですね。すべていただいたものである。いただいたもの、だから、下さった方に応えなければならない。でも、応えようがないくらい多くの恩をこうむっている。そうだ、我々は「恩」という言葉のほうがわかりやすいのかもしれないけれども、「おかげ」とか「恩」とかいう言葉。「罪」というと犯罪を連想してしまうのですけれども、もちろん犯罪に通じる罪もありますけれども、おかげを蒙っているという自覚を持つことが大切であると思うのであります。

 わたしたちの罪を赦してください。負い目を赦してください。負い目を破棄してください。

 第二朗読のすごい表現、借金の証書を全部破棄して十字架に釘付けにしてくれたという、釘付けっていう、もう全部、なんていうのかな、チャラっていうのか、ちょっと全部帳消しにしてくださったナザレのイエスは、十字架にわたしたちの負債を釘付けにしてくださった。その恩をわたしたちは日々深く思うべきであります。そして、その恩というのは、いろいろな人を通してわたしたちに示され与えられている。ですからわたしたちも、ほかの人に、神様からいただいた恵みをお伝えするようにいたしましょう。

 

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