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エレナさん

2013年7月13日 (土)

カルメル山のマリア

(説教)

十字架上のイエスは苦しい息の中、愛する弟子に向かって言いました。「見なさい。あなたの母です。」 (ヨハネ1927)

イエスは自分の死後の母親の生活を心配し、愛する弟子に母の世話を託したのでしょう。しかしこのイエスの遺言には、それだけではない、それ以上の霊的な意味が含まれています。この言葉には、マリアは、愛する弟子によって代表される教会共同体の霊的な母であること、キリストの弟子たちはマリアを霊的な母として敬うようにしなさい、とのイエスの意思が含まれています。

教会は聖母マリアを自分たちの信仰の模範と仰ぎ、信仰を養い導き、助ける母として敬い、絶えず聖母への祈りをさげます。

マリアは天使のお告げを受け、信仰によって救い主の母となりました。教会も聖母にならい、多くのキリスト者を生み育てる母であります。

マリアはイエスの十字架の苦しみを共にしました。わたしたち教会も自分の苦しみと犠牲をイエスの十字架の犠牲にあわせて、世の救いとあがないの業に協力します。

教会は母マリアに倣うことにより、自分自身を清め、信仰を深め、希望を持って、神の愛の道を歩みます。

日本のカトリック教会は、母であるマリアの信仰と希望と愛に倣い、多くの人をキリストの弟子とする、という使命をよりよく果たすことが出来るよう、聖母の取次ぎによって祈りましょう。

上野毛教会はカルメル会の教会です。きょうはカルメル山のおとめ聖マリアを祝います。

カルメル山は預言者エリヤが一人でバールの預言者450人と対決し、勝利した場所です。王妃イゼベルはエリヤに激怒し、エリヤを殺そうとします。エリヤは逃走して、ひたすら歩いてホ神の山ホレブへ向かいました。

「彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。『起きて食べよ。』 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、『起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ』と言った エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。(列王記上194-8)

実はこの箇所は、本日の第一朗読の後に続く部分であり、年間第19主日B年の第一朗読と重なる部分です。

18798(34)、子どもの夏期学校での出来事です。キャンプの最後の夜、火事が起こり、ひとりの男の子が重症の火傷(やけを、という事件が起こりました。わたくしは引率責任者でした。心身ともに大きな打撃を受け、へとへとになり、警察の取調べを受けてからやっと教会に帰えりました。次の主日のミサの第一朗読がこの箇所だったのです。

「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」(列王記上194)このエリヤの心境は当時の自分の気持ちと重なりました。

「主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、『起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ』と言った。』(列王記上197)

このパン菓子と水は神からの励ましです。神は何時で何処でもわたしたちを見守り助けてくださいます。

あらためて祈りましょう。人生の旅路を守り導き励ましを願って、カルメル山の聖母の取次ぎを祈りましょう

〈神よ、カルメルの母であり栄えある后おとめマリアの尊い取り次ぎによって、わたしたちを助けてください。聖母の力添えによってわたしたちも、かの山、キリストに至りつくことが出来ますように、〉(本日の集会祈願)

(2013年7月21日上野毛教会カルメル山おとめ聖マリアミサ説教)

2013年3月16日 (土)

教皇フランシスコ

 教皇フランシスコ選出感謝のミサ説教
         2013年3月14日18時、東京カテドラル関口教会

 福音朗読 マタイ9・35-38(本文)
 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音をのべ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 皆さん、本日早朝、アルゼンチンのブエノス・アイレスの大司教、ホルヘ・マリオ・ベルゴリコ枢機卿が教皇に選出され、教皇フランシスコを名乗られました。わたしたちは大きな喜びのうちに新しい教皇フランシスコをお迎えいたしましょう。教皇はローマの司教ですが同時に全世界の教会の最高牧者であり、世界中の人々に絶えず心を配り、世界中の人々の世話をし、その幸福と幸せのために祈り、教え、導きます。
 いま読まれたマタイの福音が告げているように、主イエスのなさったことはよい羊飼いの仕事でした、イエスは人々を教え、癒し、導きました。病気の人、心身が不自由な人を癒し、また深い共感をこめて弱りはてて希望を失っている人々を導き励まし、そして自分の群れのために、命をささげたのです。いま最も求められている人は、このイエスのような牧者、イエスのように貧しく生き、イエスのように貧しい人とともに歩む牧者です。 いま、世界中には多くの人が心と体を病み、心と体の不調に悩んだりしています。多くの人が貧困と飢餓に苛まれ、多くの人が人権を侵害され、また多くの人が孤独であり、また生きる目標が見えず、生きがいを失っています。 新教皇はフランシスコを名乗られました。それは、最もイエスによく倣って生きたといわれるアッシジの貧者、フランシスコに倣う牧者として歩む、という決意を表しているのだと思います。
 貧しい漁師たちの群れであった使徒たちから始まった貧しい小さな群れであった教会は、迫害の時代を過ぎると、ローマ帝国の国教となりました。それに伴い、ローマの司教は中央イタリアの広大な領地を所有する地上の領主ともなったのです。ア ガリラヤの漁師、ヴァチカンで殉教した使徒ペトロの後継者の立場と地位はすっかり様変わりしてしまいました。ローマの司教は地上の支配権を持つ大きな存在となったのです。
 イタリア統一戦争の結果、教皇領の大半は失われましたが、独立国であるヴァチカン市国は存続しそこには教皇庁という全教会を統治しまた全世界に奉仕するための機構が存在しています。教皇庁については現在さまざまな問題、さまざまな疑惑が取りざたされています。他方、世界中で聖職者による性虐待、あるいはセクシャル・ハラスメントが報道されています。大げさに言えば、今は、教会危急存亡のときであります。何より、わたしたち教会は心から悔い改めを行い、自らを清めてくださるよう、主なる神に切に祈らなければなりません
 第二ヴァチカン公会議の『教会憲章』は述べています。「自分の懐に罪人を抱いている教会は、聖であると同時につねに清められるべきであり、悔い改めと刷新の努力を絶えず続ける。」(8項) わたしたちは他者のことをあれこれ言挙(ことあげ)する前に、まず自分自身が回心し悔い改め、新しく生まれ変らなければならないと思います。
 皇フランシスコは身をもってその模範を示されると信じます。教会の最高牧者の証しが、世界中に知れわたれば、わたしたち教会はキリストの弟子とし認められ、信頼を勝ち取ることができるのではないでしょうか。世界と教会には問題と困難が山積しています。新教皇が叡智と勇気をもって任務を忠実に果たしてくださるよう、聖霊の導きを願って祈りましょう。最後になりますが、8年間にわたり、世界の最高牧者としての重責を担われたベネディクト十六世教皇様に深甚なる感謝の意を表したいと存じます。本当に有り難うございました。

2012年9月14日 (金)

エフッファタ

北町教会堅信式説教

201299日、北町教会

第一朗読 イザヤ354-7a

第二朗読 ヤコブ21-5

福音朗読 マルコ731-37

(福音本文)

イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。

そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。

すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。

そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

今日は9人のかたがミサの中で堅信の秘跡をお受けになります。おりしもことしの1011日より「信仰年」が始まります。聖霊の賜物により強く深い信仰を授けていただけるよう祈りましょう。

いま読まれた福音は、イエスが耳が聞こえず口も聞けない人を癒された話です。このときイエスは「エフッファタ」というアラマイ語の言葉を使っています。「これは『開け』という意味である」(マルコ734)とギリシャ語で説明しています。実際にイエスが話したアラマイ語でした。

しかし現代に伝わるマルコ福音はギリシャ語で書かれています。ただし「エフッファタ」の例のように、何箇所かで、イエスが実際に口の上らせたアラマイ語が表記されています。*

イエスがこの言葉を発するとすぐに、この言葉が意味する結果が実現し、その人は癒されたのでした。このイエスの癒しの場面を目撃した人々の心にイエスのこの言葉の音声が深く印象付けられたに違いありません。

ですから、福音書がギリシャで書かれてもこのエフッファタ」はそのままもとのアラマイ語の音声の表記のまま残されました。

イエスの言葉には力がありました。その言葉は必ずその指し示す意味を実現します。本日の第一朗読のイザヤ書はあらかじめこのイエスの癒しのみ業を、メシアの到来のしるしとして予言していると考えられます。

「信仰年」を迎えるに際してわたしたちは改めて、イエス・キリストとは誰であるのか、が問われています。この問いはわたしたちの信仰にとって最も重要な問いです。

主日の福音はイエスの生涯、イエスの言葉、イエスの生き方を伝えています。

第一朗読は通常、旧約聖書から取られ、イエス・キリストの福音を理解するためにあらかじめ準備となる旧約聖書の箇所を提供します。第二朗読は当日の福音朗読との関係の中で、イエスの弟子たちが信じ受け入れたイエスの言葉と生涯の意味をわたしたちに解き明かしています。 

人の話を聞き、人に話すということは人間が人間らしく生きるために欠かせない、基本的な、他の人との交わりの手段です。イエスはこの働きを奪われていた人に話す働きを回復させ、人間らしく生きる道整えたのです。

わたしたちキリストの弟子たちは、自分とは異なる文化の人、異なる言語の人、異質な世界の人、通常に交わりの手段を奪われ差別されている人々との交わりを持ち、コミュニケーションを発展させなければならないと思います。

イエスは貧しい人、後回しにされ排斥された人、差別された人、病気の人、体の不自由な人の仲間となり、人々の痛みと苦しみを一緒に担ったのでした。

ヤコブの手紙は、教会の中で貧しい人が差別されてはならないこと、人を偏見で見てはいけないことを強調しています。この教えはいま大きな課題としてわたしたちの中に存在しています。

「信仰年」に際してまず行うべきことは、自分の信仰を確かめ、深め、そして信仰を人々に表し伝えるよう、努めることだと思います。そしてそのためには、イエス・キリストをより深く知るように務めなければなりません。

イエスは「信仰の創始者また完成者」(ヘブライ122)です。「創始者」という言い方より「導き手」という訳し方のほうがわかりやすいです。

イエスをよく知るためにすぐに実行すべきは、主日の福音をよく味わうことです。それは先ほど申し上げた通りです。またそのための黙想会を企画することも有益です。

また、開催五十周年を迎える第二ヴァチカン公会議の教えを学びことが勧められます。まず公会議開催の趣旨を確認すると共に、公会議文書を学ぶよう、努めてください。

主日・祭日のミサで必ず唱えられる『信条』の意味を学び直すようお勧めします。この機会に、わたしたちは『信条』によって、何を、誰を、そのように信じているのか、確認し、その信仰を深めるようにいたしましょう。

カトリック生活1000号記念

「カトリック生活」1000号記念感謝ミサ説教
                  2012年9月8日(土)、碑文谷教会
第一朗読 イザヤ55・8-11
福音朗読 マタイ28・16-20
(福音本文) 十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 「カトリック生活」1000号発行、まことにおめでとうございます。
 「カトリック生活」1000号記念感謝ミサのために選ばれた福音の箇所はマタイによる福音の結びの部分です。復活したイエスは山の上で十一人の弟子たちに現れ、すべての民をイエスの弟子にすること、彼らに洗礼を授けること、イエスが命じておいたことをすべて守るように教えること、を十一人に命じたのでした。わたくしはきょう、次の箇所に注目したいと思います。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(マタイ28・17)。「疑うもの」は「迷うもの」とも訳されます。復活したイエスの出現に接した十一人の信仰は最初から確固とした強い信仰であったわけではないようです。彼らの信仰は次第に強められ深められていきました。使徒言行録の伝える使徒たちの働きは、イエスに躓いた弱い人間と同じ弟子たちである、とは信じがたい確信に満ちた働きです。彼らが聖霊を受けて新しく生まれ変わり、ゆるぎない信仰の証しを行いました。まさにそれは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエスの言葉の実現でした。
 預言者イザヤはすでに次のように述べています。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を果たす。」(イザヤ55・11) イエスはいまも、弟子たちをすべての民に派遣し、弟子たちの働きを通してご自分の使命を遂行しておられます。
 わたしたちの教会はことしの10月11日に「信仰年」を迎えます。そして日本のカトリック教会はことし、日本26聖人殉教者列聖150周年と日本再宣教150周年を迎えました。
 今年はこれからの日本の宣教のために祈り宣教のために学ぶべき大切な節目の年です。端的に言って福音宣教とはまず信仰を伝えることです。わたしたちは自分が信じたことを宣言し伝達します。宣教するためにはまず信仰がなければなりません。しかし、それでは、わたしたちは確固とした信仰を持っているでしょうか?汚れた霊にとりつかれた子をいやしていただいた父親の言葉を思い起こします。彼はイエスに言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9・24) わたしたちもこの同じ言葉で祈りましょう。「主イエスよ、あなたを信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
 ヘブライ書には「信仰の創始者であり完成者であるイエス」(ヘブライ12・2)という表現があります。教皇ベネディクト十六世の「信仰年」を告げる教令『信仰の門』でこの言葉を引用しています。「創始者」という表現はむしろ「導き手」とした方がわかりやすいでしょう。「信仰とは何か」は、イエスの生涯がわたしたちに教えています。イエスは十字架にかけられ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27・46)と叫ばれました。ご存知のようにこれは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)という意味です。そして、ルカ福音書によれば、イエスは大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46) 人間は試練の中で動揺し苦悩します。そして信仰を持って自分のすべてを主なる神にゆだねます。信仰とは、疑いや不安、恐れ、迷いの襲われるときに、神への信頼を貫き通すことです。今日は聖マリア誕生の祝日です。天使の告げを受けたマリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか」(ルカ1・34)と言いましたが、「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1・38)と神の言葉を受け入れました。婚約者のヨセフはマリアが妊娠したことで心を騒がせたに違いありません。しかしヨセフは信仰のうちにマリアを受け入れたのでした。信仰とは試練における神への応答です。信仰は試練を通して育てられ清められ成長します。わたしたちは信仰の弱い者ですが、「信仰年」を迎えるにあたり、この父親とともに、自分の信仰をより確かで強い信仰にしていただけるよう祈りたいと思います。
 信仰を深めていただくために祈りが大切です。そして祈りを込めて、福音書のイエスをもっとよく知るようにいたしましょう。主日の福音朗読、そして福音との関係の中で、第一朗読、第二朗読をよく味わうようお勧めします。またミサのときに唱える「信条」の意味を復習しましょう。信条は最初の教会が信じた信仰の理解を簡潔にまとめた祈りであります。
 最後になりましたが、「カトリック生活」1000号発行を心からお祝い申し上げます。カトリック生活には信仰を養い育て、信仰をあらわし伝えるために有益な記事が多く掲載されています。わたくしも愛読者の一人です。日本の福音宣教・福音化のために「カトリック生活」がこれからのますます充実し発展することを願っております。今日は本当におめでとうございます。

2012年9月 2日 (日)

悪い思い

     2012年大司教着座記念ミサ説教                                                                             2012年9月2日、東京カテドラル関口教会
   イエスは言われました。「人の中から出て来るものこそ、人を汚すのである。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。」(マルコ7・15,21)「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」イエスはファリサイ派の人々と律法学者の偽善を痛烈に批判しました。「あなた方は、外側はきれいだが内側は強欲と放縦に満ちている。あなたがたは、白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れに満ちている。」(マタイ25―27要旨)
 人の心には悪い思いが住んでいます。ノアの洪水の後神は言われました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8・21)エレミヤ書でも次のように言われています。「人の心は何にもまして、とらえがたく病んでいる。」(エレミヤ17・9)  わたしたちは、真摯に反省するならば、自分の心には悪い思いがあることを、乱れた病んだ心が宿っていることを認めざるを得ません。人間の悪い行いは悪い心からでてくる、とイエスは言われます。「外側より内側、こころを清めなさい。」 悪い心から悪い行いがでてきます。
 大聖年を迎えるに際し、教皇ヨハネ・パウロ二世は特別書簡を出し、「過去千年の教会の歩みを真摯に反省しなで紀元2000年の敷居をまたぐことはできない。」先の一千年の間、まことに悲惨で残酷は出来事が起こりました。二度の世界大戦が行われ、多くの人命が失われ、大量虐殺の悲劇が起こっています。神を信じている人がどうしてこのような残虐なことをすることができたのか、理解に苦しみますが、悪い行いは、悪い心の結果です。悪い思いは普段は眠っていますが、何かがあれば出てきて、人を悪い行いへ駆り立てるのです。
 人のこころのすべてをご存知の神の前に出て悪い思いを認め、心を清めてくださるよう祈らなければなりません。そのためには、日々の祈りと黙想、聖書などの霊的読書が大切です。 本年10月11日より『信仰年』が始まります。 『信仰年』になすべきことは、まず主イエスをよく知ること、その言葉に学びその生涯に倣うことであります。そのためには主日の福音が大切です。主日の福音をよく味わいましょう。福音の予習、分かち合いなど大いに勧められます。説教する司祭は福音のメッセージが人々の日々の生活と社会の現実にどのような接点をもちどのような意味を持つのか、ということに留意しながら説教を準備するはずです。その準備に信徒の皆さんは大いに貢献できると思います。 主日には清書朗読が二つあります。二つの清書朗読をイエスの言葉に照らして学んでください。旧約聖書は、イエスへいたる準備の教えです。使徒の手紙などは、使徒たちがイエスの言葉と生涯をどのように受け止めたかを、わたしたちに伝えます。
 『信仰年』は第二ヴァチカン公会議開催五十周年を記念して設けられました。この機会に第二ヴァチカン公会議の教えを学ぶことは極めて有益です。公会議文書は教会がその時代のニーズにどのように応えたか、を示す貴重な記録であります。公会議入門のような適切な学びの機会を設けることが望まれます。
 『カトリック教会のカテキズム』は信仰の遺産を第二ヴァチカン公会議の教えに従って新しく編纂した教えの書です。教会が現代の問題にどのように答えているかを学ぶために活用してください。大司教着座十二周年を向かえ、ミサに参加くださった皆さんに御礼とお願いを申し上げます。12年の歩みを支えたすけて頂き、ありがとうございました。これからもどうかよろしくお願いします。

2012年8月27日 (月)

命を与えるのは”霊”

 第21主日ミサ説教―命を与えるのは”霊“―
          2012年8月26日、目黒教会
 目黒教会の皆さん、 わたしたちは今日まで五回にわたり、主日の福音でヨハネの福音6章を学んでまいりました。本日はその五回目、最終回です。
 先週の福音の中でイエスは言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6・54) このイエスの言葉を聞いた多くの人々は驚き、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6・60)と言い、イエスに躓きました。「肉を食べ、血を飲む」というリアルな表現は到底彼らの受け入れるとことではなかったのです。
 しかし、イエスが言ったのは、人間の肉体のことではなく、命を与える神の霊のことでした。永遠の命を与えるのは神の霊でありキリストの霊です。「肉は何の役にもたたない」(ヨハネ6・63)のです。わたしたちはいま、ヨハネの福音でイエスが述べている「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」の「わたしの肉、わたしの血」とは、ご聖体を指している、と信じます。聖体はパンとぶどう酒の形態のまま留まっています。しかし聖霊の働きにより、そこには復活したイエス・キリストのからだ、キリストの血が存在しているのです。
 葬儀ミサの叙唱に次のようなことばがあります。
 「死とは、滅びではなく、新しい命の門であり、地上の生活がおわった後も天に永遠のすみかがそなえられています。」(ミサの叙唱 死者一 より)葬儀ミサをささげるたびに、故人の生涯を思いながら、死後の命、新しい命、永遠の命についてしみじみと考えさせられます。
 使徒ヨハネは、永遠の命とは、わたしたちは死後はじめて受けるのではなく、地上においてすでに与えられるのだ、と教えています。イエスは次のように言われました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へ移っている。」(ヨハネ5・24) イエスはまた言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6・29)「神の業」とは神が行われる業である、と解釈できますが、同時に神がお望みになる事である、とも考えられます。「神がお遣わしになったもの、すなわち、イエスを信じることが神の業である」とはっきりイエスは述べています。ところで神の恵みがなければイエスを信じることはできません。ですからイエスを信じることができた、とすればそれは神の恵みであり、神がなさったことになります。他方、人が神の恵みに応えようとしなければ信仰は成り立ちません。人々はイエスに躓きイエスを信じませんでした。その結果、神の業を行うことができなかったわけです。永遠の命はイエスを信じる者に与えられる、キリストの復活の命です。それは神の霊である聖霊を受けることによって与えられるのです。
 したがいまして、永遠の命に入るためには何よりもまずイエスを信じる、という信仰がなければなりません。今日の福音でシモン・ペトロは次のように信仰告白をしました。「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6・68-69) 「イエスとは誰であるのか」ということは初代教会にとって大きな問題でした。激しい議論が行われ、何度も公会議が開催されて、その結論が『信条』として決定され宣言されました。その代表がこんにち主日のミサで唱える『ニケア・コンスタンチノープル信条』です。
  地上に生涯において永遠の命は始まっている、とヨハネは説いています。わたしたちがキリストへの信仰のうちに、真心を込めて日々愛の行いをささげるならば、それがどんなに貧しいものであっても、神の前に永遠の価値のある献げ物となると信じます。
 困難と問題の多い現代を生きるわたしたちですが、この信仰と希望を持って自分の務めを果たしていくことができますよう、祈りましょう。

2012年8月19日 (日)

聖母の被昇天

西千葉教会・聖母の被昇天
                 2012年8月15午後6時、西千葉教会
第一朗読 黙示録11・19a、12・1-6,10ab
第二朗読 一コリント15・20-27a
福音朗読 ルカ1・39-56
(福音本文)
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」  そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

今日は聖母被昇天の祭日です。西千葉教会は被昇天の聖母へささげられた教会です。今晩皆さんとご一緒に聖母の被昇天をお祝いできますことはわたくしの大きな喜びです。
エリザベットは聖霊に満たされて、声高らかに言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。・・・主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1・42-43,45)
マリアは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」です。その深い信仰の故にマリアは幸いな方と呼ばれます。
聖母マリアの生涯は試練の中の信仰の生涯でした。
マリアは救い主の母となるという天使の告げを信じました。「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)という信仰、「なりますように」という信仰の応答にゆえにマリアは救い主の母となったのでした。天使を通して告げられた神の呼びかけに「はい」と答えるということは実に命がけに行為です。わたしたちはこのマリアの信仰に倣わなければなりません。
汚れのないおとめマリアは幸いな死を迎え、その遺体は腐敗をまぬかれて、天にあげられました。教皇ピオ十二世は1950年、マリアが霊肉ともに天に上がれた、と宣言しました。これが聖母の被昇天の教義です。
パウロは「キリストは死者の名から復活し、眠りについた人たちの初穂となりました。」(1コリント15・20)と言っていますが、マリアは復活した者の初穂であるキリストの初穂である、といえましょう。信仰によって御子イエスに忠実に従って歩まれたマリアはキリストの次に復活の栄光をお受けになったのです。十字架のもとでわが子が惨殺される場面に立っていた聖母、魂が剣で刺し貫かれた聖母は十字架によって敵意と言う隔ての壁を取り除かれたイエスに最も近くに寄り添った方、そして人類の平和のために最も近くで協力した方でした。
聖母はイエスと共に、人類の隔ての壁、敵意と憎悪に打ち勝たれました。実に人生は苦難の連続であります。病気や障害はもちろん、災害、貧困、戦争、紛争、人間関係から生まれる苦悩など、考えてみれば、限のない苦悩の連続です。どうしてこんなことがわたしに起こるのか、と恨みがましい気持ちに襲われることはないとは言えないでしょう。そのようなときにこそ、すべての人の母である聖母の取次ぎによって祈りましょう。
聖母の被昇天はわたしたちの希望です。わたしたち罪人も、聖母への祈りを通して、主の復活の恵みにあずかることができると信じることができるからです。
おりしも今年10月11日より『信仰年』が始まります。聖母の取次ぎにより、わたしたちの信仰を深くしていただけるよう、祈りましょう。主よ、どうかわたしたちの信仰を強めてください。わたしたちが復活への信仰と希望を日々大切にして歩むことができますよう、聖母の取次ぎによって祈ります。アーメン。

2012年7月 1日 (日)

信仰年を迎える

                   2012年7月1日、年間第13主日
 成城教会の皆さん、特に、本日堅信の秘跡をうけられる皆さん、わたくしはきょう、『信仰年』について話したいと思います。 『信仰年』は、第二ヴァチカン公会議開催50週年を記念して設けられました。期間は、本年2012年10月11日により翌年の11月24日までの一年余りです。
  『信仰年』の趣旨は次の三項目にまとめられます。
1. 信仰を確かめること。
2. 信仰を深めること。
3. 信仰を伝えること。 
 そのためにわたしたちは何をしたらよいでしょうか?いろいろなことが考えられます。きょうはそのための一つの提案をいたします。 昔から「祈りの法は信仰の法」ということわざがあります。わたしたちは信じていることを祈ります。祈りとは信仰の行いです。祈るときには信仰がなければなりません。大切な祈りの内容を確かめ深めることはそのまま信仰を深めることにつながります。 弟子たちがイエスに「どう祈ればいいのか」訊ねたときに、イエスは主の祈りを教えました。主の祈りはもっとも大切な祈りであり、わたしたちは毎日欠かさず祈っています。主の祈りは福音の要約とわれています。主の祈りの内容を深めることは信仰を深めることです。次にわたしが考える祈りは『信仰宣言』です。主日のミサあるいは祭日にわたしたちは『信条』を唱えます。現在ミサ で唱える信条は『使徒信条』と『ニケア・コンスタンチノープル信条』の二種類です。これは、わたしたちキリスト教徒が信じるべき基本的な信仰箇条を簡潔にまとめた権(もんごん)はその『信条』が制定された時代背景が現代の日本と大変異なっているために現代人には理解しやすいとは言えません。現代の視点で学習することが必要です。『信仰年』にあたり『信条』を学習していただきたいとお願いします。
 しかし、まずわたしたちが確認すべきことは、主イエスへの信仰です。きょうの福音では、出血の止まらない女性の癒しが告げられています。イエスはこの女性の信仰を賞賛しています。
   「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れれば癒していただける』と思ったからである。」(マルコ5・25-28)
 この女性の苦悩は深刻でした。この女性はナザレのイエスに希望を抱きました。この人なら何とかしていただける、と信じました。イエスは言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(マルコ9・34)  わたしたちにもっとも必要なのはこの女性の信仰、素朴で純粋な、信頼に満ちた信仰です。現代の荒れ野においてわたしたちはイエスに出会い、イエスに触れなければなりません。いまイエスは復活されたキリストとしてわたしたちと共にいてくださいます。わたしたち教会の使命は、罪と死に打ち勝って復活されたキリストを示し伝えることです。この信仰を深め強めてくださるよう、聖霊の照らしと助けを祈りましょう。

2012年5月17日 (木)

変えられることと変えられないことと

 人生とはなかなか思うようには行かないものです。  世の中、なかなか思うようにはなってくれない。家族について考えてみれば、家族同士お互い、相手が自分の思うようにはしてくれないと思っています。夫も妻のことを、妻も夫のことを、自分の期待通りにはしてくれていない、と思っています。親子もそうです。子供はなかなか親の思うようには育ってくれません。子供からみても親は自分が望むような姿をもっていない。どうしてこんな親のもとに生まれてきたのか、と罰当たりな思いを抱く人の少なくはないでしょう。今「親孝行」という言葉を耳にするのはまれになりました。親の嘆きを聞いたこともあります。どうして自分の子はこうなってしまったのでしょうか?わたしの育て方が悪かったのでしょうか?なんと言って慰めたらいいのか、当惑しました。
 人はなかなか自分の思うようには考えてくれないし動いてもくれません。人を変える努力をするよりも自分を変える努力をするほうがましです。 ところで自分を変えるということも大変です。 人生について、隣人について、自分について、変えることのできることもあれば、できないこともあります。
 わたしに机の上にどなたからかいただいた祈りのスタンドがあります。

 Serenity Prayer
 God, grant me the serenity to accept the things I cannot change,
 courage to change the things I can;
and wisdom to know the difference

 神よ、 わたしに与えてください、変えることのできないものを受け入れ心の静けさを 変えることのできることを行う勇気を そしてどちらであるのかを知る知恵を。(試訳)
 よい祈りですね!

2012年5月14日 (月)

説明責任

 説明責任
 先日、わたくしは長野県の路上で転倒し左手首を骨折しました、かけつけた病院で手あてをうけ、左手は白い三角巾でつるされることになりました。翌日より、会う人みな三角巾を見て「どうなさったのですか」という質問をされます。わたくしは「説明責任」という言葉を思い出しました。わたくしは説明を求められています。白い三角巾は説明責任をうながすしるしとなっています。
 さて、初代教会の時代、キリスト者は「なぜ、あなたがたはそんなにたがいに愛し合うのですか」と説明を求められたと読んだことがあります。現在はどうでしょうか?現代の日本で人々は「なぜ、あなたがたはそんなにおたがい大切にしあっているのですか。どうしてそうできるのですか」と聞かれることがあるでしょうか?あるかもしれません、余り聞こえてきませんが。「 愛する」「大切する」ということははっきり目に見えることではないかもしれません。」しかし、愛は行いで示されることです。わたしたちは自分たちの愛をこれ見さがしに行う必要はないし、まだそうすべきではありません。それでも、真に愛を実行していれば、それはしるしとしてあらわれる答です。まして、キリスト者が信者でない隣人に愛を実行すれば、「あなたはなぜそこまでわたくしを大切にしてくれるのですか」という問いが生れるはずです。愛の説明責任を求められる程の愛を実行したいと思います。
 ちなみにキリシタンの時代、「愛」は「ご大切」と言っていたそうです。

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