正戦と聖戦
正戦と聖戦
わたしたちは平和旬間にあたり、平和について学び、そして平和を実現するものとなることができるよう努め、そのための恵みを求めております。どうしたら平和を実現するものになれるのか。それは主イエス・キリストに聞き従うことであります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と主なる神様が言われました。
イエス・キリストは旧約聖書の教えの延長として現れ、そして律法を完成するものとして登場しました。旧約聖書の代表的な指導者であるモーセとエリヤが登場しています。モーセ、そしてエリヤたちによって伝えられた神の教え、神のみ心はイスラエルの人々にとって、どういうように理解されたのか。わたしたち人間は神様のおっしゃることを充分に、まして完全に理解することはできないのであります。神様はその時、その人々が理解できる限りにおいてお話になったのかもしれない。今日のわたしたちから見ると理解に苦しむ、あるいは躓きになるような教えが旧約聖書に出てきます。
その代表的なものは、カナンの征服に際しての、神の言葉ではないでしょうか。「聖絶」とされているのですけれども、聖というのは聖書の聖に、絶滅の、絶対の絶ですね。聖絶という恐ろしい言葉があります。
サムエル記上では、もっとはっきりと恐ろしいことが言われている。「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」(サムエル上15・3)この言葉をどう解釈したらよいか、困難を感じています。
さて、今日は二つの“せいせん”ということについて考えたい。正しい戦いの「正戦」、聖なる戦いの「聖戦」です。多くの場合、戦争を始める指導者は「正しい戦争」であるということ、そして更に「聖なる戦争」であるということを主張し、それを開戦の理由と動機にしています。聖なるとは神様のみ心に適っているということです。
しかし、戦争の動機、理由に神様を持ち出すのかいかがなものでしょうか。わたしたち日本の国が行った戦争も、正しく聖なる戦争であると説明され、国民はそう思わされ、協力させられたのであります。教会の歴史の中で、正しく聖なる戦争とされて、多くの人が戦争に参加した。本当にイエス・キリストはそう思い、そういうように命じられたのでしょうか。
イエス・キリストは、わたしたちが平和のために働くようにと命じられ、そういう人は神の子と言われると言われました。そして、わたしたちを理解しない、わたしたちを排斥する、わたしたちを憎む人々を、いわば敵である人々を赦し、受け入れるようにと言われました。そして、自分の言葉を実行した。なかなかできないことではありますが、新約聖書の教えは使徒パウロも言っているように、「悪に対して悪をもってせず、悪に対して善をもって打ち勝ちなさ」(ローマ12・17-21参照)ということであります。
正直に言って、そういう教えは何度も聞いているし、承知しているのでありますが、実行は難しいことであります。でも、実行できるように神様が、主イエス・キリストがわたしたちを支え、導き、助けてくださると思います。平和旬間、まずわたしたちの中で、わたしたちの間で平和が確立されていなければならない。わたしたちの間で、互いに赦し合い、受け入れあうという神の愛が実現していなければならないと思うのであります。
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