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信仰入門講座」

2018年10月 8日 (月)

男と女

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

人はだれでも一人で生きていけません。助けてである相手、パートナーを必要としています。神は人を、互いに助け合い支えあうものとして、男と女に創造されました。

男にとって女は神の恵み、大きな喜びの源です。男がぐっすり眠っている間に女が造られ、目が覚めると傍に女が居ました。女の創造に男はなんの働きもしていません。女は男に与えられた純粋の大きな恵みの伴侶であります。もはや、男にとって女なしには自分というものが考えられない存在となりました。まさに自分の半身、骨の骨、肉の肉です。

イシュ、イシャーというヘブライ語の原文はそのことをよく示しています。二人は別な存在ですが同時に一体をなす存在です。以上述べたことはそのまま女にとっても同じことが言えます。

創世記によれば人はそのような存在として、男と女として創造されたのです。

しかし、現実の男女の関係は必ずしもそのような祝福された状態には置かれておりません。どうして人間の現実に問題が生じたのか、その理由と次第を、創世記3章誘惑と堕罪の物語が語ります。

最初の人間アダムとエバは蛇の誘惑に負けて、創造主である神への不信を抱き、不従順に陥ってしまいました。その結果、人と神との関係にひびが入りました。人と神との関係の不具合は、男と女、人と大地との関係に不具合に波及します。これがいわゆる原罪という考え方です。

結婚と家庭をめぐる問題と困難は、創世記の物語に起因しているといえるのかもしれません。

主イエスはこの人類の歴史に介入し、壊れた関係を修復し、さらにそれを超える素晴らしい状態に高めるために来られました。

人間の問題のかなりな部分は男女の問題、性に関するものではないでしょうか。

男女の関係を本来の神の定めた秩序に戻すだけでなく、さらにそれを清め、よりふさわしい聖なる関係に刷新するためにイエス・キリストは来られたのです。

今日のマルコによる福音でイエスは言われました。

「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

さて、この機会をお借りして、結婚に関する一つの良いお知らせをお伝えします。

教皇フランシスコは先日、9月8日に自発教令を発表して、婚姻の無効宣言手続きをより簡略に、より迅速にするよう、教会法典の改正を行いました。

これは結婚しているといっても実は結婚とは言えない、無効な結婚である場合があります。その場合、教会が結婚の無効を宣言することができます。今回はその無効を宣言する手続きについての改正です。詳細は別な機会に譲りますが、「離婚ではない無効な結婚」ということがある、ということを今日、心にとどめておいていただきたいと思います。

2018年2月21日 (水)

弱さの中で

説教:弱さの中にいる神

今日、217日にさいたま教区では「世界病者の日」のミサを献げることになりました。本来は211日のルルドの聖母の日が世界病者の日と定められましたので、211日に献げられるべきですがことしは11日が主日なので、12日にしようということになったのです。しかしその12日が那覇教区の司教叙階式となったので、更に延ばされて今日という日になったという次第であります。

世界病者の日、病者、あるいは障がい者のために祈るミサ、病者、心身の不自由な方のために働いておられる医療従事者を励まし、支える、そのためにお祈りする日でもあります。   

わたしたち人間は誰しも病気になったり、あるいは身体が衰えていったりするわけであります。この病気というものはどうしてあるのだろうか、と考えさせられますが、考えても病気が治るわけではありませんので、この病気ということをどういうように受け取ったらよいのだろうかということを考えてみたいのです。

今日の第一朗読をお聞きになりましたが、パウロという人のことです。この人は非常に頑健な、丈夫な人だった思われます。あれだけのことをしたんですから、身体も精神も非常に健康で、そして元気であったに違いない。でも意外にもそのパウロがぽろりと漏らしていることの中に今日の箇所がある。このとげというのがあったというのですね。このとげというのはなんであるかわからないんですよね。いろいろ想像されているのですが、学者はいろんな説を唱えているようですが、わからない。いやなこと、困ったこと、何かそういうものであったに違いないわけでして、なんだったんでしょうか。それで三度も主にお願いした。どうかこれを取り去ってください。サタンから送られたと書いてありますね。良くないことに決まっていますけれども、しかし、聞き入れてもらえなかったわけです。そして、主からの返事は何であったかといいますと、

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」

そう言われた。この言葉をわたしたちはどういうように考えたらよいでしょうか。病気になったり、あるいはいろいろな障がいの状態になったりした時に、もしそうでなければこういうこともできるし、ああいうこともできるのに、どうか直してください、癒してくださいと願うわけですけども、必ずしも神様はその願いを聞いてくださるわけではない。あなたは弱くとも、その弱いあなたを通して、わたしは力、神様の力が働くのですよ。そういうように言われたのだろうと思います。

世界病者の日を制定された教皇様はヨハネ・パウロ2世。ご記憶にありますように、ヨハネ・パウロ2世も就任された時は物凄くお元気な方だったのですけれども、難しい病気パーキンソン病)になられ、でも最後まで勤めを果たされて現役のまま帰天されたわけですね。

わたしたちは弱い者です。その弱さの中にイエス・キリストの力が働くというその信仰をわたしたちは本当に自分のものとすることができるだろうか。

福音はヨハネの15章、ブドウの木のたとえですね。

「わたしにつながっていなさい。」

どうやってつながっていることができるんだろうか。このパウロの言葉と合わせて考えてみると、あなたはこういう問題を持っているが、でもわたしはそういうあなたといつも一緒にいるんだよとあなたと一緒にわたしはいますよ。そしてあなたを通して、わたしは神様の恵みをあらわし、伝えるものである。神の栄光を表す。人間の弱さを通して、神の栄光があらわれるのですよ、と言ってくださっているのかもしれない。人間の弱さ、ひしひしと感じますね。自分自身について、それから他の人についても感じるわけです。しかしそういう人間の中に神様の力が宿る。この教えを今日もっと深く味わうようにしたい。

そうはいっても、今日はこうだから、こういう風に信じなさいというつもりはありません。わたくしの自問自答でありますが、非常に難しい病気というのがあります。あるいは障がいというものがあります。聖書に出てくる病気の中で、この前の日曜日の福音にでてきましたのが、「重い皮膚病」と訳されている病気ですね。昔は「らい」と訳されていた、あるいは「ハンセン病」と言われるようにもなった。しかし「が重い皮膚病」という訳語が適当であるかがどうか、ということを今も議論している。非常に忌み嫌われ、排斥され、そして排除された病気ですね 。

ちょっと昔のことですけれども、『砂の器』という小説と映画がありました。その主人公はらい患者の子どもだったんです。みんなからいじめられ、隔離されて、全国放浪したんですが、そういう境遇から抜け出して、名前をあげようとしていた時に、昔の自分を知っている、自分を助けてくれた人に出会ったという話で、都合悪いから、自分の前身を知られたくないからその人を殺してしまうという悲劇なんですが、どんなに嫌悪された病気であるかということをあらわしている。イエスが何人もの病人を癒したという話がありますが、特に目立つのは、いわゆる「重い皮膚病」の人、この人たちの苦しみは、身体的な苦しみだけでなくて人々から排除される、隔離される、人々が近づかないんですね。でも近くに人がいる時には、「わたしは汚れたものです。汚れたものです」と叫んで、そしてそれとわかるような服装を普段からさせられるということが旧約聖書のレビ記に出てくる。なんというひどいことでありましょうか。今日世界中で、この問題は徐々に解決に向かい、日本でも「らい予防法」という法律が廃止されたわけでありますが、しかし人々から忌嫌われる病気とか障がいということが存在したし、今もある。そういう人々の苦しみに対し、イエスは深く同情し、そしてご自身もそのような苦しみ、悲しみを共にしてくださったのであります。もちろん病気というものが癒されることが何よりも大切でありますが、必ずしもすべての人の病気、障がいがなくなるわけでも無い。

イエスの生涯、人々の病をご自分の身に負ってくださった主の僕であるイエス・キリストの生涯を思います。明日が四旬節第一主日、それで一ヶ月半後ぐらいに復活祭になります。聖週間の一週間をすごす、本当に過ぎ越しの神秘を深く味わうことができますように、今年は特に良い四旬節、聖週間をすごし、復活の喜びを深く味わうことができますようご一緒に祈り、支え合うようにしたいと思います。

(ミサ説教による信仰入門講座 その7)

2018年2月 8日 (木)

忙しさの中の祈り

福音朗読  マルコによる福音書 1:29-39
(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

 

説教:忙しさの中で祈るイエス。

わたしたちの信じている主イエス・キリストとはどんな人でしょうか。何をなさった方でしょうか。わたしたちはミサの度に福音の朗読を聞き、更に第一朗読、第二朗読含めて、聖書を学びながら、イエスキリストをより良く知るようにと努めております。

間もなく四旬節に入りますが、今日、年間第五主日はイエスがシモンの姑をお癒しになったという話を伝えており、更にイエスは多くの病人を癒し、また多くの悪霊を追い出したと伝えております。

イエスが何をしたのかと問われると、まずわたしたちの心に浮かんでくるイエスの行われた事柄は、神の国の福音を述べ伝えられたということと共に、多くの病人を癒し、体の不自由な人を癒し、そして悪霊を追放されたということであります。 

イエスの福音は神の国の福音と呼ばれています。神の国というのは神様が支配される国、神の力がいきわたっている所、神のみ心が行われている状態が神の国であります。わたしたちも日ごとの祈り、その中で最も大切な祈りと思われる祈りは言うまでもなく主の祈りであります。み心が行われますように。この地上に神の国が実現しますように。神様のお望みがこの地上でそして更にこのわたしを通して実現しますようにと祈っているのであります。そして神の国が来ていることは既にイエスの到来によって示されました。イエスは神の国の福音を述べ伝えるとともに病人を癒し、悪霊を追放された。この病人の癒しということと悪霊の追放ということが神の国が来ていることを人々に現し、伝える印となっていました。

先週も悪霊の追放のことを取り上げたわけですけれども、悪霊というのは今日のわたしたちにはわかりにくいかもしれませんが、悪の力、悪の存在を現していると思います。この世界に悪という現実があることをわたしたちは否定できないのであります。わたしたち自身の中にも神のみ心にかなわない罪がありますが、この世界自体が、まだまだ神様のみ心の実現からはかなり遠い状態にあると言わなければならないと思います。平和を実現する人は幸いであるとイエスは山上の垂訓で言われました。わたしたちは平和のために働くものと召されています。人と人との間の平和、国と国との間の平和、更に、もしかしてこの環境、自然との平和も更に考えていかなければならない。あるべき状態の実現のためにわたしたちは与えられているお恵みを使わなければならないのであります。

今日の第一朗読はヨブ記でありました。ヨブ記というのはヨブという正しい人が何のいわれもなく苦しみに出会うという話ですね。ヨブは自分が神様から罰を受けるに値する当然の罪を犯しているならば仕方がないが、自分でつくづく反省してもそれが自分にはない、わからない。どうしてこのようなつらい苦しい目に合わなければならないのかということを神に訴えている、そういう話がヨブ記という長い物語となっているのであります。

ヨブの訴えは特別なものであるかもしれないけれども、この地上には不条理な苦しみというのがあるわけでありまして、どうしてこのような目に合わなければならないのか自分にはわからない、そういう思いを抱く人が決して少ないわけではない。イエスは不条理な悪の満ちているこの世界に来られ、人間としてその悪と戦い、そして人々の苦しみを自分の苦しみとされたのであります。

第二朗読は使徒パウロのコリント書であります。パウロは、イエス・キリストの福音のために、命を捧げた人でありますが、今日の箇所では次のように言っている。

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。」

自分から出て行って、その人のそばに行き、その人と一緒に生き、一緒に生きながら、神の国の福音、イエス・キリストの救いを述べ伝えたのであります。その生き方はイエス・キリストの生き方に倣うものだったと思います。

ところで今日のマルコによる福音の中でわたくしの心に強く記されるイエスの言動があります。

「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。」

イエスは人々の現実の真っ只中に入って、人々と一緒に苦しみを共にされ、苦しむ人の病気を癒し、悪を取り除くということをなさったが、他方、天の父との深い交わりの中におりました。1人になって、現実のいろいろな問題から離れて、静かに天の父との親しい時間を過ごしておられた。このイエスの生き方こそ、わたしたちが特に見習うべき点ではないかと思います。

わたしたちの毎日の生活もいろいろな課題、問題から成り立っているかと思いますが、その中で時間と場所をとって祈りのひと時を過ごさなければならないと思うのであります。今実は、そのような時をわたしたちはすごしているわけでありますが、できれば毎日、少しの時間でもとって、いろいろな問題から自分の心を天の御父のほうに向ける、そして一緒に歩んでくださる復活されたイエス・キリストに心をあげるという努力をするようにいたしましょう。

(ミサ説教による信仰入門講座 その4)

言葉の力について

福音朗読  マルコによる福音書 1:21-28
 イエスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

説教:言葉の力について

わたしたちの主イエス・キリストはどんな人であるのか。何をされた人なのか。どうしてわたしたちはイエスを救い主として信じているのでしょうか。

さいたま教区は宣教・福音化年を宣言し、信者、信徒全員が誰でも自分の信仰を宣言し、実行するようにと求められているのであります。

ミサの中で必ず福音書が朗読されますが、特に主日の福音の朗読は非常に大切であります。今日は年間第四主日でありまして、年間という季節は主イエスが行われた宣教活動を宣べ伝える時であります。

先週の日曜日 主日ではイエスが4人の弟子を召し出されたという話が伝えられました。最初の弟子たち、ペトロ、アンドレア、ヨハネ、ヤコブこの4人に声をかけて弟子になさったという話が伝えられたのであります。

今日の福音はイエスがなさったこと、その中で聖書と典礼の表紙にありますように穢れた霊に取りつかれた人を癒されたという話が伝えられています。

イエスは何をした人でしょうか。神の国の福音を述べ伝えられました。そして多くの病人やあるいは心身の問題に苦しむ人々を癒されたと福音書は伝えています。今日の福音では穢れた霊を追い出されたと言っています。

穢れた霊というのは何であるのか。おそらく悪霊と同じ霊を指していて、当時の人々は、人間の肉体的、精神的な問題、疾患は穢れた霊の引き起こす問題であるという考え方をしていた。イエスはこの穢れた霊に命じて、そしてこの人を癒されたということが今日の福音で述べられている。

今日の福音の話をもう一度振り返ってみますと、イエスは会堂カファルナウムというところの会堂でお話しになりました。その話し方が人々を驚かせるものであった。権威ある者としてお教えになった。「律法学者のようにではなく」とあります。律法学者というのは律法、主なる神がモーセを通してイスラエルの民にお授けになった神の掟が律法であります。そしてその律法を学び説明する専門家が律法学者でありました。

律法という言葉は広い意味で言えば、モーセ5書、旧約聖書の最初の五つの書物です、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記など詳しく述べられている、神が人々に授けられた戒め、律法、教えを指しています。この膨大な難しい教えを学び、そして人々に教えていた人々がいて、律法学者と呼ばれていました。後にイエスはこの律法学者と対立し、律法学者たちの恨みを買い、十字架につけられることになるのであります。

イエスは律法学者のようにではなく話した。律法学者は律法にはこう書いてあります、これはこういう意味です、と詳しく説明したのでありますが、そして律法を授けた人、律法を仲介した、神様から律法を受けて人々に教えた人がモーセです。イエスはモーセに優る人として人々に教えられました。神はこういう方である。神はこう言っておられる。あたかも自分が父である神と同じ人であるかのように話した。わたしたちは信仰宣言で宣言しておりますが、「イエスは神からの神、光からの光 まことの神からのまことの神」と信じております。言わば父と一体である人として話された。

 もう一つの点がある。それはイエスがおっしゃった言葉がすぐその場で実現した。イエスの言われた言葉を指し示す内容がその時その場で実現したのであります。それが今日の奇跡の話、つまり穢れた霊を追い出されたという話であります。

言葉、日本語の言葉というのは「言の葉」でちょっと弱々しい感じがしますが、聖書、旧約聖書では言葉というものは非常に大切な考え方であり、言葉自身に力が込められている。その言葉が発せられるとその言葉が示している現実がすぐに出現すると信じていたのであります。神が「光あれ」と言われると光があった。と創世記で述べられていますね。言葉が発せられるとその言葉の指し示している内容が実現する、それが言葉だとそういうように人々は考えた。しかし人間の言葉はそのような力強い言葉であるとは限らず、更に人間は言葉と心を一致させないという問題をもっている。「嘘をつく」ということもその一つですね。心の中で思っていることと言葉で出して言っていることとが離れている。わたしたちの場合は、多かれ少なかれそういう問題を抱えています。お世辞を言ったり、心ならずも心にもないことを言ったりすることもあるかもしれない。イエスの言葉はすぐに言葉通りの現実を引き起こしました。

「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。

とあるのであります。

さて、わたしたちはキリスト者としてイエス・キリストを信じております。信じていることを自分の言葉で、信じているその信仰を自分の言葉で、自分の生きている場所で宣言し、そしてその言葉を実行しなければならないのであります。そうできるためには更なる信仰を神様にお願いし、聖霊の助けを祈り求めましょう。聖霊が私たちの心に降り、そしてわたしたちの心の中から人々にイエス・キリストへの信仰、父である神への信仰を宣言することができますよう、どうぞ助けてください。そのように祈りましょう。

(ミサ説教による信仰入門講座 その3)

2018年1月30日 (火)

イエスの呼びかけ

福音朗読 マルコ11420(本文)ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

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説教:イエスの呼びかけ

年間第三主日B年のミサをお献げしております。ミサの時には必ず福音が朗読されます。

今日の福音はマルコによる福音一章からとられています。わたくしたちはイエス・キリストの弟子となり、また日々、イエス・キリストの弟子としてよりよく生きることが期待されています。イエスはどんな人であったのか、イエスは何を教えたのか、どのように生きたのかということを福音書から学ぶことが大切であります。ですからミサの時、必ず福音が読まれることになっています。更に主日、祭日ですと第一朗読、第二朗読が読まれます。第一朗読、第二朗読も福音の朗読をよく理解するために、有益な関係の深い箇所が選ばれているのであります。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、聖霊をお受けになって宣教活動を開始されました。イエスの宣教は神の国の福音と呼ばれています。そしてそのイエスの呼びかけに応えて弟子になる人がでてきた。イエスの活動は神の国の福音の宣言とそれからご自分の弟子をつくることであったと思います。

先週の主日の福音を覚えておられるでしょうか。先週もイエスが弟子をつくったという話でありましたが、ヨハネの福音からとられていて、おそらく使徒ヨハネご自身だろうと思いますが、イエスに出会った時のことを思い出してちょうどその時、4時ごろであったろうと書いてあります。ヨハネの福音ではアンドレアとヨハネがイエスの泊まっている所に行って、多分一晩イエスと共に過ごしたのでしょう。そのあとアンドレアは兄弟のシモンペテロに会って、イエスのことを告げた。ですから今日の福音の内容とかなり違うんですね。今日の福音だと二人一緒にですね、シモンとシモンの兄弟アンドレアが一緒にイエスの招きに応じたとなっているんですね。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」そう言われて躊躇なく従ったのでしょうか。そういうことはあるでしょうかね。更に二人の弟子、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネもイエスの招きに応じました。この二人も父ゼベダイと雇人たちを船に残してイエスの後についていった。ちょっと声をかけられただけで何もかも捨てて、後にして、家族のこと、仕事のことそのほかいろんなことの中に置かれているんですけれど、それを全部やめて、全く新しい生活に入る、あるいは特定の人についていくということは大変なことでありまして、弟子たちはその後、イエスに従って何年くらい過ごしたんでしょうね。3年くらいと言われているけれども、イエスの弟子としての生活をし、イエスの生涯をつぶさに体験し、一緒に過ごしたわけであります。これはイエスが直接呼びかけてつくった弟子たちのことでありますが、今私たちは教会として歩んでいますが、イエスの時代とは2千年という年月のへだたりがある。場所も日本という国であります。皆さんもイエスの呼びかけを何らかの形で、イエスに出会い、イエスの呼びかけを受けた人々ですね。どういうような呼びかけでしたか?どういう風にしてイエスと出会ったでしょうか。そのことを思い起こし、そして更にイエスは今私たちに何を望んでいるのかということを更に考えてみるのは大切なことではないだろうか。

今日のミサの集会祈願を見てください。このお祈りは今日のミサの趣旨をよく表していると思います。

「いのちの源である神よ、移り変わるものごとに心を奪われがちなわたしたちに、あなたは変わることのない救いの喜びを与えてくださいます。ここに集うわたしたちの心を新たにし、キリストに従って歩む者としてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」

洗礼を受けた時、いろいろな約束をしたわけです。堅信の秘跡もあります。更に司祭は叙階という神聖な秘跡を受けて神様から特別な恵み、力、祝福を頂いて、使命を生きる者となっております。皆さんもひとり一人、自分はいつどのようにしてキリストの弟子になりますと手を挙げたのか、そしてその時の決意をどのように生きているのか。振り返る良い時ではないかと思います。

(ミサ説教による入門講座 その2