復活徹夜祭
2020年4月11日
復活徹夜祭の典礼は一年中で最も豊かな内容を示しています。今年は本日読まれる聖書から神の救いの計画を深く味わいたいと思います。
今日の福音の冒頭は次のように記されています。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」
男性の弟子たちはイエスの無残な死に接し、「事終われり」と考えたのでしょうが、女性の弟子たちはイエスへの思いが深く、安息日が終わるや否や墓に詣でたのです。マグダラのマリアとも一人のマリアはそこで天使の出現に接します。
天使はイエスの復活を彼女たちに告げます。彼女たちが最初の復活の証人となりました。
此処にいたるまでの長い救いの歴史を本日の典礼を展開しています。
まず創世記22章のアブラハムの犠牲の物語です。
聖書によれば、アブラハムは信仰の模範とされています。アブラハムの生涯は数々の試練の連続でした。なかでも本日朗読されたイサクの犠牲の話は非常に辛く苦しい信仰の試練の物語であります。
神は、長い間子どもに恵まれなかったアブラハムに、イサクというかけがえのない一人息子をお与えになりました。さらに神は、イサクから生まれるアブラハムの子孫は空の星のように増えるだろうと、約束されたのです。
それにもかかわらず、そのイサクを焼き尽くすいけにえとして神にささげるよう命じたのでした。その命令は、要するに独り息子を殺しなさい、ということです。なんと残酷な命令でしょうか。
それでもアブラハムは黙々と神の命に従い、翌朝早く、いけにえをささげる場所として指定されたモリヤの山へ向かいます。三日目までの道中、父と子の会話は何も記されておりません。息子イサクは何歳だったのでしょうか。イサクは自分を燃やすための薪を背負わされたのです。
さて
「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。』アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼びかけた。彼が、『ここにいる。わたしの子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。(22・4-8)
この親子のやり取りは胸もつぶれる思いでしか読めません。
その後、アブラハムがまさに刃物を取って息子イサクを屠ろうとしたときに、天のみ使いの声がしました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22・12)
このような展開となり、危うくイサクの命は助かったのでした。非常に分かりにくい話です。この話をわたしたちはどのように受け止めることができるでしょうか?
従順に父に従うイサクの姿は、十字架にかけられたイエスを想起させます。愛する独り子を神にささげる苦悩を体験したアブラハムは、愛する独り子イエスが十字架の上で殺されるにまかせた天の父を思い起こさせます。アブラハムも苦しみ、イサクも苦しんだのに違いないのです。
この話、アブラハムの信仰だけではなくイサクの信仰も注目されるべきです。イサクはイエスの犠牲をあらかじめ指し示すしるしを考えられます。
わたくしは、この物語は、父である神と十字架のイエスの死をあらかじめ指し示すものではないか、と考えます。父である神はご自分のもっとも大切な子であるイエスを犠牲にしてまでわたしたち人間の救いを望まれました。おん子の苦しみは父である神の苦しみであります。そして父の苦しみは同時にそれでも人類を救おうとされる神の強い意志、神の愛の表明であります。
実に、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネの福音3・16)のです。
神はイエスの死の犠牲によってわたしたちを永遠の命へ導きます。
復活徹夜祭で行われる洗礼は、わたしたちイエス・キリストの死と復活の神秘に与らせ、永遠の命へと導く神の恵みを示しています。それは、本日の朗読ローマの教会への手紙(6・3-11参照)が説明しているとおりです。
洗礼の秘跡の教えはすでに本日の朗読、旧約聖書のエゼキエルの預言において述べられておりました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエル36・26-27)
「新しい心」とは「悔い改め罪の赦しを受け清められた心」であり、「新しい霊」とはイエスが弟子たちに注ぐ神の霊・聖霊を指しています。「石の心」とは神の言葉を受け入れないで自分の判断に固執する頑な心です。「肉の心」とは、神の霊の勧めに素直に従う柔軟で従順な心であります。
モーセが受けた十戒は石の板に刻まれていたました。新しい契約の掟は聖霊によって心の中に刻まれます。それは預言者エレミヤが言っている通りです。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。」(エレミヤ31・33)
洗礼をうけたときわたしたちは白衣を授かりました。それはわたしたちが「新しい人となり、キリストを着る者となり、神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩む」ためでありました。
洗礼の時にはローソクの授与という式もあります。この復活のローソクから光を受けて、キリストの復活の光を人々に示す人となるのであります。
すでに、洗礼を受け、さらに堅信の秘跡を受けたわたしたちは、今日の復活徹夜祭の典礼、本当に美しい、豊かな内容を与えてくださる教えをもう一度味わいながら、わたしたち自身、新しい人、白い衣を着せられた、キリストにおいて新しく生まれた人として、キリストの霊に従って日々歩む人として、これからも歩んでいきますという決意を新たにいたしましょう。
創世記の朗読(22:1―18)
これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
ローマの信徒への手紙の朗読(6:3-11)
(皆さん、)あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
福音朗読 マタイによる福音書 28:1-10
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
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