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本郷から

2020年4月13日 (月)

マグダラのマリアは使徒たちの使徒

復活の月曜日のミサより

2020年4月13日

第一朗読 使徒言行録2・14,22-32

福音朗読 マタイ28・8-15

 

わたしたちの信仰はナザレのイエスという人の復活という出来事によって成立しました。「使徒たちの宣教」でペトロが人々の前で話しているように、キリストの教会はこのイエスという人の復活という信仰によって成立し発展してきました。

このイエスの復活を宣べ伝えた人が復活の証人であります。「わたしたちは皆、そのことの証人です」とペトロが言っています。

その「わたしたち」の中には女性たちが含まれています。いや、そういうよりもまず、男性の弟子よりも女性の方が先に証人となったのでした。

イエスの墓が空になっていることを最初に発見した人はマグダラのマリアという人でありました。昨日の復活祭の福音が告げている通りです。男性ではなく女性の弟子であるマグダラのマリアという人が朝早くイエスの墓に詣でて、墓から石が取り除けてあるのを見ました。墓の中にはイエスの身体が見当たらなかったのです。そこで彼女は、シモン・ペトロとイエスの愛しておられた弟子のところに行って、主の身体が見当たらないということを報告したのです。

お墓にイエスの身体がないと最初に発見した人はマグダラのマリア、そしてさらに、マグダラのマリアは、復活したイエスにお会いした最初の人であります。明日の福音は、彼女が復活したイエスに出会うという場面であります。

ですから、お墓に詣でて、お墓にイエスの身体がないことを発見した最初の人がマグダラのマリア、そして復活したイエスに会った最初の人もマグダラのマリアでした。彼女はペトロたちにそのことを報告しました。このマグダラのマリアの証言からわたしたちの教会が始まったのです。

そこで、マグダラのマリアは「使徒たちの使徒」(意味は、使徒へ遣わされた使徒)とさえ呼ばれています。

ーー

第一朗読  使徒言行録 2:14.22-33
(五旬祭の日に、)ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。
あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右にあげられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」

 

福音朗読  マタイによる福音書 28:8-15
(そのとき、)婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。
「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

 

2020年4月12日 (日)

福音化の使命

復活の主日 日中のミサ

2020412

第一朗読 使徒言行録10.34a37-43
第二朗読 コロサイ3.1-4
福音朗読 ヨハネ20.1-9

「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」
今日、復活祭の福音朗読はこのような言葉で始まります。イエスの受難、十字架刑という出来事に直面した弟子たちは驚き慌て、そして恐怖に襲われて、皆、逃げてしまった。しかし、マグダラのマリアという女性はイエスの十字架のもとにとどまっていた、とヨハネは告げています。そして、週の初めの日と言いますから、今日の日曜日、まだ暗いうちにマリアはイエスの葬られた墓に詣でたのであります。墓は空であった。そしてそのことをペトロたちのところに知らせました。この マグダラのマリアの体験と証言から復活の信仰が生まれ、そして広がったのであります。

今日の第一朗読、使徒言行録ではペトロの証言が告げられています。「神は聖霊と力によって、この方を油注がれた者となさいました。」油注がれた者、つまりキリストとされました。

わたしたちはキリスト者、キリストに属する者、キリストに倣う者とされています。ペトロが言っているように、キリストを述べ伝え、証しする者とされました。

今からちょうど33年前のこと、日本の教会は日本の人々に福音宣教するための会議を開きました。福音宣教推進全国会議、いわゆる「ナイス」(NICE)と呼ばれるものであります。そして「開かれた教会づくり」をスローガンとして掲げました。教会から遠い人、苦しんでいる人、弱い立場に置かれている人、悩んでいる人に開かれている、そういう人たちが、自分の場所を見いだしていただけるような、そういうわたしたちの共同体になろうという決意を掲げたのでありました。

福音宣教、あるいは福音化という言葉で言い表されるわたしたちの使命、これはわたしたち全員の使命であります。司祭、あるいは修道者、奉献生活者がもっぱら担当するのであって、他の人は黙って聞いていればよいというわけではなくて、全員が、ここに集まっておられる全員が、それぞれの場所、それぞれの立場で、その人たちにできる福音宣教をするようにと主イエス・キリストは望んでいるのであります。

教会に来て、イエスキリストの教えを聞きたいという方がいらっしゃいます。そういう場合、もちろん司祭が教えを伝えることを行いますが、もうすでに実現していることですけれども、司祭でない方も、イエスキリストの教え、教会の教えを伝えることはできるし、そうしなければならない。いやそればかりではない。キリスト者はそれぞれ自分の置かれている場所で、その場所でできるふさわしい、イエス・キリストの証をしなければならないのであります。

そこでご一緒に考えてみたいことがあります。日本にキリスト教が伝えられて、400年、500年たちます。途中長いキリスト教禁止の時代がありましたが、明治になって、キリスト教が解禁になり、宣教できるようになって150年以上たちます。いまわたしたちは依然として少数者であります。少数者でもいいのですけれども、多くの人にイエス・キリストの福音の喜びを伝えなければならない。そのための努力をしてきました。
そこでどういう点がわたしたちの努力を難しくしているのか。キリスト教というのは、どういう点が、今の日本に住んでいる人々にとって、難しいのか。受け入れるのが難しいのか。どういう疑問があるのか。どんなことがわたしたちの課題であるのか。もちろんイエス・キリストの教えを変更して分かりやすく受け入れやすいようにするわけにはいきません。しかしわたしたちの伝え方、あるいは証しの仕方が人々にとって分かりにくいのかもしれません。よく最近、プレゼンテーションということばを聞きますけれども、どういう風にプレゼンテーションするかということをもっとわたしたちは考え、そして工夫し、新しい試みをしていかなければなりません。

それは「新しい福音化。」これは、どういうふうにしたら新しい福音化、福音宣教になるのか、みんなで考えて、みんなで話し合って進めていくことであります。

――

 

第一朗読

使徒言行録1034a37-43

イエスが死者の中から復活した後、わたしたちはイエスと一緒に食事をした。

使徒たちの宣教

その日、1034aペトロは口を開きこう言った。37「あなたがたはこのことをご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

答唱詩編

詩編1181+216+1722+23

きょうこそ神が造られた日、喜び歌え、この日をともに。

詩編118

1181恵み深い神に感謝せよ。
そのあわれみは永遠。
2
イスラエルよ、叫べ。
神のいつくしみは絶えることがない。

16神の右の手は高く上がり、
その右の手は力を示す。
17
わたしは死なず、わたしは生きる。
神のわざを告げるために。

22家造りの捨てた石が、
隅の親石となった。
23
これは神のわざ、
人の目には不思議なこと。

第二朗読

コロサイ31-4

上にあるものを求めなさい。そこにはキリストがおられる。

使徒パウロのコロサイの教会への手紙

皆さん、31あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。2上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。4あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

または

①コリント56b-8

新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。

使徒パウロのコリントの教会への手紙

皆さん、56bわずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。7いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。8だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

福音朗読

ヨハネ201-9

アレルヤ、アレルヤ。わたしの過越、キリストはほふられた。主のうちにともに喜び楽しもう。アレルヤ、アレルヤ。

ヨハネによる福音

201週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 

2020年4月11日 (土)

救いの歴史

復活徹夜祭

2020年4月11日

 

復活徹夜祭の典礼は一年中で最も豊かな内容を示しています。今年は本日読まれる聖書から神の救いの計画を深く味わいたいと思います。

今日の福音の冒頭は次のように記されています。

「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。」

男性の弟子たちはイエスの無残な死に接し、「事終われり」と考えたのでしょうが、女性の弟子たちはイエスへの思いが深く、安息日が終わるや否や墓に詣でたのです。マグダラのマリアとも一人のマリアはそこで天使の出現に接します。

天使はイエスの復活を彼女たちに告げます。彼女たちが最初の復活の証人となりました。

此処にいたるまでの長い救いの歴史を本日の典礼を展開しています。

まず創世記22章のアブラハムの犠牲の物語です。

聖書によれば、アブラハムは信仰の模範とされています。アブラハムの生涯は数々の試練の連続でした。なかでも本日朗読されたイサクの犠牲の話は非常に辛く苦しい信仰の試練の物語であります。

神は、長い間子どもに恵まれなかったアブラハムに、イサクというかけがえのない一人息子をお与えになりました。さらに神は、イサクから生まれるアブラハムの子孫は空の星のように増えるだろうと、約束されたのです。

それにもかかわらず、そのイサクを焼き尽くすいけにえとして神にささげるよう命じたのでした。その命令は、要するに独り息子を殺しなさい、ということです。なんと残酷な命令でしょうか。

それでもアブラハムは黙々と神の命に従い、翌朝早く、いけにえをささげる場所として指定されたモリヤの山へ向かいます。三日目までの道中、父と子の会話は何も記されておりません。息子イサクは何歳だったのでしょうか。イサクは自分を燃やすための薪を背負わされたのです。

さて

「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。』アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼びかけた。彼が、『ここにいる。わたしの子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。(22・4-8)

この親子のやり取りは胸もつぶれる思いでしか読めません。

その後、アブラハムがまさに刃物を取って息子イサクを屠ろうとしたときに、天のみ使いの声がしました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22・12)

このような展開となり、危うくイサクの命は助かったのでした。非常に分かりにくい話です。この話をわたしたちはどのように受け止めることができるでしょうか?

従順に父に従うイサクの姿は、十字架にかけられたイエスを想起させます。愛する独り子を神にささげる苦悩を体験したアブラハムは、愛する独り子イエスが十字架の上で殺されるにまかせた天の父を思い起こさせます。アブラハムも苦しみ、イサクも苦しんだのに違いないのです。

この話、アブラハムの信仰だけではなくイサクの信仰も注目されるべきです。イサクはイエスの犠牲をあらかじめ指し示すしるしを考えられます。

わたくしは、この物語は、父である神と十字架のイエスの死をあらかじめ指し示すものではないか、と考えます。父である神はご自分のもっとも大切な子であるイエスを犠牲にしてまでわたしたち人間の救いを望まれました。おん子の苦しみは父である神の苦しみであります。そして父の苦しみは同時にそれでも人類を救おうとされる神の強い意志、神の愛の表明であります。

実に、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネの福音3・16)のです。

神はイエスの死の犠牲によってわたしたちを永遠の命へ導きます。

復活徹夜祭で行われる洗礼は、わたしたちイエス・キリストの死と復活の神秘に与らせ、永遠の命へと導く神の恵みを示しています。それは、本日の朗読ローマの教会への手紙(6・3-11参照)が説明しているとおりです。

洗礼の秘跡の教えはすでに本日の朗読、旧約聖書のエゼキエルの預言において述べられておりました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」(エゼキエル36・26-27)

「新しい心」とは「悔い改め罪の赦しを受け清められた心」であり、「新しい霊」とはイエスが弟子たちに注ぐ神の霊・聖霊を指しています。「石の心」とは神の言葉を受け入れないで自分の判断に固執する頑な心です。「肉の心」とは、神の霊の勧めに素直に従う柔軟で従順な心であります。

モーセが受けた十戒は石の板に刻まれていたました。新しい契約の掟は聖霊によって心の中に刻まれます。それは預言者エレミヤが言っている通りです。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。」(エレミヤ31・33) 

 洗礼をうけたときわたしたちは白衣を授かりました。それはわたしたちが「新しい人となり、キリストを着る者となり、神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩む」ためでありました。

 洗礼の時にはローソクの授与という式もあります。この復活のローソクから光を受けて、キリストの復活の光を人々に示す人となるのであります。

 すでに、洗礼を受け、さらに堅信の秘跡を受けたわたしたちは、今日の復活徹夜祭の典礼、本当に美しい、豊かな内容を与えてくださる教えをもう一度味わいながら、わたしたち自身、新しい人、白い衣を着せられた、キリストにおいて新しく生まれた人として、キリストの霊に従って日々歩む人として、これからも歩んでいきますという決意を新たにいたしましょう。

 

創世記の朗読(22:1―18)

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 

ローマの信徒への手紙の朗読(6:3-11)
(皆さん、)あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 

福音朗読  マタイによる福音書 28:1-10
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

2020年4月 9日 (木)

最初のミサ

聖金曜日、主の受難

2020410

今日は主イエス・キリストのご受難を特別に深く黙想するべき日です。

四つの福音書はいずれもイエスの受難を詳しく述べています。4つの福音書のなかでマルコの福音が最も古く成立した福音書であると考えられます。イエスの受難の様子は目撃者に深い印象を残しました。マルコは目撃者の証言をできるだけ忠実に書き残したと思われます。今日聖金曜日には毎年、ヨハネの福音が読まれます。四つの福音書で最後に成立したヨハネの福音では、受難に際しての毅然としたイエスの姿がうかがえます。イエスは言いました。

「わたしの国は、この世には属していない」「成し遂げられた」。

このようなイエスのことばには父である神の御心を行おうとする強い意志が感じられます。

イエスを取り巻く人々、弟子たち、総督ピラト、祭司、兵士と群集は、騒然とした状況の中で、憎悪、懐疑、嫉妬などの狂気のような感情に支配されています。イエスだけが冷静に心の均衡を保っています。この情景をみるだけでも、イエスはまことに神の子である、という印象を持つことができたことでしょう。

総督ピラトはイエスに出会って深い印象を持ったようです。ピラトはイエスに何の罪も見出せませんでした。ピラトはイエスを釈放しようとしますが群集の脅迫に屈してしまいます。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。」

ピラトはこの言葉を受け、保身のためにイエスをユダヤ人の手に渡してしまいます。

イエスの死はどのような意味があったのでしょうか。教会は旧約聖書のイザヤ書にその理由を見出します。イザヤは、主の僕の歌を残しました。「主の僕はわたしたちの病を担い、わたしたちの背きのために苦しみ、懲らしめをうけ、わたしたちの罪の償いを背負わされた」とイザヤは述べています。(本日の第1朗読イザヤ5213-5312)

第二朗読のヘブライ人への手紙では、「キリストは・・・多くの苦しみによって従順を学び、完全な者となられたので、自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となった」(ヘブライ58-9)と述べています。イエスの受難はすべての人々の救いのためでした。

使徒パウロはさらに、イエスの受難は信じる者のために罪の償いの供え物であると述べています。(ローマ324)

イエスの受難は罪人であるわたしたちの救いのための苦しみであり、その死は償いと贖いのための死でした。

さて今日の盛式共同祈願のなかに、「神を信じない人々のための祈り」があります。日本では神を信じる人は多くはありません。できるだけ多くの人にわたしたちの信仰を伝えたいと願っています。そのためにはわたしたち自身の回心と刷新が必要です。

わたしたちは今日、つぎのように祈ります。

「人々が多くの困難の中にもあなたの慈しみを知り、神を信じる人々のよい行いを見て、唯一のまことの神、人類の父であるあなたを信じる喜びに達することができますように。」

この証しを実行できますように祈りましょう。

 

 

 

 

 

 

2020年4月 8日 (水)

主の晩餐の夕べのミサ

聖木曜日、主の晩餐の夕べのミサ

202049日、

 

 聖木曜、主の晩餐の夕べのミサを献げています。(今年は公開ミサはできませんが。)わたしたちが最も大切にしている祭儀、ミサ聖祭の由来、起源をわたしたちに伝える、いわば、最初のミサの次第を、今日、わたしたちは記念しております。わたしは、今日のヨハネの福音を読んで、感じること、強く思うことを申し上げて、皆様にもご一緒に考えていただきたいと思います。 

 イエスは、ご自分の最後の時が来たことを知って、弟子たちと夕食をともにされました。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。どんなにイエスが弟子たちを愛したかということを示すために、みずから、模範をお示しになり、弟子たちの足を洗われました。今日、この後、洗足式が行われます。足を洗うということは、下僕が行うべき、いわば、卑しい仕事とされていた。(今年は中止ですが。)

 人々は足を洗うということを大切にし、足を洗う役を持っている人がいたそうであります。イエスは、みずから弟子たちの足を洗って、模範を示し、あなたがたも互いに足を洗い合いなさいと言われた。他の箇所でイエスが言われたことは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということでありました。その言葉を、身をもって実行し、一つの模範例を示したのだと思われます。 

 わたくしは、今日もまた、イスカリオテのシモンの子ユダという人のことを考えてみたい。非常に悪名高いイエスの弟子ですね。イエスを裏切った人。裏切ったという点では、弟子たち全員が同罪なのです。どう違うのでしょうか。ペトロの方は、裏切るというつもりは全然なかった。「わたしはあなたのためなら命を捨てます」と大見得をきったわけです。でも、実際はそうはいかなかった。そこは人間の弱さのためであると、我々には理解できる。このユダの方は、どうだったのでしょうか。なぜ、イエスを裏切ったのでしょうか。もう裏切ろうという気持ちを持っていた。最初からそうだったのでしょうか。途中からそうなったのでしょうね。

 イエス自らが言っているわけです。弟子を選んだのはわたしである。弟子の方がイエスを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。選ばれた人の中に、ユダもいた。ユダはイエスから選ばれた人なのですね。イエスから使命を受け、期待をかけられていた。どうして途中でイエスから離れようと思ったのか。離れるだけでなく、裏切る、敵の手に渡す、手引きをして売り渡すことをしようとし、そして実行したわけであります。そして、あとで後悔した。ペトロもあとで後悔した。後悔したという点では同じですが、ユダの方は自ら申し訳ないと思ったからか、自殺してしまった。ペトロの方は、痛悔の涙を流し、そして、以後、イエスに従い、殉教の最後を遂げた。

 皆さん、この2人の違いについて、今週の聖週間の典礼の朗読で弟子たちの心の動きを伝えていまして、ユダのことが非常に頻繁に出てくる。あなたがた12人はわたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。これはイスカリオテのシモンのユダのことを言われたのであると、ヨハネの福音書が言っている。そして、マタイの福音ですけれども、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかったほうがその者のために良かったと言われた、とあるわけなのですね。この言葉が難しいですね。生まれなかった方が良かった。でも、生まれなかった方が良かった者をイエスは選んでいるわけですね。選んだ時に、まさかこの人が自分を裏切ることになる、裏切るという役を彼にやらせようと思って選んだわけではないでしょう。このユダという人は、多くの人の関心を引いています。どうして裏切ったのだろうか?

 いろいろな見方があるようですが、ユダはイエスに期待をかけたが、その期待がかなえられなかったのでしょうね。どんなことを期待したのでしょうか。他の人たちもそうですけども、力強い王、イスラエルの人たちが待ち望んでいたメシア、外国の支配、ローマ帝国の支配から自分たちを解放し、ダビデ、ソロモンの栄華を回復してくれる政治的、軍事的指導者になるという期待をしていたが、一向そうなるような様子はないし、むしろ、そういうことを否定しているような成り行きでした。その様子に失望したからだろうか。あるいは、この弟子の間のこの争い、確執があって、ユダは孤立していたのかもしれない。イエスがどの弟子を重んじているかということは、十二人の間で大きな関心だったとあるわけです。そういう弟子たちの間の争い、確執というものが、ユダを裏切りへと導いたのでしょうか。 他の弟子に対する嫉妬、妬みが彼を裏切りに駆り立てたのでしょうか。あるいは、何であったのでしょうか。わかりません。色んな人が色々想像して、でも、ともかく裏切った。イエスはユダが自分を裏切るだろうということは、途中からか、途中からだと思いますが、わかっていた。それで今日の場面ですが、十二人の弟子の足を洗ったのですから、その中にユダもいたわけですよね。そして、ユダのことを、友よと呼んでいます。そして、わかりにくいのですが、「あなたのすべきことをしなさい」とも言われた。

 難しい問題です。ユダは特別悪い奴だったので、わたしたちに関係ないとは思えない。わたしたちの人生の中に、人と人との関わりの中で、裏切る、あるいは、信頼に応えない、応えられないという問題が起こるわけです。ペトロの方は、もう分かりやすいですね。ペトロの方は、単純にイエスについて行こうとし、どんな事があっても、あなたのことを知らないとは言わないし、見捨てることはしないと言ったけれども、ものの見事に三度も知らないと言ってしまった。これは分かりやすい。

 ユダいう人の方は複雑で、どういう人なのか分かりにくい。世俗的な能力があったのでしょう。会計係を仰せつかっていた。それで、財布の中身を誤魔化していたということであります。このようなイエスと弟子の集団の中で起こった出来事と、ユダヤの社会の指導者、祭司、律法学者、そして、ローマ帝国の支配。このような様々な要素の中で、ナザレのイエスという人が自分の生き方を貫いて、苦しみのうちにもぶれることなく、まっすぐに父のもとへ向かって、苦しみの道を歩んでいく。わたしたちの宗教は、そのイエスを父である神が復活させたという信仰に基づいているのであります。

 

 

 

 

2020年4月 7日 (火)

ユダはなぜイエスを裏切ったのか?

受難の水曜日ミサ説教

2019417日、本郷教会

 

昨日はヨハネの福音ではユダとペトロの裏切りについての箇所が読まれましたが、今日はマタイの福音がユダの裏切りについて述べています。今日イエスが言われた言葉、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉は衝撃的です。このことばをどう受け取ったらよいか、が議論されています。そもそも生まれなかった方がよい、という者がありえるのだろうか、イエスの口からそのような言葉が本当に出たのだろうか、という疑問が生じています。ルカの福音ではこの言葉が省かれています。他方マルコの福音でも同じ言葉が記されています。どういう意味だろうか。イエスは12人をご自分でお選びになったのでした。ユダはイエスが選んだ人です。非常に才能のあった人で、イエスの集団の会計係をしていて、実務的な分野で才能を発揮していたと思われます。他方他の弟子たちとの間で折り合いが良くなかったのではないかと考える人もいます。

昨日も申し上げたのですが、ユダはどうしてイエスを裏切ったのであろうか。他の弟子たちもイエスの受難に際して恐怖のあまりイエスを見捨て、裏切ってしまいました。ペトロの裏切りの場合は理由が分かりやすい。他方、ユダの方は分かりにくいと思います。「生まれなかった方が、その者のためによかった」とイエスに言われてしまった。イエスは苦しいユダの心中を察し同情して、「あなたが生まれなかったらこのような苦しみに出会わなくてすんだでしょうに」という意味でそういったのでしょうか。決してユダの存在自体を否定してそう言ったのではない、と考えられる。あるいは、「まだ遅くない、あなたのその計画を辞めなさい」と言おうとしたのか。イエスは、他の弟子たちに、「裏切り者がユダである」とは言わなかった。いつの時点で裏切りが成立したのか、ということも微妙な問題です。すでにユダは祭司長たちの所に行き、銀30枚でイエスを引き渡す約束をしているので、裏切りは始まっていた、と言えます。昨日のヨハネの福音では、ユダがイエスかからパン切れを受けたときにサタンが彼の中に入った、となっています。どいう風に考えたらよいのか、・・・難しい問題です。

ユダの裏切りは神の計画に入っていた。ユダに裏切らせることによって、イエスは十字架の刑が成立し、その結果イエスは全ての人の救いを成し遂げた。ユダの裏切りは神の計画のシナリオに入っていたのである。」そういう見方もあります。しかしそれはユダにとってあまりにも気の毒な見方です。またさらに、ユダの裏切りをむしろ良いこととして評価しユダに感謝すべきである、という極論さえもあるようです。

このように、ユダという人について様々な意見、見解がありえます。わたしたちはどう考えるか。一つわたしが昨日からなるほどと思ったことがあります。

イエスが、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言った時、弟子たちは非常に心を痛めました。そして

「『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」

とあるのです。『主よ、まさかわたしのことでは』と言った時の弟子たちの気持ちはどのようなものであったでしょうか。もしかしてそれぞれの弟子は、多少とも自分にもイエスを裏切る可能性がある、という自覚を持っていたのかもしれない、と思うのです。人は何かのきっかけで、重大な背信行為に走ってしまうこともありうる、と考えてしまいます。そのような可能性、ユダになるという可能性が自分の中にもある、ということをしみじみ考え思う必要があるのではないか、と思います。

 

 

 

 

 

2020年4月 6日 (月)

ユダの裏切り

受難の火曜日ミサ説教

20204月7日、本郷教会

 

今日は受難の火曜日です。今日の福音朗読はヨハネによる福音で、イスカリオテのユダの裏切りという劇的な場面を伝えています。

イエスは、過越祭の前に弟子たちと食事をしましたが、その時言われました。

「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

弟子たちは非常に驚きました。福音書は述べています。

「イエスの愛しておられた者」がイエスに『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。・・ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」

イエスからパンを受け取った時にユダは裏切りを決意したのでしょうか。「夜であった」という表現が印象的です。闇に覆われる夜は罪の支配の時を現しているかのようです。

なぜ、ユダはイエスを裏切ったのでしょうか。ユダもイエスが選んだ12使徒のひとりです。イエスは、ユダへ期待したので、彼を選んだのではなかったでしょうか。彼が裏切ることを知っていたのに、それでも彼を選んだとは考えにくい。ユダの期待にイエスが応えなかったので、彼はイエスから離れていったのだろうと思われます。ユダはイエスに何を期待していたのでしょうか。この世における成功と権威に参加できるという期待があったのでしょうか。

イエスの裏切りの動機について種々に言われています。

ユダが他の弟子たちを嫉妬していたたからとか、イエスに失望したからとか、弟子たちの中で孤立していたから、という人もいます。

他方、ペトロの方は、イエスの身の上に異変が起こることを知って訊ねました。

「『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」」

イエスのためなら命を捨てるといったペトロの心には偽りはありませんでした。しかし、彼は自分の弱さを知りませんでした。結果はイエスの予言通りとなりました。

ユダもペトロも「裏切り」は同じです。しかし、その動機と結果は違っています。

 聖週間は、イエスをめぐる人々の心の動きを追体験するときです。その気まぐれな群集心理、臆病な弟子たち、自己保身を優先する指導者たち、人々の人間の心に住んでいる残酷さ。そのような状況でイエスは最後まで、平和で和な態度を保持しました。イエスはあくまでも、今日の第一朗読、イザヤの預言の言葉「わたしの神こそ、わたしの力(495)」という父への信頼を生きていたのです。このイエスの生き方を見つめながら、わたしたちが死と復活の過ぎ越しの神秘に深く与ることができますよう、祈りましょう。

 

第一朗読  イザヤ書 49:1-6
島々よ、わたしに聞け遠い国々よ、耳を傾けよ。
主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して、わたしに言われた
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
主の御目にわたしは重んじられている。
わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。
ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集めるために
母の胎にあったわたしを、御自分の僕として形づくられた主は、こう言われる。
わたしはあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし
わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

福音朗読  ヨハネによる福音書 13:21-3336-38
(そのとき、イエスは弟子たちとともに食事の席についておられたが、)心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

 

 

ベタニアのマリアとユダ

難の月曜日ミサ説教
2019年4月15日、本郷教会
第一朗読 イザヤ42.1-7
福音朗読 ヨハネ12.1-11

 

昨日から聖なる一週間が始まり、今日は受難の月曜日であります。今日の福音、ヨハネの12章は、過ぎ越し祭の6日前にベタニアで起こった出来事を告げています。イエスは、度々、ベタニアにある、マルタ、マリア、ラザロの家に赴かれたようであります。
さて、この時、マリアは、純粋で、非常に高価なナルドの香油を、一リトラというかなりの量を持ってきてイエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭いました。家は香油の香りでいっぱいになりました。このマリアのしたことは大いに人々を驚かせました。この時の情景が目に浮かんできます。
後でイエスを裏切るイスカリオテのユダは、このマリアの行為を非難して言いました。「なぜこの香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
3百デナリオンというお金は相当な金額になります。1デナリオンが1日の労働者の賃金であると言われますので、1年分の給与近い金額に相当します。このような高価な香油を使ってマリアは何のためにこのようなことをしたのでしょうか。
マリアの心とユダの心の間には大きな隔たりがあったようであります。マリアはひたすらイエスのことを思い、そして、間もなくイエスがこの世から去ることを予感し、その葬りのための用意をしたのではないかと考えられています。更に、イエスこそまことの王であり、油注がれた者、メシアであるということを、予め、前もって、人々に指し示したのではないか、とも考えられます。
それに対して、イスカリオテのユダの考えていたことは何であったのでしょうか。ユダが本当に貧しい人のことを思って言ったのではなくて、彼はイエスから会計を預かっていて「その中身をごまかしていた」と書かれています。彼はそのお金を、貧しい人のために使うことを考えたのではなく、ごまかしているお金のことを思って、そう言ったのであると福音書は告げています。
昨日から始まった聖なる一週間、イエスがどのようにして十字架上の死に赴いていったのか、イエスを取り巻く人々の心はどのように揺れ動いていったのか、そして、その一週間の中で、2千年後のわたしたちは、自分自身の心を見つめながら、主イエスの受難の意味を黙想し、そして、死から命への過ぎ越しの神秘を思いながら、大きな復活の喜びにあずかることができますよう、心静かに過ごしたいと思います。

第一朗読  イザヤ書 42:1-7
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。
主である神はこう言われる。
神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 12:1-11
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

 

 

 

2020年4月 5日 (日)

イエスの苦しみ

受難の主日A年、2020年4月5日

 

 

今年の受難の主日は公私ともに、特別な思いで迎えました。

世界中がコロナウイルスの感染の不安と恐れに覆われています。コロナウイルスは神の怒りの現れだという言う人がいます。わたしはそうは思いませんが、しかし、これは人類にとってどんな意味があるのだろうかと考えさせられます。国境を越え体制・文化・言語を超えて同じ病気の問題で人類が苦しむ。人類の間の深いつながりを感じます。

2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。そのとき日本にいた子どものエレナさんが時の教皇ベネディクト16世に質問を送ったところ、驚いたことに、教皇はその質問に答えたのでした。質問は、

「教皇様、日本に住んでいるわたしたち子どもは非常に怖い目に合っています。どうしてですか?教皇様、神様に聞いてください」

という内容でした。教皇は答えました。

「どうしてか、わたしにもわかりません。しかし信じてください。神様は皆さんの苦しみをご存じです。世界中の人々が皆さんのために祈り心配しています。どうしてか、ということがわかる時がいつか来るでしょう。」

およそそのような内容でした。

さて、ただいまわたしたちは、マタイによる主イエス・キリストの受難の朗読を聞きました。二千年前に起こった、ナザレのイエスと呼ばれる、ひとりの男の最後の場面を、教会は大切な記憶として、今日まで伝えております。

イエスが受けた苦しみは、十字架につけられるという、肉体の苦しみだけでなく、弟子たちから裏切られ、見捨てられ、人々から侮られ、蔑まれるという、精神的な苦しみでした。
更に、今日の朗読が伝えている、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」というイエスの言葉から想いますに、それは、父である神から見捨てられるという心の苦しみではなかったかと思います。

イエスが十字架につけられて、そして、息を引き取るまでの様子を、聖書は詳しく伝えていますが、先ほどの朗読によると、12時頃から、暗闇が辺りを覆い、3時まで続いたとあります。3時頃、イエスは息を引き取りました。暗闇が、世界全体を覆っている。その状況を、わたしたちは想像しています。そして、この暗闇は、イエス自身の心をも襲った暗闇ではなかったでしょうか。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。イエスの口から発せられた、この言葉は人々の心に、強く、深く、刻み込まれました。それはマタイの福音が開設しているように、「わたしの神よ、わたしの神よ、どうしてわたしをお見捨てになるのか」という意味でした。そして、この言葉は、本日の答唱詩編22の冒頭の言葉と全く同じ文言です。

イエスのこの言葉は、何を意味しているのでしょうか。
わたくしは、このイエスの叫びは、イエスの心が罪の力、闇によって覆われていたことを表していると思います。「罪」とは人が神から離れている状態です。神の光が届かない暗闇を意味します。

 イエスは、全く罪のない人でしたが、「神は、このイエスを罪とした」とパウロは言っています。パウロの言い方では、「罪とは何の関わりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって、『神の義』を得ることができたのです」(コリント二5・21)となります。

「神の義」という言葉が、わたしたちには、いまひとつわかりにくいのですが、「イエスが罪とされ苦しみを受けたのは、イエスの苦しみを通してわたしたちが罪の赦しを受けるためであった」という意味であると考えられます。イエスは、わたしたち罪人のために、罪人に代わって、罪の闇を引き受けてくださったのです。

イエスの死はすべての人のための死でした。この「ために」には二つの意味があると思います。まず「原因」です。わたしたちの罪が原因で、罪のゆえに苦しみを受け、死んでいった、という意味。もう一つは、「目的」。わたしたちを罪から解放するために、私たちの救いのために、という意味です。

父である神は、このイエスの苦しみを献げものとして受け入れ、その答えとして、イエスを復活させました。そして、すべての人のために、永遠の命への道を開いてくださったのです。

本日の第二朗読は言います。
「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公にのべて、父である神をたたえるのです。」(フィリッピ2・10-11)

 

一人の人ナザレのイエスの死がすべての人の救いとつながっているという深い神秘を黙想いたしましょう。

2020年4月 4日 (土)

一人の死が皆の救いになる

四旬節第5土曜日ミサの聖書朗読と福音朗読

 

エゼキエル。ダヴィデの王国は南北、ユダとイスラエルに分裂、やがて両国とも滅亡する。エゼキエルの言う一人の王に治められる王国はどのように実現するのか。

ヨハネの福音。カイアファの発言。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」彼は政治的な意味でそういった。図らずもイエスはすべての人の救いのために死ぬことになる。イエスの死がどのような意味ですべての人の救いにつながるのか。キリスト教信者はその信仰をどう説明しあるいはどう実証するのか。課題です。

 

第一朗読  エゼキエル書 37:21-28
主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に別れることはない。彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。彼らはわたしがわが僕ヤコブに与えた土地に住む。そこはお前たちの先祖が住んだ土地である。彼らも、その子らも、孫たちも、皆、永遠に至るまでそこに住む。そして、わが僕ダビデが永遠に彼らの支配者となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」

 

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 11:45-56
(そのとき、)マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」

 

 

 

 

 

 

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