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ミサより

2020年5月 2日 (土)

召命のために

 復活節第4主日、202053

 「召命のために祈る」

世界召命祈願の日です。召命のためにお祈りできますことを、大変嬉しく思っております。
「わたしは良い牧者である」と主イエスは言われました。イエスは、すべての人を、ご自分のもとにお招きになります。わたしたちのことを、よくご存知の上で、わたしたちを呼び出し、ご自分と一緒に歩むようにと勧め、励ましてくださいます。
みなさまのお祈り、ご支援の賜物があってこそ、助祭となり司祭となる人が生まれます。彼らは、自分の弱さということを自覚していく。自分が弱い者であるということ、自分が司祭の仕事を果たすためには力が足りない、足りないというより、ないということを知っております。

その点については、司教も同じ想いです。司祭が叙階するときに、司教が唱える祈りの言葉の中に、「使徒から受け継いだ司教の務めを果たすには力の足りないわたしを顧み、・・・今わたしにもこの人たちを必要な助け手としてお与えください」と祈ります。そして、司祭は司教の務めを助ける者として与えられます。

既に、旧約聖書の時代から、神はいろいろな人を呼び出し、ご自分の務めにあずからせました。呼ばれた者は、とても自分にはそのような務めはできないと断ったり、躊躇したりしています。

例えば、モーセは「わたしはもともと弁が立つ方ではありません。・・・全くわたしは口が重く、舌の重い者なおです」(出エジプト410)からとてもあなたの言葉を伝えることができない」と言っています。
預言者エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ16)どうしてあなたの務めを果たすことができるでしょう、と言っています。

イエスの周りにいた、ペトロをはじめとする弟子たち、彼らは、イエスのために命を捨てることさえ辞さないと言ったのに、あえなく、裏切り、逃げ去ってしまった。そのような弱い人間を神様は用いて、ご自分の務めを継続させ、発展させます。

その際、必要なことは、「自分が弱い者であるということ」、「自分が本当に分かっている者ではないということ」をつくづく思い、必要な助けを祈り求め、更に、教会の仲間に助けを求めることではないかと思います。
神は約束してくださいます。「わたしがいつもあなたと共にて助け、必要な言葉を与えるから、信頼して歩みなさい」と。

さて、今日は、世界召命祈願の日であり、何よりもまず、司祭、修道者、奉献生活者の召命のために祈る日です。今日、更に、「召命」ということについて、いま一度、分かち合いをしたい。
「召命」というのは、すべてのひとに与えられている、神様の呼びかけです。神様は、「誰々さんは必要だけれども、あなたは必要ではない。あなたはいなくてもよい。」とおっしゃる方ではない。
すべての人は、神様のみ心によって、この世に生まれ、果たすべき務めを与えられています。その立場、その境遇、その場所において、自分が成すべきこと、あるいは、自分にしかできないことがあります。それが何であるのか。その人にしか、分からないことであるかもしれない。

 「わたしは良い牧者。わたしは羊のことをよく知っている」。
そのイエスの言葉に、更に耳を傾け、「わたしは何をしたら良いでしょうか。どのようにしたら、あなたのみ心に適うことができるでしょうか。」と祈り求めるときが、特に今日ではないかと思います。

神様が、そして、主イエス・キリストが、わたしたちを必要としてくださるということは、何と素晴らしいことでないでしょうか。
神様は、わたしたちに「はい」という同意を求めている。「これをしませんか。してくれませんか。」、「はい、喜んでいたします。」
その答えを求めています。どうか、わたしたちが、主イエス・キリストの呼びかけに、喜んで答え、そして、生涯を献げることができますよう、お祈りいたしましょう。

第一朗読  使徒言行録 2:14a36-41


(五旬祭の日、)ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

 

 

第二朗読  ペトロの手紙 一 2:20b-25
(愛する皆さん、)善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

 

 

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:1-10
(そのとき、イエスは言われた。)「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 

 

 

 

 

 

2020年2月25日 (火)

欲望への囚われ

2月25日 年間第7火曜日のミサから 

ヤコブの手紙。連続朗読。願い求めても与えられないのは何故か。それは動機が間違っているから。自分お楽しみのために使おうと願っても神は聞き届けない。

わたしたちの祈りの動機は大丈夫か?

マルコの福音。

エルサレムに向かうイエスの一行。イエスは弟子たちに「自分が殺されるが三日目に復活する」と予言する。しかし弟子たちは理解しない。それどころか、「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論していた。イエスが【途中で何を議論していたのか】とお尋ねになった。彼らは黙っていた。」

さすがに弟子たちは後ろめたく感じていたのである。彼らの心は自分の欲望、名誉と権力への思いに囚われていた・

「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』

子どものように素直に、無欲に、先入観なしに、イエスを受け入れなければ神の国には入れない、とイエスは言われたと思う。

 

 

第一朗読  ヤコブの手紙 4:1-10
(愛する皆さん、)何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

福音朗読  マルコによる福音書 9:30-37
(そのとき、イエスと弟子たちは)ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

祈りのヒント