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噛んで含めるように

2020年4月24日 (金)

福音を宣べ伝えなさい

復活後第二土曜日、4月25日聖マルコ福音記者

 

マルコの福音は最後の部分は 学者の説明によると、この部分は後から付け加えられた部分であるとされています。マルコの福音は、イエスの墓が空であったと言う記述で一旦終わっているが、のちにこのマルコ16章9節~15節が付け加えられたということが大方の意見であります。しかしこの部分が正典であるということについては、教会として疑いを持っていないのであります。
さて、今日の福音朗読を読んで感じることは、イエスの復活を信じるというはそう易しい事ではなかったということです。繰り返し「信じなかった」、「信じなかった」、そしてイエスが人々の「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と出ております。
復活したイエスに出会った人はイエスを信じましたが、復活したイエスに出会ったこと、イエスが生きておられるということをマグダラのマリアなどが他の人々に告げ知らせても、聞いた人はすぐには信じなかったようです。
復活を信じるということはどういうことでしょうか。わたしたちは復活を信じた人の証言に基づいてイエスの復活を信じているのです。トマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と復活したイエスは言われたのであります。
わたしたちは復活の証人となりました。復活の証人として生きるという事はどういう事なのだろうか。今日の福音の結びは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」『福音を宣べ伝えなさい』といわれました。わたしたちにとって、またわたしたち一人一人にとって、福音とは、何であるのか、福音を宣べ伝えるというのは何をすることなのか、そのことが重大な問題、重大な課題として問われていると思います。

朗読  マルコによる福音書 16:15-20

(そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、)言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった

2020年4月22日 (水)

恥を覆う

復活第二木曜日に思う

 

神の愛について、非常に心惹かれる説明の一つが、

「神は、わたしたちひとり一人を、あたかもわたしたちただ一人を愛されるように愛し給う」

というアウグスチヌスの言葉です。

神はすべての人を愛してくださるが、ひとり一人の人をほかの人がいないかのように、その人を愛されるという意味です。自分を愛する神は他の人がいないかのように自分を愛する、という意味だと思います。自分しかいない。自分が自分であるから、愛してくれる、という意味。分かるような気がする。あなたがあなたであるから大切にしてくださる、欠点や罪があってもあなたがあなたでるという理由で愛してくださる、という意味だと思います。

それと関連して思うことがあります。神はわたしたちの至らなさ、欠点、醜さ、あるいは恥ずべき惨めさを覆い癒してくださるということです。罪びとといわれると抵抗を感じる人が多いでしょう。罪は犯罪ではないですが、恥ずかしいこととも違います。日本の文化は恥の文化と言われますが、わたしたちは恥辱に鋭敏です。神は恥辱を覆ってくださるとしたら、それはわたしには大きな福音です。

 

 

 

 

 

 

2020年4月17日 (金)

見ないで信じる人は幸い

見ないで信じる人は幸い!

 

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

2020419日(日)

第一朗読 使徒言行録512-16

第二朗読 黙示録19-11a,12-13,

福音朗読 ヨハネ2019-31

説教

「トマよ、あなたはわたしを見たので信じた。見ないで信じる人は幸い」(本日のアレルヤ唱)とイエスは言われました。

復活したイエスが弟子たちのところにあらわられたとき、トマスは居合わせなかったのであります。それはちょうど週の始めの日の夕方、と書かれていますので、イエスが復活したその日のことであります。それから八日目に再びイエスが弟子たちのところにお現れになりました。今日がその八日目にあたる日であります。イエスはご自分の体を弟子たちに示して、そして自分であるということを証明なさった。この、手の傷、わき腹の傷を弟子たちに示された。

今までなにげなく読み過ごしてきましたが、復活したイエスの体というのはどういう体なのでしょうか。もうすっかり傷もなくなってきれいな体になっていたのかと思うとそうではなくて、傷跡がなまなましく残っている体でありました。人々に、ご自分の十字架上の死をいつまでも思い起こしてもらいたいという気持ちがこめられているのからでしょうか。

ところでしかし復活したイエスの体は生きていたときの体とは全く違う体となっていて、もはや苦しむことも痛みを覚えることもない栄光の体に変えらえていたのでした。トマスは、イエスが出現したときにそこに居なかったので、信じられない、といったわけです。非常に実証主義的な人だったのかもしれません。

しかし、そのあと八日目に再び同じイエスが現れたたときに、無条件でイエスを礼拝し、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。そういう物語であります。

「見ないで信じる者は幸いである」とイエスは言われた。復活祭が一週間前でしたが、そのあと毎日のミサの福音の朗読で復活したイエスが弟子たちに現れた次第を読んできました。それによりますと、弟子たちは必ずしもすぐに復活したイエスを認めたわけではないようであります。なかなか認めない。最初にイエスが現れた弟子は女性のマグダラのマリアであります。 マリアのほうは、すぐにイエスであるということを知った。そして男の弟子たちに、イエスと出会った、イエスを見たということを知らせました。それからもうひとつ有名な話は、エマオに向かう弟子たち、二人の弟子たちに旅人の姿をしたイエスが現れたという話であります。そちらのほうはもっと時間が必要でありました、イエスを認めるために。長い時間一緒に歩き、イエスの言葉を聞きながら、次第に心が熱くなってそして一緒に食事をする場面で、イエスがパンを割いたときにその人がイエスであることがわかった。かなり、イエスを認めるためには時間がかかっている。マグダラのマリアのほうは、もうすぐにわかった。もちろんイエスから「マリア」と呼びかけられたときに悟った、となっています。

全体的に、復活したイエスが現れてもすぐにそれを見たひとが、イエスであると、すぐに悟ったのではないようであります。

ところで、わたしたちの場合はどうであるか。もちろんわたしたちは地上のイエスに会ったことはない、ナザレのイエス、30何年の生涯をおくられた一人の男性であったイエスと会ったり、生活をともにしたりしたことはない。どうして信じるようになったのでしょうか。考えてみるとたいへん不思議なことではあります。

でも他方、もう一回考えてみると、よく知っている人間であるイエスが復活し、その後、弟子たちと一緒にいてくださる、というメッセージは、かえって信じにくいのかもしれない。わたしたちは生前のイエスとは会ったことがないのですから、復活を霊的な世界の問題として最初から受け止めております。そして、イエスを信じて生きている人々の姿をみて、わたしもそうなりたいと願い、そして聖霊の働きに心を開いて、イエスを信じ、復活しているイエスがともにいてくださるということを信じて洗礼を受けました。信仰という貴重な賜物をいただいているわたしたちはこれからもっともっと信仰を深め信仰を強くしていただけるようにお祈りすることが大切ですが、さらに大切なことは、わたしたちお互いに励まし合うということだと思います。ひとりで信仰を守り育てるということは、たいへん難しいと思います。信仰というのは共同体の信仰であります。わたしたちは信じます、そしてわたしは信じます。この「わたしたち」と「わたし」の信仰の交わりの中で、信仰というものは生まれ、育み、そして伝えられていくのであります。 

今、新型コロナウイルスが世界中で蔓延して人人を不安と恐怖に巻き込んでいる最中です。この試練を、復活したイエスへの信仰のうちに、力を合わせて、希望のうちに、この戦いを勝ち抜くように努めましょう。

 

 第一朗読 徒言行録 2:42-47

(信者たちは、)使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まり、そこには恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

第一朗読 一 ペトロの手紙 一 1:3-9
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:19-31
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

 

 

2020年4月16日 (木)

マルコの福音最後の箇所

の土曜日ミサ説教


2020年4月18日(土)

今日のマルコの福音は最後の部分ですが、 学者の説明によると、この部分は後から付け加えられた部分であるとされています。マルコの福音は、イエスの墓が空であったと言う記述で一旦終わっているが、のちにこのマルコ16章9節~15節が付け加えられたということが大方の意見であります。しかしこの部分が正典であるということについては、教会として疑いを持っていないのであります。
さて、今日の福音朗読を読んで感じることは、イエスの復活を信じるというはそう易しい事ではなかったということです。繰り返し「信じなかった」、「信じなかった」、そしてイエスが人々の「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」と出ております。
復活したイエスに出会った人はイエスを信じましたが、復活したイエスに出会ったこと、イエスが生きておられるということをマグダラのマリアなどが他の人々に告げ知らせても、聞いた人はすぐには信じなかったようです。
復活を信じるということはどういうことでしょうか。
昨日の福音でもそのことを取り上げたのですけれども、わたしたちは復活を信じた人の証言に基づいてイエスの復活を信じているのです。トマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と復活したイエスは言われたのであります。
わたしたちは復活の証人となりました。復活の証人として生きるという事はどういう事なのだろうか。今日の福音の結びは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」『福音を宣べ伝えなさい』といわれました。わたしたちにとって、またわたしたち一人一人にとって、福音とは、何であるのか、福音を宣べ伝えるというのは何をすることなのか、そのことが重大な問題、重大な課題として問われていると思います。

現在世界中がコロナウイルスの蔓延という非常事態にあります。多くの人々が不安の中で必死でこの問題に取り組んでいます。主の復活は必ず世界にこの問題の解決をもたらすでしょう。死に打ち勝つわたしたちの信仰がその証をすることができますように祈ります。
明日は復活節第二主日、聖ヨハネパウロ二世によって「神のいつくしみの主日」とされました。神の慈しみを深く味わいながら、神の慈しみを証することが出来ますよう、祈りたいと思います。復活の土曜日ミサ説教

昨日の福音でもそのことを取り上げたのですけれども、わたしたちは復活を信じた人の証言に基づいてイエスの復活を信じているのです。トマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と復活したイエスは言われたのであります。
わたしたちは復活の証人となりました。復活の証人として生きるという事はどういう事なのだろうか。今日の福音の結びは、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」『福音を宣べ伝えなさい』といわれました。わたしたちにとって、またわたしたち一人一人にとって、福音とは、何であるのか、福音を宣べ伝えるというのは何をすることなのか、そのことが重大な問題、重大な課題として問われていると思います。

現在世界中がコロナウイルスの蔓延という非常事態にあります。多くの人々が不安の中で必死でこの問題に取り組んでいます。主の復活は必ず世界にこの問題の解決をもたらすでしょう。死に打ち勝つわたしたちの信仰がその証をすることができますように祈ります。
明日は復活節第二主日、聖ヨハネパウロ二世によって「神のいつくしみの主日」とされました。神の慈しみを深く味わいながら、神の慈しみを証することが出来ますよう、祈りたいと思います。

 

 

 

2020年4月15日 (水)

ペトロのその後

復活の金曜日ミサの福音朗読について
                            2020年4月17日
復活祭の後の8日間は、特別に主イエスの復活とそのご出現を記念する8日間となっています。わたしたちは毎日、弟子たちが復活したイエスに出会った次第を読んできました。復活したイエスに出会った弟子たちは、その信仰を深め、堅め、そして勇敢にイエスキリストの復活の証人となったのでありました。
今日の使徒言行録は、そのような弟子の姿、特にこのペトロの勇敢な証言を伝えています。ペトロは、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と確信に満ちて証言しています。
そうではありますが、このペトロについて、あるいは他の弟子も同様ですけれども、このような勇敢な福音宣教者になるまでに、どこでどうしていたのだろうかと、という疑問を感じます。今日のヨハネによる福音ですと、ペトロは「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言ったとあります。ですから元の漁師に戻ったのでしょうか。彼らが漁をしている時に復活したイエスが現れたが、最初彼らはその人がイエスであるとは分からなかったのでした。昨日、一昨日の福音も、エマオへの弟子にイエスが現れた次第を読みましたが、その時もその旅人がイエスであるとは、エマオの弟子たちは、最初は分からなかった。少し経って、やっとその人がイエスであるということが分かった、となっておりました。
わたしたちの教会は、復活したイエスに出会った弟子たちによって設立されたわけでして、ナザレのイエスは十字架につけられたが、復活して今も生きておられ、いつもわたしたちと共にいてくださる、という信仰の上に教会が設立され、そして今日まで発展してきたのであります。弟子たちがそのような堅い信仰を持つに至った経緯を、復活祭後の教会の典礼は語っておりますが、四つの福音書によるイエスの出現の話は、首尾一貫していないように思われます。そしてさらに、弟子達は最初からは、イエスが現れたというように受け取ったわけではない事も、明らかであります。ですから、どのようにしてペトロ達がイエスの復活を確信するようになったのか、ちょっと不思議であるという気がしないでもありません。
それはともかく、きょうの福音ではイエスが弟子たちにパンを与え、そして取った魚も同じように裂いた、となっております。この時から、弟子たちはイエスの復活を確信するようになったのでありましょう。

 

弟子たちはすぐに素直に復活したイエスを信じたか!

復活の木曜日

イエスの弟子たちは素直に直ぐに復活を信じたわけではなかった!

 

復活の木曜日ミサ説教

今日のルカによる福音は昨日のエマオの弟子の話の続きであります。
イエスは弟子たちに言われました。
「あなたがたはこれらのことの証人となる。」
「これらのこと」とは何でありましょうか。イエスが、聖書に書いてあるとおり苦しみを受け、十字架にかかり、人々の罪の赦しと救いのために復活するということ、さらに、あらゆる国の人々に救いの福音が宣べ伝えられる、ということを指していると思います。
イエスの受難と復活はすでに旧約聖書で預言されているとイエス自身が言っています。しかしこの復活という出来事を受け入れるためには弟子たちにはなお心の準備、信仰が必要でありました。復活したイエスに出会ってもすぐにはその人がイエスであるとは気がつかなかったとエマオの弟子の話が伝えています。イエスがかなり長い時間を使ってご自身について聖書が書いていることを説明し、さらにイエスがパンを裂いてくださったときになって初めて、エマオの弟子たちは、その人がイエスだと分かったのでありました。
またこの後すぐにイエスがエルサレムでお現われになり、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」のであります。そのときに弟子たちは多いに喜んだと思われますが、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と福音書は述べています。なぜ彼らは恐れおののいたのでしょうか。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」ともルカ福音書は述べています。
弟子たちは復活したイエスに出会っても直ぐに素直にイエスを信じたわけではありませんでした。イエスが復活したということを信じるためにはイエス自身からの呼びかけ、助け、恵が必要でありました。
ところで今日の第一朗読「使徒言行録」でペトロは確信をもって宣言しています。
「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。」
使徒たちは復活の証人として人々にイエスの復活を宣べ伝え、使徒の証言を聞いた人々はイエスを信じました。わたしたちも、復活してイエスに直接お会いしたことはないが、復活を信じて生きた人々と出会ってイエスの復活を信じることができたのです。
主イエスはトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」(ヨハネ2029)
復活節を過ごすわたしたちが、「見ないで信じる信仰」を深め強めていただけるよう、聖霊の助け、導きを祈りましょう。

第一朗読  使徒言行録 3:11-26
(その日、いやされて歩けるようになった)男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

福音朗読  ルカによる福音書 24:35-48
(そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。

 

 

 

2020年4月14日 (火)

噛んで含めるように語ったイエス

噛んで含めるように語ったイエスーーエマオへの弟子へ現れたイエス

20204月15

イエスの復活に接した弟子たちがキリスト今日の教会を設立した。といってのすぐに一気につくったわけではない。第一朗読にあるように、ペトロとヨハネはユダヤ教の神殿に祈り委もう出ている様子を見ると、彼らはユダヤ教徒は別の教団を創立する意図はもっていなかったようだ。

復活の信仰も最初から確固としたものではなかった。次第に確信に至る過程が垣間見られる。きょうのエマオへの弟子の話がその典型的な次第を語る。

旅人の姿をして現れたイエスに彼らはその人がイエスだとは気が付かない。旅人は聖書(旧約)を使って、「噛んで含めるように」イエスがメシアであることを説明する。極め付きは最後の晩餐の場面と酷似のパンを割く場面である。この光景を目にしてエマオの弟子たちはこの人がイエスであると気が付いた。が、その瞬間、イエスは姿を消す。

*****

昨日はヨハネの福音でマグダラのマリアへイエスが現れた次第を聞きました。今日のルカによる福音はエマオの弟子へ復活したイエスが現れた次第を語っています。

エマオいう所はどこなのかよく分かりませんが、エルサレムから近い、多分北西の方向にある村であるようであります。

ちょうどこの日というのはイエスの復活した日、たぶん午後でしょうか、二人の弟子がエマオという村へ向かって歩いていた。その二人に一人の旅人が近づいて来て、一緒に歩き始められた。その旅人はイエスご自身でありましたが、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかったのです。

昨日のマグダラのマリアへ出現したイエスの場合も、マリアの方は、最初はイエスであるとは分からなかったとあります。今日の話もその点共通しています。

道々三人が話し合って歩いて行ったわけですが、この旅人は二人に向かって、モーセと全ての預言者から始めて聖書全体に亘り、ご自分について書かれている事を説明された。聖書といえば、この時は我々が旧約聖書と呼んでいる聖書の事であります。わたしたちは旧約聖書を正典と認めて旧約聖書の勉強もしております。旧約聖書の中にイエスの事が説明されている、預言されているというように考えているから、旧約聖書が大切であるということになります。

さて、一行は目指す村に近づいた。この村がエマオというところらしいです。

二人が「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言ってイエスを無理に引き留め、そして共に泊まる家に招き入れた。

そして夕食になり、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

この場面はわたしたちが献げ、祝っているミサ聖祭とほぼ同じ場面となっています。

「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

「パンを裂いてお渡しなる」とあります。実はミサは「パンを裂く式」とも呼ばれているのです。

その場面を見て、二人はこの人はイエスだと分かった。分かった途端にこの旅人の姿が見えなくなったのでした。二人はもう夜おそくになっていたのでしょうが、すぐに取って返してエルサレムに戻って11人とその仲間にその出来事を報告した。

今日のルカの福音はそういう物語であります。

そこで、この個所は「ミサ」を表しているといわれているわけですね。

「ミサ」の構造がこのエマオの弟子の物語に出て来ているというように言われています。

わたしたちのミサは「ことばの典礼」、それから「感謝の典礼」と大きく二つに分かれます。

神の言葉、それから主イエスの言葉を聴き、分かち合うところが前半で、そのあとパンとぶどう酒をお献げし、そしてパンとぶどう酒を分かち合う交わりの儀となっています。

ミサ全体がイエスキリストと深く交わるための式となっているのであります。

 

第一朗読  使徒言行録 3:1-10
(その日、)ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

福音朗読  ルカによる福音書 24:13-35
ちょうどこの日(は、週の初めの日であったが、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

2020年4月13日 (月)

なぜ復活したイエスが最初に出会ったのがマグダラのマリアであったのか。

復活の火曜日ミサより

2020413

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。それはどういう事であったのか、様々に解釈されていますが、彼女の人生においてそれは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も朝早く墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面はその後でのマリアの体験を伝えています。

今日の福音では不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。どうして分からなかったのでしょうか。マグダラのマリアの方は、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったのでイエスを認める心の準備がなかったから、そのために分からなかったのでしょうか。イエスの方が、マリアに話しかけて、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思ったとあります。そしてなお、イエスの方が彼女の名前を呼びました。「マリア」と言われたこの時にマリアはその人がイエスであると分かったのでした。彼女はすぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」はわたしの先生という意味であります。その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています。調べると「わたしに触れていてはならない」「わたしに触れてはならない」「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。ラテン語で「Noli me tangere、ノリ・メ・タンゲレ」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか。原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスの方は「もう喜びに浸っているのはよしなさい、今はするべき事はほかにある。あなたがわたしに出会ったことを他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

わたしたちにはマグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味でイエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を他の人々に、特にわたしたちが出会う他の人々に何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。それが教会の使命ではないでしょうか。

ところでなぜマグダラのマリアは復活したイエスの最初に出会うという栄誉に浴したのでしょうか。おそらくマリアのほうに、イエスを求め慕う心があったから、しかも強く激しく求めていたからではないだろうか。男性の弟子たちはマリアの後塵を拝することになったのでした。

 

第一朗読  使徒言行録 2:36-41
(五旬祭の日にペトロはユダヤ人たちに言った。)「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:11-18
(そのとき、)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

 

 

 

 

なぜ復活したイエスが最初に出会ったのがマグダラのマリアであったのか。

復活の火曜日ミサより

2020413

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。それはどういう事であったのか、様々に解釈されていますが、彼女の人生においてそれは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も朝早く墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面はその後でのマリアの体験を伝えています。

今日の福音では不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。どうして分からなかったのでしょうか。マグダラのマリアの方は、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったのでイエスを認める心の準備がなかったから、そのために分からなかったのでしょうか。イエスの方が、マリアに話しかけて、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思ったとあります。そしてなお、イエスの方が彼女の名前を呼びました。「マリア」と言われたこの時にマリアはその人がイエスであると分かったのでした。彼女はすぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」はわたしの先生という意味であります。その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています。調べると「わたしに触れていてはならない」「わたしに触れてはならない」「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。ラテン語で「Noli me tangere、ノリ・メ・タンゲレ」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか。原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスの方は「もう喜びに浸っているのはよしなさい、今はするべき事はほかにある。あなたがわたしに出会ったことを他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

わたしたちにはマグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味でイエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を他の人々に、特にわたしたちが出会う他の人々に何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。それが教会の使命ではないでしょうか。

ところでなぜマグダラのマリアは復活したイエスの最初に出会うという栄誉に浴したのでしょうか。おそらくマリアのほうに、イエスを求め慕う心があったから、しかも強く激しく求めていたからではないだろうか。男性の弟子たちはマリアの後塵を拝することになったのでした。

 

第一朗読  使徒言行録 2:36-41
(五旬祭の日にペトロはユダヤ人たちに言った。)「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:11-18
(そのとき、)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 

 

 

 

 

なぜ復活したイエスが最初に出会ったのがマグダラのマリアであったのか。

復活の火曜日ミサより

2020413

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。わたしたちの教会はこの復活したイエスに出会った人々の信仰の体験によって成立し、そして発展してきました。

マグダラのマリアの場合は、イエスの生前どこかでイエスと出会い、7つの悪霊を追い出していただいたことがある、と福音書が告げています。それはどういう事であったのか、様々に解釈されていますが、彼女の人生においてそれは大きな意味を持っていたのであります。癒しといいますか、救いということを経験したのでしょう。当然、マグダラのマリアはその時からイエスに従い、イエスを慕って人生を歩んできました。

そのイエスが、十字架につけられて処刑されました。その場面にも彼女は居合わせております。イエスが葬られた時も朝早く墓に詣でています。ヨハネの福音の今日の場面はその後でのマリアの体験を伝えています。

今日の福音では不思議な記述があります。それは、マリアが、イエスが立っておられるのを見たのに、それがイエスだとは分からなかった、となっていることです。どうして分からなかったのでしょうか。マグダラのマリアの方は、イエスがそこにいるということはまったく予想していなかったのでイエスを認める心の準備がなかったから、そのために分からなかったのでしょうか。イエスの方が、マリアに話しかけて、そして「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われると、マリアはその人を園丁だと思ったとあります。そしてなお、イエスの方が彼女の名前を呼びました。「マリア」と言われたこの時にマリアはその人がイエスであると分かったのでした。彼女はすぐに「ラボニ」と答えました。「ラボニ」はわたしの先生という意味であります。その後の場面、非常に有名な場面ですが、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とイエスがたしなめます。この個所はいろいろに訳されています。調べると「わたしに触れていてはならない」「わたしに触れてはならない」「わたしに触ってはならない」などと訳されています。ヨーロッパの名画によくある場面です。ラテン語で「Noli me tangere、ノリ・メ・タンゲレ」の場面と言われています。

この場面は、「マリアはイエスに触ろうとしたので触ってはならない」と言われたという意味なのか、もう触っていて、「もうこれ以上触り続けるのは止めなさい」という意味なのでしょうか。原語から考えると、触っているマリアに「もう止めなさい」と言ったらしいです。

ところで、この時のマリアの気持ち、それは大きな喜びであったと思われます。その喜びに浸っているマリアの様子が窺えます。でもイエスの方は「もう喜びに浸っているのはよしなさい、今はするべき事はほかにある。あなたがわたしに出会ったことを他の弟子たちに伝えなさい」と言われたのでありましょう。

わたしたちにはマグダラのマリアほどの大きな喜びの体験は無いかもしれませんが、何らかの意味でイエスと出会ったという喜びや安心を持っているわけであります。わたしたちイエスの弟子の使命は、この喜びの体験を他の人々に、特にわたしたちが出会う他の人々に何らかの形で、何らかの表現で伝えていくことではないだろうかと思います。それが教会の使命ではないでしょうか。

ところでなぜマグダラのマリアは復活したイエスの最初に出会うという栄誉に浴したのでしょうか。おそらくマリアのほうに、イエスを求め慕う心があったから、しかも強く激しく求めていたからではないだろうか。男性の弟子たちはマリアの後塵を拝することになったのでした。

 

第一朗読  使徒言行録 2:36-41
(五旬祭の日にペトロはユダヤ人たちに言った。)「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:11-18
(そのとき、)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。