噛んで含めるように語ったイエスーーエマオへの弟子へ現れたイエス
2020年4月15
イエスの復活に接した弟子たちがキリスト今日の教会を設立した。といってのすぐに一気につくったわけではない。第一朗読にあるように、ペトロとヨハネはユダヤ教の神殿に祈り委もう出ている様子を見ると、彼らはユダヤ教徒は別の教団を創立する意図はもっていなかったようだ。
復活の信仰も最初から確固としたものではなかった。次第に確信に至る過程が垣間見られる。きょうのエマオへの弟子の話がその典型的な次第を語る。
旅人の姿をして現れたイエスに彼らはその人がイエスだとは気が付かない。旅人は聖書(旧約)を使って、「噛んで含めるように」イエスがメシアであることを説明する。極め付きは最後の晩餐の場面と酷似のパンを割く場面である。この光景を目にしてエマオの弟子たちはこの人がイエスであると気が付いた。が、その瞬間、イエスは姿を消す。
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昨日はヨハネの福音でマグダラのマリアへイエスが現れた次第を聞きました。今日のルカによる福音はエマオの弟子へ復活したイエスが現れた次第を語っています。
エマオいう所はどこなのかよく分かりませんが、エルサレムから近い、多分北西の方向にある村であるようであります。
ちょうどこの日というのはイエスの復活した日、たぶん午後でしょうか、二人の弟子がエマオという村へ向かって歩いていた。その二人に一人の旅人が近づいて来て、一緒に歩き始められた。その旅人はイエスご自身でありましたが、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかったのです。
昨日のマグダラのマリアへ出現したイエスの場合も、マリアの方は、最初はイエスであるとは分からなかったとあります。今日の話もその点共通しています。
道々三人が話し合って歩いて行ったわけですが、この旅人は二人に向かって、モーセと全ての預言者から始めて聖書全体に亘り、ご自分について書かれている事を説明された。聖書といえば、この時は我々が旧約聖書と呼んでいる聖書の事であります。わたしたちは旧約聖書を正典と認めて旧約聖書の勉強もしております。旧約聖書の中にイエスの事が説明されている、預言されているというように考えているから、旧約聖書が大切であるということになります。
さて、一行は目指す村に近づいた。この村がエマオというところらしいです。
二人が「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言ってイエスを無理に引き留め、そして共に泊まる家に招き入れた。
そして夕食になり、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
この場面はわたしたちが献げ、祝っているミサ聖祭とほぼ同じ場面となっています。
「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」
「パンを裂いてお渡しなる」とあります。実はミサは「パンを裂く式」とも呼ばれているのです。
その場面を見て、二人はこの人はイエスだと分かった。分かった途端にこの旅人の姿が見えなくなったのでした。二人はもう夜おそくになっていたのでしょうが、すぐに取って返してエルサレムに戻って11人とその仲間にその出来事を報告した。
今日のルカの福音はそういう物語であります。
そこで、この個所は「ミサ」を表しているといわれているわけですね。
「ミサ」の構造がこのエマオの弟子の物語に出て来ているというように言われています。
わたしたちのミサは「ことばの典礼」、それから「感謝の典礼」と大きく二つに分かれます。
神の言葉、それから主イエスの言葉を聴き、分かち合うところが前半で、そのあとパンとぶどう酒をお献げし、そしてパンとぶどう酒を分かち合う交わりの儀となっています。
ミサ全体がイエスキリストと深く交わるための式となっているのであります。
第一朗読 使徒言行録 3:1-10
(その日、)ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
福音朗読 ルカによる福音書 24:13-35
ちょうどこの日(は、週の初めの日であったが、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
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